百済王三松氏系図に関する論考・史料紹介

                                             宝賀寿男


 上野利三氏の論考がかなり影響力があったと聞き、最近までの関連論考も併せて読んでみたところ、学究が関与したものとしては、その「杜撰」な内容に驚きました。そのため、近来ないほどの酷評を書き綴ることになった次第です。本稿は研究誌には未発表であり、文責を明確にするため、執筆者の名を掲げることとしました。読者におかれては、冷静に読んで判断していただきたいと希望しています。
  なお、私の誤解も多少あるかもしれませんが、もしご意見・ご批判等があれば、メールでのご連絡をお願いいたしたいと思います。既に寄せられたコメントは続けて掲載しています。併せてご覧下さい。


 

  一九八〇年代前半には、標記に関して次のものが相次いで発表された。
すなわち、
 @藤本孝一氏の史料紹介「三松家系図」(『平安博物館研究紀要』第七輯(1982))、
 A上野利三氏の論考「「百済王三松氏系図」の史料価値について」(『慶應義塾創立一二五年記念論文集〔第五〕、1983』)、
の二つである。次いで1986年には拙著『古代氏族系図集成』が刊行され、そのなかでも鈴木真年翁の筆写した同系図を基とした系図が掲載され、その関係資料も紹介されている。
  この三者の作業はそれぞれ独立別個に、しかも異なる視点からなされているので、互いに突合・検討することにより、総合的に百済王氏についての問題点検討や史料評価への手がかりにもなろう。最近、私は遅ればせながらこれら三つの資料・論考を合わせて手にし、奈良在住の三松様のご示唆もあったことから、同系図とそれに関連する諸論考・資料を改めて検討してみようとするものである。

  時間的に発表が最も早い藤本氏の論考は、忠実な史料紹介にほぼ徹している。
  当時、平安博物館講師(02年現在は文化庁美術学芸課主任文化財調査官)であった藤本氏は、同系図が重要な史料価値を有していると言われた、同館角田館長の命を受けて、その所在を探したところ大阪府立中之島図書館に架蔵されているのが分かった。これは、大正七年(1918)に枚方町長を務められた分家の三松俊雄氏により活字本化されたものであったが、その元本を所蔵される三松俊経氏(三松本宗家の継承者)に拝見させていただいたところ、竪系図の形で記載された「百済王裔三松氏系図」であったということで、復元的意味を含めてそれを活字化され、明治初期の栗原信充(生没年は1794〜1870)以来の経緯も紹介されている。
  それとともに、幕末・明治初期の三松太郎俊明(1817〜1977)が家の由来を記した『三松家由来記』(金沢市立図書館蔵)も併せて、同論考のなかで紹介されている。これらを活字化して所載された紀要では133〜153頁の掲載となったが、そのうち、経緯等の記述は最初の三頁だけで、あとは両史料そのものの紹介となっている。

  一方、上野利三氏の論考は、1976年に修士論文として作成した「百済王三松氏系図の批判的研究」を基礎に、全面的に補正し書き改めたものとされる。その記述は、本系図が厳密な史料批判を経てきたか等を概観したうえで系図考証がなされている。その際に、用いられた系図資料は、写本二(三松俊経氏所蔵本、同吉胤氏所蔵本)を実見したときのメモ、及び活字本系図(前掲の三松俊雄氏によるもの)とされる。
  これら資料を踏まえて、「系図に記載されている一つの記事、即ち、平安時代初め頃の三松家の祖とされる「百済王豊俊」の時に、同氏一族が百済王から三松へと改姓したという傍書の記述が、果たして事実に即したものかどうか、という問題」を考察する、と上野氏は述べられる。この検討を通して、「従来から通用している本系図が、真に史学研究上の材料として、使用に耐える価値を有するものなのか、改めて考えてみたいと思う」と当論考の趣旨を記述される。さらに、その註では、本系図は三つに区画される部分があり*1、その史料価値の検証も各々について行う必要があろうが、「本系図の史料価値を決する最大のポイントは、やはり前述の改姓記事の段に存すると思うのである」とも記述される。

