銅鐸と鏡作氏

 
          銅鐸と鏡作氏
                          

                           宝賀 寿男



 はじめに

 標記テーマから離れて唐突なようではあるが、なぜこの問題を取り上げたかを書くと、加賀分国前の越前地域(とくに越前の嶺北地方、加賀あたり。現在の地名で言うと福井県北部、石川県南部・中部)は、私の古代史研究において盲点になりかかっていたが、物部氏余流の動向や継体天皇母系を追いかけるうち、上古史上で重要な鍵をもっているようにも思い出し、いろいろ検討・模索した結果の試論である。
 福井では、白崎昭一郎氏が地域の歴史学会の副会長をつとめ、考古学を中心に関連する多くの研究を発表されてきており、また充実した内容の『福井県史』の刊行などで、福井・石川両県の古代史はかなり解明されてきたとも思っていた。ところが、どうも祭祀的・氏族的な面での研究がこれまで手薄ではなかったかとも感じる次第である。
 戦後の上古史研究のなかで大きな比重を占めてきた考古学分野では、鏡・剣や土器などの考古遺物や古墳などについて、誰(どのような氏族、部族あるいは種族)が造ったのかという観点が大きく欠如している。考古遺物にそうした記載がないからでもあるが、遺物や遺構などが人の手を借りずに勝手に出来上がるわけではないから、奇妙な話しと言わざるをえない。祭祀・習俗関係の研究で大きな貢献をした五来重氏の諸著作を見ても、こうした「担い手」という観点からの記述が殆どないから、その取り上げる対象は多く、様々な参考にはなっても、あまり体系的にはなっていないようにも思われる。
 日本列島における弥生時代の種族を見ると、原住の山祇種族(北方のアイヌ種族も含む)、銅文化・稲作を伝来して弥生時代を現出させた海神種族、鉄文化をもたらした天孫族、という形で大きく分類されそうだから、どのような人々が各種の文化・技術を支え、作り出してきたのかという、おおよその区分はできそうである。もちろん、二種や三種の混淆という事情も、境界あたりではありそうであるが、それでもどちらが主体であったのかという判断はできよう。
 最初に、大きく一般論を述べたが、本稿の問題意識としてはこうしたものであり、これを上古の越前地域について具体的に考えてみたらどうかということでもある。その結果、集約的にでてきたのが標記のテーマである。だから、主なテーマが当初にあって、それから書き出したという事情になっていないし、やや付随的な内容にも話が及んでいる。

 
 上古の越前広域地方の重要性

 なぜ、越前地域(分国前の加賀を併せて、ここでは上古の当該地域を「広域の越前」とする)かという説明であるが、この地域には丹生郡に大虫神・小虫神あるいは麻気神などというあまり他の地方には見られない神を祀る古社がいくつか見られるように思い、つとに気になっていた。この地域の古墳も比較的早い時期から造られ始めており、銅鐸の分布も日本海側の東北限をなしている。修験道など山岳祭祀の白山信仰も、広域越前なかでも丹生郡で起こり(同郡の麻生津で生まれた泰澄が同郡の越智山で修行という)、中世を通じてもさかんであった。

 ところが、初期段階の物部氏部族の足跡を出雲から追っていくうち、物部神社のある丹後国与謝郡にも大虫神社・小虫神社という両名神大社(現・京都府与謝郡与謝野町域)があることに気づき、これが越前の大虫神社・小虫神社(前者だけが式内の名神大社)の淵源ではないかと感じ、更に関心を増してきた。出雲で大量出土した銅鐸が、与謝野町域からは、三河内の比丘尼城で二個、その東南近隣の明石(蛭子山古墳の東方近隣)からも一個が出土しており、これらは野田川流域で、大虫神社の北方近隣に位置する。東隣の宮津市の由良からも、銅鐸が二個出ている。
 島根県松江市八雲町にあるツルギ()神社(出雲国意宇郡の式内社の能利刀神社)と同名のツルギ神社も、なぜか越前に多いし、織田の剣神社には織田信長の先祖も関係する。出雲にほぼ特有の四隅突出型墳丘墓も、日本海側を出雲から飛んで越前・越中あたりに分布し、出雲に多い前方後方墳が、越前にもかなり多いという事情もある。
 加賀について言えば、『出雲国風土記』島根郡の記事の中に「加賀の潜戸」〔かかのくけど〕という海側の洞窟があって、そこで佐太御子神(佐太大神。海神族の猿田彦命とは別人)が誕生したと見えており、加賀の国の「加賀」も、これが地名起源ではないかと考えると、ここでも出雲との関連を感じる。

