作家有島武郎の家系
      −系譜仮冒例の一検討−

 
          作家有島武郎の家系
             
−系譜仮冒例の一検討−

                                  
宝賀 寿男


 
はじめに
  「カインの末裔」という系譜に関係ありそうな小説で有名な大正期の小説家有島武郎や洋画家有島生馬、小説家里見の三兄弟について、とくに関心があったわけではない。また、武郎兄弟の父、有島武が明治期の大蔵官僚(
横浜税関長、関税局長、国債局長などを歴任)であり、その後財界で活動し鉄道の国有化などを提唱したことが契機であったわけでもない。これらの事情よりも、ふとした巡り合わせから有島武郎の家系図に遭遇したことがあり、検討を加えてみると、なかなか興味深いものだったので、その調査結果を呈示させていただこうというものである。
  この三、四十年来、様々な系図類を見て、種々検討を加えてきたが、そのなかでの私のテーマの一つに、明治期に多くの系図発掘・調査をされた鈴木真年と中田憲信の足跡をたどることがある。その目的としては、彼らが対象とした系図には従来紹介されなかった貴重なものが多いということのほかに、市島春城などからいわれのない汚名を着せられた栗原信充・鈴木真年らの系図研究学派の研究姿勢を明確に説明することによって、彼らの手により紹介・収集された系図類の由来の信頼性(
内容の信頼性については、当然のことであるが、個別に十分な検討を要する)を確認し、来るべき「系図学」の基礎としたいという願望が、私にはあった。


 
1 偽書・偽系図とはなにか

  
市島春城等の問題提起

  市島春城(
名を謙吉。生没年は1860〜1944)は明治から昭和にかけての著述家、学校管理者(早大の図書館長・理事)であり、国書刊行会を興して膨大な書籍を刊行された人物であるが、彼に「日本の偽書一斑」という小論*1がある。自ら「頗る乱雑なもので、偽書の総説とするには尚研究を要するけれども、爰に不纏りのま々さらけ出して斯道の諸賢の叱正を仰がんとする」と記すのは、おそらく謙譲的な表現であろう。しかし、偽書についての論考が少ないなかにあって、この春城の論考には捨てておけない表現がある。
  それは、「系図や縁起や由緒書などに偽書の多いのも皆為にする所があって偽作したものである。…(
中略)…系図を偽作し若くは古文書などを偽作する専門家も自然起る筈だ。兵家茶話*2には系図の偽作者の名が挙げてある。浅羽某が始まりで松下重長、多々良玄信と云ふは盲人ながら諸家の系図を望に応じて偽作したとあり、沢田源内と云ふも巧みに偽作したとあるが、近世には栗原柳庵なども系図の偽作者として知られてゐる」という部分である。
  春城が膨大な著述にあたったことは経歴などから認めても、系図の専門家であったはずがないので、これは見聞に基づく表現にすぎないのであろう。しかし、多々良玄信や沢田源内と同列に扱われては、少なくとも栗原柳庵
名は信充、また又楽とも号。生没が1794〜1870)は浮かばれない。栗原信充に対しての評価は、あるいは春城が先に挙げる速水行道編纂の『偽書叢』(嘉永六年〔1853〕に編)に基づくものかもしれないが、速水も系図学に詳しいとはとても思われない。系図のみならず多くの著作のある栗原信充のどれが具体的に偽作というのであろうか。現代に残る栗原の著作はあまり多いとはいえないが、その系譜関係の著作に対して、管見の及ぶ限り私が当たったところでは、偽作という印象を持たせる内容の著作にはめぐりあわなかった、というのが私の見解である。

  次に鈴木真年生没が1831〜94)については、故飯田瑞穂氏が郡評論争に関して、江戸後期の国学者の知識に基づいて華族系図の上代部分に評造などの肩書が記入されたことを考え、「「系図家」「系図知り」といふ語があるやうに、系図作成の専門家はいつの世にもあり、この場合にも、そのやうな背景があったと考へることは、さほど見当違ひではあるまい。鈴木真年など、国学者で、その世界に名を売った者もある」と記述している
*3。この飯田氏の記述がなぜか頻りに引用されて、真年の評価を貶めてきた。それが、飯田氏の真意を離れていることでもあるから、私としては、たいへん遺憾に感じるところである。
  鈴木真年は文久元年(1861)、栗原信充に入門して系譜学を学び、その一生の研究の五大目標の第一に「系図学ヲ大成スルコト」を挙げ、さらに続いて「地誌ノ体系ヲ確立スルコト」「正史ノ体系ヲ制定スルコト」も挙げていた。紀州藩士などから明治の弾正台・宮内省など転々とした勤務の傍ら、歴史・国文の研究に従事し、膨大な『鈴木叢書』(
一部しか現存しない)や多くの系図史料を編著述した。真年はその晩年、帝国大学で重野安繹総裁の下で大日本編年史の編纂にも従事している。
  その系図研究の同志ともいうべき友人が、平田銕胤同門の中田憲信(1835〜1910)であり、真年と明治初期に弾正台で同勤し、真年がその職場を離れて後も、司法省・裁判所に引き続き勤務し、秋田・徳島の検事正なども経験して、最後は甲府地裁所長に至るなど、その一生を法曹の世界に捧げた人物である。恩給まで質に入れて国家・教育に尽力した熱誠の人といわれている。

