国宝「海部氏系図」への疑問

                                         宝賀  寿男


  本稿は、「国宝「海部氏系図」について」として、『日本姓氏家系総覧』(歴史読本特別増刊、事典シリーズ11、新人物往来社刊、1991年7月)に掲載された論考を基礎にして、若干の加筆訂正をしたものです。

  なお、この見解についての反論も寄せられてありますので、これを 「海部氏系図」及び「勘注系図」についての応答など  に掲上して、その反論と補足説明を加えてあります。 

  系図検討には、様々で広範・総合的な歴史知識が必要であり、また多くの系図にあたって鑑識眼を十分に養う必要があります。歴史研究者には系図史料を軽視する傾向があって、立派な肩書きはあっても、系図関係の鑑識眼をもたない人たちも相当大勢おり、検討の内容を十分に精査することが望まれます。


 
 はじめに

 四十年をはるかに超える期間(HP掲載当時の年数)、多くの様々な系図史料を見てきたところでは、およそ世に伝わる系図の類は、多かれ少なかれ、偽撰ないし仮冒の系譜部分(無意識的な転訛や誤記的記事もあるが)を含んでいると感じる。系図の作成・編纂の目的のなかには、祖先を尊貴の家系につなげて、地位・所領等の様々な功利に結びつける例が多いからである。それが古代まで遡るものについては、殆ど全部といって良いくらい(数値化していうのが必ずしも適当ではないのであろうが、あえていえば九割超というところか)、問題部分がある。とくに、系図の始まり部分(出自部分)や支族分岐の部分に問題が大きいものである。また、総じていえば、系図が何度も書き継ぎ書き換えられてきた事情もあって、史料として肝腎な成立事情・筆者も明らかではないことが多い。
 それゆえか、歴史学界において、系図史料は二次史料、二級史料とされることが多い。だからといって、系図が歴史研究の材料として使えないかというと、決してそういうわけではなく、関連する人間関係を端的に表すものとして、歴史的事件の基盤・背景を把握するために重要だと思われる。要は、系図のどこの記述、どこの部分が信頼できるかできないかということを、一級史料や様々な関連資料を基にしっかり吟味したうえで使用すれば、史実や歴史原型の探索にあたり、その有力な手がかりになるものと考えられるからである。
 こうした一般論は、すべての系図史料について当てはまるものと考えられる。そこには、大家といわれる歴史学者や文化庁、地方自治体の文化関係機関の認定があろうとなかろうと関係がない。系図の上記のような性格からか、系図研究を専門とする学究や知識人は、佐伯有清氏が逝去された後の現存者では、ほとんど皆無に近いからである(論者の学術的な肩書きだけで判断してはならない)。

 いま、国宝・重文に指定されている貴重な系図は少ないが、そのなかでも国宝指定の「海部氏系図」(あまべしけいず)は著名である。その国宝指定の経緯を見るところ、検討や指定の過程は拙速であり、問題点がないとはいえない。加えて、この系図の基礎的な問題点が多くあることを捨象して、「国宝指定」という事情だけで、記事内容に史実性があると考える論及が多く見られる。それどころか、海部氏系図やその関連系図を基に妄論を展開する書や論考も、いまだかなり見られる状況でもある。
 こうした風潮に対しては、冷静で合理的な検討と系譜利用の限界を考える必要があると思われ、現在の事態を危惧して本稿をものした次第である。

