三河の橘氏族浅井氏の出自についての質問

 当方は、浅井治兵衛道介や六之助道忠ら、三河橘氏族浅井氏の出自について調べております。
 かつて、その宗家ではなく、三河の各地に残った数々の分家筋の方からお話を伺ったことがありますが、その始祖となると、いずれも詳細はご存知ないようでした。
 『寛永諸家系図伝』や『寛政重修諸家譜』などには、“近江国八幡村の橘氏族田中政弘を祖とする伯耆守田中宗兼が、三河国の浅井村に来村し浅井姓を名乗った。”といった説明がありますので、三河橘氏族浅井の祖は田中氏であり、「田中宗兼=浅井六之介忠清」であると思っておりました。
 
 しかし、貴サイトによると、『百家系図稿』巻九の「浅井系図」には、浅井直筑紫雄を祖とする浅井橘六実宗が三河国の浅井村を開墾したとの記述があるとのこと。
驚くとともに、大変興味深く拝見させて頂きました。
 
 そもそも、浅井村に来たから浅井姓を名乗ったのか、浅井氏が来た土地だから浅井村と名付けたのか、この部分がとても曖昧でした。浅井村については、その名を文献で確認できるのが1590年頃からで、それ以前については不明、村というものがあったかどうかすら定かではないそうです。
 六之介忠清(=伯耆守田中宗兼)がおそらく来村したであろう1400年代あたりに、もし浅井村という名がなかったとしたら、“田中氏が浅井村に来たから、名を浅井氏に変えた”という説明が成り立たないように思われます。
 そうすると、浅井橘六実宗が開墾した土地を浅井村と名付けたとするほうがしっくりきます。 浅井村の名前の由来も、定かでないとされています。
 
 そこで、古族浅井直を祖とする系について、もし百家系図稿にその出典元などの記載が残っていればお教えて頂けますでしょうか。また、サイトに書かれている叔父、分流などの他にも名前が載っている人物があれば、こちらも併せてご教示頂けると幸いです。
 最後に、もしも古族浅井直のルーツを作為的に橘氏に変えたのだとしたら、その真意はいったい何なのでしょうか。
 
 (愛知県の風花様より、2010.8.20受け)
 


  (樹童からのお答え)
 
 ご質問が多岐にわたりますが、いずれも難しいものなので、現段階で分かる範囲で推測も交えて書いておきます。(以下は、である体
 
1 近江国高島郡出身の田中吉政の家系
 秀吉配下で立身し、関ヶ原の功により筑後柳川三二万石の大大名となった田中久兵衛吉政が高島郡田中邑(現高島市安曇川町田中)に起った田中氏から出たと知られるが、この田中氏の出自が諸説あってよく分からない。『姓氏家系大辞典』でも高階真人姓高一族の田中氏とか橘姓とか記すが、橘姓に関連する場合にも、「伯耆守宗弘−総左衛門重政−吉政」とする系譜と『近江国輿地志略』の高階真人姓で「実氏−吉政」、これが鈴木真年があげる橘重信の後裔説(重信と実氏との間が二つの所伝があり、まったく異なる)ではそのまま橘姓となり、『藩翰譜』では伯耆介宗弘の子とされる。吉政が初名が宗政、ついで信長の片諱で長政、さらに秀吉の片諱で吉政と名前が変遷したという所伝があるから、吉政の父乃至祖父が「伯耆守宗弘」(家譜に伝えるという「嵩弘」は誤記か)というのは比較的妥当かもしれない。
 三河の浅井氏の家譜に見える「先祖伯耆守政弘、河内国田中村に住す。その九代を宗兼という」という所伝の根拠は不明であるが、「先祖が伯耆守政弘、九代後裔が宗兼」というのは「伯耆守宗弘」に通じるようでもあり、この辺は田中吉政家の系譜所伝に近いといえそうである。
 ところで、諸国の「橘姓」の諸氏の系譜は、後になって系譜仮冒して中央官人の橘朝臣氏に符合させていることが多い。そうした橘氏の例は、駿遠や伊予、熊野などに見るように、実際の系譜が物部氏族かその近縁氏族に出た諸氏に出た場合が多いとみられる(なぜ、これら氏族が橘姓につなげたのかは事情が不明)。近江国の橘姓も、浅井氏などがその例に漏れないとみられる。だから、高島郡の田中氏も同様であって、中央官人の橘朝臣氏ではなく、本来、浅井郡の浅井氏の同族という古族の流れではなかったかとみるのが自然である。
 