  こうした両人の信条・人柄や経歴からいって、明治前期の上流名家の系図調査に協力したことはあっても、偽系図作成に預かったことは、まず考えられない
*4。その交際範囲から、新華族や法曹関係者などの系譜を採集して、彼らの編著作のなかに記載されているが、これらが偽系図とはとても考えがたい。現在に残る彼らの編著をできうる限りあたったところでも、そうした認識が強まるだけである。
  飯田氏の挙げる系図類が、宮内庁書陵部に所蔵されているとのことであり、そこで『華族系譜』(
正・続)にも私自身殆ど全てに当たってみたが、これらに真年や憲信が関与したことは明確ではなく(多少の関与・手助けがあったのかもしれないが、その点の確認ができない)、さらに明治期の偽造的な臭いを感じることはできなかった。勿論、こうした華族系譜には様々な誤伝・仮冒や後世からの追記などがあることはいうまでもないことであるが、それは鈴木真年や中田憲信の系図研究とは別の話である。


  
偽書や偽系図とはなにか

  ここで、問題の「偽書」とはなにか、について考えたい。
  市島春城が上記でいうように、偽書には二様の解釈があって、@虚偽の事柄を纂著したものとする見方、A内容の如何に拘らず、真本でないのに真本を称するものとする見方、があり、その後者が「偽書」と解されて、前掲の論考が記されている。
  しかし、世に伝わる系図についていうと、これが必ずしも妥当するかどうかはわからない。というのは、その編著作者など作成の経緯が不明なものが系図には極めて多く、編著者が明確な場合でも、その基礎とした資料・出典を明確にしないことが、また多いからである。さらに、系図の作成・伝来が明確でも、内容的に問題なもの(
部分)もある。従って、系図研究にあっては、単に由来が正しいかとこだわることは勿論として、それ以上に、内容についての十分な検討が必要になってくる。由来が正しいか否かだけで系図史料の評価をして、それで終わりというのでは、知りうべき史実を放擲してしまう懼れすらあろう。
  偽書か否かとの判断はなかなか困難で、新井白石ですら偽書に欺かれた例もあると春城は述べ、「普通文体が古風でないとか、昔し使はない言葉が用ひられてあるとか、昔し無い風俗が書かれてあるとか、年代の異なる事実が引かれてあるとか、時代不相応の和歌があるとか、……」などと判断基準をあげるが、その偽書ですら、一概に排斥すべきではなく、取捨して用ふべきものだというのが妥当と記している。偽系図かどうかなどの系図評価にあたっては、さらに多くの観点からの十分な検討を必要としよう。白石の『藩翰譜』を見ても、入手できた資料に制約があったことや当時の幕閣関係者に対する遠慮などもあったのであろうが、殆ど祖系が不明で、いわば偽系図だらけの幕藩大名家(
とくに三河・尾張出自の関係者)の系図に関して、真系を探索できなかった例が極めて多いのである。

