江北の浅井氏一族とその先祖


一  浅井氏の動向の概要
 戦国時代に京極氏に下剋上して江北に覇を唱えた浅井氏は、もともと京極氏根本被官であった亮政(新三郎、蔵人、備前守、休外斎)の急台頭によるものであった。大永年間には主家京極氏の騒動のなかで国人一揆に参加して力を付け、同五年(1525)には一揆盟主の浅見貞則を倒し、天文三年(1534)頃には守護京極氏を事実上、凌駕した。子の久政の代まで含めて江南の六角氏と抗争し、六角氏には抑えられたが、朝倉氏との連携のなかで勢力を保ち、永禄三年(1560)に家督を継いだ長政のときには更に勢力を伸ばし、翌四年には六角氏から自立して戦国大名化した。これら備前守亮政(死去が天文十一年〔1542〕あるいは天文十五年〔1546〕、五二歳説)と子の下野守久政、孫の備前守長政を、一般に「浅井三代」の名で呼ばれる。
 長政の嫡男万福丸は小谷落城後に捕らえられ害されたものの、信長の妹・お市と長政の間に生まれた三人の娘は生き残り、その後の歴史や貴紳の血の流れに大きな影響を与えたことは有名だが、ここでは触れない。
 
 浅井氏の出自や一族の系譜については、本宗の久政・長政親子が、元亀元年(1570)の姉川の合戦を経て、天正元年(1573)八月に本拠の小谷落城、滅亡しただけに、支族が若干旗本などで残ったものの謎が多い。通行している説では、藤原姓公家で権大納言正親町三条公綱(1471年没)の落胤の後裔というものがまず流布している。これは、内大臣正親町三条実雅の子(実は実弟という)の公綱が室町中期の嘉吉年間に、勅勘によって江北の京極氏(中務少輔持清〔1409生〜72没〕)のもと浅井郡丁野(よおの)村に配流され(嘉吉元年〔1441〕配流、同四年〔1444〕免許という所伝あり)、その蟄居中に政氏(氏政)と名乗って、当地の物部氏の女との間で一子をもうけ、その子が公綱の帰洛後に京極氏に仕えて浅井新三郎重政を名乗ったというものである。
 ところが、この重政の後でも系譜に混乱がみられており、確実なところは、亮政以下の系譜というところである(亮政以下でも注意を要する個所がいくつかある)。亮政の後は長子の高政が大永六年(1526)に若死すると、正室の娘の鶴千代姫(海津殿)の婿に一族から田屋石見守(新三郎)明政を迎えて後嗣にしようとしたが、結局、側室尼子氏の生んだ新九郎久政(祐政。新九郎、左兵衛尉、宮内、下野守)が後継に立てられたという事情もあるから、浅井氏の後継問題はいつまでもすっきりはいかない。
 浅井氏の正親町三条家出自説については、太田亮博士などがいうように、正親町三条公綱の江北来住が『公卿補任』の文安三年(1446)の参議叙任の記事や嘉吉二、三年にも将軍対面の記事などから否定されると、藤原氏ではなく、もともと浅井郡土豪の末裔で物部氏が本姓だとみられる説もいわれた(ただし、嘉吉年間のごく短期の丁野来住なら、完全な否定まではいかないが)。また、橘姓を名乗って浅井氏が見える史料もあるし、浅井氏の名が鎌倉前期くらいから金石文に見える事情がある。同じ江北で京極氏の根本被官、湖北四家に数えられた赤尾氏は橘姓も名乗りつつ、三条公綱の後裔という所伝を伝え、かつ浅井亮政の兄には赤尾教政がいたとも伝える(ただし、浅井氏滅亡時の「海赤雨三将」とされた赤尾美作守清綱につながるかどうかは不明)から、これも浅井氏と古い同族であったろう。尾張や三河にも浅井氏を名乗る武家がおり、子孫が旗本となっている。
 こうした諸事情があるから、浅井氏の系譜関係は複雑であり、また、これら浅井氏一族と戦国大名の浅井氏との関係がどうだったのかという問題もある。このため、浅井氏の系譜を様々な角度から見ていこう。
 
