(六人部連本系帳検討の続き(1))

 

  前項までの検討で、ほとんど議論は尽きているはずであるが、田中博士の検討はほかにもあるので、それを取り上げて検討することとしたい。
  「六人部連本系帳」の注目すべき内容として、田中卓博士は10の事項をあげるが、その殆どが私には疑問である。以下、各項について簡単に反論しておきたい。

(1) 本帳の跋文と本奥書
  末尾の跋文が本帳提出の遅滞した理由を明らかにするとし、『姓氏録』の弘仁六年上表後の弘仁八年に、「この六人部連家が本系帳を上進してゐるのは、弘仁六年以降にあっても、朝廷ではなほ継続して姓氏録の完成を期してゐた事実を示すものと思はれる」と博士がいわれるが、そうだろうか。
  その前提として、現行姓氏録の山城神別のなかに六人部連が見えるのは、「この神主家とは別流の六人部連であろう」と博士は考えられるが、「別流の六人部連」の存在を根拠づけるものは何も記されない。おそらく山城で最有力であった向日神社祠官家の六人部連以外に、何処にどのような形態で別の六人部連がいたというのだろうか。六人部連に多少の不幸な事件がおきていたとしても、本帳に記載されるくらいの内容なら、割合簡単に上進できるのではなかろうか。
  本帳の奥書の疑問なことは、先に述べた。

(2) 天火明命
  博士は、かって詳しく検討して、「天火明命とニギハヤヒの命とは同神とみてよいことを推論した」と記述する。しかし、これは博士の失考である。すなわち、天火明命は『姓氏録』等で海神族の一派・尾張氏族が始祖と伝えるものの、これは系譜仮冒であって、実際には、天火明命は天孫族の本宗であり、一方、物部氏族の祖ニギハヤヒの命は天孫族の支流であっても、本来天火明命を祖とするものではなかった。これは、『旧事本紀』天孫本紀でも、本帳でも、共通する誤りである。ましてや、天火明命から海神族系の尾張氏族が出たはずがない。

(3) 鎮魂の言葉  これについては、とくにコメントなし。

(4) 天火明命と鳥見彦
  『旧事本紀』のニギハヤヒの命降臨伝承を、本帳では天火明命の降臨として伝えるが、そもそも天火明命には降臨伝承はなかったはずである。両者はまったくの別神である。

(5) 山背の弟国の火雷神社
  これまでのカモ神社の史料を補う意味で重要であると博士は考えられるが、『姓氏録』等に記される賀茂県主の所伝から見る限り、そもそも崇神朝当時には、山背には居住していた「賀茂県主」の先祖は、葛野県主とも言うべきものである。これと反する所伝をもって、「カモ神社の史料を補う」とは、到底いえないことである。そもそも、六人部氏の祖系は、尾張氏族系でも、物部氏族系でも、実のところ疑わしく、実際には鴨族に出たものではなかろうか。これは、本来の職掌の「水取」に由来するし、乙訓に在った事情も、この辺を疑わせる。六人部氏が早くに祖系を失っていた可能性がある。

(6) 建斗臣命の活躍
  この名前が天斗米命、建斗米命・妙斗米命と重複し、疑問なことを先に述べた。建斗臣命の活躍のときに見える人名も、姓氏と併せていずれも疑問な名である。しかも、個人の功績が美称となるのはともかく、それが姓氏に転訛するというのは「姓氏」を知らない者の偽作たることを如実に示している。博士が、「本帳独自のものである」と簡単に済ますが、そのようなものではない。博士は、『姓氏録』全体の考証を重ね、この関係の著作までなしてきて、そのことに気づかれないのだろうか、私には不思議でたまらない。六人部が身人部とも書かれた記憶をまったくなくした時代に偽造された所伝とみられる。
  また、美称に使われる「真人」というのも、崇神・垂仁朝頃にあったとも到底思われない。六国史では、『日本書紀』巻二二の推古天皇二一年(613)十二月辛未に「真人」という語が初めて見えており、道を知る「聖」の意味で用いている。