  ところが、基礎資料としての上掲実見メモがかなり粗雑な模様であり、かつ氏の「姓氏苗字」の歴史認識が間違っているとあっては、その検討過程や結論が極めて奇妙なものとならざるをえない。上野氏は、同系図の「内容は甚だ杜撰であると言いうる」とまで低評価されるが、私は同論考を仔細に検討してみて、疑問な問題点や結論が多々あり、「甚だ杜撰」なものは却って上野氏の考察であったと考えざるをえない。
  こんな杜撰な論考により史料価値を貶されたとあっては、歴代、同系図を伝えてきた三松家の人々は、遺憾の念を強く感じられるのではなかろうか。同論考の指導教官は慶応大学手塚豊名誉教授及び利光三津雄教授(いずれも当時)とされるから、この両者の見識まで疑われることになる*2。また、上野論考を丸呑みして所見を述べられたり、典拠としてあげる学究もあったと仄聞して*3、古代史において適切な系譜研究が行われることの重要性を一層強く認識する。それが、この稿を記述する大きな契機となったものである。

 〔註1〕
*1 本系図の三つの区画について、上野氏は当然の前提としていてその区分・内容を明確にする記述はないが、おそらく、氏のいわゆる「百済王から三松へと改姓」という時点をとらえて、@始めの百済王始祖都慕王からわが国百済王氏の祖禅広までの部分、A禅広から三松氏の祖・豊俊までの部分、B豊俊から系図最後までの部分、という区分だと思われる。
  始めの部分は王辰爾の系以外はあまり参考にはならないが、ABは他に見られない系図所伝である。上野氏は主にBを批判してAの価値も認めないが、両者を別区分とするのであればそれは行き過ぎではないだろうか。
  私は、氏の「改姓記事」云々は大きな誤解と考えるが、傍系の流れの最後世代の位置等からみて、同系図が何段階かの成立・増補の時期があったと考えている。すなわち、豊俊の頃に(別家を立てて)まず成立し、B(a部分)その後は三松氏の系統で代々書き継がれ、B(b部分)文禄年中に先祖以来の地・中宮村から禁野村への転居して明治に至った、ということで、その各々がポイントであったとみている。その意味で、仮にBとくにa部分に問題があるとしても、Aの重要性は変わらないと考えている。勿論、系図一般に対する検討同様、個別具体的な箇所のそれぞれについては、十分な検討が必要なことはいうまでもないが。

*2 利光三津雄氏は、吉川弘文館版の『国史大辞典』で百済氏・百済王氏の項を担当されるが、そこでは比較的穏当な記述がなされている。しかし、「百済王三松氏系図」に触れずに、主要人物の系譜関係も推定的なものとして記述されているので、そこに利光氏の立場・見解があるものであろう。また、百済王氏が多数の百済系帰化氏族の対して一定の支配力を行使しうる権限をもったという認識は、利光・上野両氏に共通のようだが、これはほぼ妥当か。

*3 仄聞するところでは、そうした一例として、数年前、枚方で開かれた講演会があげられる。そこでは、東野治之奈良大教授が同系図について、「上野先生の所説の通り金で作られた系図」だという趣旨の発言をされたといわれる。これが本当だとしたら、多少とも名の知られた大学教授ともあろう御方が、なんと無責任な発言をされるものであろうか。上野氏は「百済王氏と三松氏との関連性を否定」するものの、それは系図の偽作性・後世性をいっているに過ぎず、「金で作られた系図」という記述は上野氏のどの論考にも見えないものなのだからである。


 

  上野氏が最も重視する人物・百済王豊俊については、その譜註(尻付、傍書)が諸本によって記事の若干の相違があるが、活字本の記載を取り上げて記すと、次の通りであると記載される。すなわち、
(イ) 延暦二年豊俊任造行宮使於百済王氏本居辺行宮御造営因詔令斎祀百済王祖神行宮辺、
(ロ) 庭前有古松三株世人因称三松遂為氏、
の二点である。
  その註記では、この部分の表現は、吉胤氏所蔵写本には(ロ)が先に記され(イ)も後半が「因詔百済王祖神于行宮傍令斎祀」となっており、俊経氏所蔵写本には(イ)の傍書がなく、(ロ)も「庭前有古松三株世人因称三松爾来為氏」となっている、と上野氏が記される(前掲藤本氏論考掲載の俊経氏所蔵系図でも、その通り)。
  じつは、ここは上野論考にとってたいへん重要な個所である。というのは、氏は『続日本紀』延暦二年十月条を参照して、「豊俊」の実在性を疑問視しているからである。すなわち、
 @同書には対応する記事があるが系図は漠然とした記述であり、しかも続紀の記事をはじめ当代の他史料には豊俊は全く姿を現さないこと、
 A世代的にみても、延暦二年十月条に見える百済王氏の人々(利善・武鏡・元徳など六人)より二世代ないし三世代も後ろに豊俊がおかれていること、
を理由として、「この矛盾は、系図自体の大きな欠陥を示すと同時に、豊俊の実在性の拠り所を根底より失うものと判断せざるをえない」とまで言い切っている。