 
 一 海部氏系図の概要

 宮津湾と内海の阿蘇海を分けて南北に連なる天橋立の北側、宮津市字大垣に丹後一ノ宮の籠(この)神社が鎮座する。この延喜式内の名神大社(明治四年に国幣中社に列する)には、代々海部(あまべ)氏が祠官(祝部)として奉仕してきており、天火明命を始祖として現宮司海部光彦氏はその第八十二代にあたると伝える。
 同家には古代から伝来の「海部氏系図」(首題に「籠名神(このみょうじん)社祝部氏係図」とあり、別名「海部氏本系帳」という)一巻があり、附(つけたり)の「海部氏勘注系図」(「籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記」、別名「丹波国造本記」といい、こちらは江戸時代の筆写とみられている。以下は簡略に勘注系図という)一巻とともに、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。
 「海部氏系図」の料紙は楮(こうぞ)紙五枚を継いで縦に用いており、巻子本仕立ての一巻(縦二五・三センチで全長二二一・二センチが現存。ただし、第五紙の末端が少し欠損しており、二十センチほどの欠損かとみられる)となっている。その料紙の中央に淡墨の一線を縦に引き、線上に始祖以下の歴代の人名を記している。
 記載は冒頭に「丹後国與謝郡従四位下籠名神従元于今所斎奉祝部奉仕海部直等之氏」(……籠名神に元より今に斎〔いつ〕き奉〔まつ〕る祝部として仕え奉る……)と記し、以下、始祖彦火明命から児海部直田雄祝までを一筆で記されており(ただし、後世の追加筆とみられるものが二個所ある)、歴代人名の上には方六・六センチほどの朱方印の印影がかすかに見られる。系図に記される人名(神名)は合計十八名で、一世代のみ二名の弟を記す以外は、始祖直系子孫のみで十六世代(途中に世代の省略がある)を掲げ、記事は簡素である。歴代の記載は、人名の表記及び注記の内容により、@「始祖彦火明命」から「孫健振熊宿祢」に至る上代(三代)、A「児海部直都比」から「児海部直□□(一説に「勲尼」)」に至る海部管掌の時代(五代)、B「児海部直伍佰道祝」以降の、人名の末尾に祝部を称する時代(八代)、に大別されており、伍佰道祝以降には各々祝部として籠名神社に奉仕した期間が注記される。
 同系図は巻末の欠損があり、最後の「児海部直田雄祝」の注記部分を若干欠くとみられるが(「従嘉」という記事のみ残り、嘉祥□年〔西暦八五〇年前後〕よりの意)、籠名神を従四位下と記しているので、貞観十三年(八七一)から元慶元年(八七七)の間の成立と認められるとされる。本文の体裁は竪系図(たてけいず)の古態をよく存し、正史に見えない古代地方豪族の変遷のあり方を伝えて、わが国の歴史研究上もその価値が極めて高いものとして、一般に評価されているものである。
 
 二 海部氏系図の再評価の必要性

 「海部氏系図」(以下、「本系図」とも記す)は歴代相承の秘伝として扱われてきたことで、みだりに部外者の拝観が許されず、明治以降その原本について親しく調査した学者はきわめて少なかったといわれる。その内容は、『與謝郡誌』(大正十二年〔1922〕刊)等で一応学界に知られており、昭和八〜九年には石村吉甫・山本信哉両氏による紹介・検討もあったが、全体写真は公表されず、詳細な調査もなかった模様である。
 東大史料編纂所に長く勤めた中世史料学の大家・村田正志博士は、「かような稀世の古文献は、ただに海部氏の家寶たるばかりでなく、國家社會の文化財であり、重寶であることは今更言を俟つまでもない」という認識のもとに、昭和四九年、当時の宮司故海部穀定(よしさだ)氏の承諾を得て、赤松俊秀京都大学教授、山本信吉氏(信哉氏の子息で当時、文化庁勤務)とともに、原本について仔細に調査した。これをうけて、村田博士などの骨折りで、本系図がその重要性を高く評価され、昭和五十年(1975)六月に重要文化財に、その翌五一年六月には国宝に指定されたものである。