(7) 世多の戦
  博士は、いとも簡単に「「世多の戦」といふ表記は珍しい」といわれるが、これも含めて、他に見ない表記が散見するが、直ちにそれを信じるのはどうかと思われる。

(8) 多治比后
  多治比真人高子の父が氏守であることが本帳により初めて判ると博士はいわれるが、この事実自体は鈴木真年翁編の史料『稽古録』にも見えて問題がない。しかし、高子の母とされる女性の「真知遅子」という表記には、おおいに疑問があり、氏守との年代差にも疑問があることは先に掲げた。贈従一位(生前では従三位)の「妃」を「后」と表現するのも不審である。

(9) 丹波国天田郡細見郷
  博士もいうように、『和名抄』には六部郷はあるが、細見郷はない。細見村は中世の地名であり、これを苗字とするものは丹波の天田・氷上・多紀・船井の諸郡に見える。『和名抄』は平安中期の承平年間(931〜38)に編纂された百科事典であって、その時には細見郷という地名は生じていなかったとみるのが妥当であろう。博士は本帳に記す内容から考えて、もとの細見郷が六人部氏の領したことで六部郷に改まったのであろうと推測する。細見という地名が、「細見→六部→細見」と変遷したというのであろうか、不思議な議論である。「細見」を名乗る氏名は、『日本古代人名辞典』にもあげられず、中世の苗字である。
  細見の地名は天田郡三和町(2006年に福知山市へ編入)の西部に残り、いま六人部といわれる地域(福知山市の東南部の長田・宮・岩崎・三俣の一帯)からかなり離れている。古代の六部郷が伸びて細見辺りまでを郷域とした可能性はあろうが、細見は決して六部郷の中心地ではなかったという事実が、博士の推測の無理さ加減を説明しよう。

(10) 佐伯宿祢東人
  博士は、東人が『続日本紀』や『万葉集』に見えることをあげ、「本帳にこの人名が見えるのは、新史料といってよい」とする。しかし、東人の娘が六人部連氏と婚姻したことは何ら裏付けの資料がない。これはありえないことでもなかろうが、さりとて、手放しで正しい所伝とも言いきれない。

  以上の検討からいって、「その他にも、本帳によって知られる新事実は数多い」と本帳の記事を疑わない田中卓博士の姿勢は、まったく疑問である。どこをどう取り上げれば、こういう結論になるのか、不思議でたまらない。博士が研究歴からいって古代氏族系図の素人では決してないだけに、私には理解不能である。系図研究には常に厳しい批判的な姿勢であたることが最も重要であって、頭から信じ込む姿勢とは無縁でなければならないはずである。本帳にしか見えない事実は、他に裏付けないし傍証がなければ、軽々に鵜呑みにしてはならない。


  (補足的な記述) 

  最後に、六人部氏について、前項までに書き足りなかった諸点について追加的に記述しておくことにしたい(だから、多少重複的な記事になっているのもあるが、理解しやすいように記した次第である)。向日神社に現在伝わる資料が、『姓氏録』など信頼すべき史料と符合しないことが更に判ってくる。それも、六人部氏が承久の乱の際に宮方に付いて戦死したり、丹波国天田郡に遷って蟄居したりで、数代五〇余年の間、向日神社の祭祀から離れた事情が大きく影響しているのではないかとも推される。その間、下社の社殿も荒廃したというから、上古からの史料が本当に残ったのだろうか。
  鎌倉後期の乙訓復帰後の六人部氏歴代は問題がなさそうであるが、その辺の系図(第90代六人部是香が天保年間に作成した「六人部系譜」という)は未だに公開されず(中村氏は中世の歴代まで言うので、これを見られている)、すくなくとも管見には入っていない。これも偽作の疑いが濃い国宝『海部氏系図』と同じく、近代まで至る所蔵祠官家に所伝する系図の全体像が示されると分かってくることが多いが、ともにきちんとした全ての公開がなされていない事情にある。