  それならば、この(イ)(ロ)の表現が原本ではどうであったかを十分に検討を加えねばならない。それは、史料批判にとって全く初歩的な手順のはずである。
  上野氏が見られた系図資料に差異があったことは、先に述べた通りである。それでは、どれが最も古型であったのだろうか。常識的に考えても、活字本は大正七年段階のものであり、写本のほうが先に成立したものと考えられる。写本も、二本のうち本宗家系統に伝わるものをまず重視すべきではなかろうか。なぜなら、上野氏自身が、本宗家を受け継ぐ俊経家には「信充の自筆と覚しき「百済王三松氏系図」なる稿本が伝存する」と記され、信充真蹟との筆跡比較までされて栗原信充の自筆原本だと判断されている。繰り返すが、この写本には(イ)の部分がない、と氏が明確に認識されているのである。上野氏の豊俊の実在性否定の論理が滅茶苦茶なのは、これだけで見て取れよう。
  なお、この古型探索に当たって、信充の弟子であった鈴木真年翁が編纂した『百家系図』も大きな手がかりとなる。静嘉堂文庫所蔵の同書は明治前期の成立であるが、その巻五〇には、真年の筆跡で「百済王三松氏系図」が記載されている。それは、信充稿本*4をまず忠実に謄写したうえで、真年が続紀等の関係記事を書き入れている。そこで問題の豊俊の個所を見ると、「庭前有古松三株世人因称三松爾来遂為氏」とのみ記されており、おそらくこれが信充自筆本の形ではないかと考えられる。(イ)の部分は、明治初期の信充校訂後、大正七年までに竄入した記事と判断せざるをえない*5。すなわち、上野氏は史料批判の重要な基礎作業すら怠っていたのである。

  次に、上野氏とは視点を変えて、百済王豊俊の実在性を検討してみよう。
  平安前期において、九世紀初頭前後の桓武天皇から十世紀前葉の醍醐天皇まで期間の世代配分は、標準的なものとしていえば、一世代は25〜30年ほどであるから、五世代(皇室系譜は傍系相続もあって相続は錯綜するが、代表的な天皇を取り上げていうと、「桓武−嵯峨−仁明−清和−醍醐」の世代)となる。これを三松氏の人々の世代に各々世代対応をさせれば、俊行の死没が延喜三年(903)、その子俊兼が承平四年(934)と系図に記されるから、「教俊−豊俊−俊房−俊行−俊兼」の五世代となる。その場合、豊俊が嵯峨天皇の世代に当たるが、三松氏系図に豊俊の兄弟にあげられる慶仲が承和八年(841)卒、同じく慶命女が嵯峨天皇女御で嘉祥二年(849)の薨去、と六国史に記事があり、この点からも豊俊が嵯峨天皇の治世頃に主な活動をしたとみられる。
  以上のことから、豊俊が実在していたら成人として活動したとみられる時期は、概ね810年頃(嵯峨即位時期頃)から840,50年代だと分かったが、真年翁が師の信充とは別途に収集・整理した系図(以下に「真年翁整理系図」として記す)によっても、傍証される。この系図は、前掲巻五〇「百済王三松氏系図」の直後に記載される無題のもので、百済王昌成に始まる譜註なしの簡略なものであるが、百済王氏の末裔や楽人関係系図が少し附記されたりすることに注目される。
  そのなかに、豊俊の子・俊房については、「俊聡」と名のみが記されて「三代録九 貞観六年十月十四日伯耆守」と註記される。これは、真年翁が『三代実録』同日条の「散位従五位下百済王俊聡為伯耆守」とある記事を書入れしたものとみられる。百済王俊聡について、六国史初見は『三代実録』貞観元年(859)十一月条で、この時に叙爵(律令制の官制で従五位下に叙されること。下級官人を脱して中級となる意味が大きい)しており、その後は前掲の貞観六年十月十四日の任官記事があり、最後に元慶三年(879)正月七日条の叙位記事(和泉守百済王俊聡を従五位上に叙す)が見える。
  俊房と「俊聡」とは、訓で「としふさ」が同じであり、官位も従五位上で同じであるから、同人として差し支えなかろう。三松氏系図を考えても、名前等からみて俊聡を他の位置におくことは考えにくい。上記の『三代実録』記事からいって、仮に豊俊の実在性が確認できなくとも、その子の俊聡の存在でそれは傍証されるものと思われる。

