(当論考を読んで、畏友小林滋様よりコメントが寄せられましたので、これを掲上するとともに、併せてその応答も掲げます。 02.3.20)



   「百済王三松氏系図に関する論考・史料紹介」について

                                             小林 滋

T.はじめに
  このほど、貴兄の「百済王三松氏系図に関する論考・史料紹介」を、読みました。記載の内容は、精緻で素晴らしいという感じをうけます。それでも、いくつかの疑問点ないしは感想めいた事柄が思い浮かびました。といいましても、私は系図研究には素人ですから、十分な議論は出来てはおりません。その辺りのことを十分汲み取りのうえ、それぞれの点につき、貴兄の見解ないし感触を示されるとありがたいと考える次第です。

U.疑問点など
1.紹介文について
  こうした論考をHPに掲載する狙いとして、貴兄は、「上野氏の論考がかなり影響力があったと聞き、最近までの関連論考も併せて読んでみたところ、学究が関与したものとしては、その杜撰な内容に驚いた」ためと、最初の紹介文(貴論考の直前に記載されている文章)に述べられます。 
A) 先ず最初の「上野氏の論考がかなり影響力があった」という点ですが、これは、貴論考冒頭の「上野論考を丸呑みして所見を述べられたり、典拠としてあげる学究もあったと仄聞し」た、との記述を受けたものであり、具体的には「註*3」に記載されている事柄を指しているものと思います。
  そして、当該「註*3」において、貴兄は、「東野治之奈良大教授」の件(注1)を挙げられています。確かに、これは単なる「一例」にすぎず、他にも類似のことはいくつも起きているのかもしれません。ただ、私には、取り敢えず貴論考しか与えられておりませんから、この教授の場合しかわからず、仮にその一例だけだとしますと(東野教授には大変失礼かもしれませんが)、「かなり影響力があった」とまでいえるのかどうか、やや疑問に思えるところです(注2)
 
 (注1) HPの「ひらかた文化財だより」第41号(1999.1015)に掲載の「講演会」(9月18日)でのことを指されているのではと思われます。ちなみに、その演題は「百済王氏と枚方」であり、参加者は約90名とのことです。

 (注2) 東野教授は、元大阪大学教授であり、また昨今の聖徳太子ブームの際にはアチコチの講演に引っ張りだこだったようです。最近も、3月9日(土)の日経朝刊36面の文化面「現在に蘇る孝子伝」において、東野教授の見解が紹介されていました。そうであれば、貴兄のおっしゃるように、同教授の言動には、古代史学界においてかなりの重みがあると考えても構わないのかもしれません。
 

B) 次に、紹介文において貴兄は、「学究が関与した」と述べておられますが、これは貴論考の始めの部分において「同論考の指導教官は慶応大学手塚豊名誉教授及び利光三津雄教授(いずれも当時)とされる」と述べられることに対応していると考えられます。
  ただ、論文作成に当たり「指導教官」が付いたとすれば、あるいは、7年前の修士論文作成の際ではなかったでしょうか?仮にソウだとすれば、1983年の論考は修士論文を上野氏が「全面的に補正し書き改めた」ものである、と記載されておりますから、当該論考の内容について、2人の「指導教官」の責任をどの程度まで問えるのでしょうか?果たして、「この両者の見識まで疑われることになる」とまでおっしゃることが可能なのかどうか、やや疑問ではないかと思われるところです。
  なお、2人の「指導教官」がついたとされる根拠が、上野氏の論考の最後に、「本稿の成る、一に慶應義塾大学名誉教授手塚豊博士並びに同大学法学部教授利光三津夫博士の御指導御鞭撻の賜物である」と述べられるところにあるとしましたら、むしろこれは、上野氏が当該論考作成に当たって、実際に具体的な「指導」を二教授から受けたことを表しているというよりも、どちらかといえばむしろ単なる儀礼的な挨拶なのではないか、とも推測されるところです(注3)
 