(イ) 六人部の職掌
  六人部が何を職掌としたのか、古来から議論が多く、結論が出されていない状況にある。例えば、『日本古代氏族人名辞典』では「六人部の部としての性格や職掌は不明」とのみ記し、『国史大辞典』でも佐伯有清氏が「節折(よおり)の料の篠を貢進する品部というが未詳、身人部にも作る」と記述するにすぎない。太田亮博士『姓氏家系大辞典』でもほぼ同様の記述で、「未だ容易に首肯し難し」と記述する。
  しかし、私にはこれがむしろ不思議である。身人部・六人部は「ムトベ・ムトリベ」と訓むが、これは近い発音の「モトリ・モヒトリベ」と同義であって、すなわち水部・水取部・主水部(母止理部)さらには水戸部・三戸部・三富部とも同じであった。栗田寛は「三富部は、身人部にて、六人部と同義なるべし」と記述し(『新撰姓氏録考証』)、佐伯有清氏もこれに同意している。『旧事本紀』の石川忠総本(神宮文庫所蔵)には、六人部に「モトベ」と訓がつけられる事情もある。奈良時代の出土木簡から見ても、古い表記は「身人部」であり、「天孫本紀」の尾張氏系譜はそれを伝えていた。

  このほか、六人部がきわめて多く分布する美濃国には半布里に水取部、本巣郡には水主直族の人々も見え、山城国の久世郡に水主郷、綴喜郡に水取村があって尾張氏族の水主直が居住していたなどの事情から知られる。久世郡には天平時の列栗郷戸主に六人部連小坂が見える。『古代地名語源辞典』も、むとべ(六人部)が「地形地名に由来するとすれば、ムタ(湿地)などが考えられる」と記している。『姓氏録』山城神別には、宗族的な存在の尾張連に続けて、六人部連・伊福部・石作・水主直・三富部という同族諸氏群をあげていることも、傍証となろう。「天孫本紀」に六人部連等の祖と見える安毛建美命について、鈴木真年翁は水取連・舂米連の祖と記述している事情もある。
  「水取」を職掌とする氏は天孫族系統と海神族系統の双方に出ており、物部氏族では水取造・連、三上氏族に高市水取連、鴨氏族に鴨県主、などがあり、海神族系統では大宅水取臣、伊賀水取などが出ている。その意味で、六人部連が尾張連一族とも物部連一族ともされることの事情が窺われる。

(ロ) 山城の六人部連の祖先と別種の系図
  『姓氏録』など様々な事情から、山城の六人部連が尾張連の分流であった所伝は、一応理解できる。さて、その場合、祖先としては建斗米命の子の「建手和邇命」があげられ、「天孫本紀」に「身人部連等祖」と記される。始祖の名に「和邇」を含むなど、いかにも海神族の出自に相応しそうである。
 向日神社の祖先として、建手和邇命の名が伝わらず、物部氏族の安毛建美命があげられたのは、その系譜伝承が「身人部」の表記を忘れた時代に生じたことを推察させる。身人部の一族(向日神社祠官一族かどうかの確認はできないが、その蓋然性はあろう)は少なくとも平安中期以降、朝廷の下級武官として出仕しており、平安中期頃は身人部と書かれていた。この辺の事情は、平安中期以降の日記類(『権記』『小右記』『知信卿記』など)に多く見え、京大図書館所蔵の『秦氏系図』のなかにも簡略だが「身人部氏」の系図が記載される。この武官家は江戸期には水口などの苗字を名乗って続いたことが史料に見える。この系統は、丹波関係が考えられるが、当該本系帳には分岐が記されない。

