(六人部連本系帳検討の続き(2))


 最近、六人部氏の系図や関係資料についての話が出ましたので、差し障りのない範囲で、拙見を主として、ここに紹介させていただきます(なお、ここでの<問題提起>は仮問です)。
 
(1)<問題提起> 「仏教の位牌に相当するような「霊標ないし霊碑」も向日神社には残っているようで、そこに見られる記載を基に、六人部氏系図も作成されたはずだから、偽作ではないのではないかという見方もあるようです。この“霊標”を考古学的に分析すれば、一定の答えが出るとも考えられますが。」
 →<拙見> a 『六人部連本系帳』『向日二所社御鎮座記』などが信用性のおけないものと考えるのは、記事の内容として、ありえないことを縷々羅列するからです。
 両書には、当時の命名方法としてきわめて不自然な名前、当時にありえない姓氏、でたらめな世代配置と多すぎる世代数などが頻出します。例えば、古代人名の大辞典である『日本古代人名辞典』全8巻を通読されれば(また、拙著『古代氏族系譜集成』を通読されれば)、当時の人名や姓氏の名づけ方、世代配置のあり方などが分かるはずです。
 従って、世紀に現実に書かれたのなら、その当時ありえないような表記や記事があるはずがないわけで、所伝などで両書が世紀の成立と伝えても、その記事自体がゴマカシにすぎません。ただ、内容的におかしくなければ、由来が偽書であっても、『古事記』や『旧事本紀』のように尊重します。現実に「円珍俗姓系図も、平安初期、九世紀前半の由緒正しい史料ですが、系図のはじめの部分には疑問が多くあります。
 
  「六人部氏系図」は、東大史料編纂所にも鈴木真年翁採集した系図資料集のなかにもなく、明治期からの史料収集作業の網にかからなかったものです。「海部系図」も、東大史料編纂所には国宝指定のものの写本しかありません(いわゆる「勘注系図」は同所に所蔵していない)。これら関係資料については、現存するすべてのものをもとに総合的に検討する必要がありますが、両系図とも、両家の「現代に至るまでの歴代の系図」だけが公表されていないという問題点があります。かつ、六人部氏については、平安期から史料に多く見える武官系統(水口氏など)と向日神社祠官家とのの関係が不明であるという問題点があります。

  「霊標ないし霊碑」という風習が何時、具体的に生じたのか不明です。かつて糸魚川の奴奈川神社の社家を訪ね、初祖以来の代々の夫婦名を記した史料を見てますが、それに近いのかもしれません。だからといって、その記事が史実かどうかは別問題です。六人部氏が承久の変後にやむなく山城を離れたときに、その“霊標”はどうしたのでしょうか。
  向日神社祠官六人部氏については、その先祖が信頼できる史料に明確に出てこないうえに、平安時代以降の動向についても具体的に示す資料がありません(「現代に至る系図」が示されれば、平安期などの史料とチェックできます)。平安期の史料に見えるのはほとんどが近衛武官をしていた身人部六人部)氏であり、これに若干の大和国山辺郡都介郷の六人部氏です。武官の六人部氏が主ということは、鎌倉期でも基本的に変わりません。これは、『大日本史料』やいわゆる日記類をすべて当たってご覧になれば、すぐ分ることです。
 
(2)<問題提起> 「「写本が江戸期のものしか残らない系図類については、まず偽作と疑ってかかるのが基本で、そこから議論をすべきだ」だという指摘も考えられますが、先にあげた“霊標”が鎌倉時代あるいは平安時代まで遡れる可能性があるので、「まず偽作」と疑う姿勢自体があまり生産的ではないとも考えられますが。」
 →<拙見> a この指摘(上記の下線部分)については、ここ四〇年くらいの間、きわめて多数の古代・中世の系図と関係資料を見てきた者としては、これと同じ所感をもっています。それくらい、系図には仮冒、偽作の問題が多くあるということです。
 私が二二年前に編纂した『古代氏族系図集成』には現伝する古代氏族の系図を全三巻、2000頁にわたり掲載しており、実際にはその数十倍以上の数の系図に当たってきています。また、同様に、多数の系図に当たってきた太田亮博士の系図研究方法について書かれた本を読んでみてください。多数の系図と古代人名に当たれば、史料の真贋の感覚が自ずとついてくるはずです。

  明らかに中世の、なかでも鎌倉時代作成の系図も、現存するものがかなりありますが、始源部分において系譜仮冒がない系図は、まずありません(
この意味で、『尊卑分脈』はやはり貴重な系図史料ですが、同書にも疑問な系図部分があります。平安後期ないし鎌倉期の確実な人名から始まる系図ももちろんあり、これが中世系図の典型だとする所説を見ましたが、これには同意できませんが)。
 系図及びその関係資料には、それくらい偽書ないし仮冒の記事部分が多いということです。先にもあげた、平安初期作成のもので国宝指定になっている「和気系図」(円珍俗姓系図)も、はじめの部分にそうした系譜仮冒の記事がありますが、円珍本人の書込があって年代推定がほぼ可能であり、これまで偽書といっているわけではありません。真書であっても、系譜仮冒の問題が常に残るということです。

