田中卓氏の論考「「六人部連本系帳」の出現」を読む


 1999年8月中旬から翌月上旬にかけての期間、京都在住の中村修様に六人部連氏の関係で多くの資料をご提供いただき、その一つが「本系帳」ですが、私には当初から、この系譜についてはあまりにも贋作性が明白で、史料価値が皆無である、という感じしか受けなかったものです。中村様はこうした私見に異論ありという立場でしたので、当時、いくつかメールを書いたものです。ここでは、かって私が書いたメールを中心に、最近の見方も加えて整理しまとめて呈示しました。

  この作業の過程で、当時とは多少見解を変えて、僅かながら史料的な要素を感じたものの、それも虚構の中に混然としていて、総じて史料価値が乏しい、あるいはそれも却って惑わす要素のほうが大きいのではないか、と判断されます。こうした問題意識のうえで、ここに提示するものですが、読者の方々の見解は如何なものでしょうか。



    田中卓氏の論考「「六人部連本系帳」の出現」を読む

      平成11年7月発行『古事記・日本書紀論叢』(発行所 群書)に所収

                                       宝賀 寿男

 

  田中卓氏はかって皇學館大學学長を務められ(現在同大名誉教授)、古代氏族の研究家としても著名であり、『新撰姓氏録』の注釈書もまとめられている(『新撰姓氏録の研究』[田中卓著作集9]、国書刊行会、1996年 )。これまで古代氏族の系譜もいくつか紹介されてこられ、総じてその業績には敬意を表している。99年夏に刊行された『古事記・日本書紀論叢』では、「六人部連本系帳」を初めて公に紹介されて、標記論考を書かれたものである。

  六人部連氏とは、山城国乙訓郡(現京都府向日市)にある式内社・向日神社の祠官を古代から世襲されてきた家であり、江戸末期には平田篤胤門の国学者六人部是香(ムトベ・ヨシカ。『神道大辞典』ではタダカと訓む。号は一翁。生没年は1806〜63)を出している。是香は平田門の関西の重鎮であり、孝明天皇にも進講した学者であった。こうした名家にもかかわらず、その系譜はこれまで公表されたことはなかった。僅かに、京都大学付属図書館には大正年間に謄写された「六人部連本系帳」が所蔵されるのみといわれる。従って、これが仮に信頼性のある史料となれば、山城辺りの地域の古代史探究に貴重な手がかりを与えるかもしれないという見地から、検討は大きな意義があるものといえよう。

  田中氏は、「延暦十八年勅にもとづいて、作成されたと認められる珍しい本系帳の写本が出現した」と記し、「検討を重ねた結果、これを延暦十八年勅にもとづく本系帳(写)とみて差し支へないといふ判断を下し」とも記しているから、問題の本系帳(田中氏に倣い、以下「本帳」と略する)の信憑性を高く評価していることに違いない。このことは、氏が「私の研究もなほ十分でない憾みがあるが」と断るものの、私にはやはり疑問が大きい評価と思われ、「本帳に関する考証に誤があれば、すべて私の責任であることを明記」されておられるので、ここで批判を記す次第である。なお、現在時点(2002/3)まで、田中論考に対する評価・批判の見解は、管見には入っていない
  田中卓博士がどうしてそうした高い評価という判断をされたか、その辺の事情がよく分からない点もあるが、私には、本帳も、また同じく同家に伝来する「向日二社御鎮座記」も、ともに後世の偽書としてしか判断できない。このような偽書がまかり通るとしたら、ご先祖の国学者六人部是香が泣くのではないかとさえ思われる。彼は国学・神道が専門であるが、蘭学の影響をも受け進取的の思想を有していた(『神道大辞典』)、とされるからである。ただ、本帳作成の経緯等が知られないので、ひょっとしたら彼の手が何らかの形で汚れていた可能性もないとは言い切れないことでもあるのだが。