 二 室町期の浅井氏−主に氏政以降の動向と系譜
 浅井氏本宗の歴代が浅井郡丁野(現長浜市丁野、もと東浅井郡湖北町丁野)に居住したことが知られる。その系図は、現存するものを見ると、室町中期頃からのものを見ても大きく二系統ある。
 まず、代表的なものは、A上記の公綱(氏政、政氏ともいう)の後を「重政−忠政−賢政−亮政−久政−長政」とするものであり、『系図纂要』など(『続群書類従』巻第一六二、『諸系譜』第十五冊、『百家系図稿』第十一冊もこの系統)に見られる。もう一つは、東大史料編纂所所蔵の南部晋編纂『浅井家譜』などに見られるもので、浅井清三郎藤原直政に始まる系図であり、「直政−氏政−広政−亮政−久政−長政」とする。
 だから、亮政の父がまず問題となるが、『江北記』には、「浅井蔵人、今の備前守(亮政のこと)親の事なり」と見え、「清水寺再興奉賀帳」という記録には浅井蔵人丞直種が見えて、これが亮政の父・浅井蔵人にあたるとされる。かつ、当時の浅井惣領家には蔵屋殿という嫡女しかいなかったため、そこに亮政が婿入りして惣領家を継承したことも知られる。蔵屋殿の父は、明応九年(1500)及び翌十年の寄進状に加判が見える「直政」とされるが、どうも上記系図Bに見える直政とは年代的に別人の模様であり、直種という名も上記二系図には見えないから、話は複雑になる。
 以下に、いくつかの個別問題点について記述する。
 
 1.上記二系図に見える亮政の父祖の名前は、直政や直種の名が別名で記されている可能性も考えておく。浅井一族には別名がかなり多く、かつ同名異人と思われる者も散見するという事情があることによるが、そうした場合には、両方の系図をとくに切り捨てる必要がなくなるが、二系図のうちでは、戦国期に史料に見える浅井一族の動向から考えると、比較的ではあるが、Bの南部本『浅井家譜』のほうが多少信頼がおけそうである。
 そこでは、蔵屋殿の父を氏政の長男清三郎数政とし、その弟に広政をおいて、広政の子に賢政・亮政の兄弟をあげる。すなわち、亮政はイトコの蔵屋殿と結婚したことになり、上記二系図に見える広政及び忠政が直種、直政に当たるということになるものか。また、その先では、「直政−氏政」(A南部本)の二代が「氏政−重政」(B纂要本)の二代に対応するとみられる。だから、亮政の父祖については、一方は「直政−氏政−広政」(A南部本)の三代、もう一方が「氏政−重政−忠政」(B纂要本)の三代の各々が対応関係にあるとされよう(なお、同じ「氏政」同志が対応する可能性もあるのかも知れない)。
 いずれにせよ、浅井氏政なるものは浅井氏の中興の祖的な存在であり、文明応仁の乱の頃に活動した人ではないかとみておく。この氏政(A)に同人として対応するとみられる重政)について、『諸系譜』等には「嘉吉二年(1442)浅井村に生まれ、京極中務少持清に属」との記事がある(このほか、『寛政譜』に1446〜1496年という所伝もある)。浅井惣領家は通称を「新三郎(清三郎)」として歴代が続いており、久政・長政二代の通称が「新九郎」となったのは久政の継承事情に基づくものであろう。
 