 こうした経緯から見て、相当程度迅速に国宝に指定されたものといえよう。それ以前には、本系図についての論考が非常に少ない状況であり、戦前の石村吉甫氏、戦後では昭和四七年の後藤四郎氏の論考が目立つ程度である。その後、現在に至ってもあまり多くはなく、滝川政次郎氏、金久(かねひさ)与市氏の論考・著作などがあるが、国宝指定という事情を踏まえてか、海部氏系図についてその評価の高いことを陳述するものはあれ、疑問提起や史料批判をするものはほとんど管見に入っていない(その後、若干の論究は見られるが省略する)。
 この間、系図の専門家というべき研究者の言及は少ない。太田亮博士が『宮津志』を引用して本系図を紹介しているが、同書が「祝」を「税」(主税〔チカラ〕)と誤読したものをうけたこともあって、天平の「但馬正税帳に見ゆる海直忍立の見えざるは不審と云ふべし」という程度の記述をしている。
 「海部氏系図」に見える歴代十七名(始祖の彦火明命を除く)については、他の史料にまったく所見がなく、実在性の傍証もない。この事実一つを取りあげても、科学的歴史学にあっては、本系図をまず疑問視するべきものではなかろうか。これを、正史に埋もれた古代地方豪族の史料だといっても、その信頼性の裏付けにはなんらならない。

 国宝指定に奔走された村田博士は、古文書学の大家であっても、その専門分野は主に中世史であり、古代氏族の系譜に通暁しているとは思われず、この関係の論考も少ないようである。国宝等の指定には、文化財保護審議会などで多くの学究も関与しており、村田博士だけの判断による指定ではないことは勿論であるが、海部氏系図について厳しい史料批判ができるような研究者が、関係の文化機関のなかに当時はいなかったようである。そもそも、わが国の歴史学界においては、古代氏族の系図に詳しい人は数少なく、系図学は無視されるに近い状況でもある。
 歴史学者は、日頃、各種の系図があまり信頼できないことを言い、そのため、石橋を叩いても渡らないような厳しい吟味・検討を説く学究が多いなかで、海部氏系図の史料批判だけを手抜きにすることは許されない。本系図については、私は、以下に記すように様々な諸点で疑問の大きなものとみているところである。

 
 本系図が高く評価される所以の検討

(1) 作成は平安初期か
 本系図が貴重とされるのは、前述のように九世紀後半(871〜877年の間)の作成とみられており、承和年間(834〜848)作成の「円珍俗姓系図」(園城寺蔵で、国宝『智証大師関係文書典籍』のうちにあり、円珍の自筆書入れもある)とともに、系図の現存する最古級の原本と認められてのことである。しかし、果たして、実際にもそうなのだろうか。
 この作成時期の推定に当たって、次の二つの事情が基礎にある。まず、系図冒頭に「従四位下籠名神」と記されることから、籠名神が従四位下を授けられた貞観十三年(871)六月より、従四位上に昇叙された元慶元年(877)十二月までの間の作成とされる。次に、末端の闕失のある系図の最後の者である田雄祝について、「勘注系図」に基づくと、「従嘉祥元年至于貞観六年合十六年奉仕」(848〜864)と記事が本系図にあったのではないかと推測されるという事情もある。
 このため、村田博士は勘注系図の記事に基づき、「本系図の作者は田雄の子の稲雄であり、その筆になることが確認される」とまで言い切っている。恐ろしいほどの確信であるが、これはまったくの想像にすぎない。勘注系図の奥書記事には、「至于貞観年中海部直田雄祝等奉勅撰進本系」とあって、神階昇叙時期との間で整合性が必ずしもとれていない可能性がある。勘注系図では稲雄の祝奉仕期間は865〜889年とされるが、田雄祝はいったい何時まで生存していたのだろうか。本系帳を撰進するのは当主たる祝の役割ではなかったのか。奥書には、貞観年中に田雄が本系を撰進し、さらに仁和年中(885〜889)に稲雄が修録したとされるが、そもそも、勘注系図の信頼性がはたしてどこまであるのかという問題もある。

