□ 加藤清正の先祖と一族 (問い) 加藤清正のルーツ及び、清正の子孫(子供が何人で名前が何かなど)を調べていますので、教えてください。併せて、加藤氏について概説も望みます。 (樹童からのお答え) 1 加藤清正の子女には、熊之助忠正(九歳で夭折という)、某(夭折)、肥後守忠広(幼名虎松、虎藤)の三男子と、阿部修理亮正澄室(初め榊原康勝室)、紀伊大納言徳川頼宣室の二女子がいたとされますが、このうち正室清浄院(水野忠重の女、徳川家康の養女)所生ともいわれる忠広が嗣子となりました。<以上の部分は、ご指摘を受け再考して当初の表現を修正しましたが、その事情は下記応答をご覧下さい> 嫡子となった忠広の子には豊後守光正(一に光広)のほか虎竹(沼田真田家に預けの正良と同人か),二女子という子があったと伝えます。豊後守光正は飛騨配流の途中,15歳ほどで自害し,正系は断絶します。 また,忠広が出羽庄内に流されてからの子女として,熊太郎と一女子があったと伝え、その後裔が山形県に現存するとされます。後になって、有徳院将軍吉宗は享保年間に加藤清正の子孫を召し出し旗本としましたが,加藤寅之助に禄千五百石を給した(『肥後国志細注』)とも、加藤虎松に禄五百石を給した(『閑余漫録』)、とも記されます。 2 全国の加藤氏については、太田亮博士が『姓氏家系大辞典』カトウ条に概観的に記述されておりますので、ここではその記述を踏まえて記しておきます。また、愛知県の加藤氏の概観については、『角川日本姓氏歴史人物大辞典 23 愛知県』をご覧下さい。濃尾には多くの加藤氏の一族が居たことが分かります。 一般に「加藤」という苗字は、利仁流北家藤原氏から出たとするものが最も著名で、利仁将軍の孫吉信が加賀介となって、その子孫が加藤を号するようになったとされます*1。この吉信の孫とされるのが貞正であり、この者が実際の加藤氏の始祖とみてよいように思われます。 藤原貞正は『小右記』永祚元年(989)七月条に見えて実在が確認される人物で、それに拠ると、「滝口藤原貞正、帯刀藤原為延同意シテ敵三国行正ヲ射殺」とあります。すなわち、『尊卑分脈』に従兄弟とされる越前押領使為延(斎藤・進藤の祖)と組んで、敵に当たる越前の三国行正と争っていたことが知られます。貞正には太郎正重、二郎忠正、三郎親孝がおり、三郎親孝は、源頼信の乳母子で上野国司のときに随従した名高き武者の兵衛尉藤原親孝として『今昔物語集』巻25ノ11に見えます。 二郎忠正の子(『尊卑分脈』では正重の子とする)の修理少進景道とその子景季は、源頼義に従って前九年の役に参加し、両者の名が『陸奥話記』などに見えます。景道の子景清(一に景貞。実は能因法師橘永トの孫で、養子という)の子の五郎景員(『尊卑分脈』ではこの一代が脱漏*2)は伊豆狩野に移住してそこで狩野介茂光の妹婿となり、その子加藤太光員・加藤次景廉とともに源頼朝創業の功臣として『東鑑』に見えます。その功績により、加藤一族の勢力は大きく増加し、景廉の諸子とその子孫は全国各地に展開します。 すなわち、景廉の長男太郎景朝は美濃国恵那郡遠山荘を賜って遠山氏を名乗り(美濃苗木藩遠山氏の祖※下記参照)、その弟の六郎景長、七郎景義、八郎尚景などの加藤一族は『東鑑』に多く見えております。このうち、六郎景長の子孫が孫六嘉明(近江水口藩祖。三河の加藤氏)、七郎景義(あるいは加藤太光員の子の光定)の子孫が作内光泰(伊予大洲藩祖。美濃の加藤氏)とされております。 3 一方、虎之助清正の系は、同じ藤原姓でもこれら加藤氏とは別系とされますが(尾張の加藤氏)、御堂関白道長の後裔であって権中納言忠家の次男で美濃に下向した加藤武者正家の流れといい、正家の後は「家久−長頼−三高−三虎−虎時(虎村)−義時−正時−正吉−頼方−清方−清信−清忠−清正」とされ*3、頼方の代から愛知郡中村に住んだと伝えます。白石の『藩翰譜』でも一説として、この系譜の概要を記しています。 