向日神社六人部氏の祖系に関する試論


 先に「六人部連本系帳」についての検討を掲載してきたところですが、古代鴨族の動向に関し、乙訓郡という地域の重要性を改めて認識したことから、六人部氏についてもいろいろ考え、とくにその祖系を主に、ここに系譜関係の試論を書いてみたものです。
 古代氏族の系譜についての最難問ともいえそうな問題ですが、皆様におかれても、ご興味に応じて、種々ご検討いただけたら幸いです。



           向日神社六人部氏の祖系に関する試論


                                       宝賀 寿男


 
 はじめに

 先に『六人部連本系帳』について疑問を出してから、かなり長い時間が経過したが、その後に、吉川敏子氏の論考「六人部是香と「六人部連本系帳」」での偽書説が出て、中村修氏からは『乙訓の原像・続編』の出版(2012年刊)で吉川論考批判の反論などもあった。私としても、関係しそうな鴨県主やその同族諸氏の系譜の検討などもしたところで、難解な乙訓郡六人部氏の祖系を考えてみるものである。
 拙見では、「天孫本紀」尾張氏系譜に様々な疑問箇所があることを感じつつも、六人部氏や伊福部氏が尾張連支族の流れから出たということには、かつてはとくに疑わなかったのだが、今では、これら六人部氏などの祖系が、本来は別系の尾張氏系譜に附合されたという印象が大きくなり、原態としての六人部氏の系譜は、尾張氏とは別系の氏族の出であったと認識するようになっている。

 そのことを最初にお断りしつつ、最近までの検討結果を踏まえたものを、標記テーマに関し試論として、提示いたしたい(私の古代氏族研究にあっても、最も難解なものが六人部氏や伊与部氏にあると認識するものであり、本考のなかには分かりにくい表現・記事も多々あろうが、ご宥恕いただきたい)。


 検討の前提

 中村修氏がその検討結果を自著で記し、当該本系帳の貴重性・信憑性をいくら強調しようと、系図知識と古代史・古代氏族の適切な知識、研究方法を備えていれば、その偽書性は明瞭であって、いまさら議論の余地がない。本系帳奥書にある「慶長十年」(西暦1605年)の「従五位下伯耆守正長」という記載も、官位詐称と思われ、『歴名土代』慶長十年以前の従五位下の叙位には六人部氏はまったく見えない。そもそも、この者が実在性のある人物かどうかも、未公開である六人部是香編という六人部家所蔵の『六人部系譜』が示されないと思考もできないが、そもそもこの正長なる人物は同系譜にある人物なのだろうか。

 中村氏は、『乙訓の原像・続編』では、同家所蔵の『向日二所御鎮座記』の全文も、その注釈付きで提示されるが、これも本系帳と一体の史料だとして見られる記事が随処にあって、明かな偽書である。 「御鎮座記」の問題点は数多くあるが、主なところを次に挙げておく。

@国神加豆野戸辺の問題点
 この者が「葛野連等遠祖」のはずがない。『新撰姓氏録』(以下は『姓氏録』と略記)左京神別や「天孫本紀」物部氏系譜の物部奈西公の記事と合わない。
 中村氏は、「加豆野」という万葉仮名表記も古い伝承を伝えている表れ、だとか、「御鎮座記」が『姓氏録』や『旧事本紀』より古い伝承を伝えていると考える。これは、史料の裏付けがなく、自らの信仰にすぎない。
 このほか、葛野連の遠祖海松命なども、その当時の実在性がまったく確認できず、ありえない人名である。この者と、六人部連の遠祖という建斗臣命が一緒に行動したと「御鎮座記」に見えるが、後者は大和葛城に居住した尾張氏の遠祖であり、山城乙訓での活動はまずありえない。この者が六人部氏系譜伝承の実質的初代だと中村氏は考えるが、乙訓への六人部氏の移遷時期は明かではなく、おそらく「建斗米命が六人部連の祖」だとする『姓氏録』の記事に引っ張られてのものではなかろうか。
 併せて言うと、久我直の遠祖も「久我津彦」と記されるが、久我直は鴨県主と同族で建角身命の後裔であり(こうした知識すら、「御鎮座記」の執筆者にはない)、久我直の遠祖が鴨県主の遠祖「神建角命」を迎えて饗宴を開くわけがない。
 
