石部神とは何か


      石部神とは何か

                                     宝賀 寿男



 全国の石部神社

 延喜式内社を見ると、全国にかなり多くの石部神社が見える。この神社や類似名の石作神社が巨石祭祀、石神・磐座の信仰をもつ天孫族系の物部氏族や息長氏族に関係がありそうに思われるので、検討した次第である。
 
 石部神社は式内社合計で十六社となるが、その具体的な分布をいうと、西側から見て、但馬3、丹後1、丹波2、播磨1、東側では近江2、伊勢1、越前1、加賀3、少し離れて越後2という形で(ここでは、「磯部」は除き、「部」〔「岩」は山偏に石の形〕は含む)、日本列島のほぼ中央部地域(当時の畿内区域を除いて、その周縁部)にのみに集中する。
 これらの祭神は多くが、大物主神の子で石辺公の祖・天日方命とされているが、石辺公氏が三輪氏族のなかでも大族とはいえず(『姓氏録』では、左京・山城の神別に石辺公を記載)、六国史にも登場しないような石辺公氏がこれほど広く勢力をもって分布したとは思われない。だから、その関係社がこれほど多くあるのは奇妙である。「石辺」だって、海神族の氏族系統から言えば、本来は「磯部」か「磯辺」という表記ではないかとみられ、「石辺」が本来的な表記とは思われない。これら諸事情から言えば、石部神社の奉斎者としては、石辺公氏ではない別族をむしろ考えたほうがよいのではないかと思われる。現在、これら石部神社の祭神としてあげられる天日方命(天奇方命、櫛御方命)には、大きな疑問があるということである。
 式内社の原祭神(祭神の原型)について、現在に伝わる社伝などから探求することには大きな限界がある。この問題を考察するには、式内社の社名や古代氏族の性格・分布などに留意し、広域的総合的に考えていくのがより有効なように思われる。
 実のところ、祭祀・葬礼などの神祇物品を製作した氏族の系譜を探究することは、古代史のなかでもとくに難しい。これら諸氏が政治の前面に出ないから史料にも殆ど現れず、大きな氏族から分岐した氏であっても、この氏が早くに分岐していれば、その先祖や遠祖神の名も通常とは異なる形で伝えることが多いからである。例えば、鏡作造、玉作連なども難解な系譜を伝えるが、石棺などを製作する石作連もこれら諸氏と同様である。
 たしかに『旧事本紀』の「天孫本紀」には石作連氏の祖が見える。同書には、尾張氏の系図が記載されており、そこには天火明命の六世孫として建麻利尼命〔たけまりね〕があげられて、「石作連、桑内連、山辺県主」の祖と見えるが、この記事をそのまま信頼できない事情がある。当該尾張氏系図のなかにはいろいろ混乱が多く見えて真偽が混在しており、そのままでは信拠できない個所が数多くある。例えば、建麻利尼命の兄弟にあげる建田背命(神服連、海部直、丹波国造、但馬国造らの祖)は別の海神族系統からの系譜竄入であって、「海部直、丹波国造、但馬国造」は海神族の流れを汲む彦坐王・丹波道主命の後裔である。同様に、建弥阿久良命(高屋大分国造らの祖)は天孫族の流れを汲む火国造の一族(記紀では神武後裔の多氏族とされるが、これも系譜仮冒)であった。
 海神族系統の氏族が石を取り扱い、巨石祭祀に関係あるとは到底思われないのである。尾張には、石作神社が式内社の全国合計で六社あるうち四社までが集中して鎮座する事情があっても、だからといって石作連氏が尾張氏族とは言えない。その大きな要因は、祭祀・習俗が異なるということである。しかも、史料に見える石作連氏が播磨あたりを起源とすると伝える事情もあって、そこでは尾張連とは、なんら関係が考えられない。
 本稿では、石部、石作連と石部神社、石作神社の具体的な実態を追求し、その祖神や奉斎氏族を考えるものである。


