□久野氏・原氏の一族 (問い) 久野氏は華族にはなれなかったと聞きますが、この話は本当ですか、また、原氏の為憲流藤原氏説についてどのような疑問点があるのか、という旨のご質問です。 愛知県在住の方より(02.2.16受け) (樹童からのお答え) 1 久野一族の系図は『尊卑分脈』にごく一部掲載されますが、平安後期〜江戸前期の歴代を記す系図は『姓氏家系大辞典』にも記載がありません。管見に入ったところでは、『浅羽本系図』(水戸彰考館・東大史料編纂所等に所蔵)に「久野系図」があり、これが最も詳しいものかもしれません。この系図等を踏まえて、以下の記述をします。 2 『尊卑分脈』に記載の最後に置かれる久野三郎清宗以下は、直系のみを記すと、その子清成(正平六年〔1351〕尽軍忠)−その子宗政−三郎右衛門(実名不記載)−忠清−宗弘(兄弟に文明八年塩貝坂討死の清憲)、と続きますが、その次の世代に挙げる宗忠(永禄三年桶狭間討死、二十四歳と記すが、これは宗忠の子の元宗の記事か)との間に数世代の欠落があると推定されます。宗忠の次は養嗣宗安(宗能。宗忠の妹が同族宗重に嫁して生んだ子で、宗忠女婿。今川氏真の命により相続)−宗秀(佐倉城主、慶長元年伏見にて死、四十三歳)−丹波守宗成(仕大納言頼宣卿、寛永二年十二月二十九日卒四十四歳)−宗晴(外記従五位下)−丹波守宗俊(宝永三年五月於紀州卒)、とあります。 3 久野・原・橋爪の三氏はいずれも遠州の地名に因り起こる氏であり(それぞれ周智郡久野、佐野郡原、長上郡橋爪)、駿河の駿東郡原に起こる原氏があっても、これとは別の氏で、みな古族(物部氏族の久努国造か)の末裔かと思われます。周智郡や佐野郡等には、久野を名乗る祠官家・庄屋が多くあります(『静岡県姓氏家系大辞典』)。『尊卑分脈』の為憲流系図では、駿河の原氏に遠江の原・久野・橋爪三氏を接ぎ木したものと考えます。久野氏については、世代数が足りない形で接合されていると考えます。江戸期の佐野郡本郷村(掛川市)の八幡社神主家に原氏があります。原一族の寺田氏も、向笠村(磐田市)の六所神社神主や熊野権現神主を出しています。 太田亮博士も、為憲流の久野氏は駿河国安倍郡久野(久努、久能)より起るもので、遠江久野氏とは別ものとし、遠江久野氏はおそらく久努直の裔なるべしと早くに指摘しています。 4 遠州の原氏では、東寺文書により元徳三年(1331)時の遠江国原田庄細谷郷地頭の原小三郎忠益が知られます。原忠益は『尊卑分脈』に記載の最後に置かれる彌三郎範忠の孫(忠泰の子)であり、その子忠清−忠政−忠頼−頼景(遠江守、文明年間)−頼方−頼郷−頼延と続き、頼延のとき武田氏に属して、元亀四年徳川方石川家成・久野宗能等に攻められ没落したとされます。 一方、『尊卑分脈』では工藤大夫維仲から原氏の系図が始まり、原権守師清から四代目の原三郎清益までは駿河の原氏だとみられます。原三郎清益は『源平盛衰記』に駿河郡原邑にあったと記され、また一ノ谷合戦では源義経に従い、曾我兄弟討入りの際には疵を負ったと記されます(『東鑑』など)。分脈には清益の子に記す右兵尉忠安は、『東鑑』に原左衛門尉忠康と見える者(承久三年十二月〜暦仁二年に見)とみられますが、同書建長二年(1250)三月の閑院殿造営時点には原左衛門跡とありますので、既に死去していたことが知られます。『東鑑』の記事からは、忠康の出身地は直接には知られませんが、この閑院殿造営工事では次に浅羽の人々があげられるので、遠州浅羽庄司と近い地に居たことが考えられます。おそらく、実際には清益と忠安(忠康)との間に断絶(接合)があったのではないかと推されます。 なお、前掲の久野系図では、久野宗政の弟に中四郎宗雪・原四郎為重(その子に原五郎大夫、子孫ありと記す)が記載されますから、久野氏の一族に別の原氏が出たことも知られます。 5 久野氏が明治に華族にならなかった事情は、明治史までは手が回らない私には不明です。 同じ紀州藩では家老であった安藤氏(紀伊田辺3.8万石)、水野氏(紀伊新宮3.5万石)が明治17年に男爵となり、重臣で1.5万石取りの三浦氏も明治33年に男爵になり、他の雄藩でも万石取りの武家の多くが華族に列したことの対応からして、伊勢田丸で万石を領していた久野氏が同様な処遇を受けてもしかるべきであったともいえそうですが、……。 なお、久野氏は紀伊藩では初代宗成以来8500石を領していましたが、第六代の近江守暉純の代、寛政7年9月に1万石に加増され、第八代の純固のとき明治維新を迎えています。 (02.2.17に掲示) (上記へのご返答) 件名:Re: 久野氏等について 受信日時:20 Feb /2002等 (樹童の考え) 貴メール、拝見しました。いくつかの点で、私には大きな疑問がありますので、以下に順不同で記させていただきます。 ○久野氏の系図 久野氏関係の系図はきわめて少ないようで、松下重長等編『改選諸家系譜』を見ても、久野三郎左衛門宗能(宗安入道)の父とする久野八右衛門宗明から始まるくらいで、直系で八代続けて某(少名千松、久野丹波守 従五位下)に至る簡単なものにすぎません。従って、管見に入った限り、浅羽本系図よりほかの史料では、戦国期より前の時期の系図は知られません。 本家・嫡流筋に古来の系図・文書が伝わらず、かえって早くに分かれた分流にそれらが伝えられた例が往々に見られます。久野氏も、宗能の子の民部少輔宗秀(宗朝)が横死して改易されており、そのときに保有史料が散失した可能性があります。岸和田藩家老久野家(私にはどの流れなのか分かりませんが)が遠州久野家の嫡流(何をもって嫡流というのかも不明)であるといっても、その保有する古文書で古いものはないのではないかと思われます。 ○浅羽本系図は疑問か? 享保六年(1721)の序がある日夏繁高の著作『兵家茶話』(別名『同志夜話』)では、「近世系図知りといふもの有て、諸家の系図を妄作して其祖を誤る人は甚多し、是浅羽氏(浅羽成儀親子)が始る、松下重長ついで諸家の系図を偽作す」と記し、次に多々良玄信・沢田源内を偽作したとあげます。しかし、日夏繁高が系図の専門家であったはずがないので、これは見聞に基づく表現にすぎないと思われます。しかも、偽作がかなり明白なような多々良玄信や沢田源内と同列に扱われては、浅羽成儀親子や松下重長は不本意ではなかろうかとも考えられます。 松下重長は元和頃十八歳で大坂の陣に従軍したとされ、『諸家系譜』若干巻を著します。のちに藤田子家がこれを得て大幅に増補し合わせて百余巻となって、享保五年に藤田の師・青山隠士が序を書いたのが、前掲の『改選諸家系譜』だとされますから、これをもって重長が偽作者といえるのでしょうか。重長のほかの著作では、『老士物語』が知られるくらいです。 浅羽三右衛門成儀は幕府の書物奉行で系図を勘考したと伝えられますが、その系図疑惑を沢田源内と同様に考えるわけにはいくまい、と青山幹哉氏が記述されます(『歴史学事典』第八巻、184頁)。もっとも、これは系図作成の依頼に応じて、偽作部分を含む系図を作成したことを否定するものではなさそうでもありますが。 『浅羽本系図』は成儀の嫡子昌儀が徳川光圀に仕えて系譜の整理にあたり纏めたものとされ、現在水戸彰考館に保管されています。歴史研究が盛んだった水戸藩において、偽作系図を製作したとは思われません。中世系図一般に問題があるにせよ、浅羽本系図が偽作系図集とみるのには、無理があると思われます。具体的な偽作の指摘も、管見に入っておりません。 ○遠江の久野氏の発生時期は何時か? 『中興系図』(後述)や浅羽本久野系図等を見ても、久野氏の祖が六郎宗仲であることは異説が見られません。この宗仲が何時の頃の人かというと、浅羽本久野系図や『尊卑分脈』の記述からいって、十三世紀中葉の人と推しています。 その子の四郎忠宗は、史料にほぼ傍証されます。奥州平泉の中尊寺経蔵文書に、乾元二年(1303)閏四月二二日の朝賢置文があり、それに拠ると、弘安年中(1278〜88)に中尊寺の経蔵別当朝賢は別当職を弟子の「遠江国久野四郎兵衛入道子息乙増丸」に譲り相承次第証文などを渡したが、のち乙増丸が還俗したので、これらを取り戻したというものです(『静岡県の地名』)。年代的にみて、四郎忠宗と久野四郎兵衛とは対応するとみられます。乙増丸は三郎清宗に当たる可能性があります。 久野郷はたしかに国衙領でしたが、『熊野速玉大社古文書古記録』の「遠江国国衙領注文」からみて、既に鎌倉末期には熊野山新宮の造営料国となっていたとみられており(『静岡県の地名』)、これが十三世紀中葉頃からそうした状況であれば、この地を苗字として名乗る武士が出てきても不思議ではないと思われます。 次に、貞治年間(1362〜68)のものと推定される「一万首作者」(水戸彰考館蔵)には、「久野三郎左衛門沙彌蓮阿」「久野下総守宗明」が見えるとされます。鎌倉後期から室町期の久野氏の当主は「三郎」ないし「三郎左衛門尉」を名乗る例が多く、浅羽本久野系図で中四郎宗雪の兄にあげられる宗政(三郎、兵部丞)かその父に「三郎左衛門沙彌蓮阿」を比定してよかろうと思われます。