A磯城瑞垣宮朝(崇神朝)の「六人部連遠祖安居建身命」の問題点
 「天孫本紀」物部氏系譜には、七世孫の世代(崇神・垂仁朝頃)の人に安毛建美命をあげて、「六人部連等の祖」と記しており、「六人部連本系帳」にも安居建身命が六世孫にあげられ、「建斗臣命」の父とされる。「天孫本紀」の系譜のなかで、六人部氏の祖が二人(尾張氏と物部氏)出てくるが、これは、「最初物部氏系譜に接続し、その後でさらにそれを尾張氏系譜に接続替えしたからである」と中村氏は考え、「六人部氏系譜を尾張氏系譜に接続するために挿入された名前であり実在の人物ではない」と判断する。中村氏の苦しい言い訳にあっても、ここに架空の人物が入った系図だとみるわけであるが、この者の存在があって、本系帳と「御鎮座記」との連結ぶりが窺われる。

 中村氏の把握に間違いがあるので、その辺を言っておくと、「天孫本紀」尾張氏系譜に「六人部連等の祖」とあるのは、五世孫の妙斗米命(建斗米命の弟におかれる)と六世孫の建手和邇命(「身人部連等の祖」とある)の二人であり、本系帳・御鎮座記の執筆者も中村氏もともに、「身人部連」が「六人部」と同じ姓氏だという知識すらなかった。また、系図の接続箇所におかれたからと言って、これが実在性の否定になるわけではないが、安毛建美命には、「水取連・舂米連の祖」という所伝が別の系図に見えており、この者が乙訓の六人部連の祖であったかは、確認ができない事情もある。
 
B磐村並槻宮朝に活動したという向日二社祠官諸氏の問題点
 用明天皇朝に大風が吹いて、上社及び御門を倒壊させたので、葛野連の遠祖弟彦、六人部連の遠祖大枝、祝部連の遠祖長子、榎本連の遠祖坂手、の四人が協力して復建活動したとする記事は、疑問が大きい。
 これら四氏は、中村氏も言うように、「御鎮座記」を作成したと記される元慶三年(879)の時と同じ諸氏であるが、これらはみな、史料に裏付けがなく、他の系図史料に見えない人名である。姓氏についても、葛野連は、当時の葛野県主の姓氏かどうか不明であり、物部氏系の葛野連が向日社祭祀に関与したかは不明である。祝部連という姓氏は史料に見えず、しかも鴨県主同族の祝部は乙訓郡での居住・活動は考え難く、榎本連も、大伴氏系の榎本連は用明朝当時はまだ発生してはいなかった。後の榎本連が乙訓郡に居住したことも確認されない。
 他の史料により裏付けができないことを、「他の史料に見えない貴重な記事」だと誤魔化してはならないことである。
 