  偽書と同様、「偽系図」の定義もまた難しいが、とりあえず、ある氏や家の出自(
いいかえれば、姓氏や苗字)を故意または過失で正しく記載していない系図としておく。これが細部までの正誤を問題にしたら、世に伝わる系図の全てが偽系図となってしまうからである。
  このように考えても、いわゆる家系図が古代の平安後期くらいまで遡る場合には、その九割超ないし九割五分超ほどが偽系図に該当するのではなかろうか、と体験的に私は感じている。太田亮博士も、系図の八、九割が偽系図だという認識を示していた。だからといって、それが偽系図だということだけで安易に放棄できないのは、春城が偽書について述べるのと同様である。
  作成の年代がわかる系図自体が、その時代の歴史認識や風潮を反映しているものであり、出自部分や支系分出の記事が多少おかしくとも、その他の個々的な部分には正しい貴重な所伝もかなりあるという事情もある。喩えていえば、濡れた複葉の薄紙を一枚一枚剥がすように、丁寧かつ慎重に歴史関係資料は扱いたいものである。また、系図の疑問点や偽書性など個別の指摘はしたとしても、有名な偽作者はともかくとして、「系図偽作者」という認定は十分慎重にありたいものである(
もちろん、そうとしか言えない者もいようが)。
  系図学という分野は、真年の念願や太田亮博士の多大な貢献にも拘わらず、人文科学として未だ形のあるものとはなっていない。いわゆる偽系図が多いということで、史学関係者に系図を軽視する風潮が未だに強く、また、戦後の津田史学からの影響が強い学究にあっては、古代系図は、総じて言えば捏造以外のなにものでもないということになろう。
 しかし、史実の正確な把握に努めようと思えば、それに関与した人間の関係をあらわす系図・系譜を無視してすすめうるものでもない。客観的、合理的な科学の一分野として、また、歴史補助学の一分野として、系譜研究の進展が強く望まれるところである。それとともに、妙な偏見も打破される必要がある。学界では、佐伯有清氏の逝去の後では、系図学に詳しい歴史研究者がおられないようで、これは誠に残念なことである(
系図に関わる著書を出される研究者がいるが、どなたも内容的に感心できる水準とは思われない)。

  いま古代の系図として「円珍系図」「海部氏系図」が国宝に指定されており、最近奈良手向山神社所蔵の「紀氏系図」が重文に指定された。しかし、これら系図も前掲の“偽系図”の定義から厳しくいえば、みなこれに該当するものである。こうした認識をもつことがまず重要である。残念ながら、この辺りの事情がわが国の系図学・文献学の現状を示すものであり、現在の日本史学の最高水準を示すともみられる吉川弘文館の『国史大辞典』においても、系図・系譜的な記述にあっては注意を要するものがかなり多い。その項目の執筆者により、記述水準が相当違うということであり、学究の片手間の仕事では系図の内容吟味と評価はたいへん難しいということでもある。
  「円珍系図」は平安初期の円珍自筆の書込という由来が正しく、たいへん貴重な史料であるが、そうであっても、その出自部分には系譜仮冒があり(
とはいえ、当時の系譜所伝の認識としては、必ずしも間違いではない)、この辺は注意を要するということである。ここまでを偽系図ということは厳しすぎるし、史料の取扱いに問題があるといってもよかろう。一方、「海部氏系図」は由来・内容ともに大きな疑問がある*5「紀氏系図」についていえば、紀氏が成務〜応神朝の重臣であった武内宿祢の後裔とするのは、実態としては系譜仮冒だとして考えられる点もあり*6、また同系図の初期部分は疑問が大きい。

  以上に見てきたように、系図評価の判断は大変難しいものがあるが、人間も一定の生活史パターンを持つ物理的な存在であり、時間(When)と場所(Where)という二大座標軸を含めて、5W1Hという事件報道の構成要件をそなえた歴史事実を作ってきたことを考えれば、合理的に判断できる基準もでてくると思われる。このなかで、誰(Who)の問題も軽視できない。同名異人(
)や異名同人)の問題が神代まで含む古代にはかなり多くあり(平田篤胤の著「神代系図」〔 :『古史徴』一之巻附録〕を見ても、異名同神・同名異神の分別ができていない事情がある)、中世でも、系譜を伝える系統によっては同人が異名で伝えられるケースが見受けられるからである。

  こうしたことを、次に取り上げる有島氏の系図を通じて、具体的に考えていくこととしたい。



 〔註〕


*1
「文墨余談」(『市島春城古書談義』日本書誌学大系3、青裳堂書店、昭和53 年8月刊)のなかに所収。

*2 『兵家茶話』は別名『同志夜話』ともいい、享保六年(1721)の序がある日夏繁高の著作。なお、浅羽氏や松下重長については、本HPの「掲示板・応答板」の「久野氏・原氏の一族」の応答でも取り上げておりますので、併せてご覧下さい。

*3 「郡評論争余談」、『日本歴史』1983年11月号。最近では、山口大学名誉教授(農学部)の石黒秀雄氏が、その著『石黒氏の歴史の研究』(私家版、1993年刊)で、この部分を引いて、鈴木真年翁の著作に偽造の疑いがあることを述べる。
  しかし、飯田瑞穂氏は私宛の手紙
昭和61年6月6日付け)で、次のように述べられており、たいへん重要なことなので、とくに引用させていただくこととしたい。ただし、下線部は宝賀が付けたものである。