 2.南部本『浅井家譜』によると、氏政の子に清三郎数政(蔵屋殿の父。「直政」にあたるか)・長門守敏政・越後守清政・備後守広政(「直種」にあたるか)をあげ、長門守敏政・越後守清政の子孫が後につながるが、後者の越後守清政の子に田屋石見守明政をおいている。明政の養嗣(娘・海津局の婿)政高の後は、三好氏として二千石取りの大身旗本に残る。
 明政の弟の「五郎兵衛惟政−与次・石見守親政−吉兵衛吉政−紀伊介堅政(賢政)」という系図も見え、これは『東浅井郡誌』所載の浅井系図には「秀信−亮親−吉政−賢政」の名前で見え、阿部猛等編『戦国人名事典』には秀信に五郎兵衛として、亮政とほぼ同時代の人であることが見え、亮親には「与次・石見守」として久政・長政二代に仕えたと記されるから、この辺の系図の妥当性が知られる。紀伊介賢政は、一族で養父の盛政とともに藤堂高虎に仕え、その弟・正高の娘を娶って猶子的に藤堂姓も許されて一族的な処遇を受けたが、後に養父とともに藤堂家中を出て、加賀の前田利常に仕えた。
 
 3.亮政の兄弟には、南部本は兄に新九郎賢政をあげるのみであるが、この者は『浅井記』には新次郎、他の系図には新三郎ともあるというから、纂要本に亮政の兄にあげる赤尾新次郎(駿河守)教政とも関連するのかもしれない。新次郎賢政は『河毛系図』では忠政の弟にあげられており、これだと亮政の叔父となるが、浅井歴代のなかに入っている系図もかなりあるから、忠政と亮政とをつなぐ存在であったものか(蔵屋殿の兄弟、すなわち忠政の嫡子で若死したのかもしれない。亮政の位置づけを考えるのに、なかなか重要な存在であることに留意される)。ともあれ、亮政の父(あるいは養父)は忠政とするのがよさそうであり、直政が「タダマサ」と訓むとすると、忠政と直政とが同人だとしてよいかも知れない。
 なお、忠政が亮政の養父たる直政と同人だったとすると、忠政の男子には夭折した者以外はいないはずであり、三田村新七郎定元・大野木新八郎秀国の両名を忠政の子にあげる系図は、後世の付加であろうが、三田村・大野木両氏は浅井郡湯次荘三田村、坂田郡大野木に起るから、ともに浅井同族であった可能性もあろう。徳島県名西郡で採録された『三田村系図』では、先祖を丁野の浅井備前守助政の一門で三田村亦四郎忠政とし、その子に弾正忠直政・養嗣新七郎国政(浅井備前守次男という)をあげて、以下に続ける。
 惣領の直政と直種との関係については、直種の活動のほうが先行気味であることから、直政の一世代前におく系譜関係が『東浅井郡誌』などで想定されている。直種の子孫と、直政にあたるとみられる数政の兄弟(敏政・清政)の子孫の世代比較をしてみると、総じて直種の子孫のほうが年長のようにみられるが、一世代先行するほどの差はないとみられるから、直種は直政の庶兄かすぐ下の弟で、敏政・清政の兄に位置づけられよう。
 いずれにせよ、直種は直政の兄弟として同世代に置かれるのが妥当とみられ、これは、彼らの父の重政(氏政)がある特殊な出生事情のもとにあって兄弟がいなかったのなら、これと符合するのかもしれない。重政については、正親町三条家の落胤説は信頼できないとしても、実父が不明で一人っ子であった可能性はあったということである。
 
 4.纂要本等には、亮政の弟として政信新助、大和守)もあげられ、その子に玄蕃允政澄・雅楽助政享など四兄弟があげられる。浅井大和守は天文十五年(1546)に海津城攻撃戦に先鋒として活動しており、玄蕃允政澄ら四兄弟は元亀元年の姉川合戦で皆、戦死したとも、何人かが小谷落城後不明となったともいう。
 なお、『東浅井郡誌』第二巻所載の浅井系図によると、亮政の兄弟に備後守政種(その子・忠種)をあげ、また「井演−井伴−井規」とつながる系統の祖・越中守井演も、亮政の弟に推されている。備後守政種の父が直種とされるから、直種が備後守広政にあたるとしてよかろう。
 