ところが、「道長の後裔で権中納言忠家の子の加藤武者正家」という系図がいかなる史料にも確認されず、道長から権中納言忠家に至るという系譜*4にも多くの混乱があって、とても信拠できません。そのため、清正以前の系図は、のちの創作で、豊臣秀吉と同じ尾張国中村の農民の子だったのが、藤原北家につながる系図を作り上げたものだろう、という見解も見られます*5。森山恒明氏も、この系図について「相当吟味さるべきである」と評価しております(『国史大辞典』)。 それでは、どう考えたらよいのでしょうか。最近の研究では、秀吉の生家はたんなる農民ではなく愛知郡中中村の名主級の家とされており、その通婚した諸家(加藤、福島のほか小出、青木、杉原など)もみな小土豪クラスとみられてきているので、清正の系図をまったくの偽作として片づけるのは、問題が大きそうです。 4 加藤正家という者を系図関係で見たのは、宮内庁所蔵の『中興武家諸系図』巻七の「加藤系図」が最初でした。そこでは、遠山景朝の子に景定(加藤太郎左衛門)、景正(加藤次郎左衛門、濃州牧村城主)、景永(遠山美濃守)の三人をあげて、景定以下は景元−正元と続け、正元の子に女子(国司忠家嫁)・美濃守正清・正頼をおき、美濃守正清の子に加藤正家が記載されています。 当初、私は、この系図に現れる正家が清正の祖先ではないかと推したものです。しかし、美濃の加藤遠山一族の系図について信頼性が高い「加藤遠山系図」*6には、景定(加藤太郎左衛門)以下の人物が全く見えず、『中興武家諸系図』所載の「加藤系図」は信頼性が乏しいと判断せざるをえないと考えるようになりました。 5 次に気づいたのが、中田憲信編『諸系譜』に所載の加藤系図であり、同書第九冊ノ一及び第十冊ノ三に掲載のものを合わせて考える必要があります。 それに拠ると、加藤正家から正吉までの九代がそのまま同系譜に登場し、尾張熱田の名家加藤図書助家の支族として位置づけられています。熱田加藤氏とは当地の名族で、東加藤(図書助家)、西加藤(隼人佐家)の両家があり、東加藤の順盛は家康を幼時預かったこともあります。この加藤氏は加藤次景廉の子の六郎景長の子孫ともされますが(『張州雑志』など)、これは『諸系譜』所載の同上加藤系図に拠ると景長の七世孫景政が加藤図書助景任の養嗣となったからということです。 この系統の加藤氏は、上掲『今昔物語集』に見える右兵衛尉親孝の後裔とされており、親孝の曾孫余三左衛門尉重景は『平家物語』に見えます。その子の四郎左衛門尉景正は尾張国法勝寺領下司となり、のち道元禅師に随って入宋したと系図に記されますが、鎌倉前期の陶工として名高い藤四郎景正のことで、尾張国山田郡瀬戸村に住して瀬戸焼物の陶祖とされています。いままで系譜が知られなかった藤四郎景正の系譜が、ここで分かるわけです。 景正の子の代に、四郎正信と八郎左衛門尉景業で二系統に分かれます。後者の子孫が熱田の加藤氏となり*7、前者の子孫が加藤清正とされます。四郎正信(法名春慶)の子孫は陶芸を伝えたものと考えられますが、系図に註記がないのでその辺の事情はよく分かりません。四郎正信の子が四郎正知で、その子が次郎春景と三郎正家と記載されます。ここで、やっと清正の先祖とされる正家が登場することになります。三郎正家の子の三郎四郎家久・伊勢守長頼親子のころが南北朝期にあたるとみられますが、当時の史料にはこの加藤一族の活動は見えません。 三郎四郎家久以降は上掲の系譜に合致しますので、その系譜に問題がないかというと、実はそうでもありません。仔細に検討してみると、愛知中村に定住したという頼方の位置づけが不明となっています。すなわち、上掲では「正吉−頼方」と続けられる正吉が頼方の父とは考えられないのです。「正吉−頼方」と続けると、期間に比して世代数が極めて多くなることに加えて、別の系図には正吉の子には新左衛門正弘・僧円真があげられて、子のなかに頼方が見えないという事情にあるからです。 