  田中氏の記述はあまり詳細ではなく、従って信頼性の論拠もあまり明らかではない。時期的に奥書にある「弘仁八年」という年次が延暦十八年の本系帳撰進の勅に対応しているということくらいなのではなかろうか。前掲したように、「研究もなほ十分でない」と一応断られるが、本帳の注目すべき内容というものが十項目あげられているにすぎない(これらにも、各々内容的に疑問が大きいが、以下に記述していく)。それを見ても、本帳の内容がきわめて特異で、同書のみが伝える独自「事件」が書き連ねられているのである。
  「延暦十八年勅にもとづいて作成されたと認められる」といわれる根拠も、たまたま対応しそうな年次だけのことで、それ以外の論拠も示されない。そもそも、本写本の奥書についても、田中氏は、「これは慶長十年(1605)十一月三日の年紀をもつけれども、私の判断では、慶長の筆蹟ではなく、江戸時代中期以降の写しと思はれる」と書かれるが、こうした齟齬は信頼性に疑問を与えるものではないのだろうか。筆者の奥書が信用できないのなら、その直前におかれる由来(当初成立)の奥書もまた怪しいと感じるものではないのだろうか。少なくとも、奥書が信用できないと云うことを明確に共通認識としておきたい。


  まず、私が疑問を感じる事情について、当時の中村様との私信を基礎に若干修補したものを記しておきたい。

 上 様
 『古事記・日本書紀論叢』の田中卓論考のコピーを受け取りました。いつもながらのご厚志に深く感謝いたします。

  この論考を見たところでは、田中卓博士も「一応の所感」として記されておられますが、多くの古代氏族の系図に当たってこられた博士も、批判力・分析力を失われいよいよ老境に入られたか(ご本人自身も、本論考のなかで「既に老境に入ったので」と記されているが)、という感がしてたいへん残念です。系図が歴史資料として活用されるためには、十分な考証や厳密かつ冷静な批判が必要であり、その意味で、博士の姿勢と理解には大きな疑問を感じます。
  その論考を読んでみても、問題の六人部系図の贋作性の心証を強くするだけです。というのは、以前にも抽象的に記しましたが、六人部氏の部分に入ってからの人物(歴代とその周囲の人物)は他の史料に殆ど全く見えず(従って、実在性の裏付けをするものが何もない)、かつ、『新撰姓氏録』記載の古代氏族の動向と合わないことだらけだからです。同系図に見える榎本連、忌部首や祝部連この姓氏は他史料では管見に入っていなく、その存在が疑問大)などが、そうしたものとして指摘できますが、更に、系図のなかの記事の表記にも疑問点が多くあるからです。例えば、平安初期までの六人部関係の女性が皆々「○○子」という名前なのは、とても奇異です。このほか、疑問な問題点は枚挙のいとまがありません。
  このような贋作性が明白な系図については、いずれ何らかの折りに論考を整理したいとは思います。向日神社の近隣に住み、六人部家と接触をおもちの上様におかれては、いろいろ思い入れもあろうかと存じます。しかし、人文科学の一分野たる歴史学の研究者としての立場は、十分堅持することが必要かと思います(余計なお世話かもしれませんが)。
 (以下、後略)     〔1999/9上旬に記したものを修補したものです

 つい最近(2006.11)、気づいたことであるが、『史学雑誌』五月号の毎年恒例の「歴史学界の回顧と展望」のなかに上記田中論考が取り上げられ、「六人部本系帳」を貴重なものと評価するのを見て、愕然となった。歴史学界で権威あるものとみられている雑誌だけに信じられない思いである。
 すなわち、2000年五月号に所載の「1999年の歴史学界」のなかで、高嶋弘志氏が田中論考を取り上げ、「新撰姓氏録編纂のため提出されたとする新出の本系帳(写)を紹介する。独自の記載が多く貴重」と記述する。
  出雲国造関係の系図検討を随分なされて、研究論考を発表されている高嶋氏がこの程度の系図分析力しかないのかと驚いた次第である。「独自の記載が多いこと」は貴重なのか、それとも信拠できないものなのかという批判的な問題意識が、まず完全に欠如している(
私が偽書として評価する「海部氏系図」も独自の記載が多い事情にある)。これは、史料評価の基本であり、しかも古代氏族系図も検討されている学究の書いた記事なのだろうかといぶかる。
  私がなぜ偽作としか判断できないと考える諸事情は、以下に記すとおりである。


       
 