 広域越前あたりは、四世紀前葉、崇神朝の四道将軍大彦命の遠征地域のほぼ北限ではないかとみられ、当該遠征の関係氏族も、考古遺物の石釧・車輪石の分布も、能登あたりを北限とする。だからといって、この地域が大彦遠征のときに初めて大和王権との接触をもったわけでもなかろう。おそらく、崇神前代にあっても、なんらかの形で出雲や畿内方面からの移動してきた人々をうけて、地域開発がなされたのではなかろうか。その結果が、上記の広域越前の諸事情だとみられる。
 丹生郡に属した地域にある鯖江市の舟津神社(丹生郡式内の大山御板神社の論社)の社伝では、遠征してきた大彦命は、地元の「塩垂の長」という長老の教えを受け、安伊奴彦の先導により深江(同市舟津町辺り)に到り、その地の山で先に応対した長老に再び出合ったので「逢山(王山)」という、とされる。四道将軍の会津の出会いの伝承とも通じそうなものである。
 王山には王山古墳群(弥生後期から古墳時代中期の総数四九基からなる古墳群)があり、その北方近隣にある長泉寺山の古墳群(前方後円墳一基を含む百基に近い古墳群という)とともに前期古墳が見られる。鯖江や武生(現・越前市域)を含む丹生郡は、越前でもっとも早く開けた地域と考えられている(白崎昭一郎氏『福井県の歴史』)。舟津神社の祭神のなかには「塩垂の長」たる猿田彦命もあげられるが、この地域の開発者一族なのであろう。もちろん、当地の「猿田彦命」は、筑紫海岸部にあった海神国王族で瓊瓊杵命降臨の先導者たる猿田彦神とは別神である(ここでの「猿田彦命」の名は、出雲の佐太大神に由縁するか。あるいは猿を使いとする「山王神」や「少彦名神」に通じるものもあるかもしれない)。
 王山古墳群の東方近隣の鯖江市新町からは突線鈕式の銅鐸が出土しており、長泉寺山の西山公園からは銅釧八個が出土した。ちなみに、越前での銅鐸の出土は、坂井郡(現・坂井市の春江町、丸岡町及び三国町)から出たものも合わせて合計で八個、加賀からは河北潟畔から出たと伝える銅鐸が一個あって、これが銅鐸出土の東北限となっている。
 前置きが長くて、なかなか標記のテーマにすっきり関連するところまでに行きつけないが、本稿の概略要旨を先にここで述べると、次のようなものである。
 北九州から発して出雲を中継地として大和入りした物部氏部族は、その同族のなかに鏡作氏があって、物部氏とともに銅鐸の製造に関与したのではないか、これら両氏の一派の流れが広域越前にも崇神前代という早い時期に入り、その後も広く当地域に分布して、その開発者になり、多くの遺構や古社を残したのではないか、とみられるということである。