  なお、系図には俊房について、「延暦十四年(795)十一月生、貞観十年(868)八月十六日卒七十四」と註記されるが、上掲の俊聡の官歴からいっても、これは俊聡の記事ではないことが分かる。誰かの記事が紛れ込んでいるとしたら、一世代ほど時期が異なるから、それは俊聡の父とされる豊俊の記事が後ろへズレ込んだ可能性が高い。先に見たように、「概ね810年頃から840,50年代」が豊俊の成年・壮年期だとみたこととほぼ合致する(多少、長寿ではあるが)。
  こう考えていくと、豊俊の系譜上の位置は三松氏系図と同じところに問題なく定まることになる。(なお、系譜の譜註が一代後ろへズレ込んでいたとすると、上野氏が重視した前掲延暦二年の記事(イ)も本来は豊俊のことではなく、その一代前の教俊かその父・俊哲の事績であった可能性がある。系図には、往々にして系線の引誤りや誤記があるものであり、これを取り上げて系図全体の信頼性を云々しても始まらないと思われる)

  豊俊が六国史に所見がないのは確かである。ここで想起したいのは、現存六国史には脱漏欠陥があるということである。豊俊が活動期であった時期を記録する『日本後紀』(記録期間は792〜833年)及び『続日本後紀』(同833〜850年)は、原書が早くに散失して現存部分があまり多くない。これは周知のことであり、国史大系本の両書の凡例にも記述される。そうしたなかで、百済王豊俊の記事も散失してしまったとみるのが自然ではなかろうか。
  豊俊の存在は上野氏がいうように重要である、と私は必ずしも考えるわけではないが、少なくとも、上野氏の否定論理がここでも崩れたわけである。

   〔註2〕
*4 信充稿本は三松家に残るもののほか、信充本人が所蔵したものなど数本あったことが考えられる。それは、後述するような信充と三松家との縁故関係からも窺える。鈴木真年翁が見た稿本には、三松家本には見えない戦国期の分家・親康の系統(その子康俊までは三松家所蔵本に記載がある)が明治初期まで記載されている。
 また、真年翁整理系図も、その出典が残念ながら記されないが、信充の遺稿・採集資料のなかから弟子の真年翁が書き出した可能性がある。
*5  (イ)の部分が何故、豊俊の記事として書き入れられたという事情は、三松俊明氏の著述した『由来記』を見れば、ほぼ分かってくる。すなわち、由来記では、「後には勘解由次官百済王豊俊を造行・宮使に任せられ」と記し、その後ろの段に、『続日本紀』の延暦九年二月条の記事を入れている。このため、俊明の後代の者がこれに惑わされて、信充校訂後〜大正七年までに豊俊に関する記事として系図に書き入れたものであろう。


 

  上野氏は、「系図では三松改姓後のこの氏族の官職・位階は決して低くないのに、その氏人達の事績が「正史其他」に全く現れてこないことを、どのように理解したらよいのか、説明できなくなる」とも記す。ここでも、註記して、「系図の豊俊以下の嫡系について、その最高官位を窺うと、俊房は正五位下、近江守、俊行は正五位下、和泉守、俊兼は従五位上、伊予守、等々となっており、各人堂々たる貴族として朝堂に列したことになっている」と記される。
  しかし、これも大正七年までに系図譜註の書換え(官位の上位方向への書換え。俊雄関係者の手に依るものか)があったようであり、真年翁書写の古型では、「俊房は従五位上、俊行も従五位上、俊兼は従五位下」(官職は省略する)と記されて、活字本よりも各々一段階下の官位で記されている。上に見たように、俊房(俊聡)の従五位上は『三代実録』により確認されるが、他は現存史料からは確認できない。だからといって、俊行・俊兼の官位について当時の史料事情からいって直ちには否定できない。ただ、その後、平安末期くらいまでの三松氏本宗の歴代が殆ど叙爵しているのは、史料に何ら見えないから、官位記事の信頼性がやや薄いとも考えられる。この辺の記述には多少の官位誇張があって、若干上位方向に書き込まれたか伝えられた可能性もないではない。しかし、せいぜいその程度の話しであり、このことをもって、三松氏先祖の歴代系図を否定できるまでには至らないはずである。
  上野氏があげる平安期〜室町後期までの期間の史料合計32に見える百済王氏(百済氏)の人名は、一人として三松家に所伝の現存系図に見えない。これについては、交野郡山田郷の百済王氏は唯一、三松家系統だけではなかったという事情が主な要因として考えられる。前掲真年翁整理の系図を見ても、子孫を残した系統は七つほどあげられる。これらいくつかの百済王氏の系統が交野郡にあって、中宮村の三松家だけではなかった可能性もある*6。