 この「勘注系図」とは、海部氏本系図に付属して記事を大幅に増補し補注を加えたもので、同様に竪系図の書式で記載されているが、この勘注系図自体がきわめて疑問の多い記事を含む系図であり、これ自体が問題とされるもの(従って、厳しい史料批判を要するもの)である。不確かな史料で、海部氏本系図の信頼性を支えることはできない。
 勘注系図の末尾にある同筆の奥書等についての村田博士の筆跡鑑定に拠れば、書写の時期は江戸幕府三代将軍家光の寛永年中であって、筆者は海部勝千代(第七〇代永基のこと)とのことである。同系図の全文について私は原物を見ていないが、刊本等で紹介される内容を見る限り、『旧事本紀』天孫本紀等の影響を強く受けておりその誤りもそのまま受け継いでいる
 従って、その成立も『旧事本紀』が流布した中世以降のある時期ということが考えられる。本系図に解読不能に近い二文字の欠損があり、勘注系図の「勲尼」という読解に疑問がある事情からみて、本系図と勘注系図の成立にはかなりの間隔があったとみられる。滝川政次郎氏がいうように、勘注系図には『丹後国風土記』逸文が含まれているとしても(これも後で言及するが、一般に「残欠風土記」といわれるもので、『風土記』の逸文ではないことに注意)、勘注系図には疑問点が極めて多く、同系図を重要視することは学問的に極めて危険であるといわざるをえない。
 海部氏本系図のほうには天孫本紀の影響がないとしても、その紙質及び筆勢によって、成立時期を平安初期と断定するのはまず無理な話である。従四位下という神階と末尾の人名も、系図の作成が貞観ごろとみられるように作為することも、籠神社の祠官家の人であれば可能であろう。このように疑えば、本系図の作者はもちろん、その作成時期も不明というほかない。だいたい、第五紙の巻末部分が約二〇センチほども欠損していること(第一〜第四紙が四八、九センチの長さにかかわらず、第五紙は二七・五センチで明らかに途中で切れている)も不審である。
 
(2) 平安前期に撰進された諸社祝部の本系帳との関係
 古代における氏姓の混乱に対処して、有力諸氏に各々本系帳を進上させることは奈良時代に始まるが、平安時代になっても延暦、貞観には本系帳が奉られた。諸国の諸神社の祝部氏人の本系帳は、既に貞観年間から毎年、朝集使に対して提出されていたが、元慶五年(881)三月からは、これを三年毎に進上すべきことが規定された(『類聚三代格』『三代実録』)。このような本系帳では、現在完全に残るものは一つもない。
 海部氏系図が本系帳であるかどうかについては、石村吉甫氏は、延暦十八年(799)十二月の勅や「大中臣本系帳」などを検討して、「本系帳は、その記述方法に於いて、将又その組織に於いて、自ら系線を以て綴られた系図とは趣を異にし、一門の系譜を明確にする門文が集積圧搾され、その本系を明にせるもの」であると考えて、本系図を本系帳と認めることはできないと結論づけた。
 延暦十八年の勅では、本系帳は、始祖及び別祖等の名を載せしめ、枝流並びに継嗣の歴名は列することなかれ、とあるが、この記載方法が海部氏系図の記載(始祖以下重要な事績のある者と祝の直系者だけを掲げて、その他の者に及んでいない点)と一致すると山本信哉氏は指摘した。この見解をうけて、後藤四郎氏は、本系帳の作成と本系図との間に密接な関係を考え、「海部直家に於いて、伝来の系譜や門文などに基づいて本系帳を作成した時、その写を作成すると共に、系線を用いる系図形式により、この竪系図を作成したではあるまいか」と推測している。
 しかし、この推測に裏付けがあるのかどうかは疑わしい。石村氏が指摘するように、「巻頭に同筆を以て籠名神社祝部氏(ママ)図の文字が書かれて居るが、本系帳の巻首に系図の文字が用ひられたことは其例を見ない所」であるという問題点がある。佐伯有清博士は、勘注系図の奥書に注目して、「貞観期の本系帳が系図であったことを推察させる」とする。すなわち、本系図は本系帳そのものの書写とする山本説をとり、石村説をしりぞけたが、疑問な見解といえよう。勘注系図の記事そのものに疑問が多いうえに、本系帳の基準に合うとは思われないからである。系図だけの本系帳を考えるのは、他の時期の本系帳とは異なるものとなる。