  さて、古代の六人部・身人部が最も顕著に分布するのが美濃国であった。これは現存する古代戸籍が美濃国分が多いという事情もあろうが、味蜂間郡春部里、肩県郡肩々里・村部郷、各牟郡中里、本簀郡栗栖太里に六人部を名乗る人々が多く見え、味蜂間郡春部里や武義郡には身人部、方県郡志淡郷には六人部臣も見える。太田亮博士は、飛騨国造の同族に水主直があったと考えている。
  こうした同族分布の事情からみて、六人部連の祖・建手和邇命とは、「天孫本紀」に兄弟にあげる建宇那比命(伊福部連等の祖)と同人の可能性も考えられる。「天孫本紀」等に掲載の系図でも、建宇那比命の孫・倭得玉彦命(意富那毘命)の子として、玉勝山代根子命(山代水主直・雀部連・三富部等の祖)、若都保命(伊福部連の祖)、彦与曽命(斐陀国造の祖)があげられる。
  伊福部は全国的に分布するが、『和名抄』の郷名などにも見えるように、美濃・尾張両国にはきわめて多く分布する。『拾芥集』には、諸国をして新宮の諸門を造らしむとして、「尾張美濃二国殷富門を造る。伊福部氏也」と記載がある。伊福部は五百木部と同じで、景行天皇皇子の五百木之入日子命(五百城入彦命)の御名代ともみられており(太田亮博士)、それが濃尾に伊福部の分布が多い理由とされる。こうして見ると、山城の六人部の起源は比較的新しく、少なくとも景行・成務朝以降ということになろう。

  実は管見に入った限り、鈴木真年翁関係資料の中には、山城の六人部連の系図がないではない。それも、きわめて奇怪な形で保存されていた。すなわち、加藤直臣の「赤松系図稿」を真年が装幀し所蔵していたが、現在、それが静嘉堂文庫に所蔵されている。その本の装幀のさい使用された裏紙に六人部連の系図が記載されていたのである。これに気づいて、隙間から覗き込んでなんとか写し取ったものを拙著『古代氏族系図集成』のなかに記載したが、この系図は建手和邇命から始まるものの、世代数がかなり多くその命名などで信頼性があまりおけないようでもある。少なくとも、継体・欽明朝ごろから以降しか系図として使えなさそうであるが、これが前掲の「六人部連本系帳」とは、族人の名前を含め、記事・内容が全く合わないのである。この辺の事情は全く分からないが。
 この裏紙掲載の六人部連の系図には、雄略朝頃とみられる目連に「身人部連」と見え、それ以降の歴代の世代配置はほぼ適切とみられるうえに、目連の五世孫の島足には「山背乙訓評造小乙上」と記事があり、例の郡評論争にも相応するような系図になっていて、信頼性は問題なく高いと判断される。

(ハ) 本系帳に見える近隣諸氏の先祖と六人部氏の歴代
  同書には、六人部連の祖先とされる者と一緒に活動したり、通婚したとされる近隣の古代諸氏が現れるが、これがきわめて疑問が多いことは既に述べてきた。
  例えば、榎本連についていえば、『姓氏録』等に拠ると大伴狭手彦連の子孫とされるから、その発生は少なくとも敏達朝以降となる。それが、巻向玉城宮の御代とか岩村若桜宮の御代に活動できるはずがないのである。壬申の乱のときにその祖がやっと見えるが、その時点でも表記は大伴朴本連という形にすぎなかった(天武即位前紀)。祝部も賀茂県主の一族であるが、その発生はずーっと遅く、天智九年の庚午年籍のときに宇志が初めて「祝部」を負ったと伝えられる。後にこの氏は宿祢姓となるが、祝部が連姓となることはついぞなかったのである。祝部一族が、乙訓郡にあったという史料もほかに見えない。また、祭祀を所掌の忌部首の一族が、当時の山城にあった形跡はないから、乙訓郡での活動は疑問が大きい。