  中宮村には、百済王祠廟(現百済宮神社)と百済寺があって、一族の中心地であったことには違いがないが、これを祀ったのが三松家だけではなかったということである。
  国立史料館所蔵の小杉榲邨編『徴古襍抄』別本三に所収の史料が、その辺の事情を強く窺わせる。その史料「百済王基貞栄爵状」は、応徳三年(1086)十二月十三日に蔭子正六位上の百済王基貞及び同官位にあった五人(永末・正末・時方・清明・為基)と禁野別当従五位下百済王基行が署名しており、「御交野禁野司百済氏人等誠惶誠忠謹言」と記されている。その文中には、基貞の大祖父慶忠王、父基行王と見えるから、この系統が交野禁野司の別当職を代々伝えたことが知られる(居住地も禁野村か)。また、御即位・大嘗会・朔旦における百済王氏叙給の近例も具体的に十数例あげられ、大祖父慶忠王の叙給は寛弘八年(1011)十月十七日と記されるが、これは三条天皇の即位翌日である。
  百済王基貞については、上野氏があげる史料、応徳三年十二月十六日付けの「御即位叙位部類」(大日本史料三−1)から、禁野司小口で従五位下に叙されたことが知られるから、「百済王基貞栄爵状」の信頼性が分かる。基貞の大祖父・慶忠王の系譜は不明であるが、名前等から考えると、豊俊の長兄に位置づける従四位下慶仲の子孫とみるのが最も自然である。そうすると、交野の百済王氏の嫡系はこの系統であり、鎌倉・室町期まで時々叙爵記事が見えるのもこの嫡系の氏人に多かったものと考えられる。

  しかし、三松氏の系統に叙爵者が皆無だったかというと、実はそうでもない。上野氏があげる史料、『吉記』治承四年(1180)四月廿一日条に従五位下と見える百済王時里がそうである。「三松氏系図」には見えないが、真年翁整理系図のほうに時里が見えており(両者の記載は人名表記や位置づけで若干異なるが、俊行の曾孫で、勝生の父、勝見の甥に当たる人物と記される)、「従五位下、治承四年氏爵」と註記される。この時里は三松氏歴代にあげられない三松氏の人物としてよかろう。そうすると、三松氏の歴代も従五位下ないし正六位上くらいの官位を有していたことは十分考えられるのである。
  真年翁整理系図には、まだ貴重な記述がある。それは百済王氏から出た楽人系統の系図であり、三松氏本宗の興扶の弟・興貞から始まる六代ないし七代の系図である。興貞の次子成貞に「八幡楽人」として見え、以下その玄孫則貞まで五代にわたり「楽人」の文字が記される。この系図を裏付けるのが、成貞の子・近貞とその子・貞時の存在である。
  貞時は『楽所補任』に百済貞時と見えて、「天承元年八月任左衛門府生、年四十七、篳篥吹、京八幡楽人、右衛門府生近貞男」と記載される。また、「長承三年(1135)八月楽所上日解」にも見えて、「正六位上行左衛門府生伯済宿祢貞時」と記される。平安後期のこの頃になると、本来高かった地位のはずの「王(コニキシ)」の姓が忘れられてか、「宿祢」に変わっているのである。(こうした姓の変化事例はほかにもあり、末尾の附記でも記述する

   〔註3〕
*6 交野郡山田郷から応徳年間(1084〜87)に河内丹南に遷って鋳造業を営んだ百済馬之丞道正の系統があり、その子孫は豊中市内で「百済家譜」を伝え、また美作に分かれたとされるが(『姓氏家系大辞典』)、具体的な分岐過程は不明である。

 
 