 「本系帳」とは何かという問題については、『群書類従』系譜部三所収の「中臣氏系図」に延喜本系解状とあり、『政事要略』に見える多米宿祢本系帳、丹生祝氏文の本系帳的な性格、また『新撰姓氏録』逸文のなかの「鴨県主本系」「賀茂朝臣本系」の例からみても、系図そのものが本系帳とは考え難い。また、後述するが、籠神社祠官家の系図実態が丹波国造家の支流という史実から考えても、別祖ともいうべき者の記載がないという問題点がある。延暦十八年(七九九)の勅も元慶五年(八八一)の記事も、ともに六国史(『日本後紀』『三代実録』)にあり、これらの記事に合わせるように本系図が作成されたとも考えられなくはない。
 
(3) 各人名の上に押捺される角形朱印の意味
 文書に権威を与えるとともに、その内容を保証し、改竄を防止することが朱印の目的とすれば、本系図の二十七、八個の朱印は、その重要性を示すものとみられている。この印文は不鮮明であり、従来は「與謝之宮」だろうとみられたが、解析写真撮影による調査の結果、「丹後国印」と確認されたとのことである。
 この解釈として、村田博士は、「右系図は作成の後に、丹後国庁に提出され、公認の証として国印が押捺された」とみているが、そもそも系図にこうした国衙認証の仕組みがあったかどうかは不明である。この朱印が丹後国印と読めるとしても、当時の官印かどうかの確認もなし難い。従って、朱印押捺を重視するのもいかがなものであろうか。石村氏は本系帳であることを否定し、これをうけて後藤四郎氏は、官に提出したものの控えとみており、その場合にどうして官印が押捺されるのだろうか。朱印押捺はかえって造作ではないかと疑われ、疑問の大きいところである。
 
 本系図の記事内容の疑問点
 海部氏系図には上掲の問題点に加え、記事内容においては以下にあげる疑問点が数多くあり、信憑性が高いという心証を形成するのは極めて困難である。順不同で要点を簡略に記すと、次の通りである(詳しくは註のほうで記載する)。

(イ) 海部直都比、海部直縣、……という表記法は疑問である。大化前代、庚午年籍以前の者については、例えば都比直という「名前+姓」の形の記載が当時は一般的であり、姓氏を先にあげて名前を記すような形で、しかもそれを繰り返すような表記は、他にあまり例を見ない(管見に入った唯一の例は、内容等に疑義が残る九条家に秘蔵されてきたという『粟鹿大明神元記』にこうした表現があることも指摘されるから、平安時代のある時期に日本海沿岸地域に通行した表現かもしれないが、これはまずありえない)。この表記法に関しては、同じく国宝指定を受けている「円珍俗姓系図」と比べれば、海部氏系図の表記の奇妙さがよく分る(この円珍系図は成立や伝来の由来が正しいが、それでも、内容的には多くの疑問がある)。

(ロ) 名前が他見に殆どない奇妙なものがかなりある。都比、阿知、力(おそらく刀の誤記か)はともかく、伍佰道、愛志、望麿、雄豊という名前は他見がなく、奇妙である。勘注系図に見える勲尼(本系図では読解不能で□□と表記しており、勘注系図は解釈による表記)という名も同様である。

(ハ) 彦火明命が天押穂耳尊の第三子とするのは疑問である。火明命については、物部氏系統では同尊の長子と伝え(『古事記』も同様)、また瓊瓊杵尊の子とする伝(『日本書紀』の本文、一書)もあるが、本系図のような記述は他見にない。