  次ぎに、「六人部本系帳」本文に私のコメントないし註を付けてみたものである(具体的には、下に添付する文をご参照下さい)。

  本文は、田中卓氏が標記の論考で呈示されたもの(数種あるうち良質の写本と氏がみられる〔甲〕藍表紙本)を底本とする)を基礎として、中村氏情報(田中氏採用のものとは異なる写本で、表記法等からむしろ古いものとみられる。こちらを主としてカッコ内に記す)を考慮して記述してみた。ただし、返り点(1、2やレ)は記さず(本稿表記の技術的・手数的な事情による)、また助詞の漢字はカタカナで記し、中点(・)や句読点は記さないものもあるが記し、割註は〔 〕の形で記した。その詳細等は当該田中卓論考に所載の本帳本文をご覧いただきたい。これらの作業を通じて、全文が後世の偽系図ではないかという印象は、残念ながら変わらないところである。
 系図研究の大家といわれる太田亮博士の著『家系系図の合理的研究法』(昭和5年刊、立命館出版部)には様々な示唆・指摘があるが、なかでも、その第10章の第7節に「古代系図の偽作」という項(P326〜329)があるので、ご参照いただけたらとも思うところである。そこでは、古社の偽系図ほど害あるものはない旨が記述されている。
 
以下に、個別に問題ありとみる私見を書込みする。具体的には、問題部分に下線、その後に※の後ろで(註)として青字で記した。私にも意味不明な点が多少あるが、その辺は一応の感触で記したことをお断りしておきたい


 六人部連本系帳
 
天火明命〔亦名、号天握石(一に迩杵志とも書く)速彦命、亦名(同、曰)奇魂迩杵速日命〕
  天照大御神児天忍穂根命娶高弥武須日神女萬幡千幡姫命生児也。
  古昔、此神(同、天火明命)在天之時、以高弥武須日神命天降給時ニ執持奥津鏡・辺津鏡・八束剱・生玉・死返玉・足玉・知返玉・蛇比礼・蜂比礼・品之物比礼、此十種珍宝テ詔曰、一二三四五六七八九十(同、比止・布多・美・与・伊都・武由・奈々・哉・古々乃・多利哉)ト云ツツ布流倍、由良由良ト布流倍。如此テハ死去ナム人モ生返ナムト言教給キ。
  於是、天火明命乗天岩船テ、翔於大空ツツ可天降国々見?之(同、求給于)時倭国ヲ味小国、青垣(同、加伎)山呉母例流美真穂国ト看定テ、河上之伊加流之峯ニ天降給ヒ、即鳥見白庭山ニ幸行テ住給キ。
  於是、国津神鳥見彦百机ニ盛種々物テ、己女鳥見屋姫命ヲ相副テ献キ。※一般に妹とされるし、鈴木真年翁も妹としており(『史略名称訓義』神武天皇の項)、私もこれが妥当と考える。
  然後、可志原宮治天下天皇、倭国ニ幸行時、鳥見彦聞之、取奈良山梓作弓、宇陀野篶ヲ苅テ作矢テ待戦テ、遂彦五十瀬命ヲ奉射殺キ。 ※彦五瀬命の死亡は鳥見彦の手に掛かるものではない。
  依之天火明命大恨曰、奴哉、悪行奈世曽ト詔給テ、即殺鳥見彦テ天神所賜ノ十種珍宝ヲ捧テ献天皇キ。 ※ 火明命が鳥見彦を殺害したとするのは、疑問大。
爾(同、於是)、天皇大歓テ定内物部テ別恵給キ※天火明命は物部氏の祖ではない。すなわち、「天火明命=饒速日命」ではなく、また物部氏の当主も神武当時は饒速日命の子の可美真手命の代になっていて、この者が伯父鳥見彦を殺害し神武に降服した。