  (注3) ただし、利光三津夫教授には、上野利三氏との共同論文「律令制下の百済王氏」(『法史学の諸問題』利光三津夫編著、慶應通信、1987.4)があり、それは、専ら貴論考の「註*1」にいうAの部分に相当する時期を取上げていて、「豊俊」の実在問題は主題的に取上げてはおりませんが、それでも「この系図(百済王三松氏系図をいう)はその内容甚だ杜撰であり、研究資料としては使用に耐え得ないものである」(P.2)と、4年前の上野氏の主張がそのまま記載されています。とすれば、貴兄のおっしゃるように、少なくとも利光教授の「不勉強」ぶりは、強く批判されても仕方がないかもしれません。

C) そして、ここまで申し上げた事柄は、なぜ上野氏の論考が発表されてから20年近くも経過してから、HPという形式ではありますが(学術誌ではなく)、その論考に対し批判を行なった論文を貴兄がわざわざ公開するに至ったのか、という点に関係してくるものと思います。
  すなわち、申し上げたことなどから、次のような掲載理由が一応は推測されます。
今でもその論考の影響力には根強いものがあるため…その影響力を排除するため、20年前の論考に対する批判であるにもかかわらず、貴兄としては聊か強い表現を採らざるを得なかったかもしれません(注4)
.論文の記載内容から、当該論文に関与した「学究」の責任を問う必要があるため…当該論文の作成に関与したと考えられる「学究」が、歴史学界において一定の影響力を持っているとしたら、その「不勉強」ぶりを何らかの形で指摘しておく意義は、あるいは大きいかもしれません。
.上野氏の論考を検討することを通して、系図研究のあるべき姿を提示するため…系図研究を行なう者が陥りやすい典型的な誤りを上野氏の論考が如実に示しているから、やや時期が古くなってはいるが、その問題点を切り出しておくことに十分意味がある、とも貴兄は考えるのかもしれません(注5)
  確かに、貴論考の、たとえば「次に、上野氏とは視点を変えて、百済王豊俊の実在性を検討してみよう」以下「豊俊の存在は上野氏がいうように重要である、と私は必ずしも考えるわけではないが、少なくとも、上野氏の否定論理がここでも崩れたわけである」に至るまでの記述とか、第4節の分析、特に「三松とは姓氏ではなく苗字(当時の家の通称)にすぎないのだから、姓氏は一貫して百済王であったのである。従って、六国史等に三松の改姓記事が出てくるわけがない」とのご指摘などは、完全に貴兄の独壇場であって、余人の追随を全く許さない本当に見事な分析であると考えます。
.少なくともやはり、このような論文を作成した上野氏の責任を問うておく必要があるため…いくら20年ほど前の論考であるとしても、出版・公表されたものであり、かつその後訂正されていないとすれば、誤り等を見つけ出した時点において、指摘しておくことは十分に意味があるといえるでしょう。
 
  (注4) 上野氏が強く主張する「百済王氏と三松氏との関連性」の否定に関しては、それに少しでも関係する事柄を論じているような最近の文献を探し出せなかったので、その後どの程度の評価を得ているのか把握することは出来ません。ですが、上野氏が「その内容は甚だ杜撰である」としている「系図の百済王氏の部分」(貴論考の註*1のAに相当)に関連する事柄つき、大坪秀敏氏の論文「百済王氏交野移住に関する一考察」(『龍谷史壇』第96号、1990.7)は、系図の在り処については上野氏の当該論考を注記で引用しているものの、本文においては、上野氏の分析に全く触れることなく、むしろ今井氏とか藤井氏などの従前の分析を取り上げて検討しております。検討の目的が異なっているために、ハッキリと申し上げることは出来ませんが、上野氏の論考掲載から7年経過していても、その「影響力」はその後それほど大きなものとはなっていないことの何等かの傍証にはならないでしょうか(大坪秀敏「百済王氏交野移住に関する一考察」―『龍谷史壇』第96号、1990.7)?
  なお、大坪氏による上野氏論考の扱い方(注記で引用)は、まさに貴兄が、「上野氏の論考に多少の価値を認めるとすれば、百済王三松氏系図の諸本について伝来状況や経緯を調査のうえ書き記されたこと、古代・中世の史料に登場する百済王氏の氏人について整理されたことである。この辺は、研究者にとって便宜であり、十分評価しておきたい」と述べられる点によく対応しているのではと考えます。

  (注5) 貴兄も、「古代史において適切な系譜研究が行われることの重要性を一層強く認識する。それが、この稿を記述する大きな契機となったものである」と述べておられるところです。