(ニ) 彦火明命が尾張連の祖と伝える火明命と同神だとしても、その三世孫に倭宿祢命という名は他書に見えない。これが、勘注系図等に天忍人命の別名とするのも疑問である。海部氏が尾張連支流という系譜を唱えるのなら、肝腎の尾張連の始祖たる高倉下(天香語山命)を書き込まない本系図は、いったいどこに意味があるのだろうか。

(ホ) 応神朝の健振熊宿祢から天武・持統朝ごろの伍佰道祝までの世代数が少なすぎる。大多数の古代氏族の系図では応神朝の者から天武朝の者まで十世代ほどあるが、本系図では七世代しかない。健振熊宿祢と海部直都比との間の「」が世代の省略を意味するのだとしても、祠官家では稲種命と伝えるというのみである。

(ヘ) 伍佰道祝、愛志祝、千鳥祝の奉仕年代に整合性がない。とくに伍佰道祝の記事「従乙巳養老元年合卅五年」には問題がある(乙巳から養老元年までの任期は、645あるいは705から717年までで、35年にはならない。世代的に考えると、実際には「645〜?」という解釈が妥当のようである)。

(ト) 丹波国造の姓氏は丹波直であって、海部直ではなかった。それにもかかわらず、本系図では海部直を丹波国造の地位にあったとしている(なお、丹波・丹後の分離は和銅六年〔713〕)。氏姓国造で大国造は、地域名を氏としており、そのことの例外になるのは不自然である。また、海部直氏が応神朝に国造として仕えたとしたら「国造本紀」の記事との関係でも疑問が大きい

(チ) 「但馬国正税帳」に見える天平ごろの与謝郡大領海直忍立が見えない。忍立が傍系の人で見えないのか、本系図に問題があって見えないのか。海部直氏は、大化改新後に籠神社の祝に奉仕する一流と与謝郡の郡司に任ずる一流とに分かれたのではなかろうかという推測もあるが、大化頃に祭政分離がなされた例は氏姓国造では見られない。出雲国造・紀国造・阿蘇国造などの諸国造の例と比較しても、こうした推測は疑問が大きいものである。

(リ) 丹後の海部を管掌する伴造の姓氏の表記は「海部直」だったか。『今昔物語』巻廿三でも、丹後の海ノ恒世という相撲人が見え、前掲正税帳とあわせて、「海直」と記された例しか管見に入っていない。同族とみられる但馬海直(『姓氏録』左京神別)もあり、海部直という表記は、中世の苗字の海部氏に由来するものではなかろうか(他の地域には海部直が居たが、丹後での主な表記が海直ではなかったろうか)。

(ヌ) 千鳥(千嶋)祝の世代だけ、なぜ兄弟を記すのか。勘注系図にその弟の海部直千足を丹波直足嶋の父と記すことにも姓氏変更の点などで疑問が大きく、勘注系図の記事に基づき三兄弟の記述を説明することは無理であろう。なお、『続日本紀』和銅四年(711)十二月条に犯罪者丹波千足、「但馬国正税帳」には丹後国少毅無位丹波直足嶋が見えるが、別系統で姓が異なる丹波氏(渡来系の東漢直氏一族)の者を同族系図に入れ込むのは笑止でさえある。

(ル) 本系図が本系帳ではないならば、「円珍俗姓系図」のように記事や系図の内容がもっと豊富であってもしかるべきではないか。

 このほかにも、海部氏系図には疑問が多いが、勘注系図等もあわせて貴重な古伝が含まれる可能性もないわけではなく、一概に全ての記事の否定に走る趣旨ではないことも付記しておきたい。
 
  次頁へ続く


 <ご参考>

  ここでは、註記なしに記しましたが、詳しい註つきの記事を、宝賀寿男著『越と出雲の夜明け−日本海沿岸地域の創世史−』(2009年1月刊)の第四章「国宝「海部氏系図」の疑惑」として掲載していますので、ご関心の方は本書をご覧下さい。
 また、海部氏に関連する尾張氏については、同じく宝賀著尾張氏で多くの説明をしていますので、ご関心があれば、併せてご覧ください。


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