「沙彌蓮阿」は、ご指摘のように元徳三年(1331)の東寺文書の細谷郷関連でも見えますと、細谷は佐野郡原荘のなか(現在の原谷の一部)ですので、遠江国の地名です。 以上見てきたように、遠江久野一族は発生段階から「宗」を通字としており、同じ遠州で南方近隣に居住の浅羽庄司宗信(『東鑑』養和元年・文治元年条)と同族であったとみられます(これに対して、駿河の称為憲流藤原氏は、かなりの部分を廬原国造後裔の入江一族が占め、通字は「清」としていた)。 また、『東鑑』の康元二年(1257)正月・二月条、及び翌正嘉二年(1258)正月条に、合計三回、「原田藤内左衛門尉宗経」が見えますが、これも遠江国佐野郡原田郷(久努郷の北東近隣)に起こる原田氏で、遠江の久野一族かと推されます。原氏と原田氏とは同族とされます。宗経はもてなしの際に御馬・弓を担当する形で見えますが、そのうち二回が太宰権少弐(武藤)景頼と同じく行動することに留意されます。少弐武藤氏は遠江起源とみられます。 ○「久能」の表現で駿河か遠江かを決められるか? 太田亮博士もいうように、古代の久努は久野・久能の双方に通じるものと思われます。 中興系図には、「久能、藤、武智麿九代、遠江権介為憲の八代・六郎の後なり」(六郎は六郎宗仲と同じか)と記されます。貴メールにもありますように、「初代遠州久野城主の久野宗隆の位牌には久能佐渡守藤原宗隆と書かれています。この遠州久野氏は戦国時代に名字を久能と表記した例が多々あります」ことは、それで構わないと思うのですが。「江戸時代の遠州の医者・山下熈庵が書いた『古老物語』によれば、「久野苗氏 遠州ハ久野 駿州ハ久能」」という記事は、頼りになる基準とも思われません。 ちなみに、鎮西にも久能氏があり、永仁七年(1299)の「鎮西引付」には鎮西探題の引付の一人として久能左近将監が見えると『姓氏家系大辞典』に記されますが、これは少弐武藤氏の配下で遠江から赴いたものかと思われます(上述を参照)。 ○久努国造後裔説の証拠はあるのか? 駿州・遠州の古代国造の系図は廬原国造を除いて今に伝わらず、直接的な証拠はありません。一般に、その地の古族の後裔は古社を奉斎することが多く、久野氏一族も多くの神社祠官家を出しております。久野氏が久野城を構えた鷲巣とその隣の久能は古代久努郷の中心地域であり、古代久努国造の嫡流が居るに相応しい地と考えられます。山名郡式内の郡邊神社は、比定に諸説あり、袋井市高尾字赤尾の赤尾渋垂(郡辺)神社に比定する説もありますが、私は鷲巣の八幡神社ではないかと考えています。国本(旧久津部村)の八幡社(七ツ森神社)に比定する説もあります。 鎌倉初期の大族、浅羽庄司はその系図が不明で、国衙の在庁官人であり、田所職を務めたなどの事情から古族の後裔とみられますが、その同族と上掲で考えた久野氏も、同様とみられます。遠江でも為憲流藤原氏と称する諸氏がありますが、井伊・相良などをはじめとして、系図にはみな仮冒があります。遠江の久野氏の系図も同様に仮冒と考えられます。橘紋を用いたり、橘姓を名乗る武家が遠江にはかなり見られますが、これら諸氏は橘姓と称する伊予の新居氏同様、物部一族(すなわち、遠江国造及び久努国造の一族)の後裔と見られます。 ○久野(久能)氏が駿河から遠江へ移動した可能性はないか? 隣接の国とはいえ、駿河から遠江へ移動したことは、源平争乱など大きな契機なしには殆ど考えられません。今川氏親の時代という、そのような遅い時期の遷住で、多くの神社の祠官家を出すことはまず考えられません。そもそも、駿河の久野氏の存在すら、確認されるものは管見には入っておりません。 尾州知多郡加木屋村庄屋の久野氏は、今川義元に仕えた初代栄邑の子に「宗」を名にもつものが二人おり、その後にも「宗」を名にもつ者が出ているので、遠江久野一族とみられます。その第三代は熊野権現を造営したといいますから、これも物部一族の後を傍証します(駿河の廬原国造後裔なら、海神族系なので熊野権現奉斎は考え難い)。渡来系の秦氏後裔のはずがありません。 なお、秦氏の一族が駿河の草薙山に居住したという所伝も根拠がありません。『久能寺記』等の所伝を裏付けるものはありません。加木屋の久野氏が秦の始皇帝の後裔、功満王の子孫だという所伝は、全く疑問ですが、遠州榛原郡の名神大社敬満神社が功満王を祀るという説もあり(これは誤りと考えます)、この辺に関係があるのかもしれません。 (02.2.23に掲上) (※この応答の続きがありますが、長くなりますので次頁に記載します) 応答板へ戻る 次へ |