  上野氏が重視する「(ロ) 庭前有古松三株世人因称三松遂為氏」という記事についても、考えてみたい。
  氏は随分力を入れてこの検討を行うが、実に失考かつ無駄な作業であった。というのも、「三松」を文字通り「氏」(姓氏の氏)と思い込んだということに原因がある。少しでも系図研究を行ったことのある人なら、時により、「氏」が姓氏の氏の意味でも、苗字(名字)の意味でも使われることが分かるはずなのに、頭から前者の「氏」と信じて疑わなかったようである。
  その結果、平安前期延暦頃の改賜姓の事例を六国史から十例も取り上げて、三松への改氏は当代の改賜姓の通則に合致しないと判断される。そして、「もし系図が真本であって事実を伝承しているならば、この通則に則った重要な記録が無視されるはずがなく、必ずやそこに記載されていなければならぬはずであろう」と上野氏は考える。また、系図では同氏がいかなるカバネ(姓)を称したかは述べていない、とも記される。三松(+王とか朝臣とかの姓)という氏姓も平安期以降の諸史料に全く見えず、多数の古文書には依然として百済王を称する人々が多数現れてきて、甚だ不可解とまで表現される。もうここまで来ると、「何をかいわんや」というほか私は言辞を知らない。
  つまり、「三松」とは姓氏ではなく苗字(当時の家の通称)にすぎないのだから、姓氏は一貫して百済王であったのである。従って、六国史等に三松の改姓記事が出てくるわけがない。こんな初歩的なミスに気づかない指導教官も、姓氏苗字によほどの不勉強だといわざるをえない。

  それでは、中宮村の百済王氏はいつ頃から三松を名乗ったのであろうか。一般に苗字の起りは平安中期ないし後期の頃からとされるから、豊俊の時代に「三株の松」があったとしてもそのまま三松を名乗ったとは考えられない。先に掲げた「庭前有古松三株世人因称三松爾来遂為氏」という記事も、まちがいなく後世の追記であって、世人が三松の家と呼び伝えてきたことに因んで、後世遂に苗字となったと解するのが妥当なのである。そして、この三松の家(流れ)とは、豊俊を始祖として百済王氏本宗家から分れた庶子家の流れであったと解されよう。
  その後世とは具体的に何時のことかという問題については、鎌倉後期・南北朝期頃の興継に「三松又五郎」と見えるのが三松苗字の初見であるが、これでは少し遅すぎる。それより前の時代を探すと、平安後期の康平三年(1060)に卒去した友実が「美松冠者」と号したと譜註にあり、この頃の「美松」が後に(平安末期頃か)訛伝して「三松」に変わったと考えるのが時代的にも適当であろう。

 
 

  「無知と誤解に因る自信」とは、げに恐ろしきものである。上野氏は上記のような杜撰な系図検討の結果、結語として豊俊を架空の人物と決めつける。そのうえで、「今後は、これを百済王氏の系図として、みだりに用いることは差し控えるべきであろう」「本系図に依拠して論が成されてきた既往の諸研究の中には、立論の拠を失い、そのために所説が崩れ去るものもあるであろう」とまで述べられる。ところが、上掲で見たように、上野氏の所説・検討はいずれも的はずれであり、従って『枚方市史』や今井啓一氏の著作集は依然として価値を失わないものといえよう。
  また、「正史其他の流布せる各種文献から、逆に系図を造作することもできるのであって、系図の価値を論ずる拠には到底なしえない」と上野氏は記述されるが、系図の造作は一般に考えられるほど易しいものではない。むしろ相当難しいものであり、それは多くの系図を批判的に見ていけば分かることであるが、上野氏はどうしてこんなに簡単に言い切ることができるのであろうか(関連する点は後述)。

  さらに、本稿の校正段階で、藤本孝一氏より前掲著作をいただいたことに触れ、「右論考において氏は、系図に一定の史料価値を認めておられるが、前述した私の結論には些かも変更の必要性は認められない」とも述べ、その自信のほどを示される。これはある意味ではまったくその通りであろう。すなわち、ここまで間違いが甚だしければ、些かの変更など全く無用のものである。たんに滅却すればよいだけなのだから
  ただ、ここまでは言い過ぎとして、上野氏の論考に多少の価値を認めるとすれば、百済王三松氏系図の諸本について伝来状況や経緯を調査のうえ書き記されたこと、古代・中世の史料に登場する百済王氏の氏人について整理されたことである*7。この辺は、研究者にとって便宜であり、十分評価しておきたいのだが。
 
  上野氏は「百済王三松氏系図」という宝の山に踏み込みながら、そこにある宝物に気づかぬまま、却って価値無きものと判断された。まさに猫に小判そのものである。
  明治初年の栗原信充は、さすが系図研究の大家だけあって、その価値を十分に認め、「家系を一見して打驚き斯くばかり由緒正しき家は海内に数多からじと、いたく嘆賞し自ら筆を執りて考証の事に従ひ」と三松俊雄編の活字本序文に記される。信充末年のことである。信充の三松家への惚れ込みようは甚だしかったようであり、藤本氏が紹介される三松氏の〔現代の系譜〕を見て驚いたことには、信充の孫・信優(早世した長男の次男)が、系図を信充に見せた三松俊明の養子かつ女婿となっている。そこに、信充の意向が強く働いていたと感じることができよう。その弟子の鈴木真年翁は、さらに関係する史料の発掘・整理に努めた。これらが現存することを幸いに思う次第である。