「…(
前略)…自ら深く究めた上での文ではなく、世評に従っての叙述で、御私淑の先人への、不當な評であれば失禮の段は、深くお詫び申し上げます。ただ、幕末・明治の系圖家といったときに誰を思ひ浮かべるか、念のために、周りの人に聞いてみましたら、やはり真年翁の名のあがること多く、世間の受け取り方は、そのやうなことであらうかと存じますが−。
  史学は、史料によって過去の事實に接近しようとする學問で、すべての叙述は史料の裏付けを要することであり、疑い深い私などにとっては、古代の氏族の系譜について、こんなに分かってよいものだらうか、材料は確かだらうかといふ思ひが先に立ってしまふのですが。分かりすぎるやうな印象を、正直のところ、抱きました。…(
後略)…」

  後段の部分は、本稿にも関係する問題認識であり、併せて引用させていただいたものである。史料の十分な検討は、まことにもっともなご指摘ですが、疑いだけで貴重な史料を葬り去ることには注意したいとも思われる。系図学に学識の無い学究が考えられる以上に、系譜・系図の偽造は難しいものであり、とくに古代部分の系図は難しいという事情がある。遠い先祖のことをよく伝えたからといって、それが総論的にあやしいという話でもない。要は、個別具体的に十分な厳しい吟味が必要であるというだけのことである。
 しかも、「系圖家」が、ただちに系図偽造者を意味するとも思われない。系図専門の国学研究者と受け取るのが自然ではなかろうか。

*4 系図鑑識力が高かった鈴木真年翁が偽造ないし仮冒の疑いある系図を一切、採集していないかというと、必ずしもそうとはいえない。例えば、『百家系図』巻66に記載の「岩田家系譜」は記載人物の名前からみて、明らかに後世の偽造系図であるが、何らかの参考までと記載したのであろうか。
  真年翁の著述を多くあたったところでの私の所感では、翁は多少疑問であろうとも、ある家の所伝の系譜をそのまま謄写した場合も見受けられる。従って、翁が関与した系図の記載内容が疑問であっても、それが翁の手による偽造とみることは、きわめて不当な取扱いではなかろうか。
この辺の証拠事情は全くないのである。どうして先入観と否定価値が一人歩きするのであろうか。とかく学界には、在野の研究者を不当に軽視ないし蔑視する傾向があり、あるいはこうした事情と無関係でないのかもしれない。
  長い間にわたって伝来された系図には多くの手が加わっており、偽作箇所があっても、それが何時、誰の手によるものかは極めて判断し難いものである。何人かの書き継ぎによって伝えられた史料には、系図に限らず、誤記や系線の引き誤りは殆ど不可避的に生じる傾向もある。

  上掲
*3であげた石黒秀雄氏は、その属する石黒氏が利仁流藤原氏という系譜を主張したいがゆえに、利波臣姓の出自を否定し、鈴木真年の偽造を示唆する表現を著作の随処で行っている。しかし、氏の専門分野は史学ではなく(農業分野か)、系図研究については素人にすぎず、また同家でどのように伝えようと、石黒氏の利仁流藤原氏という系譜・出自は明らかに系譜仮冒であり、これを重視するわけにはいかない。
  また、石黒秀雄氏が偽造として問題視する『越中石黒系図』の後半部分も、説明する事情が全くないわけでもない。例えば、石黒左近成綱に相当する石黒左近丞光治という名についても、『肯構泉達録』に貴布祢の石黒左近光治とその表記で名があげられている。

*5 「円珍系図」については佐伯有清教授が『古代氏族の系図』で分析しており、私も別途検討したが(「円珍一族の系譜伝承」、ただし未発表)、御村別君が景行天皇の子孫ということには疑問が大きいという結論は同様であった。ただし、この氏が応神天皇の本来の息長氏一族の出という系譜は信頼できるものと考えており、この辺の話はいずれ何らかの形で発表を考えたい。
 「海部氏系図」については、後世の偽系図にすぎず、この辺の事情は、拙稿「国宝「海部氏系図」について」(
歴史読本事典シリーズ11『日本姓氏家系総覧』に所収)を参照されたい。この系図の国宝指定には大きな疑問があり、国宝指定の取消措置が望まれるところである。

*6 武内宿祢の系譜上の位置づけは難しく、何度も考えを見直さざるをえなかったが、成務天皇と同世代の武内宿祢(葛城襲津彦の父)と応神・仁徳朝ごろの武内宿祢(紀臣・平群臣)という二つの人格に分けて考えるのが妥当なようである。また、蘇我臣・羽田臣の祖は武内宿祢ではないとみられる。これら武内宿祢後裔氏族の系譜研究はきわめて難解であるものの、それだからといって、簡単に偽造といって済ませるものではないことに留意しておきたい。この辺の諸事情は、拙著『葛城氏』や『紀氏・平群氏』をご参照いただきたい。

  (06.7.13及び20.11.09などに追補)

  続く

次へ   系譜部トップへ  ようこそへ  古代史トップへ