 
 鏡作氏とは何か─職掌と奉斎社 

 鏡作氏は、高天原神話ではともかく、神武天皇以降の時代には殆ど現れず、『日本書紀』天武天皇十二年十月条に鏡作造が連を賜姓しただけが見えるくらいだから、活動実態の把握はこれまでまるでなされてこなかった。
 ここで、なぜ鏡作氏かというと、越前国丹生郡の式内社に麻気神社があげられ、いま論社が三社あって、その一つ、福井県南条郡南越前町(旧・南条町)牧谷の麻気神社が祭神を奇玉饒速日命とする事情がある。丹生郡の当該式内社の論社三社の祭神がそれぞれ異なり、また同国足羽郡にも同名の式内社があって、これは現在、所在不明となっており、このように祭神の確定自体が難解な神社なのだが、大和国城下郡との関連で注目される。
 すなわち、現在の奈良県田原本町に城下郡式内の「鏡作麻気神社」という神社があり、当社の鎮座地は物部氏の本拠の近隣ないし圏内にあるとみられ、付近の同町八尾の鏡作坐天照御魂神社や、鏡作伊多神社ともども鏡作氏一族が奉斎した神社とみられる。
 鏡作坐天照御魂神社の祭神は、一に火明命(実は饒速日尊を指す)ともいわれ、鏡作麻気神社のほうは天糠戸命を祀るというが、越前の麻気神社との関連も考えられる。鏡作伊多神社のほうは、田原本町保津と同町宮古に近隣して合計二社があり、保津は穂積に通じて、初期段階の物部氏(あるいはこれから分岐の穂積氏)の根拠地とみられる。しかも、近世以前の保津社は、現在地の東約三百Mほどの小字・伊多敷〔イタシキ〕の地にあり、保津集落の移転に従って現在地に遷座したらしいといわれる。
 両社ともに、祭神は石凝姥命であり、天糠戸命との関係は父娘説、夫婦説がある(このうち、夫婦説が妥当か)。なお、『式内社調査報告』によれば、『磯城郡誌』(1915年刊)に記す、保津社は式内・鏡作伊多神社ではなく、同じ城下郡の式内社で、物部系の穂積氏が奉斎していた富都神社(現・田原本町富本)ではないか、との見方もある。

 鏡作氏は、城下(十市)郡鏡作郷一帯に住んで鏡の製作を管掌した氏族であり、奉斎神からしても、天目一箇命後裔の物部氏族と近い同族の天孫族系統とみられるが、その系譜ともども謎の古代氏族であった。『先代旧事本紀』には、鏡作氏の系譜について、遠祖の饒速日命の十一世孫・鍛冶師連公に「鏡作小軽女連等の祖」(記事の表現のママ。「鏡作連、小軽女連等の祖」という意か)と見えるが、これは明らかに系譜の混乱である。鏡作氏は物部氏の同族であっても、物部氏一族(宇摩志麻治命後裔)ではなかった。土佐にあった物部鏡連氏については、系譜ははっきりしないものの、物部氏一族ではなく、物部同族の安芸国造の流れ(少彦名神後裔の玉作氏族)とみられる。

 『新抄格勅符』には、「鏡作神十八戸(大和二戸、伊豆十六戸)、麻気神一戸(丹波国、神護景雲四年充)」と見える。丹波国も、出雲・丹後から畿内大和までの物部氏の移動経路上にあって、物部郷・物部神社、芹田神社があったから、ここでも物部氏と鏡作氏との近縁が示される。同国の麻気神は、船井郡の式内社で京都府南丹市園部町竹井にある摩気神社(現社名)に比定されるが、同郡には式内社で嶋物部神社(同市八木町美里の荒井神社に比定)があった。
 斎部広成が撰した『古語拾遺』には、崇神天皇の段に、斎部氏の先祖をして、石凝姥神の裔、天目一箇神の裔の二氏を率て、鏡・剣を造らせ、天皇護身用の御璽〔ミシルシ〕とした、と見える。これは、女性用の鏡、男性用の剣の製作を各々別氏(前者は鏡作造、後者は額田部連か)が担当したとしても、それぞれ祖先の女神・男神をあげたものであって、天目一箇神と石凝姥神は夫婦神ではなかったろうか。
 なお、鏡作氏の系図は、中田憲信編『諸系譜』第十四冊のなかに見えるが、物部氏とは早くに分かれた事情があってか、物部氏や三上祝の系統に見える人物とは異なる名で伝えており、人物対比がしにくい事情にある。これについては、後ろで取り上げることとしたい。