C奥書記事の信憑性
 元慶三年(879)に註進の時の五名の向日社神主は、六人部宿祢姓が二人のほかは葛野連・祝部連・榎本連が各一名で、これらの問題点は上記の通りだが、肝腎の六人部氏が、当時、宿祢姓を持っていたかは疑問がある。すなわち、六国史最後の『三代実録』で仁和三年(887)八月までの歴史が記されるが、この六国史には、乙訓郡の六人部連について賜姓が記されないから、元慶三年当時はまだ連姓であったとしか判断のしようがない。
 山城や京都で活動した六人部氏が宿祢姓で見えるのは、十世紀前葉(それも930年が宿祢姓が確認できる最初)のことである。「根岸文書」「東寺百合古文書」(ともに『平安遺文』所収)の「左京五条三坊戸主秦忌寸岑吉」の売畠立券には、延喜九年(909)七月に従七位上六人部連春岑が見えるから、この者の居地が京か山城かは知られないが、山城乙訓の者であれば、この時点では六人部氏は宿祢姓ではなかった。天暦四年(950)六月十七日の『朝野群載』の記事には、「去る延長八年(930)券に摂津国の介に六人部宿祢」と見える。続いて、『九暦』には天慶八年(945)正月五日条に「散位六人部宿祢三常」と見える。
 奥書記事の最後に、この古記は当家相伝の本が焼失したので、「正五位下葛野春義本」を以て書写したとして、天正十一年(1583)九月の「従四位下六人部宿祢宗重」の名が見える。しかし、この当時の葛野氏も六人部氏でも、従五位下以上の叙位が『歴名土代』にまったく見えず、明らかに官位記事の偽造である。こんなデタラメ記事ばかりを多く書き連ねて、この「御鎮座記」が信頼できる史料だと、どうして言えようか。
 
 以上に見るように、社家六人部氏に伝えられる『六人部連本系帳』『向日二所御鎮座記』がともに信頼できない史料だと分かったところで、それら以外の別途の史料を基礎にして、各種史料から課題の六人部氏の祖系について、以下に探索してみよう。


 六人部氏の賜姓記事

 当該本系帳に記される一族諸氏は殆どが疑問だから考慮の対象外として、六国史には六人部氏の分布と同族諸氏がいくつか見える。
 そのなかで重要なのが、『三代実録』の貞観四年(862)五月十三日条の記事である。そこには、美濃国厚見郡人の外従五位下行助教六人部永貞、讃岐少目従七位上六人部愛成、散位従七位下六人部行直ら三人、賜姓善淵朝臣。天孫火明命の後で、少神積命之裔孫であり、伊与部連・次田連等と同祖なり、と見える。とくに善淵朝臣永貞・愛成兄弟は、学問・書記関係で優れ、大外記・大学博士・助教などを歴任して諸国の受領などもつとめた。美濃国にはこのほか、六人部を名乗る者が多くおり、六人部臣も見える(後述)。
 その翌貞観五年(863)十二月十一日条には、右京人左史生正八位下六人部連吉雄に対して、善淵宿祢の賜姓があったから、吉雄は永貞兄弟の支族なのであろう。やはり、「天孫火明命之後也」と付記される。
 なお、当該本系帳には、卅四世孫世代の忠麿について、延暦年中に美濃目となり後に移住して「厚見六人部連」と見えるが、美濃の六人部連がこんな遅い時期の分岐とは、とても考えられない(しかも、中村氏は、この「厚見」を愛知県の渥美半島だと誤解した)。

 上記記事に見える「善淵朝臣」姓は、貞観十五年(873)十二月に左京人外従五位下行助教越智直広峯も賜っているが、「其先は神饒速日命之後に出自」と見えるように、物部氏族の小市国造族であった。その後の元慶元年(877)四月条に、「従五位上行大学博士兼越中守善淵朝臣永貞、従五位下行助教善淵朝臣愛成、従五位下善淵朝臣広岑」と続けてあげるように学問・仕事上のつながりも、越智直広峯と六人部永貞・愛成兄弟にはあったろうが、天孫族系で火明命後裔と称した物部氏族と広い意味での同族だった故に、同じ賜姓となったものではないかと考えられる。
 なお、「善淵朝臣、善淵宿祢」の賜姓の前にも、六人部連に賜姓記事が見える。すなわち、『続日本後紀』天長十年(八三三)二月条には、右京人の音博士従五位下六人部連門継、及び弟の六人部連大宗・六人部連秋主、妹の六人部連鷹刀自・六人部連磐子ら男女五人に対して高貞宿祢の賜姓があったが、彼らのその後は見えない。