 田中吉政の近縁とみられる宮川氏
 『姓氏家系大辞典』タナカ第19項に見るように、「田中家臣知行割帳」に拠ると、一族ではなかったかとみられる田中氏が田中藩中にきわめて多い。同書に、同様に双璧的に多く見られるのが宮川氏である。重臣で城島館にいた宮川讃岐守の一族であって、大坂陣のときに主君田中忠政を諫めて斬られ、宮川一族が誅伐された。この宮川一族は、高島郡の大族朽木氏の重臣にも見えており、宮川右衛門尉(実名は不詳)は京都に在京する朽木氏の庶子からの書状を受け、惣領家に言上している。天文十六年(1547)に当主朽木晴綱の代理として田地売券に署名した宮川頼忠がおり、その前年にも宮川貞頼・日置貞忠と共に名寄帳に署名している。こうして見ると、宮川氏が高島郡の土豪としてあったことが知られる。
 田中吉政の重臣であった宮川氏の本拠は、近江国坂田郡宮川(現滋賀県長浜市宮司町)にあったから、その近隣を流れる十一川が、宮川館のすぐ近くにある日枝神社という相当に大きな神社に因んで「宮川」と呼ばれたものか。宮川氏は田中吉政の筑後転出に伴い、この宮川館から出ていったとされる。滋賀大学の所蔵文書に坂田郡の「宮川庄三郎家文書」があるから、この地域に残った宮川氏もあった。
 こうしてみると、宮川氏も田中氏も、坂田郡に由来して、橘姓ないし物部姓という浅井郡の浅井一族ではなかったかとみられる。
 
3 三河の浅井一族
 浅井という地名は各地にあるから、三河にもともと浅井村があっても、とくに不思議とはいえない。しかし、伯耆守田中宗兼が三河に遷住して、六之介忠清となったというのは、命名からみても不自然である。忠清の活動年代は十六世紀前葉頃とみられるが(後述)、その四代前の浅井橘六実宗が南北朝期に碧海郡浅井村を開墾したというほうが妥当であろう。天保七年完成の『参河志』には、幡豆郡須美村の天王社の神主の浅井弥次右衛門や碧海郡下青野村の椿大明神・天神社・薬師の神主の浅井甚之丞、として浅井氏が見えるから、こうした祭祀事情も古族後裔を示唆する。「天王・天神・薬師」は少彦名神後裔氏族に多く見られる祭祀であった。
 だから、『百家系図稿』の浅井氏系図に見えるように、近江古族の浅井宿祢の後裔が三河に来て、浅井の地名が生じたとするほうが自然のように思われる。
 近江古族の浅井直・宿祢の一族の系統については、確たる史料でいうことはできないが、「直」のカバネや称橘姓、地域事情などからみて、美濃西部にあった古族の三野前国造(物部同族で、少彦名神後裔であって、山城の鴨県主と同族)と同族ではないかとみられる。
 近江の宮川氏と同族かどうかは不明であるが、美濃西部の不破郡にも宮川氏があった(源姓を称するが、疑問)。著名なのが信長・秀吉等に仕えた大垣城主宮川吉左衛門安定であり、その一族の宮川権之助安済の居城が上笠村の上笠古城とされるが、「笠」も少彦名神後裔に関係する地名・氏族名である。
 
4 『百家系図稿』巻九の「浅井系図」
 (1) 明治の鈴木真年翁の編著作である『百家系図』『百家系図稿』などの所収系図には、その出典資料が原則として記載されていない。だから、記事内容から、系譜・所伝を伝えた家を推測することになるが、多くは明治まで記載が見えれば、そのときに鈴木真年や中田憲信が接触し、採集したことが窺われる。
 『百家系図稿』は静嘉堂文庫のみに所蔵され、その書込みや貼付された付箋の多さという事情から、『百家系図』のようにマイクロフィルム化されて販売されたこともなかった。本件の「浅井系図」はかつて筆写したときに、江戸時代初期の世代までしか記録してこなかったので、浅井氏のどの系統が最後まで続いているかは、手元資料には見えない事情にある。
 (2) 手持ち資料により、浅井一族の分岐状況を簡述すると、次のようになっている。
  浅井橘六実宗の孫・橘六実賢の諸子から分岐が見える。
@実賢の諸子には、次郎兵衛忠賢・次郎兵衛定賢・三郎左衛門有賢・隼人助久賢・八郎道賢がおり、前二者が子孫を残す。定賢の後は、子の孝忠・恒忠兄弟、恒忠の子の「図書頭綱忠−勘五左衛門雅忠−平蔵成忠」、
A次郎兵衛忠賢の子に六郎左衛門忠清・兵部忠待兄弟、兵部忠待は加茂郡にあって、その子の「基忠−七郎兵衛澄忠−七郎助教忠……」で、教忠は慶長十七年卒、子孫が旗本にある。また、七郎兵衛澄忠の弟の「平右衛門幸忠−道右衛門為忠……」で、この子孫も旗本にある。六郎左衛門忠清は、この世代配置から活動した時期がおよそ推測できる。
B六郎左衛門忠清の諸子には、又六郎忠友・右馬允政清・五郎左衛門元清・宮内季忠があり、それぞれ子孫を残す。又六郎忠友の後は、その子の「六蔵忠元−六之助道忠……」で忠元は碧海郡に住。右馬允政清の後は、その子の「利清−女」で終わり。五郎左衛門元清の後も碧海郡に住み、その子の九郎左衛門元重は清康〜神君に歴仕、その子孫が旗本にある。この元重を祖とする浅井氏が藤原姓として『寛政譜』にあげられる。宮内季忠は幡豆郡須美村に住して、その子の「勘解由右衛門宗忠……」、ということで、これ以下の世代のメモはありません。
 