児 天香山命
 天火明命娶天美知姫命生児也。

孫 天武良雲命

三世孫 天忍人命
   妹、忍姫命

四世孫 天斗米命

五世孫 建斗米命 亦名妙斗米命 (同、各々「斗米」を「富」と表記
       ※天斗米命に同人、従って世代の重複有り。

六世孫 安居建身命  ※「天孫本紀」では建斗米命の子の六世孫に建手和邇命(身人部連等祖)をあげており、安居建身命と同人かどうかは不明。なお、物部氏系統では、天火明命の七世孫に安毛建美命をあげて六人部連等祖とするが、両者の関係は不明。両者の世代が(従って、活動年代も)、明らかに異なっており、物部氏系統に見える安毛建美命が仮に竄入だとしても、同じ一族としたら世代的にみて建手和邇命の子か孫くらいが安毛建美命とするほうが妥当か。しかし、おそらく両者は別族であろう。つまり、安毛建美命は物部氏族であって、尾張氏族ではない(従って、向日神社六人部氏の祖先でもない)、という可能性が高い。この辺は何ら系図資料がなく、決定的なことは言い難い。
  師木(同、磯城)水垣宮治天下天皇御代、詔安居建身命曰、賀茂県主等之持伊都久山背国弟国ニ鎮坐火雷神社大荒タリト聞食ガ故、汝徃テ奉造仕ト仰給キ。 ※崇神朝当時、賀茂県主は山背には居住していなかった。この辺の事情は、『新撰姓氏録』逸文記載の「鴨県主本系」や鴨県主一族の系譜に明らかである。
  於是、安居建身命率諸司テ、仰忌部首奥津真根テ須賀山ノ材ヲ以忌斧伐材持来テ造御屋。仰玉祖宿祢祖加我彦採(同、拾取)須賀山玉テ造吹玉。仰祝部連竹原テ木綿荒妙和妙ニ種々物ヲ備設テ、抜取須賀山之五百枝賢木テ、上枝ニ縣吹玉、下枝垂木綿、以五百枝楓(同、桂)五百津葵御屋裏(同、宮内)ヲ奉飾テ、湯津楓乃蔭ニ隠候テ、御佃田ノ神穂舂白ケテ、河内物忌ガ奉捕年魚ヲ、作膾テ、朝御餞・夕御餞ニ奉仕称言竟奉テ、復奏キ。  ※当時、忌部首・祝部連などの姓氏は未発生。少なくとも、「祖」の字が抜けている。忌部首の祖で崇神朝の人としては、玉櫛命があげられるし、この者が山城で活動した記録もない。
  於是、天皇歓給テ詔曰、勤モ仕奉シカモ。尊モ奉斎カモ。汝命ハ為御孫命ニ永為火雷神社神主テ、伊都伎奉仕ト言依賜キ。仍、己命ノ母玉手姫命ト児建斗臣命トヲ率テ、弟国嶋家ニ移住給テ、下社ノ朝御餞・夕御餞奉仕也。

七(以下は各々「世孫」を省略) 建斗臣命  ※命名からみて、天斗米命、建斗米命に同人とみられる。所伝から見て、この人物は系譜上の重要人物と知られるが、これだけ取り上げても、本帳の系譜や所伝が不審なことが分かる。
  巻向玉城宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。此命時、小江野篠原ニ大蛇住居テ、往来人多被殺キ。故、百姓雖大困苦、難捕得キ。爾(同、此時)、祝部連竹原児五百野、為彼大蛇被取殺キ(同、呑)。
  故(同、於是)、建斗臣命大怒テ率祝部荒河連・榎本連長江・忌部首阿古根等テ、令焼其野篠原キ。於是、(同、令苅篠時、)彼大蛇大怒テ起雲起風降氷雨ノメテ、開口喰建斗臣命(同、大蛇追出来怒眼如玉光起風降雨ノメキ)。  ※この当時は「姓」は未発生、かつ表記も「榎本長江連」という「姓」が名前の後ろに付けられる形になるはず。榎本連という姓氏は、当時は未発生のはず。祝部連という姓氏は他見なし、おそらく不存在か。
  爾(同、於是)、建斗臣命採持(同、取)弓矢テ、射得其蛇之頭(同、射中其眼)カハ、大蛇転倒之時荒河連抜剱寸々斬殺之(同、祝部荒川連祓剱テ斬殺)。因、時人大歓喜テ、称建斗臣命称味真人建真人吾君命。
  此後(同、以後)、天皇幸此国之時、登此神山テ覧国中之時(同、遊給。於是)、建斗臣命参迎テ、盛百机種々物テ奉仕給。亦狩於粟生小野之時、百姓多集テ為建斗臣命狩出大猪キ。爾(同、因)建斗臣命即射殺之(同、待テ射殺)テ献天皇キ。因、天皇厚其勇夫ナル事ヲ褒テ恵之。於是(同、恵給時)、天皇問左右侍臣曰、今日狩之間、百姓等謂味真人建真人キ。是何人哉(同、是誰哉)。群臣皆不知ト答白キ。仍召建斗臣命テ問之(同、問給)。
時(同、於是)、建斗臣命不能隠其事之起源ヲ、委曲ニ奏之給キ。因、天皇甚褒曰、汝命哉、伊佐乎志クモ為百姓除大患ヌ。仍百姓取称詞テ負真人部之名(同、連姓)テ奉仕ト勅賜キ。此氏ヲ負真人部事之縁也。後曰六人部ハ詞之転也(同、後転曰六人部連也)。
  亦、此命時、別雷神社〔亦号賀茂神社〕定給也。
  亦、娶玉祖宿祢祖(同、玉祖)加我彦女、伊可姫生楯川津身命也。 ※玉祖はもと玉作で、当時は玉祖の表記なし。
  久ク奉仕テ後逝キ(同、逝去)。墓神山ノ北在。言問之片山也。 ※この当時、「逝去」と表現したものかは、疑問。
 次、青蔓髪長姫
   是為祝部荒河連妻也。
 次、真髪姫
   是、為久我直祖清古妻也。