 六人部氏の同族の伊与部氏

 上記の『三代実録』の貞観四年条の記事に六人部同族だと見える「伊与部連、次田連」については、『姓氏録』に次のように見える。
 伊与部連:『姓氏録』右京神別・天孫部の「伊与部─同上」(前条に尾張連条の記事「火明命五世孫武砺目命の後」がある)。その前に、右京神別・天神部の「伊与部─高媚牟須比命の三世孫天辞代主命の後」も見える(後ろで述べるが、天孫部と天神部の伊与部は、同族の可能性が大きい)。
 次田連:『姓氏録』河内神別・天孫部の「次田連(一に吹田連)─火明命の児、天香山命の後」とあり、その後に火明命の後とする身人部連・尾張連・五百木部連を掲載。

 なかでも、伊与部という氏に注目される。この部の性格は不明で、もと「伊余部」と書くことから愛媛県の伊余国造(伊予国造)の部曲か(太田亮説)とも、名代部の一種か(佐伯有清説)、など諸説が出ているが、それよりも栗田寛説の言う地名説で、城下郡伊余戸の地に起こる氏とみるのが自然そうである(なお、讃岐の阿野郡山本郷に伊与部連が居たが〔天平勝宝年三年の優婆塞貢進文〕、これは讃岐の六人部に関連するか)。

 城下郡伊余戸の地は、現在の奈良県磯城郡田原本町伊与戸であり(田原本町東部)、当地には延喜式内社で大和国城下郡の岐多志太神社が鎮座する。その祭神は、現在、天香山命・天児屋根命とされるが、『磯城郡誌』『大和志料』では「祭神詳かならず」とされる。ここの祭神の天香語山命の名は、石凝姥命とも呼ばれ、天児屋根命と共に、鏡作座天照御魂神社と同じだともいうから、近隣に住む鏡作連の関係社の模様である。太田亮博士は、『姓氏家系大辞典』カガミツクリ条で、「5 尾張流鏡作氏」をあげ、神宮雑例集(鎌倉初期の成立とされる)に「鏡作神の遠祖天香山命」と見えれど、「こは尾張氏上祖の香山命にあらざるべし。或は附合か。」と評するが、貴重な史料採取である。〔註〕
  
〔註〕平田篤胤の著『古史成文』2には、
「伊斯許理度賣命、亦名が天香山命は、天照國照彦火明命(亦名が天糠戸神)の兒(「後裔の氏」の意)、鏡作造、水主直、六人部連、五百木部連、伊福部連、檜前舎人、竹田連、竹田川邊連、笛吹連等之祖なり」と記される。この指摘もネット上に見える。
 拙見としては、檜前舎人以下の4氏について言いうるかどうかは疑問にも思われるが、鏡作造〜伊福部連の5氏については妥当する可能性が大きいようにも感じる。
 
 上記の次田連の記事に見るように、鏡作連系氏族の系譜には、火明命、天香山命が遠祖と伝えるむきがあったようで、伊与部は、中臣連一族の系図にも分岐が見られるが、これは、天香山命の原態の一つが中臣氏祖神(天児屋根命かその父神)とか天辞代主命にあることに通じるようである。
 「岐多志太」の意味もあまり明確ではないが、鍛冶師田の仮名字といい、奉祀は鍛冶師・鉄工の神とか物部鍛冶師連に関係あるともいう。後者は、「天孫本紀」には十一世孫の世代、目大連の弟にあげて、「鏡作小軽女連等の祖」(鏡作の後に「連」が欠落か)と記されるから、やはり鏡作の関係者のようでもある。
 そうすると、伊与部連は、鍛冶とかなりの関係を持ち、居地近住などから見て鏡作連の初期分岐ではなかったかと思わせる要素がある。鏡作連の系図は、『諸系譜』第14冊に掲載されるが、大化前代は一世代一人の直系で長くつないでいて、初期の支族分岐は殆ど記載がないから、具体的には不明だが、こうした推測ができそうなのである。
 