 
 銅鐸と物部氏との関連

 銅鐸のほうはどうかというと、物部氏族の初期根拠とみられる唐古・鍵遺跡に銅鐸片や鋳型の出土があり、この銅鐸片と出雲の加茂岩倉遺跡出土の銅鐸は、成分が極めて類似するという。物部氏族の根拠地域たる天理市石上町からも、突線鈕式の銅鐸二個が出た。
 出雲では、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から銅鐸の大量出土(両遺跡で合計45個)があり、物部氏祖先が出雲に居た場合の居住地とみられる島根半島でも、佐太神社近隣から銅鐸二個の出土があった。
 銅鐸の関係氏族としては、尾張氏族という伊福部連をあげる説もあるが、これは局限的のように思われる。銅鐸は、総じて海神族系統の祭祀に関係したものであり、これと連合的に政治活動した物部氏などの天孫族系鍛冶部族も製作に関与したものではなかろうか。

 銅鐸絡みで越前国丹生郡にはもう一つ注目すべき古社がある。それは、丹生郡から分かれた今立郡にあり、須波阿須疑神社という名であり、その論社(今立郡池田町稲荷に鎮座)の祭神のなかに大野手比売命があげられ、当地開発の祖神とされることである。この「野手」〔ヌデ〕が鐸すなわち銅鐸の意とみられる。もともと大野手比売は、瀬戸内海に浮かぶ小豆島の神で島内でも祀られているが、なぜか越前でも祀られるということは、それなりの事情があったとみられる(たんに「阿須疑」がアズキすなわち小豆に通じることだけではなかろう)。
 「須波」も「スワ」と訓まれて「諏訪」と解されているが、おそらく原義が「サバ(佐波)」であって、鯖江に通じるのではなかろうか。丹波国何鹿郡には類似の名の阿須須伎神社(京都府綾部市金河内町東谷)があって、往古物部氏による創祀だと伝えている。

 大野手比売という女性は、海神族の倭国造ないし阿曇氏の系図に見えて、倭国造の祖・珍彦や尾張連の祖・手栗彦(高倉下)の叔母の位置におかれるが、これは小豆島の神ということにも通じよう。さて、その夫神たる「大野手比古(大鐸比古)」たる者は具体的に誰だったのだろうか。実は、上掲系図では、三輪君の祖・建日方命の妻という記事があるのだが、世代的にやや難があるうえ、越前にもあったという事情からは疑問が大きくなる。
 そして、河内国大県郡の式内社、鐸比古神社及び鐸比売神社(いま両社が合わせて、大阪府柏原市大県に鎮座)の存在から見て、鐸比古・鐸比売とは、凡河内国造の祖・彦己曽保理命の両親たる意富伊我都命夫妻の異名にあたるのではないかとみられる。「伊我都」はイカツすなわち雷であり、越前国丹生郡には式内社の雷神社があって、その論社が大虫神社(越前市大虫町)の相殿に合祀されている事情もある。
 意富伊我都命とは、鍛冶神・剣神たる天目一箇命(天御影命)の子であり、その子に上記彦己曽保理命をもつほか、三上祝や額田部連の祖・彦伊我都命(彦己曽保理命と同人の可能性もある)や山背国造の祖・阿多根命の父でもあった。意富伊我都命の兄弟には、物部氏族の祖・饒速日命がいて、これらが、わが国鍛冶部族の主体をなしていた。越前には剣神を祀る古社が多い(具体的には後述)から、天目一箇命の後裔氏族が開発者として入って丹生郡など各地に繁衍したとみられる。