  以上の詳細な内容からみても、この浅井系図の信頼性が窺われます。
 
 (2010.8.21 掲上)


 
  (風花様より三河橘姓浅井氏に関する再質問)10.8.28受け
 
 「道之助元重(道永)−重忠(宗源)−忠次(道春)・・・・」というこの系統が、 浅井六蔵忠元の兄弟あたりに始まると考えるのは無理があるでしょうか?
 
 『百家系図稿』にて六之助道忠の父にあたる六蔵忠元という人物は、すなわち1542年に討死した治兵衛道介であると当方は考えているのですが、 治兵衛道介は、道之助・道春という名を持っています。それだけの理由で近しい系統だと考えるのは安易かもしれませんが、いかがでしょうか。
 
 <以下は、感触等ですが>
 それにしても、三河においては橘六宗賢の系より藤原氏系を称する浅井氏が多く、何とも複雑な心境にさせられます。
 
 道忠の系を名乗る家でさえも藤原氏系の家紋(剣カタバミなど)を用いていることが多く見受けられます。 道忠の六本骨扇・右三つ巴・橘という家紋は、家康から給わった扇と、西園寺家の巴と橘氏の橘なのかなと推測できるのですが、家紋と家系に必ずしも強い関係があるとは言い切れないとはいえ、三河地方で剣カタバミが多い理由がいま1つわかりません。
 
 六之助道忠は桶狭間で家康を先導した働きにより、一万石(西三河の合歓木村、川野村、川嶋村)を給わり、小川村(=本長篠駅の南あたりの乗本村の旧名)に陣屋を置いたものの、間もなく良くないことがあったとかで、後にこれらを召し上げられ旗本になっております。三河一向一揆において一揆方についた事がその原因かと思うのですが、そうであればその道忠の家系と先祖を同じくしている事は、当時やはり不名誉とされたのでしょうか?

 
 <樹童の感触>

 室町期くらいから先祖の官職・続柄等を通称として、それが子孫代々伝えていくという命名法が全国的に見られます。そうした観点で、旗本の浅井氏の系図として『寛政譜』に見える「道之助元重(道永)−道之助重忠(宗源)−道之助忠次(道春)……」について考えてみると、とりあえず次のように考えます。
 ご質問の流れが「道之助」という通称を歴代名乗り、道之助忠次のはるか子孫にも「道之助忠吉−道之丞忠辰」が見えます。そういう観点で、管見に入った三河浅井氏の系図を見ますと、忠賢の三世孫(曾孫)に「平右衛門幸忠」その子に「道右衛門為忠」という親子が見えます。この問い合わせの家系が、「平右衛門幸忠・道右衛門為忠」親子の後裔にあたることはまず疑いありません。というのは、道之助忠次は「平右衛門」も名乗り、その子の元忠及び孫の智忠と三代にわたって「平右衛門」の通称が続くからです。
 ところで、「元重−重忠−忠次」の三代が「基忠−幸忠−為忠」の三代とどのように対応するのかしないのかという問題になりますが、これについては、かなり判断に迷います。
 というのは、宗家の六之助家が「道忠(生没が1531〜89)−道多(同、1577〜1634)」、支流の平右衛門家では「忠次(生没が1552〜93)−元忠(同、1586〜1645)」であり、共通の祖先の忠賢から見たとき、A道忠と忠次とが同世代なのか、B道忠の一世代後が忠次なのか、という判断がなかなかつかないからです。
 前者Aの場合には、上記三世代がまったく重複します。後者Bの場合には、「基忠−幸忠(=元重)−為忠(=重忠)−忠次」と一代ズレがあるからです。「幸忠−為忠」に世代がまったく対応する「澄忠(幸忠の兄で、1580死)−教忠(1612死)」という事情を考えますと、どちらかというと、Aケースにやや傾いているところです。
 
