(国宝「海部氏系図」への疑問 2頁) 三 丹後の海部氏の出自とその一族
丹波国造の系譜 宮内庁書陵部には「尾張氏副田佐橋押田系図」という系図が所蔵されている。同系図は、天火明命(一名笠水彦命)を初代として、その第十一代に淡夜別命、その子に大倉岐命をあげる。この者が「国造本紀」の丹波国造条に志賀高穴穂朝(成務天皇朝)に国造に定め賜うと記される大倉岐命である。以下、その四世孫まで記されるので、次にあげる。
この系図部分の出典は同系図末尾の記載より、「丹波宿祢度会神主石部直等の系譜」と知られるが、どこに所蔵されていたのか、現存するのかなどは不明である。ところが、明治期の系図研究者で膨大な系図史料の採録者であった鈴木真年翁(1831生〜94没)は、丹波宿祢の系図を収集し、その著作『華族諸家伝』『史略名称訓義』等に記述しており、前者の錦小路頼言条には次の記載がある。
「……天村雲命十世孫大倉岐命志賀高穴穂朝五年九月丹波国造ニ定賜ヒ其孫小和志直弟佐布古直二人アリ佐布古誉田天皇御宇海部トナリ其孫大佐々古直泊瀬朝倉朝二十二年豊宇気大神ヲ供奉シテ伊勢国度会ノ山田原ニ鎮座ナシ奉ル外宮是也大佐々古ノ裔度会神主ナリ小和志直ノ後裔丹波国造ヲ世襲シ八世ノ孫丹波直古米難波長柄朝天田郡大領ニ任シ小山上トナル十一世丹波ノ直康頼天田郡ニ生レ医ヲ学テ神ニ通ス……」
こうした丹波国造系統の系図は興味深く、世代的にみても内容的にも説明が良くつくものであるので、現在の変容した伝承の原型に近いものを記しているのではないか(海部氏系図よりははるかに信頼性が高い)、と考えられる。具体的にあげると、 @ 堂上公家の錦小路家を出す医家丹波氏について、後漢霊帝の東漢直一族丹波史氏の系に附会した系譜が『尊卑分脈』などで流布しているが、実際には丹波国造の後裔であり、丹波国の天田郡領家の出であった。
A 伊勢外宮の豊受大神は、雄略朝に丹波国真井原から伊勢国度会に遷座した(これは籠神社祠官家でも同様に伝える)。このとき、この神を供奉したのが丹波の海直の一族であり、伊勢に遷って度会神主や石部直(磯部直)らの祖となった。度会神主の系を伊勢国造の一族とする系譜は後世の仮冒である。
B 応神朝に海部を賜ったのは、海部氏系図に見える健振熊宿祢ではなく、丹波国造系図に見える佐布古直である。丹後の海直は丹波国造家(丹波直)の支流であって、海部を管掌した伴造であり、国造家ではなかった。籠神社祠官家海部氏は雄略朝の小佐々古直の後裔で海直姓であった。なお、海部の設置は、『書紀』応神五年八月条に見えるので、これを本系図に取り入れ、併せて国造に任じたと虚偽の記事を書き込んだのが勘注系図ではなかろうか。
C 億計・弘計両王の丹波国余社郡への避難(顕宗即位前紀に見える)や丹波の釆女直についても、年代等で諸伝と整合性がある。両王の余社郡避難は国造稲種直のときと伝え、これは勘注系図でも同様な伝承が見えるが、稲種直を海部氏の祖・阿知の兄弟に置き「丹波国造海部直稲種」と記して、丹波直と海直の混同がある。
最後に、丹波国造が出自したと称された尾張氏族について、要点だけ触れておく。
上古の筑前海岸部に発した海神族のなかで、阿曇連は海神綿積豊玉彦命の後裔として名高く、『新撰姓氏録』もそう伝え神別地祇に分類するが、この一族の広い範囲には、後世に系譜を仮冒して皇別とか天孫に出自を仮装した大きな分流がある。それが和珥臣・小野臣などの和邇氏族(孝昭天皇後裔と称するが、実は阿曇同族)、および尾張連・津守連などの尾張氏族である。