   〔註4〕
*7 古代・中世の史料に見える百済王氏の氏人に関する上野氏の整理であるが、『徴古雑抄』に基づく番号18・19は、氏も可能性として述べるように、周防大内氏の祖・正恒のことであり、金官伽耶王家の流れを汲む金海金氏の一族(多々良公姓)である。また、たんに「百済」と記される人々は百済王氏の一族ではない百済氏(宿祢・公・朝臣などの姓)の可能性もあろう。


 (附記)
  上野氏の論考には、他にもまだいくつかの誤りや疑問点があるので、いい加減あきれる次第だが、ついでに指摘しておきたい。

(1) 常陸の百済氏
  常陸府中の在庁官人で代々税所職・健児所職を世襲した百済氏(苗字としては税所・平岡両氏)がいる。その始祖は、吉田文書等から仁平元年(1151)四月八日の留守所下文に見える散位百済貞成であり、貞成以降の系図が中山信名編「常陸国在庁官人百済両家系図」(転写本が静嘉堂文庫に所蔵)に見える。次に、鹿島文書の治承四年(1180)七月十八日の同下文には散位百済朝臣が見え、これは貞成の子の税所政成に比定されている。
  この貞成の祖は天慶年間に将門の乱の当時、武蔵守の任にあった百済王貞連であり、貞連から始まる系図が鈴木真年翁編纂の『百家系図』巻九に「平岡系図」として見える。それに拠ると、貞連は武蔵守の前任が上総介であり(『類聚符宣抄』天慶二年五月十七日)、その子貞邦は上総大掾となり、その子貞澄は在地にあって平岡大夫と名乗った。平岡は上総国望陀郡平岡(現千葉県袖ヶ浦市東部)に因む苗字である。その後に初めて常陸国税所となった貞成(貞澄の曾孫)が出ており、その間の世代に若干数の欠落も考えられるが、流れとしては自然である。こうして見ると、上掲鹿島文書に百済朝臣と見えても、その本来の姓は百済王であったことが確認される。ここでも、平安後期に百済王という姓が転じて百済朝臣と称されていることが分かる。
  貞連の祖系は前掲真年翁整理系図に見える。貞連は、天平の敬福の兄・全福の子孫で、三松氏系図に見える善貞の子貞春の玄孫であった(系図において写本では貞春まで記されるが、活字本では貞春は記されてない)。上野氏の整理される百済王氏関係史料32のなかには、貞連に関する史料が延長元年(923)〜天慶二年(939)まで五つもあげられる。六国史の後の時代では、現存史料に最も現れる回数が多い人物であった。

  さて、上野氏は、前掲「常陸国在庁官人百済両家系図」について、註で次のように述べられる。
「右系図が百済王氏のものでないことは、その祖貞成がかっては飛鳥と称し、その子政成が百済朝臣と称していることから知りうる。なお、豊崎卓氏は、その著「東洋史上より見た常陸国府・郡家の研究」で、右記系図の百済貞成を百済王氏の後裔とみているが、これは明らかに失考である」
  上野氏の自信過剰ぶりはここでも現れる。豊崎氏は正答であって、まさしく百済王氏の出であった。平安後期には本来の姓を忘失して(当時の人がついていた官位官職の影響もあるかもしれないが)、別の下位的な姓を名乗る事例は、楽人の大神氏(本来は朝臣姓なのに宿祢姓と名乗る)などに類例がある。それを、文書表記に単純に依拠して、一方を直ちに誤りと決めつける愚をおかしているのである。
  まだ重大な誤りがある。それは、「その祖貞成がかっては飛鳥と称し」という点である。たしかに常陸には飛鳥貞成という人物がいた。しかし、時代が全く違う別人である。すなわち、『法華験記』には「仁和四年常州飛鳥貞成」、『元亨釈書』29にも「仁和中、常州飛鳥貞成、其家富贍」とあり、「飛鳥部宿祢の後にして、其の後裔を浅井氏と云ふ」とも記述される。飛鳥貞成の活動した仁和四年(888)は、常陸税所の祖・百済貞成の活動した仁平元年(1151)の三百年弱も昔のことであった。どうして、上野氏は史料確認をしっかり行わないのであろうか。ここでも、史料検討の基礎作業が疎かにされているのである。