 元重という名は「九郎左衛門元重」という名で三河浅井氏の系譜に見えますが、この者は『寛政譜』には「九郎左衛門元近」という名で出てきて、子孫は「九郎左衛門」を通称にして「元貞−元信……」と続きます。
 
 以上に見るように、三河浅井一族の系譜・関係も複雑ですが、通称と命名、生没年などをもう少し丁寧に突き合わせていくと、さらに事情が分かってくることがあるかもしれません。ご自身の手と頭でいろいろ作業をしてみるのがよいと思われます。
 
  (10.8.31 掲上)



   <愛知県の風花さんからの来信> 2011.2.25受け
 
 愛知県南設楽郡(新城市)の西部に、かつて千郷村と呼ばれた地域があり、合併前は幾つかの村に分かれておりました。この詳細を記した郷土史『千郷村誌』を読んだところ、以下のような記述がありました。
 
(1)字片山・・・(略)仏教弘通の世となり朝廷より番匠を派遣せしめ、ついで竹下、阿部、浅井の一族が来村した。(略)
   ●阿部=武淳川命の裔、家紋違鷹羽
  浅井=安部の族、家紋三剣鳩酸草 
 
(2)字稲木・・・(略)稲置府を開いた時に稲置壬生公は服部と春田との一族を率い来住、次いで浅井が来・・・(略)
  浅井=江州浅井郡安倍氏族、三ツ剣酢漿草
 
 これを読むと、浅井橘六実宗が三河国の浅井村を開墾した時代より遥か昔に、南設楽郡に浅井姓が来村していたことがわかります。
 @武渟川命の裔・阿部氏の一族であるという、字片山の浅井氏
 A江州浅井郡の安倍氏族であるという、字稲木の浅井氏
場所や時代から考えても、これら@Aはいずれも同族と思われます。
 
 そこで思うのが、
この千郷村の浅井と、浅井村を開墾した浅井橘六実宗は、果たして別系統なのだろうか?という事です。
 もしこの2系統が、元は同じ祖から分かれただ同族だとしたら、浅井橘六実宗の祖・浅井直筑紫雄は、実は安部氏の一族だったという事にならないでしょうか。
 ぜひ、ご意見を伺いたく、ご連絡させて頂きました。

 
  (樹童の感触)
 
 近江の浅井直の出自・系譜がどうなのかは、確認できるものがなく、残念ながら不明です。中世浅井郡の豪族で見える浅井、丁野、柴田、伊部、中野、河毛、月瀬、大橋、山本、岡崎等の一族も橘姓ないし物部姓といいますが、本来は古代浅井直の族裔かともみられます。
 物部姓でいうと、近江に物部連の同族があり、美濃には東部の三野後国造、三河の三河国造が物部氏族ですし、美濃国西部の大族・三野前国造は物部氏族と同祖関係にある鴨県主の分岐とみられます。
 近江の浅井直について、物部との関係を考えるのは、「直」という古代国造に多く見えるカバネをもっていたこと、古代物部氏族の後裔の多くに橘姓と称する例がかなり見えること(駿遠や熊野、伊予など)からの推測です。その一方、近江では湖西に渡来人系統の大友村主・志賀史・穴太村主などが繁衍し、その一族の可能性がある穴太氏が坂田郡にも有力な豪族として見えることから、浅井直をこの同族ではないかという見方もあります。
 
 貴信に見える三河国設楽郡の浅井氏は、はるか昔の古代に美濃東部から三河の北方の山間部を経て入ってきた可能性がありますから、三野前国造か三野後国造かの同族だったのではないかと思われます。この浅井氏が阿倍氏族と称したのは、近江との縁があったことを伝えていたのかも知れません。近江には佐々貴山君など阿倍氏族が繁衍しましたが、浅井氏が阿倍氏族だというのはカバネからいって無理ではないかと思われます。
 稲置壬生公というのは、稲木に関連してのことだと思われ、垂仁天皇の子と称する大中津日子命(鐸石別命)の後裔に稲木別・稲城壬生公という姓氏があって、尾張国丹羽郡稲木郷に居住したと伝えますから、この関連があったのかもしれません。春田は治田連の後で、この氏は彦坐王後裔と称する氏族であって、近江や尾張国海部郡に居住が知られます。浅井氏も尾張国中島郡などにあったことが知られますから、稲木の浅井氏は尾張との関係がありそうでもあります。 
 
 設楽郡の浅井氏は三河に来た時期が相当違うとはいえ、浅井橘六実宗とは遠い先祖が同族であった可能性があると思われます。
 
 (2011.3.17 掲上)


    もとの論   江北の浅井氏一族とその先祖  

    関連する応答  浅井三代                   掲示板・応答板へ  


       ホームへ     古代史トップへ    系譜部トップへ   ようこそへ