尾張連は豊玉彦命の子の振魂命(布留多摩乃命。一伝に笠水彦命ともいう)に出て、倭国造・掃守連と同族であり、記紀編纂頃までにはその遠祖を天孫族(皇統)の天火明命に変換させていた。これら一族には海人性が後世まで濃厚に残っており、綿積諸神や豊受大神・宗像三女神などを奉斎して「海神族」と総称してよいものである。
勘注系図と残欠風土記
「海部氏系図」を検討するときに、関連して検討を忘れてはならないのが勘注系図と残欠風土記という両書である。 「勘注系図」は、江戸期の作成ないし書写ではないかとする見解を先に紹介したが、海部氏系図を『旧事本紀』「天孫本紀」の尾張氏系図などの知識を加えて大補充したものであって、平安前期より前の部分は、まったく意味をもたない。それどころか、様々な意味で有害である。それ以降の系図は田雄の孫世代まで及んでいるので、平安前期の範囲に記述はとどまる(全体の系図の詳細も刊本として公開されているが、実物の写真全ては入手しがたい事情にある)。 そもそも、天孫本紀の尾張氏系図の記事には様々な混乱があるのをそのまま引き写し、そこにすら見えない人物をいい加減に多数書き加え、その記事を付けた偽撰系図そのものであり、このような系図まで「附」として国宝指定をするのは、関係者の学究としての見識がおおいに疑われる。 だいたい記載内容が支離滅裂のかぎりで、本来の海部氏系図に尾張氏、和珥氏、倭国造氏の系図を勝手に混合させている。倭宿禰(椎根津彦と同人という解釈がなされている)と尾張連の祖・高倉下命(椎根津彦と同じく神武朝の人)との関係さえ、混乱している状況である。同書奥書には、「豊御食炊屋姫(註:推古)天皇御宇に国造海部直止羅宿祢等が丹波国造本記を撰した」という記事があると報告されるが(刊本では確認できない)、この表現には多くの誤りがある。
海部直氏は丹波国造ではないというのが史実なのに、何度も繰り返される重大な誤りが一連の史料の根底にある(これは、伝来者の籠神社祠官家の主張にすぎない)。いま勘注系図の別名が「丹波国造本記」とされるが、この推古朝までの系図がその当時撰せられたとしたら、現在に伝わる内容のはずではありえないほど杜撰な記事内容なのである。「海部直止羅宿祢」という表記形式そのものがおかしいほか、止羅宿祢なる者は系図のどこに現れるのだろうか。 次に、勘注系図のなかに見える、「丹後風土記残欠」いわゆる「残欠風土記」の問題がある。同書に見える「丹波」という名の由来では、天道日女命らがイサナゴ嶽に降臨した豊宇気大神に五穀と蚕などの種をお願いしたところ、嶽に真名井を堀って水田陸田に潅漑させたので、秋には垂穂が豊かな豊饒の土地となったということで、大神は大いに喜んでこの地を「田庭」といい、天に帰ったという伝承を載せる。これが丹波の語源となったといい、この記事が勘注系図にも同じく見える。「諸国名義考」にも丹波は「田庭なるべし」とあり、古代の丹波郡あたりは実際にも豊かな土地であって、丹波は宮廷の大嘗祭の主基国にしばしば当てられた。しかし、これら「田庭」起源説は、当地の国造一族が豊受大神を奉斎したことからくる説話にすぎない。 また、丹波方面で彦坐王が討ったと崇神記に見える「玖賀耳之御笠(陸耳御笠)」についても、「残欠風土記」に見える。同書の記事では、玖賀耳之御笠の拠った地が丹後の青葉山(舞鶴市と福井県大飯郡高浜町の境界にある山で、若狭富士、標高は六九九M)とされるが、これも疑問が大きい。すなわち、仁徳天皇の宮人「桑田玖賀媛」などから見て、丹波国桑田郡という説(太田亮博士)があり、この点や山城国乙訓郡には久我の地があったことからいって、丹波路の入口にあたる乙訓郡あたりから丹波国東南部にあたる桑田郡にかけての地域を、大和王権の先兵としての彦坐王一族の勢力がまず押さえて「丹波道主命」と称せられたと考えるのが妥当であろう。この地域に居て抵抗した土着勢力が玖賀耳だと畑井弘氏もみている(『天皇と鍛冶王の伝承』など)。