 三 古代からの浅井氏の流れ
 浅井氏が、その出自を江北に流寓したという正親町三条公綱にかけ先祖を飾ろうとしたものの、浅井郡の郡名を名乗るように、その地の郡司クラスにあった者の後裔であろうと考えるのが妥当である。
 戦国期の苗字としての浅井氏ではなく、姓氏として浅井氏を名乗る者が近江国浅井郡には少なくとも平安前期から居住していた。『姓氏家系大辞典』に引く「竹生島縁起」には貞観十三年(871)に浅井郡の浅井磐稲が神社神殿の食堂を建立し、翌十四年には同郡の郡老の浅井広志根が湯釜を鋳造して施入したと見える。磐稲は「イハシネ」で、広志根「ヒロシネ」は広稲とも書かれたとみられ、年代・命名からいっても両者が兄弟であろうし、当時、郡司級の官職にあって有勢の者たちと知られる。その族裔とみられるのが『権記』長保四年(1002)二月条に見える坂田郡の筑摩御厨長の浅井当宗であり、その前任者に息長光保が見えるから、これら御厨長も郡司クラスの出身とみられる。
 
 ところで、鈴木真年翁は、浅井氏の系譜については『華族諸家伝』脇坂安斐条で言及し、物部連の流れだとする。その記事によると、雄略朝の物部目大連の孫の奈洗連(欽明朝の尾輿大連の弟)が近江国愛智郡に住み、その支流が浅井郡に分かれたが、その後裔の左近府生の物部常成の長子・右番長在常の子孫が長門の大族厚東氏であり、次子の左府生武常の次男武真は浅井郡司大領となった。武真の十四世の子孫が浅井新大夫秀政であって、三条家の所領預で浅井郡丁野村に住み、その長男浅井新二郎信政の女が三条大納言公綱の子を妊んで生まれたのが新次郎重政で、これが浅井の祖であり、秀政の三男又五郎生政の子孫が脇坂甚内安治だと記している。これだと、浅井郡司の後裔とはいっても、姓氏は物部宿祢氏だということになる。
 この真年の記述と符合する系図が『百家系図稿』巻六に「物部系図」として所載されており、奈洗連に始まり脇坂安治に及んでいる。この系図では、浅井氏のほうは「信政−女−氏政」で終わっているから、氏政以降の展開は知られない。真年採録関係の脇坂氏の系図がもう一つあり、こちらは『諸系譜』の第十二冊に「脇坂系図」として所載される。上記の浅井郡司大領武真の五世孫にあたる浅井郡司常永・浅井二郎常清兄弟から始まり、常永の後が浅井氏、二郎常清の子の浅井太郎常藤の後が脇坂氏につながるものである。
 これら真年関係資料によっても、平安末期頃には浅井の苗字も発生していたとみられ、建保三年(1215)の銘のある長福寺本尊薬師如来背銘や、寛喜三年(1231)参月の年号を持つ富永御荘円満寺の古鐘銘においても、浅井氏の名が見える。後者では、「本願主沙弥教西浅井氏嫡男右馬允生江盛助」と見えており、嫡男の名乗る姓氏の生江との関係が気になるが、これ以上は不明である。
 浅井氏には、もう一つ物部守屋大連の後裔とする系譜がある。先に述べた近江物部氏が守屋大連の叔父の奈洗連から始まるので、その訛伝ともみられそうだが、内容的には随分異なる。この系図は、真年編の『百家系図』巻五四所収の「浅井系図」であり、『浅井家譜大成』や東洋文庫の「浅井系図」、『系図纂要』記載の一本系図、『柳営婦女伝系』の巻之七・崇源院伝系(浅井氏)などにも同様の系図が記載される。
 系図は敏達天皇に始まり、その子に守屋太子、守屋の孫に中納言俊忠をおき、その子に六子をあげて、忠次・俊政・忠広・国政・清久・兼政として、俊政以下は、それぞれが順に浅井郡の丁野・伊部・中野・河毛・月ヶ瀬を領地としたと記される。丁野を領した俊政の子孫が後の浅井氏につながるが、この系譜のなかにいくつかの系統が混乱して世系に竄入しているようで、世代数がきわめて多い形で記載されており、混乱を糺す手段がほとんどなく、原型が見極めがたい。この系図が前掲の南部本『浅井家譜』と合致してくるのが、後ろのほうの「直政−氏政」あたりからとなっている。
 『百家系図』所収の「浅井系図」では、俊政の兄弟にあげる忠次・忠広は、『百家系図稿』の「物部系図」にも見えて貞政の子の位置におかれ、俊政の代わりに常政を置いて、この常政が浅井氏の先祖とされるから、一定の共通性があることにも気づく。かつ、『諸系譜』所収の「脇坂系図」には、貞政の姉妹が内舎人橘俊忠の妻となり俊政の母となったという記事が見えるから、物部貞政の子とされる俊政は橘氏から叔父の養子となった模様でもある。後世の浅井氏に橘姓を名乗るのが見えるのも、こうした由縁なのかもしれない。
 俊政とその兄弟が知行したと伝える「丁野・伊部・中野・河毛・月ヶ瀬」の地名も、なかなか興味深い。というのは、これら五個所の地はいずれも現在の長浜市北部にあり、北からいうと、東浅井郡の旧湖北町域に丁野・伊部・河毛、旧虎姫町域に中野・月ヶ瀬という順で近隣に位置しているから、この所伝には信憑性がありそうである。河毛氏は戦国期まで残り、東大史料編纂所の『河毛系図』(鳥取県河毛スエ原蔵)では浅井一族から出たことを記している。丁野を名乗る氏もあって、『江濃記』には「浅井父子・丁野若狭守を先陣として五千余騎出張」と見えるから、浅井一族とみてよい。また、中野には浅井郡式内の矢合神社、丁野にも同じく式内社の岡本神社のそれぞれ論社が鎮座するから、古代から古族が居住の由緒ある地であった。
 そうすると、これら諸氏の祖ともされる橘俊忠は、橘姓を称するものの、その実は古族末裔であって、おそらく古代浅井氏の後裔ではなかったかと推される。
 
