□ 肥前の内田氏 (問い)佐賀県神埼郡出身の内田といいますが、肥前の内田氏について、ご教示下さい。 ある歴史のホームページをみておりましたら、次の記載がありました。
「約30軒の内田さんが(久留米市の)玉垂宮をビッシリと囲む。内田さんは、糸島市高祖に多いので、高木勢と分かる。また、高祖では、独自に宮地嶽神社を祀っているので、安部氏にもつながる。太田亨氏の著作によれば『姓氏録 内田臣、伊香賀色雄命の後也。肥前内田氏、高木氏の族なるべし。』」
この記載が正しいとすると、肥前の内田氏の先祖はニギハヤヒにもつながることになりますが、信憑性はあるのでしょうか。また、姓氏録の内田臣は千数百年前の近畿の姓名だと思われますが、どのような経緯で、肥前の内田とつながるのでしょうか。
なお、実家は横武という集落にあるのですが、ここは室町時代に少弐一族の横岳氏の横岳城があって、これが横武の集落名の由来と思われますが、横岳城の石碑には「施主内田」となっているそうです。横岳氏と内田氏の関係についても、知りたいところです。
(uchida様より、13.02.12受け) |
(樹堂からのお答え) 1 全国には内田の苗字が様々に多く、内田臣の姓氏もあって、個別に地域や氏族系統別に考えていく必要があります。以下に概略を述べますが、『姓氏家系大辞典』ウチダの条をご覧いただければ、一応の全貌はつかめると思います。(以下は、である体で記す)
姓氏の内田臣については、『姓氏録』の右京神別と摂津神別に物部氏族とあげて、伊香我色雄命の後とされる。その臣姓からいって同族の穂積臣の系統ではないかと思われるが、物部連・穂積臣からの分岐過程は不明であり、氏人・後裔も史料も見えない。
苗字の内田は、遠江国城飼郡内田荘から起った相良一族が著名であり、この内田は肥後国北部の山鹿郡や飽田郡でも展開した。肥後の内田はすべてが同系統かどうかは不明だが、菊池氏の家臣のなかに見えており、東大史料編纂所にはこの内田氏の系図が所蔵される。幕藩大名(下総小見川藩主)となった内田氏は、遠江国の同地から起った勝間田一族とされ、この両内田氏は藤原姓を称するが、その祖系の実態は不明なところがある。このほか、武蔵、甲斐、近江甲賀、紀伊、筑前、豊前、豊後、日向などの地域にも内田氏は見えており、それぞれが別系統と考えたほうがよさそうだし、古代の内田臣からのつながりもなかったと思われる。
2 肥前の内田氏については、主に嵯峨源氏出の諸氏からなる松浦党のなかに内田の苗字が見えるが、神崎郡や佐賀郡などの肥前東南部だと佐賀郡の大族・高木氏の一族とみられる内田氏があった。『姓氏家系大辞典』では、『鎮西要略』文治元年(1185)条に「肥前国住人内田太郎宗房」が見えるとし、これが高木氏の一族なるべしと記している。瀬野精一郎氏の著『鎮西御家人の研究』でも肥前の鎌倉御家人として内田氏をあげるが、それ以上の記載がなく、不明なことが多い。
実際に高木氏の系図等を見ると、上記の内田太郎宗房の名を記載するものがなく、年代と「宗」の通字からいうと、高木新太郎大夫宗貞の子で文治頃の高木太郎大夫宗家の兄弟に益田新次郎大夫宗綱、宗季、河上七郎宗朝が見えるから、これらの兄弟におかれるのが比較的自然そうだが、内田宗房の通称が「太郎」だと、この位置が符合しないことになり、あるいは高木太郎大夫宗家の嫡子の次郎大夫宗忠の兄であった可能性もあるのかもしれない。また、宗忠の孫くらいにあたる文永・弘安頃の高木六郎家宗の弟に「内田七郎」なる者がいたようにも系図に見えており、高木氏の一族に内田氏がいたことには違いがない。室町・戦国期にも内田左京家昌、天文期に鍋島清房らとともに活動が見える内田美作兼智などが内田氏の人々が見えているが、これらの人々の詳細は不明である。
3 肥前の高木氏については、藤原姓を名乗り、俗に通行する系図では、肥後の菊池氏と同様に、大宰権帥藤原隆家の後裔と称したが、これには明らかに系譜仮冒がある。地域的に考えれば、肥国造と同族の佐賀県主か日下部君の族裔ではないかとみられるが、古代からの系譜は不明であって、いまに伝わる系図では蘇我臣同族の高向臣氏から出るように伝えるが、上記の隆家の{仗であったという大宰少監文時くらいから後の系図しか信頼できない。文時の四世孫(玄孫)にあたるのが上記の高木新太郎大夫宗貞であった。
武藤・少弐一族の横岳氏と内田氏との関係は不明であり、武藤氏が鎌倉御家人として東国から筑後にやってきたのだから、九州に来てからなんらかの関係ができたのであろうが、少弐配下に内田氏などを含む高木党の諸氏があったから、そうしたなかでの関係であったか。
なお、参考までに肥前の高木、竜造寺の一族を次にあげるが、いずれも称藤原姓(隆家流とも秀郷流とも称)。また、竜造寺については、肥宿祢の後とも火君・忠世宿祢の後ともいうので、古代から同族間で養子継承もあったのだろう。
高木−肥前国佐賀郡高木村に起る大族で、河上神社大宮司。鍵尼〔鍵山〕−国分支族であるが、室町期以降は河上大宮司。益田、於保、尻河、平野、八戸、戸八、河上、笠寺、成導寺、富田、田中、内田、津留、蛎久、諸隈〔諸熊〕、光岡〔満岡〕−以上は高木一族。少弐支流と称する幕藩大名の鍋島氏も、実際の出自は高木一族と同祖か、按ずるに鎌倉前期に佐賀郡恒松名小地頭であった長瀬氏(竜造寺一族長瀬とは別流か)の後か。中関白、少弐末流という筑後国三瀦郡の江島もある。
竜造寺−肥前国佐賀郡の大族、村中・水ヶ江にあり。国分、吉岡、朽井、平尾、長瀬、法成寺、富崎、諌早、鷹屋、多久、須古、村田、三村、小山、村上、藤井−竜造寺一族で、うち諌早・多久は江戸期には鍋島を称して明治に男爵。草野−筑後国山本郡草野の起源で筑後在国司、肥前国松浦郡鏡社大宮司、安倍宗任後裔とも称。北野、飯田、赤司〔赤自〕、三明、大城、井上、上津荒木−筑後国御井・山本郡等に住。青木−肥前長崎の諏訪社宮司家。藤姓という西見、上村も草野同族か。上妻、吉田、中島、宮野、山崎、西牟田、甘木、寺田、弥吉−筑後国上妻郡人。
(2013.2.14掲上)
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