いまのところ、頼方の父祖は不明な点もあります(*8参照。後に追補記事もある)。父祖の可能性としては、@伊勢守長頼の弟として系図に見える五郎左衛門家方の子孫か、A長頼の曽孫の宮内少輔・二郎虎村の子孫に当たるのではないかと推しています。なかでも、Aのほうに傾くことになりますが、それは、先祖の頼方が宮内少輔と号したと伝えること、虎之助清正・虎藤忠広の「虎」の名から考えると、世代的には頼方を宮内少輔虎村の子(孫二郎義時の弟)におくのが妥当なように考えられます。頼方は応仁の乱頃に中村に来住したと伝えますが、虎村の従兄弟藤二郎正房の子の二郎兵衛尉正保が東山公の寵遇を受けたという譜註も同上系図にあって、時代が符合するからでもあります。 宮内庁所蔵の『中興武家諸系図』第43には、「正家−慈円−次郎家虎−頼方」と記されており、この「次郎家虎」が二郎虎村と同人かその弟に位置づけられることになります。この辺り(同人説にやや傾く)がもっとも穏当なところではないかと思われます。 あるいは、Bとして、虎村の弟の四郎家正の子に頼方を置くことも考えられます。四郎家正の子には又四郎清家という者が見えて、清方から清正まで続く四代の通字「清」に留意されるからです。その場合は、頼方は清家の兄弟にあたるのか、頼方が「四郎」と号したとする『尾張名所図絵』愛知郡中村条の記述に着目すれば、清家と同人という可能性もあるもしれません。 なお、頼方が土岐一族から出て加藤氏の養子になったとする所伝*8があり、清正所蔵の槍の金具には桐と桔梗紋を刻んだ図示が『日本紋章学』にあって、信じてよさそうです。 6 愛知郡中村に落ち着いたとされる頼方以降の系は、割合簡単なものしか伝わりません。すなわち、清正の叔父に喜左衛門清重(五郎助。五郎八清国はその子か)がおり、清正の弟に三左衛門朝胤がいたと伝えるくらいで、一族の詳細が伝えられませんから、中村在住の段階ではかなり零落していた可能性も考えられます。とはいえ、清正の祖母が美濃刀匠関清次郎兼吉の娘といい、清正の母「いと」が刀匠清兵衛の娘とも御器所の関弥五郎兼員の娘ともいいますから、財力はそれなりにあったとみられます。この刀鍛冶の関一族を通じて、秀吉の家と結びつくことになります。 主計頭清正が肥後熊本五十一万石の太守に栄進したこともありますが、その家臣団には同じ加藤を名乗って一族とみられる人々がかなり多く見られます。その子忠広のときの家中の争いは、筆頭城代家老の加藤右馬允正方(右馬允可重の子*9)側と加藤美作守政次・丹後親子側との間で元和四年(1618)に生じましたが、これらは皆清正の一族とみられます。『姓氏家系大辞典』によると、加藤美作守は清正の従兄弟聟と記されますし、同書には加藤美作守の弟にあげる加藤清左衛門は後右馬丞とありますから、美作守と右馬允とは兄弟だったのかもしれません(誤記の可能性もある)。一説に、両者は従兄弟だったともいわれます。 忠広が出羽に配流になったとき、これに随った家臣のなかにも加藤を名乗る者があり、加藤頼母、加藤主水、加藤左平太があげられます。また、上記家中の争いの一方の当事者、加藤右馬允正方の子の左内正直は、幕府に召し出され子孫は五百石を知行する旗本となっています。 こうした一族の広がりからみて、清正がたんなる農民の出であったということはまず考えられません。現在までに至る清正族類の子孫もかなり多いものと思われます。 〔註〕 *1 『尊卑分脈』では吉信の玄孫に置かれる景道について、加賀介と註し「依為加賀介号加藤」と記しているが、景道が加賀介になったことは確認できず、おそらく景道の頃から加賀介となった先祖に因んで加藤と号するようになったという意味ではなかろうか。 *2 『尊卑分脈』に掲載される加藤氏の系図はあまり上質とはいえず、景員の脱漏のほか、忠正の位置にもズレがあり、また景廉の子に置かれる景経については実際は景廉の曾孫(行景の子)で系線の誤りがある。