 四 古代の浅井氏に関連する系譜と諸事情
 古代浅井氏の出自・系譜は難解であるが、三河国の碧海郡などに参考となる浅井氏が居た。その系図が『百家系図稿』巻九に「浅井系図」としてあるから、これを中心に考えていく。
 1.「浅井系図」によると、浅井直筑紫雄を祖として、その孫が浅井宿祢守行、その七世孫が右少史実行で治承頃の人であり、その四世孫の左馬允浅井宿祢実俊の子の実勝(右史生越後介正六位上)が建武頃の人であって橘氏を号して西園寺家に仕えた。その子の浅井橘六実宗が三河国碧海郡浅井村を開墾したとされ、以下は歴代がつながり(同系図では、実俊より前は歴代の名がきちんと示されていない)、三河の浅井氏として、嫡宗は碧海郡にそのまま居住して、家康頃の六之助道忠に至っている。
 この道忠は『寛政譜』に旗本浅井氏の祖としてあげられる。『姓氏家系大辞典』アサイ第項には、西三河の浅井村に来住したのが浅井六之介忠清だという記載があるが、忠清は六之助道忠の曾祖父として六郎左衛門忠清という名であげられている。『三河国二葉松』には、「碧海郡三輪村三輪城 浅井次兵衛の居城」「桜井村古屋敷 浅井六之介」という記載があるが、浅井六之助は道忠か忠清に当たる者であろう。「浅井次兵衛」については、忠清の叔父が次郎兵衛定賢とされ、その子・孫に「又次郎」の通称が見えるから、この系統か。
 三河の浅井氏は、碧海郡から近隣の加茂郡や幡豆郡須美村などに分岐したと系図に記されており、加茂郡の後裔からも旗本が出た。幡豆郡の系統では、天保七年(1836)完成の『参河志』第二六巻に幡豆郡須美村天王社の神主として浅井弥次右衛門があげられるから、この三河浅井氏の系図はほぼ信頼してよさそうである。
 ところで、一族の九郎左衛門元重には「歴仕清康神君」と見えるが、旗本のなかに九郎左衛門元近の後裔とするものがあり、元近は慶長九年八月に享年八六歳で死没(すなわち、1519生〜1604没)とされるから、「元重=元近」としてよかろう。この浅井氏は元近の父を肥前守利政として、近江浅井氏の亮政の弟におき、利政が三河国額田郡に遷ると伝える。この所伝は、三河浅井氏を近江浅井氏につなげるものであるが、南部本『浅井家譜』など信頼性がおけそうな近江浅井氏の系図には、利政の名が見えないから、この辺に系図仮冒があることが分かる。
 