 鏡作連の祭祀関係を見ると、鏡作三社を奉祀したが、そのなかに鏡作麻気神社があって、「鏡作麻気神」が主神とされ、これが天糠戸命(天額戸命)、麻比都祢命(天目一箇命)にあたるとされ、その場合、「石凝姥命」の後裔と言っても、実態は近江の三上祝や鍛冶部族の額田部連の支族、物部氏とも同族にもあたりそうである。鏡作三社のうち式内大社の鏡作坐天照御魂神社が火明命を祀るともいい、摂津国菟原郡覚美(かがみ)郷(神戸市東灘区御影)に綱敷天満神社があって、祭神を別雷大神・天穂日命などというから、鏡関係の氏族には物部氏や鴨氏とほぼ同様な祭神が見られる。
 銅鏡製作の技術のもとには銅鐸製造技術にあったようで、鏡作連が銅鐸製造に関与したとの見方もある。近江国野洲郡の大岩山遺跡から多量の銅鐸が出土したが、これには三上祝やその同族が関係した。また、尾張支族という伊福部連氏が銅鐸製造したとの見方(田中巽氏、谷川健一氏)があるが、伊福部連の祖と身人部連の祖とが兄弟として、「天孫本紀」尾張氏系譜に記される事情もある。三遠式銅鐸の主体的関与者とみられる遠江国造の遠祖が物部氏の初期分岐に出た事情もある。
 このように見ていくと、種々雑多で茫漠としていながらも、鍛冶や鏡・銅鐸関連で、六人部氏の同族へのつながりが鏡作氏・物部氏関係にありそうである。


 六人部と麻気神社の分布

 鏡作の主祭神が「麻気神」だとすると、この神を祀る式内古社が近江・丹波・越前という一帯に見られる。具体的には、次のとおりである。
 越前国では、丹生郡の式内社に麻気神社があり、その論社が、@麻気神社 (福井県南越前町牧谷に鎮座。祭神は奇玉饒速日命。牧谷の西隣が大字鋳物師)、A麻気神社 (同県丹生郡越前町真木に鎮座。少彦名命を祀り、近くに越知川がある)、とあげられ、足羽郡の式内社にも麻気神社 (福井市安原町に鎮座したが廃絶。近隣に熊野山がある)があった。これらは、いずれも物部氏や鍛冶に縁由が深そうである。
 近江国では、高島郡の式内社に麻希神社をあげ、これは現社名を山神社として、高島市マキノ町牧野にある。祭神を大山祇命とし、江戸時代は「麻気神社」「彌真野神社」と称していたという。蒲生郡竜王町にある鏡神社は、主祭神を天日槍尊とし、配祀神の天津彦根命(三上祝の祖神)・天目一箇命(鍛冶神で、物部氏の祖)が祀られて
 また、丹波国船井郡の式内社の麻気神社があり、これは現社名を摩氣神社として京都府南丹市園部町竹井にある。丹波の祭神は、水や食物を司る神(御食津神)とか大御饌津彦命とされるが、摩気郷十一ヶ村のなかに口司があって、村の氏神は鏡神社とされる。摩氣神社の境内社には菅原大神・熊野大神・加茂大神・山王大神とかがあり、鴨族に縁由がありそうでもある。
 『新抄格勅符』には、「鏡作神十八戸(大和二戸、伊豆十六戸)、麻気神一戸(丹波国、神護景雲四年充)」と見える。
 
 一方、身人部・六人部の分布については、畿内の山城・河内・摂津のほか、丹波・美濃・越前に多くあり、播磨(加茂郡)・但馬国(出石郡)・伊勢(朝明郡)・紀伊(伊都郡)・讃岐(大内郡)にも分布したことが史料から知られる。中世史料では、若狭国太良庄(小浜市域)にも六人部氏が見え、戦国末期には和泉の和泉郡今木館主、和泉三十六郷士として六人部加賀守がいた(『泉州志』)。また、南山城の相楽郡加茂町登大路に山城国の国分寺跡があり、そこから出土の布目の平瓦の破片に人名を表わした押型文がある。その中でも六人部・日奉部は最も多く見られるという。