D) しかしながら、以上のような掲載理由が考えられるとしても、表現の仕方を全体的にもう少しマイルドにしてみてもよかったのでは、と思えるところです(例えば、「杜撰な内容に驚いた」とか、「もうここまで来ると、「何をかいわんや」というほか私は言辞を知らない」、「まさに猫に小判そのものである」、「無知と誤解に因る自信とは、げに恐ろしきものである」とかは、極めて強い表現ではないでしょうか?)。

2.「註*1」について
  貴論考の「註*1」において、貴兄は、「上野氏は主にBを批判してAの価値も認めないが、両者を別区分とするのであればそれは行き過ぎではないだろうか」と述べておられます。
  ここで、@〜Bとは、当該註において「@始めの百済王始祖都慕王からわが国百済王氏の祖禅広までの部分、A禅広から三松氏の祖豊俊までの部分、B豊俊から系図最後までの部分、という区分だと思われる」とされます。
 ところが、上野氏の論考では、「系図の百済王氏の部分の系譜関係も、不整との感が拭いがたく、換言すれば、その内容は甚だ杜撰であると言いうる。ただこれによって、三松氏の系図部分迄が否定される訳ではない。三松氏及び百済国王室時代の各部分の考証は、本稿とはまた別の問題である」と述べられております。 
  とすれば、上野氏の主たる狙いとしては、「百済王氏と三松氏との関連性」を「否定」することにあって、B自体を批判するつもりは余りなかったのでは、と思えるところです。
  それに、上野氏は、「本稿で考察するのは、系図に記載されている一つの記事、即ち、……傍書の記述が、果して事実に即したものかどうか、という問題で……この検討を通して、従来から通用している本系図が、真に史学研究上の材料として、使用に耐えうる価値を有するものなのか、改めて考える」としていますが、そんなことを行なうのも、「百済王氏は、……帰化人系の名族で、……この氏族の解明は、律令政治史の研究にとって、極めて重要な問題を含んでいると考え」るからで(論考の副題も「律令時代帰化人の基礎的研究」となっています)、ソウだとすれば、Aの批判は意味があるとしても、Bについて疑問を提起することは、上野氏にとってそれほど意味がないのではと思われるところです。
  ただし、ソウだとしますと、上野氏が強く否定する「豊俊の実在性」の否定は、その狙いにとってどんな意味合があるのか、ヨク理解できないことにはなりますが。たとえ「豊俊の実在性」が否定されたとしても、貴兄がおっしゃるように、「個別の人々の活動年代を見ていけば、百済王三松氏系図には、その系譜関係に疑問がある部分もないではない。それが数限りなくあるのならともかく、数か所の誤記(?)をもって直ちに系図の信頼性を疑うのは、むしろ疑問な姿勢といえよう」と思われるからです。

3.傍書記述(イ)及び(ロ)について
A) 貴兄は、「この写本には(イ)の部分がない、と氏が明確に認識されているのである。上野氏の豊俊の実在性否定の論理が滅茶苦茶なのは、これだけで見て取れよう」と、実に厳しく批判されております(注6)

  (注6) 貴兄が、貴論考の最初の方で、「基礎資料としての上掲実見メモがかなり粗雑な模様であ」るとされるのは、貴論考において当該「実見メモ」への言及が他になされていないので推測になりますが、上野氏が、論考の注(1)において「この写本には(イ)の部分がない」と述べておきながら、本文の分析においてはそのことに全く触れていないことを指すと考えても宜しいでしょうか?