これに限らず、「残欠風土記」の記事は、加佐郡の記事しかなく、同郡に都合の良い内容といい、「丹波国造日本得魂命」(倭得玉彦命は尾張氏の人で、かつ、丹波国造ではない)とか「丹波国造海部直等の祖が笠津彦神夫婦」(海部直は丹波国造ではない。笠津彦は勘注系図に見える)などの疑問な表現といい、数多くの疑問がある。同書には、「海部氏系図」「勘注系図」などに共通の表現があって、これら系図と同様の一派(籠神社祠官家海部直氏の関係者)による後世の偽作とみられる。大聖院や阿良須神社など何か所かに伝本する「残欠風土記」については、村岡良弼・井上通泰らによって偽撰説が主張され、これが通説となっている。つまり、「残欠風土記」は『丹後国風土記』の逸文ではない。滝川政次郎氏の判断が誤っているということでもある。
深く関係する両書が偽撰・偽書だからといって、「海部氏系図」が直ちに偽撰とはいえるものではない。しかし、祠官家海部氏が出た海直が丹波直の支族にすぎないという事実は、「海部氏系図」には見えず、別祖を的確に記載していないということなどで、本系帳の要件を満たしていないことは明らかである。 これらに関連して、尾張氏や海部氏につながる度会神主氏や六人部氏でも、偽撰系図を現在に伝えており、これら系図に限らず、この一族に関連する系図史料は偽作に溢れている。 四 一応の結論と今後の取扱い
以上の検討を踏まえて、そろそろ一応の結論を出しておくことにしたい。 籠神社祠官家海部氏は、海神綿積豊玉彦命に発する笠水彦命を祖とする地祇海神族の尾張氏族の一大分流と称する丹波国造家の支流であって、海直という姓氏をもち、古代以来の由緒をもつ名家であった(その名家性を否定するものではない)。 その系譜は、記紀や『新撰姓氏録』等の記述に基づき平安期までに何度か改編されていたが、上祖と称する天火明命以来の歴代の系譜を伝承していた。ところが、竪系図の伝統を残す時代(おそらく平安中期頃までか)のある時期に古伝・秘伝の系譜を滅失してしまい、その当時の氏人の朧気な記憶を頼りに復元を試みたものの成果が現存の「海部氏系図」ではなかろうかと推定される。同様な例は、武蔵国高麗郡の高麗氏系図にも見られる。これでは、海部氏系図が「現存する日本最古の系図」と言えるはずがないし、十分な注意力・批判力をもった検討なしでは、丹後の史実探究の手がかりにもなりえない。 ましてや、「勘注系図」の記事には呆れかえる以外の言葉を知らない。この記事の内容を素朴に受け入れる研究者の古代史の認識・知識には絶句する。天火明命が丹後に天降りしたなど、この神の実体が分かっていれば、まず切り捨てるべき所伝である。 ただ、海部氏系図が歴代の名前などを含め不正確であったとしても、「海部直」が付せられる最初の人である都比以降は、ある程度史実を伝えている可能性もあるのかもしれない。その場合、都比は籠祠官家の所伝でも安康・雄略朝の人とされるから、丹波宿祢系統の系図に見える雄略朝頃の海直初代の「小佐々古直」(兄弟の名乗りからみて通称とみられる)に同人として重なることも考えられる。
実はまだ問題点がある。丹波国造家の系譜については、本稿の本となる論考を「国宝「海部氏系図」について」として、1991年刊行の『日本姓氏家系総覧』に掲載したときには、所伝のとおり尾張氏族と考えていた。ところが、その後に丹後・但馬から越後にかけての日本海沿岸地域の創世史を様々な角度から検討するうち、崇神朝に丹波道に派遣された彦坐王の子の丹波道主命(名は彦多々須)の嫡統が丹波国造家とみるのが妥当と考えられるようになった。海部穀定氏の著作からも、海部氏の先祖が丹波道主命だと示唆する記述がある。