 越前では、越前国の丹生郡従者里の六人部安万呂及び同郡朝津里の六人部□千依・六人部牟良の貢進、が和銅四年〜霊亀三年(711〜717)の長屋王家木簡に見える。丹生郡水成村の人として六人部浄成が見え、天平勝宝七歳(755)の越前の国医師従八位上として六人部東人が知識を率い一切経律論を書写した。このほか、長岡京跡出土の木簡に、芹田郷の戸口六人部亦万呂も見え、越前国(後に加賀国)の加賀郡芹田郷かとみられる。現在でも、ムトベの名字は福井県にあり、「六戸部」と表記して、福井県越前市に約20人が居るという(六人部は殆どない模様)。
 丹波では、『和名抄』の丹波国天田郡十郷の一つに六部郷が見える。これは、六人部氏の居住地だろうとされ、郷名として「六部」が見えるのは全国で当地だけである。木簡では、奈良県高市郡明日香村の石神遺跡出土木簡に、「竹田五十戸 六人部乎佐加柏俵四十束」との荷札が見え、丹波国氷上郡竹田郷(丹波市市島町中竹田あたり)にあった。兵庫県丹波市春日町棚原の山垣遺跡木簡にも「竹田里六人部」などが見える。桑田郡の山国荘にも六人部氏の居住が知られる。
 ただ、本系帳に見える「近江瀬田」の六人部連には何ら所見にない。

 以上のように、麻気神社の分布を考えても、鏡作連や伊与部連では、越前や丹波に居住が史料に見えないから、六人部氏がこれら地域の麻気神社奉祀をしたのではないかと思われる(丹波にも、物部郷・物部神社、芹田神社、嶋物部神社があったから、鏡作氏との近縁があった物部氏も、奉祀に関与した可能性はあろうが)。
 六人部は、美濃でも分布が広範囲に多く見える。六国史に見える厚見郡ばかりではなく、大宝二年(702)の戸籍などの史料から、各務郡や安八、本巣、方県、山県、武儀の各郡に六人部・身人部が多く居て、六人部臣も方県郡にあったと分る。佐伯有清氏は、「これは六人部が、かつて美濃国に設置されたことによるものであろう」とみている(『新撰姓氏録の研究』考証編第三。346頁)。なお、大宝二年の戸籍で加毛郡半布里には、水取部姓の人も三名見える。上記の各務郡は「カガミ」と訓み、各務・厚見両郡の郡領家には各務勝という雄族が居て、平安期にも活動が見える。
 
 そうすると、六人部氏の系譜原態は、火明命の後裔と称した鏡作連の支族に出たのではないか、と考えられる。それが、弘仁の『姓氏録』編纂の頃には、「火明命の後」と伝えても、具体的な祖系を失っていて、その当時以前に、火明命の後裔と称していた物部氏や尾張氏の系譜に祖系を架けようとして、「天孫本紀」所載の物部氏系譜や尾張氏系譜に記された形となったのではなかろうか。六人部氏が当初から向日社の下社を奉斎していたのなら、「火雷神」を海神族として奉祀するはずはないから、本来の系譜は、やはり天孫族系の「火明命の後」と伝えていたのであろう。