 白山開基の泰澄も、そうした流れを引いていたのではないかとみられる。丹生郡麻生津(現・福井市南部の浅水の一帯)で生まれ、越智山(越前町の越知山)で修行したと伝えるが、越知山には今も独鈷水があって、巨石の割れ目から水が湧き出ている。これが、物部氏族特有のオチ水変若水。若返りの水)であった。その出自は「三神氏」と伝えるが、近江の三上氏と同族であったか。
 その鍛冶部族に通じそうな古墳が福鉄浅水駅付近にあった鼓山古墳であり、今は消滅したが、全長48Mの前方後円墳であった。その副葬品として鉄剣やヤリガンナとともに出土した鏃をいっぱいに詰めた革製の靱二具は、全国的に珍しい遺物であった。この古墳の陪塚からは弥生時代末かと思われる甕棺を出土したが、古墳の年代は四世紀末頃と考えられると白崎昭一郎氏は記している(この段落の記事は主に『福井県の歴史』に拠る)。


 鏡作氏の系譜と広域越前・近江

 鏡作氏の系譜が物部氏の同族らしいと先に述べたが、どのような関係にあったかははっきりしていない。大和での両氏の近在ぶりから、饒速日命の兄弟の子孫らしいというあたりをつけていても、それが明確ではなかったということである。そこで、もう少し別の面から鏡や鏡作を考えてみる。
 『姓氏家系大辞典』の記事から考えると、国名の加賀は鏡に由来しそうな感じがある。たしかに鏡は加賀見とは書くが、これまでそうした考えを私はもつことはなかったが、加賀に鏡庄があり、伯耆の名和氏の族に鏡氏があって、それが出雲国島根郡加賀郷より起こるかという記事を見れば、なるほどそうなのかと思われてくる。北陸に繁衍した利仁流藤原姓の斎藤流の系図を『尊卑分脈』に見ると、「疋田左衛門尉以成−千田九郎以房−鏡斎藤六以家……」という記載があり、千田が芹田物部の「芹田」に通じ、疋田が天孫族に縁由が深い「日置田」であるが、芹田郷が加賀国加賀郡の地名として『和名抄』にあげられるから、鏡斎藤氏は加賀に起こったとみられる。千田・疋田は、現在は金沢市域の河北潟の南方に近隣して見える(ちなみに、越前国坂井郡でも、現・あわら市疋田と坂井市丸岡町千田が近隣する事情がある)。
 『和名抄』には、摂津国菟原郡覚美郷も見えており、「覚美」はカガミで、凡河内国造の領域にある地名である。この比定地は神戸市東灘区御影あたりで、「御影」は鏡そのものや三上祝等の祖神・天御影神に通じ、当地には綱敷天満神社がある。近くの灘区国玉通には菟原郡式内社の河内国魂神社(五毛天満宮)があって、ともに凡河内国造が奉斎したとみられる。三上祝の系図には、崇神朝頃の人として大加賀美命という名も見える。三上祝も凡河内国造もともに、意富伊我都命の後裔氏族だから、鏡作氏の系譜も同様に位置づけるのが穏当なところであろう。麻気神社は、近江国の式内社でも高島郡の「麻希神社」(高島市マキノ町牧野の山神社に比定される)として存するから、鏡作氏は近江に縁由が深いといえよう。
 以上の諸事情からすると、近江の三上祝の初期分岐として鏡作氏が発生したとみるのが自然である。

 鏡作氏の『諸系譜』所載の系図は、石凝姥命から始まり、その子の「天科刀見命−刀奈己利命−大諸日命(春日部村主祖)、弟の弟諸日命−大屋子命……」として、後世へつながる。
 一族は、大和の十市郡鏡作邑及び同郡奄知邑に住み、伊豆国田方郡に支族を分出するが、本宗は後に河内国狭山郡に遷住したことが見える。
 初期の上記三代は、物部氏や三上祝氏の系図には別名で現れるとみられ、その対応者を考えてみると、@石凝姥命は天目一箇命(天御影命)の妻神、A天科刀見命は意富伊我都命と同人、B刀奈己利命は神武朝の人とみられ、おそらく彦伊賀都命と同人か兄弟となろう、というのが推案である。その子の代に早くも鏡作氏は分岐したことになる。A及びBの各人が名前に「刀」の文字をもち、@及びBが「凝、己利」(コリで、金属塊の意味)の文字をもつことに留意され、初期歴代の命名はまさに鍛冶部族たることを顕現する。