彦坐王は記紀では崇神天皇の兄弟として皇室系譜に位置づけられるから、それでは海部氏は開化天皇後裔という皇別の姓氏だったのかということになるが、実はこれも実態ではない。彦坐王の系譜はきわめて複雑であるが、ここでは結論だけふれておくと、やはり海神族の流れを汲む磯城県主(三輪君と同族)の支流であって、初期天皇家との頻繁な通婚のなかで暫時天皇(大王)の位置を預かった者の子孫と考えられる。その意味で、丹波道主命の後裔が石部(磯部)を本姓とし、丹後や但馬の一族に海直を出し、豊受大神を奉斎してもなんら不自然ではないことになる。
本稿が問題提起の論考であることを意識しつつも、これが一投石になって、「海部氏系図」や海神族に関する研究・論議の活発化につながることが望まれる。ただ、最近の動向を見ると、拙稿に異論をはさむ向きもかなり多いのではないかとさえ思われる。それでも、系図研究の基礎知識を十分に備えたうえで、冷静かつ活発に合理的な議論をされることが期待される。
また、「海部氏系図」と勘注系図とはまったく別物であり、成立時期からいっても相互に補完しあうものではないことも明確に認識されたうえでの検討が必要である。勘注系図については、平安前期の稲雄以降の二世代の系図の部分についても、その信頼性の有無を具体的に検証すべきであろう。「久」一字の名前が丹後の地方豪族に用いられるはずがない。 海部氏系図(というより、同系図は記事が少ないので、むしろ勘注系図のほう)を鵜呑みにした史論(試論)の展開は、おそらく金久与市氏の『古代海部氏の系図』(1983年刊、その後に新版もある)に始まるのではないかとみられ、最近では倉橋秀夫氏(倉橋日出夫。ネット上のHP「古代文明の世界へようこそ」)や伴とし子氏(『古代丹後王国はあった−秘宝「海部氏系図」より探る』1998年刊、などの著作)がこれを承けており、もう一つの天孫降臨伝承とか海部氏系図にいた女王卑弥呼とかいう妄論を展開している。海部氏系図と邪馬台国とはまったくの無関係であって、これらの所説は私には信じがたいことである。
要は、きちんとした的確な古代系図の知識のもとで議論されることが望まれる。故近藤安太郎氏もいうように、「系図については鑑識眼が必要」なのである。こうした眼ないし判断力なしに系図を取り扱うのは、系図を、そして古代史を、弄ぶものとしてしか受け取れない。 製鉄鍛冶部族である東夷系の天孫族と海人色の濃いタイ(越)系の海神族を混同する古代氏族系譜の見方では、史実の解明がほど遠いといわざるをえない。「天孫本紀」記載系図の最大の欠陥は、通婚があったとはいえ、天孫族系の物部連氏と海神族系の尾張連氏とを同族としたことであり、これを安本美典氏なども簡単に受け入れているが、問題が大きい(習俗・トーテムなどが異なる)。火明命も物部連の祖・饒速日命も同じ天孫族の一員であるが、両者は別人である。火明命は海直など海神族系統の遠祖ではないし、丹後に天降りしたはずもない。 先年亡くなられた佐伯有清博士は、「海部氏系図」について貞観期の本系帳とみて、そのまま著作に引用される。古代氏族の系図として評価していたことは分るが、その詳細な評価・分析の著作は残らない。佐伯博士の『古代氏族の系図』(1975年刊)という著書でも、利波臣・伊福部臣・和気公(円珍系図)や鴨県主という古代氏族の主な系図は具体的に取り上げるのに対し、海部氏系図は取り上げられていない(なんらかの言及が欲しかったところである)。