B) このように、貴兄が述べられるのは、一つには、「じつは、ここは上野論考にとってたいへん重要な個所である」との認識に基づくと考えられます。(イ)という傍書部分が古型の系図に記載されてはいなかったのであれば、上野氏論考の三(一)でなされている検討は、一切不必要のものとなってしまうためだからと思われます(注7)
そして、(イ)の記載が元々は存在しなかったとすれば、「豊俊は、この時代の百済王氏一族中、枢要の人物でなければならない」といった判断は何ら行なえず、従って「当代の他史料に、全く姿を現さな」くとも、何ら疑義を提示する必要はないことになり、結果として「豊俊の実在」を疑うことも出来なくなってしまいます。そこで、(イ)のような記載が古型に存在することは、上野氏の議論にとって、確かにクルーシャルな問題といえるかもしれません。
.ただ、存在したとする場合でも、上野氏によれば、その記載内容に「諸々の疑問点が浮かび上がって」きて、結局は(イ)の内容は虚偽であると主張されてしまいます(注8)。しかしながら、そうであれば、当該傍書が存在しなかったのと同じことになってしまうのではないでしょうか?
  すなわち、傍書の記載内容が虚偽なのですから、傍書に基づいて「豊俊は、この時代の百済王氏一族中、枢要の人物でなければならない」といった判断をすることは行なえず、従って「当代の他史料に、全く姿を現さな」くとも、何ら疑いを差し挟む必要もないことになり、結果として「豊俊の実在」を疑うことも出来なくなってしまうのではないかと思われます。 要するに、「豊俊の実在」を疑うために、上野氏は、傍書の記載内容を厳しく吟味するのですが、それに「根底」的な疑義を提示してしまいますと、「豊俊の実在」を疑うために必要な論拠も全く不確かなものとなってしまい、疑うことすら出来なくなる、といったことなのではないかと思われるところです。
としますと、(イ)の傍書の存否にかかわらず、元々の上野氏の議論の進め方自体に問題があったのだ、とはいえないでしょうか?
.あるいは、次のようにいえるのかもしれません。元々、(イ)の記載内容が『続日本紀』などによって確認されてしまうのであれば、当然のことながら、「豊俊の実在」を否定することは出来なくなってしまいます。従いまして、「豊俊」に関して、何らかの信憑性は有している傍書は必要なのですが、しかし一定程度の問題は含んでいなければならない(すなわち、ある程度の真実性を持たせながらも、十分な証拠があって完全な史実だということにはならないような中間的なレベルの記載内容である)ことが必要、といった実に虫のいい傍書を上野氏は求めているということにならないでしょうか?
  そのことを端的に表現しているのが、「しかし百歩譲って、傍書が何らかの事実を伝えたものであるとするならば」というフレーズなのではないでしょうか?「百歩譲っ」た場合には、「豊俊の実在」を疑えるとしても、「百歩譲」らない場合には、「豊俊の実在」を疑えないのですから、一体上野氏は何を「譲っ」たことになるのでしょうか?
.なお、上野氏は、(ロ)の傍書の記載内容についても、「系図の改姓記事は、事実無根の作り事であると称して、大きな過ちはあるまい」と主張しますが、この主張は、彼の議論の中においてどんな位置を占めるのでしょうか?たとえ、その主張が正しくとも(注9)、それは単にその記事の内容が否定されるというだけのことで、そのことだけでは「百済王氏と三松氏との関連性の否定」という上野氏の主張に直接的な「関連性」があるとはとても思えません。
.以上で申し上げたかった点は、上野氏が「四 結語」で要約している結論は、綿密な系図考証等を施すまでもなく、それこそ「杜撰」な点の多い議論の進め方それ自体によって、大きな疑問符が付けられてしまうシロモノなのではないか、というような事柄です。
 
  (注7) 尤も、貴兄は、「豊俊の存在は上野氏がいうように重要である、と私は必ずしも考えるわけではないが」と述べられているところですが。
  (注8) 上野氏は、「この独自の記録には、大きな弱点がある」とか、「系図の記載は、肝心なところで、続紀の記録とこれまた重大な齟齬を露呈しているのである」などと述べております。
  (注9) 貴兄がものの見事に、上野氏の主張は「初歩的なミス」を犯しているとして、一刀両断に切って捨てたところですが。