 ところで、越前には剣・刀の神社としてよい神社が多く、延喜式内社としては、敦賀郡の剣神社(論社が丹生郡越前町織田、敦賀市莇生野)、天利剣神社(気比神宮境内摂社)、今立郡の刀那神社(論社が鯖江市上戸口町、鯖江市尾花町、越前市寺地町)があげられる。『全国神社名鑑』の記事(地名は旧地名表記が多い)からあげると、@金剣神社(福井市江上。祭神は級長津彦。摂社が式内社)、A剣神社(鯖江市下新庄町。祭神は天利剣神など。国内神名帳搭載)、B剣神社(丹生郡越前町梅ヶ浦。祭神は天児屋根命など。郷社)、C剣神社(織田明神。丹生郡織田町金栄山。祭神は素盞嗚神など。越前二の宮)、が見える。また、磐座を祀る式内社も越前に多い。
 物部氏同族につながる系統の初期分岐で広域越前にあった一派が現実に何と名乗ったかは不明である。奈良時代でも、史料(『大日本古文書』所収の正倉院文書、天平神護二年の越前国司解)には、越前に「物部」姓の戸主が各地に多く見えるから、これも物部氏族と言えそうであるが、上記の実態から考えると、具体的には三上祝・鏡作造の系統ではなかったかとみられる。越前の坂井郡(現・坂井市)三国町の下屋敷遺跡の銅鐸鋳型が最古型式の菱環鈕式と考えられる事情は、この系統が銅鐸製造に関与したことを示唆する。
 そして、肝要なことには、三上祝の本拠であった野洲郡の大岩山遺跡(野洲市小篠原)から銅鐸の大量出土がある。明治以降、これまでで合計24個の銅鐸が発見されており、すべてが突線紐式で、最古のT式から最新のX式までの長い期間のものを含むだけではなく、そのうち近畿式が14個、三遠式が4個と、使用された地域が異なる多様な銅鐸が一括埋納されていたという特色がある。滋賀県では、ほかに守山市、竜王町などから合計10個ほどが出土しており、兵庫県(淡路島14個も含む)・島根県・徳島県などとならぶ銅鐸の大出土地となっている。
 野洲市三上に鎮座する御上神社の北東約八キロには滋賀県蒲生郡竜王町鏡の鏡神社があり、この祭神が天日槍、天津彦根命と天目一箇命の三柱とされており、天目一箇命は御上神社で祀る天御影命と同体である。竜王町からも銅鐸出土があったことは先にあげた。
 
 以上に見てきたような諸事情から言って、鏡作氏が銅鐸製作の主要氏族だと考えてよさそうである(これまで考えたことがなかったのだが、伊福部氏の系譜が、実際には「天孫本紀」に言う尾張氏族ではなく、鏡作氏の初期分岐であったのが原態か、という思いも浮かんできている)。
 これまで一つの見方として、弥生時代の近畿地方あたりの銅鐸文化圏では、階級的な社会の要素が見られず、王や族長のような存在が認められない農村社会であって、集落の宝物として銅鐸が作られたとみる見方もあるが、銅鐸製作者の素性や製造技術を考えると、これはまずありえない。
 銅鐸は祭祀用具として、三輪系部族と物部系部族の政治連合体において象徴的に用いられたとみられ、この連合体が崩壊すれば消滅する運命にあった。畿内の中心地域から弥生時代後期に銅鐸が消えたのも、こうした事情である。

     (2014.2.5 掲上。その後、2021.2.3などに追補)


  関連する内容を扱っていますので、ご覧下さい。 

           舞草刀と白山神そして物部部族 

           石部神とは何か 

  鏡作連一族の拡がりについては、向日神社六人部氏の祖系に関する試論 をご参照。


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