同書所載の他の武家系図も鎌倉末期ないし南北朝頃までの記載があることから考えて、これに信拠するのは注意を要する。 *3 中野嘉太郎編『加藤清正伝』、安藤英男編『加藤清正のすべて』でも、同様に忠家の子の正家から始まる系図を記載する。 *4 『改定史籍集覧』第15冊には「清正記」が所収され、そこには大織冠に始まる清正の系図が記載され、道長の後裔の摂関家から権中納言忠家が出たとされるが、きわめて混乱がある。例えば、その歴代を見ると、「良実(二条左大臣)−兼平(近衛)−家経(大納言)−忠孝(中納言)−師教(左大臣)−兼定(左大臣)−教藤(中納言)−教尊(大納言)」と続けて、教尊の長男が忠家とされるが、拙劣そのものである。 *5 『歴史読本』臨時増刊'84-3の「戦国大名家370出自総覧」の加藤(清正)氏の記述。このほか、『羽島市史』第一巻には、秀郷流の加藤氏から清正が出たという系図もみられるが、これまた疑問が大きいものである。 *6 比較的良本の加藤氏系図としては、蓬左文庫所蔵『諸士系図』に所収の「加藤遠山系図」があり、美濃の遠山一族に伝えられたもので、網野善彦氏が取り上げて『日本中世史料学の課題』で検討を加えているが、鎌倉初期の加藤五景員から始まるにすぎないことが惜しまれる。 *7 熱田の加藤氏の系図については、異説もあり、景正の弟の左衛門尉重則が祖とも伝える(『百家系図稿』第6冊)。同系図では、景正の子の藤四郎正信について、道元に従って入宋し法名道蓮とし、藤次郎正知に陶工、以下は「藤三郎−藤四郎春慶−藤五郎」と続ける。微妙な差異が両者で見られるが、陶工の加藤氏と熱田の加藤氏が景正の子孫であるということは変わりがない。 *8 鈴木真年翁は何に拠ってか、『史略名称訓義』の加藤清正の説明で、「祖土岐兵部少輔源頼定の庶子四郎頼方が、尾州中村に来たりて加藤新九郎景包婿となり、加藤氏を冒す」と記す。 いずれにせよ、頼方を清正の家の直接の先祖とする所伝があり、頼方の父祖探索が必要であるところ、東大史料編纂所所蔵の『宮城系図』には、土岐明智民部少輔頼秋・同下野守頼秀の弟に加藤四郎主計頭頼方が記載され、「成加藤三郎大夫正吉養子移住尾州仕斯波武衛家」とある。加藤頼方が土岐一族から出たという所伝は妥当だと思われる。〔この部分については、改編した〕 <追補> 『美濃国諸家系譜』第2冊所収の「加藤清正系図」では、明智城主明智修理大夫頼常の子で、刑部大輔頼房の弟が加藤四郎頼方だと記載する。明智修理大夫頼常が『宮城系図』に見える修理大夫国篤に相当し、刑部大輔頼房が国篤の子の下野守頼秀に相当するが、同書所収の「遠山家譜」にも刑部大輔頼房の名が見える。明智氏歴代の名が異なるが、官職名や事績・年代等からいって、加藤頼方が明智一族から出て、加藤正吉の養子になったということでは共通の所伝があることに留意したい。〔この部分は、06.7.10追補〕 *9 加藤右馬允正方は、もと片岡と名乗っていたが、清正により加藤姓を許されたとされる。 『姓氏家系大辞典』カタオカ条28項には、片岡系図が記載され、藤原正家の子の家久の弟に正光があり、これが片岡氏の祖で、「正光−正行−正氏−正高−重孝(改片岡)−正重−正義−正仲−正国−可重−正方(可重の甥の片岡兵次重泰の養子)−正見(左内)等」と記される。『諸系譜』には家久の弟は記載せず、弟に正信・正光が見えないが、片岡系図はほぼ妥当な系図ではないかと考えられる。ただ、「正高=重孝(改片岡)」という可能性はないだろうか。 清正の重臣、片岡右馬允可重・正方親子については、まったく別族たる清和源氏足助一族の出自とする系図(「足助族譜」で、中田憲信編『各家系譜』第1冊に所収)もあり、それによると、笠置山の後醍醐天皇忠臣足助二郎重範の末裔とされている。あるいは、この辺が妥当なところかも知れない。 (03.3.15 掲上、3.30、10.10、04.11.23追加補訂) <加藤清正とその子孫について> ○清正関係では、中野嘉太郎氏の『加藤清正公傳』(明治42年刊)が好著といわれているようです。 ○関係の論考・記述として、気づいたものでは、 ・佐藤清五郎氏が『旅とルーツ』誌に 「加藤清正と子孫の動向」(第67号、1994年) 「(子孫訪問)加藤清正の末裔 十四世孫加藤醇さん」(第77号、1999年) という記事を書いており、後者では忠広を初代として、第2代光秋、第3代道久以下現代の当主までの略系を記載しています。 なお、佐藤清五郎氏は、加藤清正の子孫探究ということで、日本家系図学会の平成七年度学術賞を受賞されています。 ・『別冊歴史読本』21巻27号「豊臣一族のすべて」1996年7月。これにも加藤清正一族が取り上げられています。 <清正の子女についての応答> (水野様より) 03.11.17受信 私は加藤清正夫人となった、清浄院のことを最近調べ始めているのですが、あまり、情報がありません。そんな時、貴HPにたどり着き、加藤清正の系譜を拝見いたしました。
そこで、加藤清正の系譜について、少々質問したいのですが。
清正の子供には三男子、三女子と記してありますが、二女子ではありませんか、一女があま姫で頼宣室、二女が榊原康勝にに嫁し、康勝没後、阿部正澄に再嫁ではありませんか?
定説的に清浄院は子を産まなかったと言う説が熊本地方における定説になっているようなのですが、私はこのところを疑っております。貴論文に清浄院所生の忠広とありますが、何か確証的な根拠がおありでしょうか、まだ確証はないのですが、どうも忠広の母は正応院、あま姫の母は清浄院という印象を持っているのですが、きちっとした確証がありません。何か解る事があればご指導ください。
(樹童よりのお答え)
1 実のところ、室町期以降の系譜や人物については、私は時代が下るにつれ相対的に弱いこともあり、先賢有識者に学ぶことが多いのですが、江戸期には様々な資料があるため管見に入るのは限界があり、従ってその過程で誤りもあると思われます。そのため、ご意見ご指摘をまっているものもあります。
さて、清正関係については、ご指摘を受けて、調べ直したところ、先に掲げたHPの記事は誤りが含まれていましたので、現段階までの分かったことを次に記します。 2 清正の子女については、いくつかの異伝があり、例えば、『姓氏家系大辞典』で太田亮博士は、一説として清正と竹之丸(菊池氏女)との間に四男子(しかし、同人の虎藤と忠広を別人にあげる誤りもある)、二女子(紀伊頼宣室、阿部修理大夫室)をあげますが、阿部猛等編『戦国人名事典』や『国史大辞典』では、清正正室清浄院の所生に忠広をあげています。
私が先に記した子女については、その当時、何に拠ったか記憶に定かではないのですが、安藤英男編『加藤清正のすべて』(新人物往来社、1993)のなかにある田井友季子氏著述の「清正をめぐる女たち」や同書巻末に掲げる清正関係系図では、『続撰清正記』『藩翰譜』『大日本史料』に拠るとして、清正の妻及び子女としては、@本覚院(菊池武宗女)所生の古屋姫(初榊原康勝妻、その死後に阿部正澄妻)、忠正、A正応院(玉目丹波女)所生の忠広、あま姫、B清浄院(水野忠重女)をあげます。
この記述の検討ですが、正応院は、忠広が出羽庄内に流された後、一年遅れで庄内に下り共に出羽の丸岡館で暮らしておりますから、その生母であったと考えるのが自然です。ご指摘のように、肥後では清浄院には子がなかったという所伝があるようですので、これも忠広生母を考える手がかりとなります。ただ、清浄院が清正の正室になってからは、忠広はその嫡子として清浄院の養子的な存在であったとも考えられます。@の本覚院の所生の子女については、問題がなさそうです。忠正と忠広の間の早世した男子については、生母が不明ですが、おそらく本覚院のほうではないかと考えられます。