C) もう一つの理由としては、貴兄が、「写本も、二本のうち本宗家系統に伝わるものをまず重視すべきではなかろうか。なぜなら、上野氏自身が、本宗家を受け継ぐ俊経家には「信充の自筆と覚しき「百済王三松氏系図」なる稿本が伝存する」と記され、信充真蹟との筆跡比較までされて栗原信充の自筆原本だと判断されている」と述べられるところからしますと、当然に「重視すべき」写本そのものを検討せずに議論を進める上野氏の分析法に対する批判を、貴兄はなされていると考えられます。
ただ、
.上野氏の論考においては、「「百済王三松氏系譜」なる稿本」と記載されますが、私にはよく理解できないのですが、この「系譜」は、「系図」と同じことを表しているのでしょうか?
  上野氏は、「同書は信充考証本(或いはその一部)」だとしていますが、これは、「系図」それ自体ではなく、系図の考証を行なっている書物だとは考えられないでしょうか?
.上野氏は、「活字本系図の原本となった写本も、先の両写本のいずれとも異なる第三の一本であった可能性が、きわめて大である」と述べております。仮に、俊経家に伝存する稿本が「百済王三松氏系図」であれば、活字本系図の原本の検討に当たっては第一の候補として取り上げられるはずではないでしょうか?
.仮に、俊経家に伝存する「百済王三松氏系譜」が、「系図」ではなく系図の考証を行なっている書物だとしたら、俊経家に「百済王三松氏系譜」が存在するからという理由で、そこにある写本が原本に近い(すなわち、「重視すべき」)とまでいいうるのでしょうか?
.上野氏は、2つの写本と活字写本とを同列のものとみなしているようですが(「そうした系譜学的な考察は、ここでは行なわない」としています)、そうした姿勢をとっているために、その注(1)におけるように、こともなげに「(イ)の傍書はない」などと書き記してしまうばかりか、さらにそのことを重視もしないのではないでしょうか?
.なお、貴論考では、「信充の弟子鈴木真年翁が編纂した『百家系図』も大きな手がかりとなる。静嘉堂文庫所蔵の同書は明治前期の成立であるが、その巻五〇には、真年の筆跡で「百済王三松氏系図」が記載されている。それは、信充稿本をまず忠実に謄写したうえで、真年が続紀等の関係記事を書き入れている。そこで問題の豊俊の個所を見ると、「庭前有古松三株世人因称三松爾来遂為氏」とのみ記されており、おそらくこれが信充自筆本の形ではないかと考えられる。(イ)の部分は、明治初期の信充校訂後、大正七年までに竄入した記事と判断せざるをえない」とされております。
  よく理解できないのは、仮に、ここで貴兄がいわれる「信充稿本」が、上野氏のいう「考証本」であるとするなら、上野氏は「その覆製本を頂戴した」と述べているわけですから、なぜ注(1)において、そのこと((イ)の記載が欠落していること)に言及しなかったのか、という点です。
 また、この「考証本」が「百済王三松氏系図」であるとするなら、その「覆製本」をもらっている上野氏は、なぜ「本稿で用いる系図資料は、上記二写本…を実見した時のメモランダムと、活字本系図とである」とだけ述べて、この「考証本」を用いていないのでしょうか?
  尤も、上野氏は「系譜学的な考察」は行なわないとしていますから、(イ)、(ロ)の記載の仕方が写本によってまちまちである点を最低限確認しさえすれば、それだけでよかったのかもしれませんが。

4.論調について
  別に取り立てて言うべき事柄ではありませんが、貴論考の論調と、上野氏の論考の論調とが、構図の上からいいましてかなり類似しているように、私には思えるところです(こう申し上げますと、貴兄にとり大変心外なことかもしれませんが)。
  すなわち、貴論考紹介文におきまして、「上野氏の論考がかなり影響力があった」と述べておられますが、上野氏も「本系図を援用する書は、今日、…、その存在がもたらす影響力は、益々拡大していくように私には思われる」と述べております。
 にもかかわらず、上野氏の論考に対して、貴兄は、「同論考を仔細に検討してみて、疑問な問題点や結論が多々あり、「甚だ杜撰」なものは却って上野氏の論考であったと考えざるをえない」と述べられ、他方で上野氏は、今井啓一氏の論文に対して、「この研究では、系図自体の吟味・考証を、十分に行なってはいない」などと述べております。
  ソウしたことを踏まえて、貴兄は「古代史において適切な系譜研究が行われることの重要性を一層強く認識する」と述べ、また上野氏も、「その記事内容を改めて検討し、その進化を見極めておくことは、当該研究の進展のために、是非とも必要」と述べているところです。
  このように、外形的な論調―構図―は、かなり類似していると思われます。ですが、論証の能力の圧倒的な差によって、結論の方向性が丸で正反対になってしまっていると考えられます(注10)。ただ、上野氏は、かなり頑丈な定説(注11)にわが身を省みずに挑戦したのに対して、貴兄は余り重要視されているとは思われない一見解を徹底的に葬り去った、という違いはあるかもしれません。