 2.近江浅井氏から分かれたという三河浅井氏の先祖にかかる部分に系譜仮冒があったことが分かったが、同様に尾張の浅井氏についても考えられそうであり、簡単に触れておく。
  尾張国刈安賀(現一宮市大和町刈安賀)の浅井氏は、織田信長に赤母衣衆として仕えた浅井新八郎、織田信雄に重臣として仕えた田宮丸の親子が知られ、浅井田宮は主君織田信雄により羽柴秀吉に通じたとの嫌疑を掛けられ殺害されたものの、その後継(弟か)の新太郎政重の子孫は旗本として残った。浅井氏の系図によっては、浅井久政の末弟に良政がいて、「良政−政国−政庸(田宮丸)―政重」や「宮内少輔延政−政高−田宮丸」という系譜も見られる。浅井新八郎・田宮親子の伝えられる実名もマチマチであるが、上記の政国・政高あるいは政貞、政澄という名が新八郎に当たるようである。新八郎の弟で家老の玄蕃の屋敷が中島郡毛受村にあったとも伝える。
 しかし、尾張刈安賀の浅井氏が近江戦国期の浅井一族とは別系統ではないという説(『東浅井郡誌』など)が強く、地域的に考えても、別系統説が妥当だと思われる。仮りに近江と遠い同族であったとしても、何時の時点で分岐したのかが確実なところでは、まったく不明である。
 浅井氏の信頼できそうな系図には、良政を久政の弟にあげなかったり、久政の弟・宮内少輔の子に政高あるいは政国をあげない。宮内少輔の実名は宗政あるいは延政のようであるが、この宗政・延政は良政とは別人とみられる。新八郎の父の名は伝兵衛あるいは信濃守とも伝え、実名は高政とされる模様であるが、この辺も確認しがたい。
 この尾張系統の浅井氏について具体的なところでは、愛知県の加藤國光氏が、尾張妙興寺領内中島郡浅井村の名主の浅井与六郎広次の子孫だとし、近江の浅井氏に繋げるのは虚説だと記す(『尾張群書系図部集』。なお、広次から高政の間は不詳)。おそらく、この辺が妥当なところか。
 尾張には、中島郡浅井(現稲沢市浅井町)及び葉栗郡東浅井(現一宮市浅井町)に式内社の浅井神社(後者は式内社の大野神社か)があり、『国内神名帳』には従三位浅井天神があげられる。「浅井神」とは、越中の同名式内社の例からしても、水神の罔象女神(ミズハノメのかみ)を指すものとみられ、これが浅井郡竹生島の都久夫須麻神社に祀られる浅井姫といわれる神でもあろう。このように古くから尾張に浅井の地名があれば、そこに近江とは無関係で浅井氏が起るのが自然である。後に系譜を失って、同名で著名な氏に系譜を架上、接続することは、他氏にあっても往々にして見られることであった。
 