問題は、あま姫です。前記の肥後での所伝は、「子」というのは世継ぎの男子に限定しているのか、一切の子がなかったという意味かという問題でもあり、また清正贔屓、豊臣贔屓で、徳川関係者を嫌うあまり、清正が清浄院を寄せ付けなかったもの「とみる見方」(と望む心理)、も肥後に生じた可能性があります。また、あま姫が紀伊家の頼宣に嫁した事情を考えれば、その生母が清浄院とするのがよいようにも考えられます。あま姫の生年を考えると、清浄院の子であったとして自然な年齢にもなります。 一方、あま姫は頼宣との間に紀伊家二代藩主光貞を生み、さらにその子八代将軍吉宗につながることを考えると、清浄院が晩年をあま姫のいる紀州ではなく、兄水野勝成のもとで過ごしたのは、やはりあま姫が所生ではなかったからだとも考えられます。
以上の両様の考え方で、なかなか判断がつきかねますが、現段階では、後者のほうにやや傾いているところです。佐藤清五郎氏も、『徳川実紀』などには清浄院に子供の生まれたという記録はありませんと記述しています。
3 なお、清正室の本覚院・正応院ともに肥後の国人の娘であり、その系譜は必ずしも明確ではありませんが、所伝等に拠れば次のように整理されるようです。
(1) 本覚院の父とされる菊池武宗(菊池香右衛門武国ともいう)は、菊池武朝の子で、佐々成政軍と戦い上益城郡福田左目神社付近で討死したといわれます。
(2) 正応院は、肥後南郷玉目(現阿蘇郡蘇陽町玉目)の住人で阿蘇家の家臣であった初代玉目丹波の娘といいますが、「蘇陽町誌 通史編」によると阿蘇大宮司の娘という伝えもあるとのことです。初代玉目丹波は、加藤家のお家騒動の時に、一方の加藤右馬允派が幕府に訴えて、会津の蒲生家に預けられております(「肥後国誌」)。また、二代玉目丹波の娘に法乗院がおり、清正の子の忠広の側室になっています。これも、母系の縁で忠広が室に迎えたとみることができます。
(03.11.21 掲上) ※美濃の遠山氏について 遠山太郎景朝に始まる遠山氏は、遠山荘の岩村、明照、明知、飯間、串原、苗木、安木などの地に分居し、それらの地名を名乗る諸家に分かれたが、このうち苗木の遠山氏の後裔が幕藩大名として、明知の後裔が旗本(遠山金四郎景元の家)として江戸期に存続した。
この遠山氏の系図について、網野善彦氏が名古屋蓬左文庫所蔵の『諸士系図』に収められた「加藤遠山系図」を取り上げて検討されているが(『日本中世史料学の課題』の第三章 「加藤遠山系図」)、最近では、早瀬晴夫氏が『肥前の龍と遠山桜』(新風舎、2300円+税)を刊行され、流布する関係系図を多数掲載して検討を加えられている。ご関心の方はご一覧下さい。
(03.12.23 掲上) (追補) 加藤清正の系譜は、『美濃国諸家系譜』第2冊「加藤清正系図」にも見え、そこでは遠山氏の加藤景光の三男加藤源太光高(三高に相当する人物。一説に加藤伊勢守長頼三男とも記す)から出たと記される。光高の子の光虎(三虎)が足利尊氏の時代の人で、その玄孫の正吉が加藤四郎頼方の養父とするものである。 また、岩村の遠山氏の系譜も、「加藤清正系図」の前後に「加藤氏之家譜」及び「遠山家譜」として同冊に掲載され、ともに明智一族との縁組みを伝える。すなわち、明智刑部大輔頼房の弟が加藤頼方であり、頼房の娘を室としたのが遠山景正だと記す。 種々検討を要するが、とりあえずは、こうした系譜所伝があることを記しておきたい。 なお、東大史料編纂所に謄写本がある『美濃国諸家系譜』については、岐阜の研究者・林正啓氏が注目されるが、他書に見ない系譜(しかも比較的信頼性がありそうな内容)がほかにもいくつかあって(例えば、豊太閤北政所の実家杉原氏など)、濃尾の中世武家諸氏の系譜には念頭においたほうがよさそうである。 (06.7.10 掲上) |
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