  (注10) 誠につまらないことで恐縮ですが、「構図の類似」との関連で、次のような事柄をご紹介いたします。
  上記注4で触れました論文第1節において、大坪氏は、上野氏のいわゆる「活字本系図」の辰爾と敬福の項に記されている「住河内国交野郡(今中宮村)」と「賜河内国交野郡以王辰爾旧館為本居」の記述が、俊経氏所蔵の写本には欠落していることを取り上げ、結論として、「栗原(信充)が系図の考証にあたって俊明から『三松家由来記』に著わされている如き内容の話を聞きとった」などの推測が可能、と述べているところです。こうした議論の構図は、上野氏論考における(イ)の欠落に関する貴兄の分析と、かなり類似しているのでは、と思える次第です。
  (注11) 例えば、今井啓一氏の論集『帰化人の研究』や、『枚方市史』とか、上野氏論考の注(5)に記載されている諸論考。


V.おわりに
A) 以上において拙い文章で申し上げようとした事柄は、ごく簡単に纏めて言えば、「鶏を割くに牛刀を用」いているのではないかという思いを、貴論考の読者が懐いてしまうかもしれない、という懸念です。 
  上野氏は、「少しでも系図研究を行ったことのある人なら、時により、「氏」が姓氏の氏の意味でも、苗字(名字)の意味でも使われることが分かるはずなのに、頭から前者と信じて疑わなかった」ために、「三松を文字通り「氏」(姓氏の氏)と思い込ん」でしまったようで、加えて「史料批判の重要な基礎作業すら怠っていた」こともあり、それらがあわさって「「百済王氏と三松氏との関連性」を「否定」する」結論にまで到達してしまったようです。 
  このような「初歩的なミス」を犯してしまうような研究者(注12)の論考を、貴兄は、「赤子の手をひねる」かのごとく、徹底的に論破してしまいました。
  こうした「酷評」も、上野氏が(あるいはその結論が)現在の学界において一定の位置を占めている(あるいは定説化している)のであれば、いくら20年近く前の論考であっても、それを批判する意義は十分高いものと思います。しかしながら、素人のために十分検索は出来なかったのですが、どうもそうした事態にはなっていないのではないのかと推測されるところです。

B)
とすれば、何故貴兄は、このような論考の掲載に踏み切られたのでしょう。推測される掲載理由については上述いたしましたが、あるいは、もしかしましたら貴兄が長年懐いておられる鈴木真年翁に対する敬愛の念に専ら拠るのかもしれません。貴論考には、「信充の三松家への惚れ込みようは甚だしかったようであり、藤本氏が紹介される三松氏の〔現代の系譜〕を見て驚いたことには、信充の孫・信優(早世した長男の次男)が、系図を信充に見せた三松俊明の養子かつ女婿となっている。そこに、信充の意向が強く働いていたと感じることができよう。その弟子の鈴木真年翁は、さらに関係する史料の発掘・整理に努めた」とあり、栗原信充と三松家とは姻戚関係にあり、その信充の弟子が鈴木真年翁という関係が存在するようですから。

  (注12) 他にも、「なお、「祖父−父−子」と三世代にわたる場合、祖父と子との関係は二世代の開きがあると一般にいうものであり、これを上野氏のような三世代とはいわないはずである(ほかにも、同様な独特の数え方の個所が見える)」などという指摘を行なっておられます。

C) そうした詮索はサテおきまして、このたびの貴論考は、比較的ですが素人でもに近づきやすいものなのではと思っています。おそらくそれは、いつもの緻密な分析が直接的には行なわれておらず、上野氏の論考という格好の媒介項が置かれているがためとも思われます。
  また、余り開く機会のない貴兄の大著『古代氏族系図集成』の下巻P.1596に、「豊俊」及び傍書の「庭前有古松三株世人因称三松爾来遂為氏」を、その後の「資料3」のところで今井啓一氏の論文「百済王敬福」の記載を確認出来たことも、あるいは上野氏のお陰といってもいいのかもしれません!
                                                (了)

  
  (宝賀からの応答)