また、田中卓博士は「海部氏系図」を高く評価し、その著作集のなかに同系図を紹介し、勘注系図などと照合して校訂した系図記事を記載する。ところが残念なことに、神道研究の伝統を源流とし神職育成の役割をもつ皇學館大学長という経歴が桎梏や遠慮になってか、田中博士は社家に伝わる系図については、批判的な研究姿勢がきわめて弱く、明らかに偽作の「六人部氏系図」についてもこれを受け入れている始末である。これでは、なんのための古代史学研究の大家なのかと疑わざるをえない。田中博士の業績を評価し、多くの学恩を感じてはいるが、これらの姿勢には疑問を感じるところもあるという意味である。
系図や各種史料を伝来してきた者、所持者に遠慮したなれ合い的な傾向をもつ従来の系図研究方法を排し、大家の権威におもねずに、厳しい史料考証を行い、関連諸分野とも整合性のとれた系図学研究が進展することを期待する次第である。 歴史研究においては、多くの史料を総合的に考察し、ときに断片的な資料を他の資料と照合してその背後にある史実の全体像を把握することが必要である。だから、それとは表裏一体の姿勢で、偽作偽撰の資料・記事を冷静厳格に排除していくことが必要となる。この史料選択が全部排除に直ちにつながることのないように十分留意する必要があるが、こうした基礎作業なしには、せっかくの立論も砂上の楼閣となるおそれが強くなる。ただでさえ偽撰資料が多い系図研究の分野では、史実や系図原型の探究のためには、偽系図との厳しい闘いが大きな課題であることを改めて認識する次第である。
〔主要参考文献〕
ここでは、準備した詳細な註を掲載量の制約からつけなかったが、以下にあげる主要文献を見てもらうと、註のかなりの部分は説明できるのではないかと思われる。いずれ、本論考に詳しい註をつけた形のものを、何らかの方法で(例えば、『古代日本海沿岸地域の創世記−古代氏族系譜から見た考察−』という標題のもとに関係論考をまとめて)、公刊を考えたいと思ったが、これは、その後に『越と出雲の夜明け』という拙著で実現している。 1 『京都府與謝郡誌』1923年刊(1972年復刻)
2 石村吉甫「解説・籠名神社祝部氏系図」「本系帳考−籠名神社祝部氏系図再論−」(『歴史地理』第六二巻第三・四号、1933・34年)
3 後藤四郎「海部に関する若干の考察−海部系図を中心として−」(『続日本古代史論集』上巻、1972年)、「海部直の系図について」(『日本歴史』第329号、1975年)
4 村田正志『村田正志著作集 第六巻』第一章第三節の第一「海部氏系図 附海部氏勘注系図」1985年刊。「海部氏系図の複製と押捺印章の解明」(『日本歴史』第477号、1988年)
5 滝川政次郎「丹後国風土記逸文考−その逸文を含む海部氏勘注系図の検討−」(『日本歴史』第480号、1988年)
6 田中卓「『海部氏系図』の校訂」(『日本国家の成立と諸氏族 田中卓著作集2』所収、1986年)
7 祠官家関係者の著作では、
海部穀定『元初の最高神と大和朝廷の元始』1984年刊
海部光彦『元伊勢の秘宝と古代海部氏系図』
(07.8.10 掲上、9.2及び9.15などに微修正)