八 楯川津身命
 同天皇御代為神主奉仕也。

九 彦根大人命
 次、大嶋根命
  此二人、母曰須々伎姫也。

十 玉城彦命

十一 石生命
 次、榛生野命
 次、田原命

十二 小榛生野命  ※ここまでの世代数が他の古代諸氏と比べ多すぎる。
  筑紫加志日宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。
  玉城彦命児、榛生野命児也。

十三 大狭山彦命
 次、玉手依姫
  是為山背国造川妻也。  ※おそらく「足」の誤記か。山背国造としては、この者の他見なし、不存在か。

十四 押草根命
  母曰志多姫、石生命女也。 ※この当時では志多姫の異世代婚という不自然さがある。

十五 勝美命
  押草根命弟也。母榎本連須恵女、鈴依姫也。  ※この当時でも、榎本連は未発生。この辺りまでの世代数は、他の古代氏族に比べて異常に多い。

十六 加味雄連
  岩村若桜宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。
  母曰高原姫。

十七  馬人
  長谷朝倉宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。

十八 披津猶良連  ※名前の付け方が不自然、抑もなんと訓むのか。
  近津明日香宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。
 次、武隈根
  是六人部牛津連等祖也。  ※姓氏としても名前としても他見なし。

十九 久志理彦 ※この辺から連の姓が付けられないのも不自然。
  岩村玉穂宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。
 次、床主
  是長井連等祖也。 ※古代姓氏なら、長井連は他見なし、おそらく不存在か。
 次、津長子
 次、宇津比子

廿 比佐
  桧前五百入野宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。

廿一 志伎布豆
  磯城島宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。

廿二 葛野麻呂
  同御代、為神主奉仕也。 ※廿、廿一、廿二の世代は本来、年代的には一世代くらいのはず。

廿三 大枝
  他田宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。
 次、小葱子
  是、為物部伊侶根連妻  ※「小葱子」は女性の名としては不自然。物部伊侶根連も他見なし。

廿四 兄石蟹
  小治田宮治天下天皇御代為神主奉仕也。
 次、弟石蟹  ※推古朝の当時、兄弟でこうした命名はされなかったはず。
  是、同天皇朝廷奉仕也。

廿五 赤江
  明日香岳本宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。
 次、瀧雄
  是、近江世多六人部連之祖也。 ※近江瀬田の六人部連など何ら所見にない。
 次、由比彦

廿六 上野
  明日香板葺宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。
 次、春野子
  是、同天皇朝廷奉仕也。

廿七 茅原
  近江志賀宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。

廿八 真上
  明日香清見原宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。
 次、船主
  是、近江志賀朝廷奉仕也。世多戦之時、被殺。

廿九 葉手
  明日香清見原宮治天下天皇御代、為神主奉仕也。
 次、与太  ※与太という名も不自然。
  是、為久我連之祖也。 ※久我連という姓氏は他見なし、おそらく不存在。
 次、比佐幾子
  是、依夢諭、為物忌子テ下社ニ奉仕也。