○「百済王三松氏系図」についてのコメント、ありがとうございました。いつも論理的構成や記述の誤り・考え方等で有益な示唆・教示を受けることが多く、感謝しておりますが、今回また、幾人かが多角度から異なる問題認識で検討する意義をひしひしと感じる次第です。
○以下に、貴信を踏まえつつ、多少の追加説明をしてみたいと存じます。ただ、論点整理は貴信のかたちとは順序等で異なっていますが、説明の都合上からとご理解下さい。

1 経緯等
  最近、全く気にかけていなかった百済王三松氏系図について、いまどき検討をしようとしたのは、奈良市在住の三松様(三松分家で、江戸期以前に分岐した模様とのこと。あるいは、ご先祖が室町中期に一条家の土佐下向に随行した可能性もあろう)から問い合わせがあったことが契機です。そのことで、関係論考を一応入手し、鈴木真年翁の系図等も再度見直しして、その結果をまとめる気になったからです。なお、先日関西へ行ったおりに枚方の百済王神社にも行きました。いままで一度も行かなかったように記憶していたからなのですが、行ってみるとどうもデジャヴ現象があり、自分の記憶のいい加減さを改めて感じます(かっての大阪在住の時に立ち寄ったか?)。いま藤津由己子氏が宮司を務めておられ本殿を改築中でしたが、その寄付金拠出者の中に上掲三松様の名もありました。
  実際、上野氏の論考だけだとあまり書く気が起きなかったかもしれません。情報によりますと、二年前の東野教授の講演会が影響して、その半年後に、枚方にある百済王神社の説明看板が市教育委員会によって書き換えられ、「三松氏……」の文言が消されたとのことです。こうした背景で、いずれ、何らかの形で百済王氏関係の出版がある場合には、そのなかに加えられることも考えられるとも思い、執筆した次第です。

2 執筆ないし批判の対象
  そして、調べるうち、上野論考に関与した利光氏が吉川弘文館の「国史大辞典」で百済王氏等の項目を執筆していることで、これはそれまでの利光氏の実績・活動への学界評価だと捉えたわけです。「国史大辞典」は、現時点における日本歴史に関する学界最高峰の辞典と評価されているものと理解しており、その意味で、私の批判対象は利光氏(現在は千葉県にある清和大学学長)であり、また、無批判で引用していい加減なことをいわれた東野教授でもあるわけで、その後、近世・近代史を主にやられているような上野氏単独では全くありません。ただ、この辺の事情がもう少し読みとれるように書いたほうがよかったのかもしれませんが。
  貴君もご承知されるように、利光・上野両氏で共同執筆の論考がありますので、私が用いたのが仮に「牛刀」だとしたら、それはあくまで牛用のものなのです。あるいは、まだまだ武器としては弱いかもしれません。東野教授については、かって出土木簡関係の歴史書を読んだ記憶があり、古代関係に多くの著作をもち(『日本古代木簡の研究』『木簡が語る日本の古代』 等々)、それなりの業績のある学究と認識しております。そういう方の軽々な判断や発言はお慎みいただきたいという希望をもっております。慶応大学手塚豊名誉教授については、おそらく全くの名前だけの指導教官でしょう。
  また、文化財を管理される地方自治体等の諸団体は、有名な学者の見解だからといってそれを鵜呑みするような姿勢は問題が大きいとも感じております。これは古墳などについてもいえることであり、考古学界で邪馬台国畿内説が多数となっている現在、北九州地方の古墳・墳墓等の保存が等閑になって破壊されがちな傾向も見られて危惧する次第でもあります。