具体的な系図の比較検討に関しては 国宝『海部氏系図』の偽造性 へ <追補1> 通字から見た海部氏系図の疑惑 1 命名法のなかに、一族が名前の一部を共有する「通字」という習慣が中国や朝鮮と同様に日本でも平安前期くらいから見える。父祖一族が同じ漢字を共有する「歴代通字」が最も有名で、平安後期・中世で広く普及したが、通字には変遷もある。すなわち、導入期には「兄弟通字」(兄弟だけが共有)がかなり徹底して行われ、過渡期には「父祖通字」(父祖の一字を用いる例)も多く見られる。こうした通字の傾向に着目して、古代氏族の系図の検討をすることも可能となる。 2 「海部氏系図」については、兄弟通字を考えたときに「海部氏系図」への疑惑はさらに強まる。同系図では八世紀前葉の養老年間の祝(祠官)とされる海部直千鳥の弟に千足・千成があげられているが、これはわが国の通字の通例よりも百年ほども早く、この時期に辺地の丹後において兄弟通字の命名法が見えることは、きわめて奇異である。 この点からも、兄弟通字がわが国に浸透した貞観期から平安中期頃までの期間(大掴みでいうと、九世紀後半から十世紀代の頃)になされた系図造作を考えざるをえない。 これは、同系図に関する上記の諸疑問とも符合する結論でもある。 (07.8.26掲上) <追補2> 国宝「海部氏系図」や勘注系図とは別本の海部家の系図
一
「海部氏系図」に関連して、籠神社海部家にはまだ全容(ないし実態)が公開されていない先祖伝来の系図がある。それは、「現宮司海部光彦氏が第八十二代」とか「第七〇代が永基」とかと数えられる基礎となる歴代の系図であり、滝川政次郎氏が現代に至る直系だけの系図であるが、これを「海部氏全系図」と呼んで(本HPでは、たんに「全系図」とも呼ぶ)、その論考(「丹後国風土記逸文考−その逸文を含む海部氏勘注系図の検討−」『日本歴史』第480号、1988年)で紹介している。記憶違いではなければ、この別本の「全系図」を紹介したり言及するのは、滝川博士だけである。その後も、これが公開されたことは耳にしていない。 論考の記事によると、その系図は、「光彦氏から貰った「海部氏全系図」一巻」であり、「海部氏の始祖火明命よりその第八十一代の孫である前籠神社宮司海部穀定氏に至るまでの海部氏当主の名を書き連ねたものである」と滝川氏は記すが、その貰った系図が写真なのか筆写なのかも明確ではない(論考では、写真は示されないから、筆写か)。 当該系図の現物を、滝川博士自体も見ていないようであり、「海部氏全系図の全文を掲げる」として、「籠名神社祝部海部直氏系図」という名で当該系図を論考に記載しても、この全系図をめぐる周辺事情がなんら説明されない。
すなわち、紹介された系図がほんとうに「海部氏全系図」の全文なのか(現物の系図が歴代の直系だけのものなのか、傍系を含む詳細なものなのか)、どのような由来で何人かの手が加わって現在まで伝えられているのか(用紙や筆の問題)、こうした系図の周辺事情がまったく明らかになっていない。学究として、はなはだ不完全な説明・紹介といわざるをえない。これも、博士が高名な法制史学者であっても、系図学・歴史学の専門家ではない故であろう。 そうした重要な系図が、なぜ国宝指定の対象にならなかったのだろうか(あるいは全文の公開を避ける意味か)。 二
ところで、滝川博士のいうように、当該系図が海部家所蔵の形そのものであるのなら、「全系図」には次の特徴がある。 @ 正哉吾勝々速日天神(ママ)穂耳尊から始まり、始祖天照国照彦火明命、児天香語山命、孫天村雲命、三世孫天忍人命(一名倭宿祢命、神武朝)、四世孫天登目命、……と以下続けて、「勘注系図」と相似する。しかし、「一名」という形で別名をあげる者は、天忍人命以外にはいない。
A 何時の時代の人か(奉仕した時期)を示す註記も、三世孫天忍人命(神武朝)に始まり、最後の三十二世孫海部直田雄祝(仁明、文徳朝)まで、合計十六個あり、最後の一つ前の註記は二十七世孫の海部直千嶋祝(元正朝)、となっている。しかも、神武朝の天忍人命から安康、雄略朝の海部直都比までの世代数は、造作された結果のため間延びして記紀に伝える天皇家の世代数とぴったり一致している。