三十 菅生
  大宝年中、為神主奉仕也。

三十一 波多
  養老年中、為神主奉仕也。此時、下上(横に上下と書き込み有り)社荒廃キ。
  於是、波多大歎テ奏請朝廷テ葛野連石伏、忌部首近麻呂、祝部連麻呂等ト倶奉造仕也。 ※この当時でも、山城国に忌部首氏が居た形跡なし。
 次、原上
  是、同御代朝廷奉仕也。
 次、真知遅子
  是、為物忌テ下社ニ奉仕也。後為多治比真人氏守妻、生多治比后也。
   ※氏守は延暦廿三年〜大同元年条の六国史に見えるが(嵯峨天皇妃の父としては、主な活動期は桓武・平城朝頃)、「真知遅子」(名前も年代的に疑問)の活動した年代である養老頃とは年代が全く合わない。
 次、榛川

卅二 横川
  天平年中、為神主奉仕也。榛川子。母曰久豆子。 ※この当時、こうした命名は疑問大。

卅三 真床
  天平勝宝三年、為神主奉仕也。
  母土師子。飛鳥直人主女也。 ※この当時、こうした命名は疑問大。大和国高市郡の飛鳥直との通婚も不自然。
 次、玄通法師
 次、鯖麿  ※『続日本紀』等に見える人物であり、後述する。
  是、同御代朝廷奉仕也。

卅四 永守
  宝亀五年、為神主奉仕也。母曰玉根子、祝部連家人女也。
  此時大宮処ヲ長岡ノ在尾ニ移給時、大宮之地(同、内)神山多カリキ。
  仍奏請其地テ丹波国天田郡細見郷ヲ奉寄給。 ※この当時、細見郷はまだ現れない。
  亦奉種々幣帛給キ。
  延暦四年正月(*後註参照)、天皇参下社・上社給テ奉寄種々幣帛、及神戸五戸給。
  明年十二月、以正五位下山城守大中臣朝臣諸魚為勅使、下社ニ奉授従五位下位、上社ニ奉授正六位下位給。 ※大中臣朝臣諸魚が山城守の地位にあったのは、延暦五年二月までであり、十二月には別人(三島真人名継)に替わっていた。
 次、海老雄
  是、仕坂上大宿祢大将軍テ撃蝦夷之時、殺敵数十人。仍、大宿祢厚褒恵也。
 次、忠麿  ※当時、このような命名は疑問。
  延暦年中、奉仕朝廷也。後為美濃目。移住、厚見六人部連等之祖也。 ※厚見郡の六人部連の起源は遥かに古く、平安初期に始まるものではない。一書にはこの記事は見えない。『三代実録』貞観四年五月には厚見郡人六人部永貞など三人が善淵朝臣を賜姓して、伊与部連・次田連と同祖と見えるから、まさに天孫本紀の尾張氏系図に見えるものであった。
 次、三足
  是、移住丹波国。天田六人部連之祖也。

卅五 豊人
  延暦廿二年、為神主奉仕也。賜姓外従八位下位。
  同廿四年五月死。母曰桜井子。佐伯宿祢東人女也。 ※佐伯東人は万葉歌人で天平頃の人だが、この娘の確認はできないし、名前の桜井子は命名としては不自然。
 次、直見
  是、同御代朝廷奉仕也。
 次、松子
  是、為大中臣朝臣年麿之妻也。 ※年麿という名は六国史にも中臣氏系図にも見えない。

卅六 魚主
  延暦廿四年、為神主奉仕也。外従八位下豊人弟。
  母曰小野子。釆女朝臣老女也。
  大同二年、触伊予親王事、被流伊豆国也。 ※伊予親王の事件は大同元年十月末のことであるが、このとき流罪に処されたのは親王の外戚関係者が主であり、魚主のことは史料に見えない。

卅七 良臣  ※この命名もやや不自然。
  弘仁二年、蒙恩赦、為神主也。
  外従八位下永守弟海老雄子也。
  母曰霍子、久米直大島女也。  ※子は「多」の誤記かもしれないが、命名としては疑問。