  本系帳には養老年中の葛野連石伏が見えるが、これにも疑問がある。すなわち、『姓氏録』に唯一見える葛野連は、物部氏族で左京神別に伊香我色乎命の後裔とされており、山城神別では中臣葛野連があげられて伊久比足尼(天孫本紀では成務朝の人で、仲哀九年紀にも見える物部本宗)の後裔とされる。具体的には、鴨祝の一族の中臣部千稲が天平廿年(748)七月に中臣葛野連の賜姓を受けている(『続日本紀』)。この千稲が、長屋王邸出土木簡に中臣部千稲とか葛野連千稲とかとして見えているのである。ところが、「向日二所社御鎮座記」には、葛野連遠祖の国神加豆野戸辺を始めとして、纏向玉城宮朝の葛野連遠祖海松命、磐村並槻宮朝(用明朝)の葛野連遠祖弟彦など、葛野連の人々が頻繁に見えている。山城の鴨族の源流には、葛野県主が考えられるが、そのカバネは知られないし、鴨県主と同族であって、葛野県主の祖が「国神」ではないし、「加豆野戸辺」という名ではありえない。このように当該本系帳には、デタラメな姓氏・名前が頻出する。
  ここまで見てくると、作り事・偽作はいい加減にして貰いたいという気すらする。なお、これら諸氏についての私見は、『日本古代人名辞典』の関係各項を見ると、『姓氏録』と矛盾する記事がないことからも、裏付けられよう。

  「向日二所社御鎮座記」の奥書には永和四年(1378)の六人部宿祢信忠の名が見えており、そこに六人部連の遠祖建斗臣命が見えるから、あるいは南北朝期のこの頃から系図や御鎮座記など所伝の偽作が始まったのかもしれない(もっとも、この鎮座記自体、実際に南北朝期に成立したかどうかも、疑わしいが)。ただ、本系帳の歴代の数え方は、弘仁二年に神主になったという良臣が卅七世孫(一に卅五世孫)と数える方法は、後世の家督の代数を数える方法と同じで、江戸期の偽作的なニュアンスもある。だいたい、弟が兄の跡を継いでも、「世孫」の数字が増える訳ではないのである。
  いかに、六人部氏歴代の世代数が多いかは、天孫本紀に見えて同じ天火明命から数える尾張氏・物部氏の世代数と比べれば、歴然とする。すなわち、尾張氏では末尾の乙訓与止連兄弟(推古朝頃の人)で十八世孫、物部氏では末尾の天武朝の物部連公麻侶(後に石上朝臣麻呂)で十七世孫となっている。尾張氏の系図では尾張国造の直接の祖・乎止与命の位置づけ(同書に記す父の名)に疑問があって世代数が少し多くなっているので、物部氏のほうを採って数えれば、天武朝から弘仁期までは四世代ほど加えればよいから、天火明命から廿一世孫くらいが弘仁期に活動した人々の標準的な世代数となる。本系帳の歴代のいい加減さはこの辺にも現れている。
  ここまで書けば、もう多言は要することはなかろうし、ご理解いただけなければ、同じ土俵で系図の議論はできそうにない。あとは、本HP内の「系図の検討方法についての試論」を見て考えていただければ良さそうでもある。
 
  以上で、「六人部連本系帳」についての検討を終えることとしたい。様々な資料をご提供いただいた中村様や有益なご示唆・教示をいただいた方々には、厚く感謝申し上げる次第でもある。
  結論的には、上記の拙見は、彼に対しては相当に不本意なものになったであろうと思われるが、古代・中世の歴史を組み立てる基礎資料としての系図は、念には念を入れる形で厳しい多角度からの検討が必要であることから、やむを得ないものでもあったと私には思われる。

  (02.3.24 掲上、07.11.5及び08.5.13、21.2.2などに追補)


  さらに最近の補記へ 続く

  六人部氏の系譜の原態の探求については、 向日神社六人部氏の祖系に関する試論


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