これは、後世になってから、記紀系譜に合わせて当該系譜を造作したとしてしか評価できない。だから、神武朝の人から崇神朝の人まで、記紀どおりに、中間に八世代をおく形となっている。
B 三十二世孫海部直田雄祝(仁明、文徳朝)から後の世代にあっては、まったく記事がなく(事績も通称も又名も一切記されない)、「海部直□□祝」という形で歴代の名前を続けるだけである。
C 「全系図」は最初から最後まで、兄弟の名を一切記さず、まったくの直系だけで系を続けるが、「勘注系図」と照らし合わせるときに、「勘注系図」には兄弟で記す諸茂と千茂とが、「全系図」では直系につなげるから、実際には傍系相続もかなり混入している可能性がある。
D 内容的には、尾張氏の系図から名前を借りた後、和珥氏の系図から「難波根子健振熊命」と「健振熊宿祢」を借りて親子で結び(両者は同人であるにもかかわらず)、健振熊宿祢の子に安康・雄略朝の海部直都比を置いて海部氏の系図を始めるというデタラメぶりを示している。
こうした諸事情からいって、「全系図」の平安前期までの部分は「勘注系図」の原本であった可能性もある。
三
国宝「海部氏系図」や「勘注系図」が検討される場合に、これらに関連する史料全体と周辺事情の全てが公開されてしかるべきなのに、それが何故か公開されていないという事情にも、十分留意する必要がある。そのため、滝川氏は、「勘注系図」の筆記者とされる海部勝千代についてさえ、具体的な実名を特定できない事情にあったと同論考には記される。 話変わって、京都府向日市向日神社の祠官六人部家にも、田中卓氏により公開された「六人部連本系帳」(私どもが古代氏族系図の真物として大きな疑念をもつことは、本HPの関連記事参照)のほかに、中世・近世に及ぶ(現在までにつながるものか)系図がある。このことは、中村修氏の記述から分るが、この中世系図(部分)についても、断片的な記事が紹介されるにとどまっていて、全容が公開されていない(この辺も「海部氏系図」と同様)。
これら尾張氏族(と称する)諸氏の偽系図論議について、判断の決め手になる可能性のある史料は、全てきちんと公開されたうえで、その史料価値が判断されるのが妥当である。海部家でも六人部家でも、明治に華族に列することなく過ぎたので、華族諸家が行ったような、当時の宮内省へは当主まで至る系図の提出をしていない事情にある。その結果、「海部氏系図」などとの矛盾があったとしても、それが露呈されず、その国宝指定につながった可能性もないとはいえない。 国宝指定という公的な立場にたった時点で、それに関連する基本的な資料は、すべて公開の義務が生じているのではなかろうか(家族のプライバシーの問題があるとしたら、明治期以降の系図は、当主部分だけの公開という方法もあろうが)。系図の史料価値を主張する場合も、ほぼこれと同様であろう。 国宝「海部氏系図」や「勘注系図」の評価のためには、ここで取り上げた別本の海部家系図、すなわち宮司家が保有する「全系図」も十分考慮すべきことを指摘しておきたい。ここであげた諸事情については、意外に気づかれていないため、念のため記載した次第である。
(2006.9.15 掲上)
本稿についての応答がありますので、併せてご覧下さい。 「海部氏系図」及び「勘注系図」についての応答など |
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