 六人部氏の遠祖と系譜

 六人部は、当初は職掌の水取部・水戸部から転じて、「身人部」と表記するようになったが、七世紀後葉頃には六人部の表記が出て来た。しかし、表記がこれに完全に切り替わるわけではなく、身人部・六人部の表記が並立していた。平安前期の『姓氏録』でも、河内神別では身人部連と表記され、残りの右京・山城・摂津が六人部と表記された(諸蕃で百済系の摂津でも六人部連)。
 これら『姓氏録』の記事をあげると次のとおり。
@右京神別、天孫部に、六人部連姓が欠落の可能性もあるか。無姓が正しければ、美濃出身の六人部か)。記事は、尾張連(火明命五世孫武砺目命之後也)、伊与部(同上)、六人部(同上)、子部(建刀米命の後)、大炊刑部造(天砺目命の後)、と続く。
A山城神別、天孫部に、六人部連「火明命の後」とある)。これに続いて、伊福部、石作、水主直、三富部(みな「同上」と記載)とあげる。水戸部に通じる三富部があることに留意される。この五氏は、系譜原態でも、みな同族グループか。
B摂津神別、天孫部に、六人部連、「火明命五世孫建刀米命之後也」とある。次に、石作連(六世孫武椀根命之後)が続く。
 C河内神別、天孫部に、身人部連火明命の後)。吹田連(一に次田連)に続いて記載。
 このほか、和泉諸蕃に百済系の六人部連が『姓氏録』にあげられるが、省略。

 『姓氏録』では、六人部氏の先祖は、「火明命、建刀米命」だけあげるが、『旧事本紀』天孫本紀では、尾張氏系譜に妙刀米命と建手和邇命、物部氏系譜に安毛建美命が先祖としてあげられることは先に記した。このうち、「火明命、建刀米命」は他氏との共通の先祖であり、安毛建美命が乙訓の六人部氏につながるかどうかの確認ができないから、身人部氏としての初祖は建手和邇命だと考えざるをえない。『三代実録』の貞観四年(862)五月十三日条の記事に見える「火明命の後裔の少神積命」なる者は、誰にあたるのか不明であるが、身人部氏初祖を指すものと思われる。初祖の活動時期は不明だが、関係系譜上の位置づけから推すると、崇神前代ではないかとみられる。
 これら重要な氏の「初祖たる祖先」を本系帳はなんらあげず、乙訓郡に誰がいつ来たのかも記さないのだから、その無知や偽造ぶりが窺われる。六人部氏が何時、山城乙訓に来たかについて史料からは不明であるが、山城・美濃では鴨族とともにあったような事情から考え、佐伯有清氏の言うように、美濃に六人部が設置されたとみて、景行天皇の事績なども併せ考えると、成務朝〜応神前代に乙訓郡に来たというところかもしれない。
 
 身人部氏の系譜は、現存史料のなかで最も信頼できそうなのが、鈴木真年旧蔵の『赤松家系図』の表紙裏紙に見える系図である(便宜上、「裏紙系図」と呼ぶ)。
 ところが、当該裏紙系図も建手和邇命の父祖は記さず、しかも建手和邇命から始まる系図の初期段階のものは世代数が多すぎて疑問があり、世代数や命名などの諸事情から見て、信頼できそうなのは、仁徳朝奉仕という比良手以降であり、末尾は奈良時代末期頃とみられる岑継、古人あたりだが、六国史に見えるような者の記載がない。六人部連鯖麻呂も見えないが、年代的には人雄(古人の父)かその父の伊多知の兄弟に当たりそうであるが、その兄弟の部分が切れて欠けている。そして、平安時代の系図も見えない事情にある。