3 表現の荒さ等
  私の「杜撰な内容に驚いた」等の表現は、まさに「売り言葉に買い言葉」の類であり、ああいう非道い論考に対しては、そのまま同様に言い返すのがある意味で適当ではないかと考えた次第です。まあ、貴君のご指摘のうち半分ほどはもう少し穏やかな表現のほうが、本来は穏当なのでしょう(少し反省していますが)。いずれにせよ、貴重な資料はできるだけ活かして用いるべきであり、「浅薄な知識とそれに基づく判断」で多くの先人の功績を簡単に否定することの意味を、上野氏等はもっと噛みしめるべきではないかと考えたものです。最近なにかと話題の多い鈴木某先生の発言ではありませんが、不知・無知は議論上の武器にはなりえず、また免罪符にはならないということです。
  わが国歴史学界において、古代にせよ中世にせよ、系図を研究の対象としている人は殆どおりません。それだけ、系図が二次史料として低くみられている証左かもしれません。ある意味で、分析が粗雑でいい加減なのもそうした事情が背景にあるのかもしれません。しかし、歴史行動を考えるうえで人間関係や出自基盤は重要なものと私は受けとめています。先に中世系図専攻を明言されている青山幹哉氏がいることがわかり、その考え方には批判すべき点もいくつかあって当会のHPに掲載しておりますが、いわばそれに続くものという意識も多少ありました。「系図研究のあるべき姿を提示するため」というほどではありませんが、歴史学をナリワイにしている学究なら、歴史資料の一つとしてもっと真面目に系図研究をしてほしいという気持ちは強くありました。もちろん、是々非々で合理的に的確な批判をしていただきたいということです。

4 上野氏の論理・検討等の不十分性
  氏が「豊俊の実在性」を否定して、百済王氏と三松氏とを切り離しており(すなわち、三松氏は百済王氏の出自ではないと判断)、これは三松氏の代々の居住が中宮村であったこと、中宮村に百済王廟があったこととも矛盾します。氏がBの部分自体を批判するつもりがあったかどうかの問題ですが、平安期〜中世までの史料に見える百済王氏(百済氏)の例をあげることからいって、十分そのつもりであったと判断した次第です。
  そして、豊俊の存在を否定し、かつ、禅広王〜豊俊までの百済王氏一族の系譜の矛盾をあげることで、Aの部分も信頼性を否定しており、利光氏はそれとほぼ同じ認識で「国史大辞典」の執筆をされております。それを、私は批判しているわけです(だからといって、Aの部分が全て正しいということにはならないのですが)。
  私が「基礎資料としての上掲実見メモがかなり粗雑な模様」と表現したのは、ほかに、豊俊以降の三松氏系統に入ってからの官位が、活字本では各々一位階ほど高く記載されていることに上野氏が気づかれなかったこともあげられます。
  また、貴信にもありますように、上野氏の論理がいくつかの点で矛盾することもご指摘の通りだと思われます。そして、苗字の発生時期を考えれば、「三松」よりも「美松」のほうが先にあって、それが後世になって三松に転訛した可能性すら感じます。「系図の改姓記事」の否定が、直ちに「百済王氏と三松氏との関連性の否定」につながるものでもないことも、貴信の指摘の通りです。ということは、上野氏の主張が論理的にも整合していないということになります。

5 信充考証本の意味
  信充考証本といわれるものが、「系図」それ自体ではなく、系図の考証を行なっている書物と考えられないでしょうか?、という問題点です。
  これは、その可能性が全くないと私は思っております。その理由としては、
@系図が栗原信充自筆と上野氏も認めていること、
A栗原信充関与の資料は、系図以外に三松家に残らないこと(信充が百済王三松氏系図を見たのが明治初年で、その二年後には死去しており、この関係で多くの著作を残したことも考え難い)、
B鈴木真年翁の『百家系図』でも、系図以外に記載がないこと(彼も、栗原信充関与の資料の存在を全く記さない)、
C大正年間の活字本でも、栗原信充監修の旨が記載されること、
D栗原信充著述の「吉備朝臣系図」(無窮会文庫蔵の『玉簾』所収)も系図だけの記事であり、注釈や説明・解釈が記されないこと、
などがあげられます。

6 論調の強さについて
  最後に、私の論調がややムキになっていると貴君が感じられたとしたら、それは、栗原信充や鈴木真年には、以前から「系図偽作の疑い」がかかっているからです。明らかな系図偽作者ならともかく、一般論として両者についてそう断ずるのは無理があります。それは、個別具体的に検討してみると、実は系図研究を殆どしていない研究者、あるいは系図の知識を殆ど持たない研究者が、ご自身で具体的に検討された結果ではなく、風評で云っているのではないかとも思うのですが。

  この辺の事情は、当会HPの「作家有島武郎の家系 −系譜仮冒例の一検討−」をご覧下さい。

                                           (以上です)


戻る   独り言・雑感 トップへ   ようこそへ   系譜部トップへ