浅井三代の系譜

(問い) 浅井一族を調査中で『古代氏族系譜集成』の1001頁を考えるのですが、『諸系譜』の第2冊と第15冊といいながら、現実には『諸系譜』の第15冊に在る一番問題の事項は避けて通られた気がします。というのも『諸系譜』の第15冊にある、次のことは載せずに置かれたようですね。
 
@長政は一にいう高政の子と記すが、高政は長政の生まれるずっと前に死んだとあるので本当は無理と思うが、意外にも『諸系譜』の第30冊には、高政−長政・京極高吉の室と2子を記す系図あり。第2冊には長政は実は高政の子とあり、しかしずっと前に死亡しているなら最初から不成立のはず。
 あるいは高は崩し字で亮の誤読とみて別に亮政の子にできるかと当れば、『浅井日記』に長政を宮内少輔にして亮政の子にし、久政を六角氏綱の子にする系図あり。鈴木真年はこれを読み、自らも『百家系図』第61冊に「佐々貴大系図」という系図の中で久政を氏綱の子として掲げるものなり。
 だから、久政は六角氏綱からのもらい子、長政の亮政の子??????
ということはあるいは長政は亮政の子という説が『諸系譜』第二冊の主旨とも考えたが、何か意見はありますでしょうか。
 
A『諸系譜』第十五冊とあるが、そこにあって『古代氏族系譜集成』の1001頁にない話。
.久政の末弟に良政がいて良政−政国−政庸(田宮丸)―政重(尾張刈安賀家)
.『系図纂要』で久政の兄弟にされているはずの女性を一部長政の兄弟にした話。
亮政の娘:1.斎藤義龍の妻(系図纂要は龍興の妻、浅井系統一覧に両方をにおわす記事あり
         2.江州海津城主海津長門守政元の妻(寛政重修諸家譜もこの呼び名を使う
久政の子女:1.京極高吉の妻(これは通常の系図集にもある
          2.これは男子で政治(1001頁の政元かな
3.越後守清政の男の浅井石見守明政の妻で海津殿(鶴千代なら亮政の娘とされて矛盾?
           4.磯野丹波守員秀の妻(これも通説は亮政の娘
 
.長政の子の順が万福丸・初子・知也(淀か)・達子・長春の順になっている。
 
.Cの長春のことも聞きたいが、これはそちらの研究範囲で述べることがあればに期待。
   長春−長章−長定・長綱・長頼
 
 以上、こういう問題は1001頁では飛ばされた御様子なので、何か今そちらでこれらに答えられることがあれば、よろしくご教授をお願い申し上げます。
 
 (日本歴史研究所 木村様)2010.5.5受け

 

 (樹童からのお答え)

 江北の浅井氏の系図については、亮政のときに急激に台頭したことで、それ以前の系譜も資料に確認されることは少なく、現伝の系図には様々な混乱が多く見られ、鈴木真年翁採録の系図といえども、疑問な個所が多々あります。佐々木氏関係でも、偽作者が関与した捏造部分があります、これらについては、信頼できそうな各種史料をもとに総合的に考えていくことが必要です。これが総論的な姿勢です。
 『集成』1001頁所載系図は、鈴木真年本をもとにとりあえず整理されたものと聞いていますが、今となっては疑問な個所もいくつかありますので、是々非々の姿勢で厳密にご検討下さい。
 
 個別の問題点では、現時点では次のように考えられます。
 @長政の位置は、久政の子であって、高政の子ではありません。久政の兄とされる高政は大永六年(1526)四月九日に死去とされており、これは、長政の生まれた1545年の遥か以前のことです。なお、久政については、祐政という別名もあったようで、父・亮政に通じるようでもあり、『江濃記』に浅井休外斎入道橘高政という名で記されるのが、父子のどちらかに当たるのかも判じがたい面があります。
 久政の兄として、姉婿で一族の田屋明政があげられることがあります。新三郎房政はその子でしょうか、房政の辺りは確認できません。そうすると、『集成』1001頁所載系図は、高政と明政とを混同している可能性もあります。
 久政は六角氏綱の子から養子というのは疑問であり、氏綱系の系譜は偽系図の作成者として有名な沢田源内の『江源武鑑』系の記事だとみられます。
 