(*同、「延暦四年正月」以下は、写本により記事が大きく異なる。一部欠落がある模様だが、それを記しておくと、次の通りである。

  天親王事被流伊豆国也。  ※この事件の発生は疑問。表現が不正確か。
 次、忠麿  ※この命名は疑問。
  同御代、朝廷奉仕。大同元年美濃目也。
 次、鷹子
  是、下社為物忌奉仕也。

卅五 良臣  ※この命名も疑問。
  弘仁二年蒙恩勅、為神主也。
  永守弟海老雄子也。
  母曰子霍子、久米直大島女也。 )

  右撰進本系之事、度々雖被召問、家運遇不祥而及遅延矣。去弘仁三年、更仰官頻促(同、頻召)諸社神主本系。於是、拠家牒旧記、雖欲速撰集、或漏脱而難知、或祝部葛野両氏混淆難辨(同、混乱難別)。漸就両社本記旧記撰定之。進上如件、謹解。

  弘仁八年七月廿八日
無位六人部連良臣(同、六人部連無位良臣  ※位置がおかしい

  此書、相伝之家本者依虫喰難読、今度新写畢。努々不可出家門者也。
    慶長十年乙巳十一月三日  従五位下伯耆守正長
                     (同、此書以下の記事なし) 


※以上にあげた個別の問題点のほか、全体を通じてみて問題点をあげると、次のようなものがある。

@ 上記では個別にあげなかったが、多くの地名(宮号も含む)の表記も古式にのっとったものかどうか疑問がありそうである。また、系譜に登場の人名は、殆ど全くの裏付けがない者ばかりで、立証も否定もし難いが、基本的にありえないような名前である。古代の命名としては、女子の名を始めとしてかなり奇怪なものが散見することにも留意したい。
  ただ、一人気にかかるのは、卅三世孫の真床の弟にあげられる「鯖麿」のことである。真床は「天平勝宝三年(751)、為神主奉仕也」と記事があり、その弟の鯖麿は「同御代朝廷奉仕也」とあるが、『続日本紀』には六人部連鯖麻呂が見えて天平宝字八年(764)正月に正六位上から外従五位下に叙されている。このほかの史料にも見えて、天平勝宝三年十一月に舎人佑従六位上、天平宝字二年十一月に伊賀守正六位上(六人部連佐婆麻呂と表記)であったことが知られる。また、『万葉集』巻15にも見えて天平八年六月、壱岐島で病没した遣新羅使雪宅満を悼んで挽歌三首(歌番3694〜6)を詠んだ「六鯖」はこの鯖麻呂のことと思われる(新古典文学大系『続日本紀』四の補注25-1の見解等に同旨)。本帳の尻付には殆ど記事がないが、意識的に挿入されたのなら、もう少し詳しい記事があってもよいのかもしれない。
  同じく、少し遅れて『続日本紀』に見える六人部連広道(外従五位下に叙される時期が六年遅れで、この辺から見れば兄弟か)が何故、系図に見えないのかも不審である。

A 山城の六人部氏の成立に重要な要素となるはずの姓氏の由来記事も、疑問が大きい。個人の美称名に由来する「真人部」が姓氏の六人部に変わったなど、きわめて信じがたい。苗字であるまいし、姓氏についてこんな発生事情などありえない。「六人部」は山城の向日社だけにあったわけではない。美濃方面に多くあり、『新撰姓氏録』を見ても、山城及び摂津の神別に六人部連があり、和泉の諸蕃には百済系の六人部連が掲載されている。この諸蕃の姓氏はどう説明するのだろうか。

  以上、総括してみると、内容的に疑問な点が極めて多く、殆ど全文が後世の偽作とみられる。あるいは、奈良朝後期くらいの頃の人(真床・鯖麻呂の世代以降)から何らかの所伝が僅かに残ったものか。系図として多少採りうるとしたら、せいぜいこの時期以降くらいかもしれないが、記事は全てが必ずしも信頼性があるわけではない。仮に事実があったとしても、虚偽のことと混淆し一体となっていて、却って紛らわしいと考えられる。ただ、本帳の成立は相当遅かったものと推され、ほんとうに弘仁期の成立であるのなら、もっと遡る時期から信頼性のおける人名が続いて系図に現れるものではなかろうか。

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