  『古代氏族系図集成』自体も、様々な観点からチェックしたうえで、それでも否定できない系図部分を集めて編集し(「編集時にはっきりと否定できなもの以外はすべて含む」という本人たちの編集方針のように思うけどね、ともインターネットに書かれました)、その旨をまえがきに書きましたら、編集基準が甘い、系図の採択・編集方針がいい加減だと批判されました。
 別段、これら批判が当たっているわけではないのですが、現実に残る系図類を考えると、あらゆる系図の検討に当たっては、十分すぎるくらい厳しい姿勢で多面的な批判が必要となることを実感します。これは、些細な誤伝を許さないということではありません。また、全てを否定したら生産的ではないことは多いのですが(その意味で、取りうるところはできるだけ取りたい)、信用できない資料をもとに立論したり歴史像を構成すると、結論が当然誤りとなり、歴史研究にとってかえって生産的ではありません。
 
(3)<問題提起>『向日二所社御鎮座記』は、『古事記』を見て執筆されているのではないかという見方もあり、これに対して、九世紀末に『古事記』をどうして見ることが出来たのか、という指摘もありますが。」
 →<拙見> a 『古事記』偽書説は、多くの人により説かれており(賀茂真淵以来で、最近では大和岩雄氏が精力的に展開される。まだ少数説だが、このこと自体が疑問が大きい)、「著者や執筆時期といった来歴を偽った書物」という意味で、私もほぼ同様に序文偽書説の立場です。「稗田阿礼」なる者の存在が疑問なことなどについて、『東アジアの古代文化』第106〜108号(20001年2月〜8月号)に掲載された拙稿「猿女君の意義」をご覧ください。

 b 『古事記』が何時、世に出たか具体的には分かりませんが、最古の写本が南北朝争乱期の美濃で写された真福寺本ですから、それ以前にこの書を利用できるのは、きわめて疑問です。内容的にも、海神族系統に伝えられた所伝を平安初期に多朝臣一族や島田臣一族が関与して、その結果、東海地方に写本が残ったことが推されます。同書の内容については、「序文が偽りであっても、現存『古事記』の古典としての価値は、消えるものではない」と大和氏が主張することに同意しますが、編者が多人長だとみる説には、私は反対ですし(その前に海神族系統に伝えられていた所伝を誰かが整理していた。人長など多一族が関与したとみることは否定しない)、内容的には是々非々の検討が必要、すなわち同書を伝えた系統の所伝という性格を十分に注意して用いることが必要と考えています。

 
『向日二所社御鎮座記』について補記しておくと、元慶三年(879)編纂という同書も併せて、向日神社所伝の資料には後世の贋作性が濃厚とみられ、その使用には慎重の上にも慎重性が求められます。同書には天正十一年(1583)の六人部宗重などの奥書も見られるといい、紙質から見て、江戸期のものではないかともいわれます。なお、笠井倭人氏は、『式内社調査報告』で同書は「現在向日神社では見当たらない」と記しています。 

  『本系帳』『御鎮座記』両書に見える乙訓郡の榎本氏についても補記しておくと、『本系帳』には早くも巻向玉城宮治天下天皇御代(垂仁朝)に、六人部連の祖たる建斗臣命とともに榎本連長江が見え、その後も応神・仁徳朝頃の榎本連須恵・鈴依姫の親娘が見えます。しかし、これらの者が活動した当時では、「連」という姓は未発生であり、かつ、榎本連という姓氏も、『姓氏録』の記事から見て、当時は大伴連から分岐していたはずがないのです。この例を取り上げるだけでも、同書は偽書といいえます。
 また、『御鎮座記』を元慶三年(879)に書いたと記される五人の神主の一人として「無位 榎本連石取」があげられており、榎本連は「下社=乙訓坐火雷神社」(向日神社側の主張)に確かに神官としていた、とみる見解があります。これらの書の利用には慎重を要するものの、榎本氏が向日神社の近隣に在ったこと、祭祀系統からみて火雷神社を奉斎したことは、ほぼ認めてよいかもしれません。
 
(4)<問題提起> 上に関連して、「向日神社には、室町期の写本の『日本書紀』(重要文化財指定、奥書きは延喜四年)が現存しており、『先代旧事本紀』も古事記を見て執筆しているので、九世紀末に『古事記』を見ることは可能とも考えますが。」
 →<拙見> 『先代旧事本紀』も偽書であり、中世になって通行したといわれます。ただし、これも序文に大きな問題があり、内容的には記紀と同様に重要な史料と考えますが。なお、室町期以降は、六人部氏は向日神社の祠官家として落ち着いたことを示唆しますが、それ以前からの正当な祠官家であっても、所伝の自家の系図自体が正しいわけではありません。
 私の経験からみても、北陸の加越能三国には、古代以来の由緒正しい祠官家が多くありますが、古代からの系図を伝えている祠官家はまったくありません。これくらい古い系図史料が残りにくい事情があります。

  (08.5.13掲上。その後、21.02.02などに追補)


前へ  独り言・雑感 トップへ   ようこそへ   系譜部トップへ