 平安期の史料に見える身人部・六人部氏一族

 先に宿祢姓賜与の頃の六人部氏を見たが、主に平安中期以降の史料に現れる一族を次に見ていこう。ちなみに、現在に残る六人部氏関係の系図は、いずれも断片的であり、その初期部分に疑問を多く感じさせる。例えば、筑波大図書館蔵の『水口身人部系図写』とか、『地下家伝』巻十五の身人部姓水口氏の系譜などである。向日社六人部氏関係の所伝では、この衛府官人系統(水口などで、身人部の表記が多い)の分岐が知られない。また、京大図書館蔵の『秦氏系図』に併せて所載の「身人部氏」の系図は、中世の水口家の先祖の人々にあたるのではないかとみられるが、ほぼ十一世紀代(初頭頃の身人部仲重以降)から十二世紀初頭頃のものに限られる。この頃の『小右記』『権記』などの日記類には衛府官人の身人部宿祢一族がかなり見えても、それぞれ断片的であって具体的な系譜関係はあまり知られない。
 『平安遺文』等に現れる六人部氏では、平安前期の承和八年(841)二月に散位六人部古佐美が見え、次に嘉祥二年(849)の七月、十一月に郷長六人部で見える。この者は葛野郡橋頭郷(嵯峨あたりか)の郷長六人部大酒麿とされる。平安中期に入って、延喜九年(907)七月に従七位上六人部連春岑が見えると先に述べたが、春岑は承平二年(932)十二月に見える六人部春平の兄だったか。延喜十一年(911)三月には、紀伊国伊都郡の主政らしき六人部連忠雄が見える。
 さらに、天暦四年(948)五月に左近府生六人部是助が見え、この者が天徳五年(961)正月に従五位下を譲ると『公卿補任』に見える。この間、天徳三年(959)四月に従七位上行で摂津目の六人部宿祢是興が見えるから、両者は兄弟であろう。『九暦』の天慶七年(944)五月の競馬に参加した六人部是正も同じく兄弟であろう。この是助・是正あたりが衛府官人六人部(身人部)宿祢一族の先祖であったものか。『九暦』の天慶八年(945)には「散位六人部宿祢三常」も見えており、こちらは向日社祠官家につながるのかもしれないが、向日社所蔵の『六人部系譜』にはどのような系譜と記事があるのだろうか。
 その後の南北朝期にも、日野資朝の命により神器を偽造したという身人部石見守清鷹がおり、名前から見ると水口系統ではないかとみられるが、その系譜は断片的にしか伝わらない。ということで、六人部関係は断片的な史料が多く、残念に思われる。


 おわりに

 様々な形で私と交流のあった中村修氏が乙訓地域の辺縁部にお住まいになり、精力的に乙訓の歴史を探究され、著作・論考をいくつか発表された事情にある。彼は既に二年前に逝去されておられる。
 私の古代氏族研究が最後の段階に至りつつあるところで、鴨族を取り上げることで乙訓地域の重要性を改めて認識したと先に述べた。これに関連して、この地域で重要な位置を占める六人部氏に関しても再度、集中的に検討した次第であり、本考はその結果である。そして、中村氏からいただいた課題に対し、私なりに応えようとするものでもある。
 当初の拙見は、六人部氏が尾張氏族の出であることを疑うものではなかったが、これまでの検討過程のなかで、次第にそれに疑問を持ちだし、あるいは鴨族の出ではなかろうかという可能性も考えた。というのは、上賀茂社家に水口氏があり、賀茂県主の後裔というとの事情もあるからである。ところが、今回さらに検討を加えるうち、それにも疑問を感じ出し、思ってもいなかった見方、すなわち鏡作連支族の出か、とみるようになった。
 この関連で調べて、六人部氏の同族諸氏の拡がりにも驚いたものでもあり、「天孫本紀」尾張氏系譜への疑問をまた増やしたところである。美濃に分布の多い伊福部連も、篤胤指摘のように、原態が六人部同族だった可能性がある。その場合、各務郡の大族たる各務勝や村国連(石凝姥命を式内社で奉祀)までも鏡作連同族となり、「各務(カガミ)=鏡」が符合することになろう。

 その辺に、系図研究の奥深さを思うものでもある。もちろん、ここに書いたのは一試論にすぎず、誤りもあるかも知れないが、更に史料探索につとめ、現在の六人部家所蔵文書も含め、各種史料の真偽を厳しく吟味・検討することによって、古代系譜の原態に近づきうるものだと認識する。

  (2021.02.06掲上。その後にも02.09などに追補) 


   なお、本考の前提・基礎には、「六人部連本系帳」の検討があり、次の頁をご覧ください。 

       田中卓氏の論考「「六人部連本系帳」の出現」を読む 

   鏡作連の活動と一族については 銅鐸と鏡作連氏 をご参照。


         また、本系帳の検討の続き(1)   続き(2)

独り言・雑感 トップへ   ようこそへ   系譜部トップへ