(2) 個別の親族関係の問題点
  個別の人々の活動年代を見ていけば、百済王三松氏系図には、その系譜関係に疑問がある部分もないではない。それが数限りなくあるのならともかく、数か所の誤記(?)をもって直ちに系図の信頼性を疑うのは、むしろ疑問な姿勢といえよう。実際、どのような信頼性の高い系図でも長い期間の伝来のなかで誤記や系線引き違えなどは、殆ど避けられないものである(この辺の感触は、多くの系図を批判的に見てきた者にしか分からないのかもしれないが)。仮に、六国史の記事を見て系図造作をしたのなら、却ってこうした個所は現れないのではなかろうか。

  上野氏があげる疑問な個所を検討してみると、次のようなものである。
@ 太田親王の生母……上野氏は『系図纂要』『皇胤系図』により教仁(武鏡の娘)を同親王母として世代比較を行うが、この記事が正しいことは六国史からは確認できない。百済王三松氏系図では、俊哲の女・教法女に太田親王母と記されるから、これを否定した上で論じるべきではなかろうか。
  なお、「祖父−父−子」と三世代にわたる場合、祖父と子との関係は二世代の開きがあると一般にいうものであり、これを上野氏のような三世代とはいわないはずである(ほかにも、同様な独特の数え方の個所が見える)。

A 貴命女の位置づけ……これがおかしい可能性があるのは、年代的にみると上野氏の指摘の通りである。この女性は付近に見える聡哲か教俊の女であった可能性もあるが、三松俊明氏の記す由来記でも俊哲の娘とあって所伝自体は古いものであった。そうすると、俊哲の晩年に生まれた娘だったか孫を養女としたかの可能性も考えられる。この辺の事情はとくに史料がないので不明であるしかいえない。

B 駿河内親王を生んだ貞香女の位置づけ……これが年代的に疑問であることも、上野氏の指摘にある。この指摘を踏まえて、再考してみると、貞香女の父教徳からの一団は世代がズレているようにも思われる。おそらく、教徳は本来、武鏡の子で教仁の兄弟であったことも推される。この辺は、養子関係があったかあるいは系線の混乱かよく分からない。

C 玄鏡と元徳との関係……叙爵の年代からいって、宝亀六年(775)に叙爵の玄鏡が宝亀十年(779)の元徳よりも年長と考えられる。この年代の接近からいって両者は兄弟とみるのが自然であるが、命名からいうと、親子としても不思議ではない。あるいは、元徳は兄玄鏡の養子にでもなったか、別の系統か、この辺の事情は分からない。

D 武鏡と利善との関係……『続日本紀』延暦二年十月条の記事では利善のほうが上位にあるので、上野氏は利善が兄だと決めつける。しかし、両者の官位歴を見ると三松氏系図のほうが正しいと判断される。両者の叙爵は武鏡が天平宝字八年(764)十月で、利善の天平神護元年(765)閏十月よりも一年早いからである。両者は宝亀七年(776)正月、同時に従五位上に叙され、その後は利善のほうが先に昇進していく。おそらく、兄弟とはいえ能力的にかなり差異があって、昇進はそれを反映したものであろう。延暦二年十月の時点だけとって、長幼の序を判断するのは問題が大きい。

E このほか、上野氏が指摘しない問題点もあげると、百済宿祢永継の系図への混入がある。はじめ藤原内麻呂の妻となって冬嗣を生んだのち、桓武天皇の女孺となって良峯朝臣安世を生んだ女性は、百済王氏と別氏の百済宿祢姓(もと飛鳥戸造、百済安宿公)の出であった。それなのに、写本では百済王敬福の娘に掲げ、活字本では敬福の妹として記載されている。
 
  以上、活動年代だけから考えたとき上野氏の指摘が妥当そうに見えるものがかなりあるが、その指摘には誤りもあり、必ずしも誤りとは決められない事情もある。また、誤記と指摘する前に、当時の百済王氏の系図では養猶子関係があった場合どのように表現されたか、という問題点が解明される必要がある。従って、簡単に誤りと即断するのは、かなり問題があるのではなかろうか。いずれにせよ、史料の取扱いは精査のうえ十分慎重にありたいものである。

       (以上は、02.3.6 掲上)


  以上の見解に対して、畏友小林滋様からコメントが寄せられておりますので、併せてご覧下さい。それに対する私の考え方ないし回答も掲示しましたので、ともにご覧ください。      次へ


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