 3.浅井直とその後裔の浅井宿祢・浅井朝臣についても見ておく。
 浅井直筑紫雄は六国史に唯一見える浅井氏の氏人で、陽成天皇時代の元慶三年(879)正月に正六位上左近衛将監から外従五位下に叙せられたことが見える。その子孫一族は平安期の『類聚符宣抄』『九暦逸文』『西宮記』『小右記』『権記』『除目大成抄』などに見えており、出雲守となった浅井宿祢守行もいるが、左大史浅井宿祢清延のほか左大史や左右少史などの史生の官職にあったと見える者が多い。浅井宿祢実俊のついた左馬允では、『平戸記』の寛元三年(1245)十二月に左馬允浅井信尚が見える。これらの者の大半は「浅井宿祢」姓で見えるが、『小右記』長和二年(1013)三月・四月などには掃部允浅井朝臣有賢が見えるから、宿祢より上位の朝臣姓を賜った一派もいた。
 これらの先祖の浅井直筑紫雄については、系譜や出身地についてなんら記すものがないが、近江の浅井郡出身であることはまず間違いなく、その族裔が中世の浅井氏につながることが十分考えられる。すなわち、戦国期浅井氏の祖に見える橘俊政が古代浅井一族に出たことも考えられる。三河の浅井氏が橘姓も称したことが想起される。
 
 4.古代浅井氏の系譜
 浅井氏歴代が居住した丁野村が浅井村ともいわれるから、『和名抄』の丁野郷が浅井郡の中心であったとみられる。浅井氏の居城・小谷城も丁野の西方近隣にあった。先に見た丁野・中野など五地は、ほとんどが丁野郷域にあったのだろう。その地に郡司級で長く在ったのだから、浅井直氏の出自は、古代の氏姓国造に多く見られる「直」姓に関連すると推される。そうすると、近江・美濃の古代国造では江東の安国造か西濃の三野前国造かの分岐ではないかということになる。
 そのなかで、中野にある矢合神社に注目される。同名の神社は式内社の論社として、同じ長浜市域の西浅井町岩熊にもあって、そこには、「浅井姫命と気吹雄命が争った時、気吹雄命が浅井岡を襲い、浅井姫命は当地まで退き、防矢を射た」という伝承があるから、浅井姫と矢に関係深いことが分かる。倭建命西征には美濃の弟彦公が弓矢に優れた者とともに従軍したと『日本書紀』景行段に記され、矢道には弟彦公の古墳とみられる長塚古墳もあり、三角縁神獣鏡が出土した。丁野にある式内社岡本神社の祭神も食糧神ヲカ神たる保食神とみられるが、「保食神=罔象女神」でもあったから、これも浅井姫に関係がある。坂田郡には式内社の岡神社もある。
 丁野のすぐ近隣に美濃山という地名があり、月ヶ瀬の西南近隣には弓削という地名も見える。気吹雄命も美濃・近江の国境に聳える伊吹山(標高1377M)の神であって、浅井姫はその妹ないし姪であったとされる(『近江国風土記』逸文)。これらの事情と、「浅井岡」が伊吹山と高さを競ったというのだから、その比定地は不明であるものの、浅井郡の北境で美濃に接する金糞岳(標高1317M)に比定してもよさそうである。こうした神話伝承からも、浅井直は三野前国造美濃直の一族と推される。そうすれば、ともに弓矢神・天日鷲翔矢命(少彦名神)の後裔氏族に位置づけられよう。浅井直筑紫雄が武官の左近衛将監として出仕した事情も窺われる。
 こうした系譜を引く浅井氏が近隣に住む物部氏と通婚して、中世の浅井氏が生じたとみられるが、物部氏も少彦名神の兄で鍛冶神天目一箇命の流れを引く遠い同族関係にあった。
 
 (2010.5.9 掲上)

    関連して  三河の橘氏族浅井氏の出自についての応答 を掲上 (10.8.21)

    関連する応答  浅井三代                   示板・応答板へ  


       ホームへ     古代史トップへ    系譜部トップへ   ようこそへ