 A『古代氏族系譜集成』1001頁の関連
 尾張刈安賀の浅井氏:久政の末弟に良政がいて、「良政−政国−政庸(田宮丸)―政重(尾張刈安賀家)」という系譜も流布本のなかに見られますが、『集成』1001頁では、「延政−政高−田宮丸」というのがこれに対応します。しかし、尾張刈安賀の浅井氏が近江戦国期の浅井一族とは別系統ではないという説(『東浅井郡誌』など)が強く、地域的に考えても、別系統説が妥当だと思われ(近江と遠い同族であっても、何時の時点で分岐したのかが不明)、良政を久政の弟にあげない系譜のほうが多くあります。なお、久政の弟に宮内少輔がいたとされ、その実名は宗政あるいは延政のようですが、この宗政は良政とは別人とみられます。
 この尾張系統について具体的なところでは、愛知県の加藤國光氏が、尾張妙興寺領内中島郡浅井村の名主の浅井与六郎広次の子孫だとし、近江の浅井氏に繋げるのは虚説だと記します(『尾張群書系図部集』。なお、広次から高政の間は不詳)。
 浅井田宮長時ともいわれ、正しい実名は不明)は、信長の家臣・浅井新八郎(政貞、政高などとされる。伝兵衛の子?)の子で、伊勢長嶋で主君織田信雄により二十歳未満で殺害されており、年齢的に実子がなかったとみられますから、その子に新太郎政重をあげるのは後継養子(弟といわれる)とみられます。子孫は幕臣にあります。 
 三河国にも幕臣旗本に多く見える浅井氏がおりましたが、こちらも、亮政の弟の肥前守利政の子の九郎左衛門元近の子孫が二家あるともいいます。この関係の系譜も仮冒とみられ、肥前守利政は亮政の弟にあげられないのが多いものです。実際には、古代の浅井直・浅井宿祢の流れを汲み、南北朝時代に京から遷住したと伝えます。

 B.ア 亮政の娘として、斎藤義龍の妻(近江殿)及び海津殿(田屋明政妻)がおり、男子は宮内少輔(名前は宗政、延政などと伝える)・智山和尚があげられますが、これら以外に、確認しがたい子女が何人かいます。
   イ 久政の子女:昌安尼、京極高吉の妻・養福院(マリア)と男子の政元(玄蕃)・政之(石見)がいたとされます。浅井(田屋)石見守明政の妻・鶴千代(海津殿)は亮政の娘であり、磯野丹波守員秀(員昌のことでしょうか?)の妻については不明です。これら以外にも、確認しがたい子女が何人かいます。

 
※小堀氏  長政の弟に政治をあげて「小堀新九郎、小堀祖」とする系譜も見ますが、これも竄入のように思われます。ちなみに、小堀氏については、苗字起源の地は近江国坂田郡小堀村で、藤原氏秀郷流と伝える。左近将監光道のとき、小堀村を領して小堀氏を名乗り、子孫が相続してこの地に住した、と家譜にあると『姓氏家系大辞典』に見える。
 秀郷流というのは、蒲生秀兼の弟・盛秀の子の盛道の子が左近将監光道だという系図があるが、一方、『姓氏家系大辞典』アサイ第5項に「藤原姓小堀氏の族、政尹、小堀をあらためて浅井を称し其子政栖がとき小堀に復すと云ふ」という記事も見える。政尹は遠州正一の子であり、小堀氏が浅井氏といったのは、地理からいっても興味深く、おそらく、小堀氏は浅井一族に起こって蒲生一族から養嗣を取ったということではなかったのか。

 長政の子としては、万福丸・淀(菊子?)・初子・達子の順で四人は確かですが、そのほかに一,二の庶出の男子がいたとも伝えられ、それに北郷福田寺の僧慶安(万寿丸、正芸、長秀、長明などの名?)はほぼ確かそうであり、ほかに井頼(政信、政賢、作庵)などがあたるといわれますが、こうした落胤的な存在には関心がありません。
 
 浅井氏については、以上で記述してきた諸点に加え、古代からの問題点も数々ありますので、別途検討してみました。次の 江北の浅井氏一族とその先祖 をご覧下さい。

 ※なお、扶桑家系研究所のHPのなかにも「レポート5」として、各種の浅井系図の検討がなされていますので、ご参照下さい。

  (10.5.9 掲上)
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