 石部と石作連

 まず基本的なことから考えていこう。
 「石部」とは何かという問題であるが、字義どおり石を原材料にして石棺や様々な石製品を調達・製作し、関連して陵墓の石室などの築造もする品部ということであり、石作部も同様であろう。だから、音が同じく「イソベ」で、相互に混用されることが多くあっても、漁撈が主体の磯部とは性格が大きく異なる。
 混用の甚だしいのは伊勢外宮の度会神主氏であり、氏の本姓が石部とも磯部とも史料に見えるが、その系図が伊勢国造と同族で天日別命を祖とするというのは系譜仮冒であって、実際には彦坐王後裔の丹波国造支流に出たから、海神族の流れを汲む磯部が本姓であった。天孫族系の息長氏の一派に磯部臣(河内皇別で誉屋別命の後と記される)が出たのも、本来は石部臣であるのが表記の混用であったものか。これらに限らず、全国的にも石部、磯部の混用例が多くあり、例えば、越前国今立郡の石部神社の鎮座地が福井県鯖江市磯部町と呼ばれているような事例が多い。
 次ぎに、「石部」と「石作部」との違いは、職掌上殆どないように思われるのだが、その関係の管掌(伴造)氏族について見れば、石部の管掌氏族は不明であり(伊勢に石部直という姓氏は見えるが、これは本来、磯部であって、石部の管掌をしたとは思われない)、石作連・石作首が石作部の管掌氏族であった。あるいは、石部を管掌したのは物部氏かもしれない。
 近江国伊香郡に石作神社という式内社がある。いま近隣にあった玉作神社と同じ地、 滋賀県長浜市木之本町千田に石作神社・玉作神社として鎮座するが、丸山竜平氏には、近江の石作・石部氏の物部氏との関係を主張する論考(「近江石部の基礎的研究」『立命館文学』三一二。一九九八年)がある。鎮座の地、「千田」は天物部二五部の芹田物部に通じるし、南方二キロほどの近隣には同市高月町に東物部、西物部の大字地名もある。
 これに限らず、上記の東側に分布する石部神社には、物部氏ないしその配下の天物部に関係するとみられる要素がある。例えば、越後国三嶋郡の御嶋石部神社があげられる。その論社の一つが新潟県柏崎市西山町石地にあるが、これは天物部の二田物部に関連する。その社伝によると、祭神(現在は大己貴命とされるが、疑問)が頚城郡居多より船に乗って石地の浜に着岸し、石部山にとどまり、遣わされた宝剣を神体として祀ったという。ここには、船(磐船)、宝剣が神体という物部氏の伝承要素が見られるが、同社の末社に二田〔ふただ〕神社があって、それが応永十五年に崩壊して合祀したため、二田社、二田大菩薩、御嶋二田神社とも称され、天明二年に現社名に復したという。
 二田神社に関連して、二田村は、かつて新潟県刈羽郡にあった村で、現在は柏崎市西山町二田となるが、当地には式内社の物部神社(祭神を二田天物部命とする)がある。その由緒によると、弥彦の神様(通常、天香語山命とされるが誤りで、越の阿彦を討伐した「大幡主」か。この者は、『豊受大神宮祢宜補任次第』では度会氏の祖で、垂仁天皇の命を受けて越遠征をしたと伝えるが、度会氏祖系の傍系一族にすぎない)に従って天鳥船に乗り、越後の磐舟里に至り、その上陸の地を天瀬(三島郡出雲崎町尼瀬)といい、後に石地磯より南大崎に物部神社を遷すとされる。まったくの余談だが、西山町出身で有名な田中角栄元総理の苗字に関連する「田中」は出雲崎町に田中の大字があって、上記石地の近隣に位置する。
 天孫族系統には鍛冶部族通有の巨石祭祀が見られるから、その一派である物部氏族とその配下部族にも同様の祭祀があっても不思議ではない。越後のもう一つの石部神社が古志郡の桐原石部神社であって、長岡市の上桐と下桐に各々論社があるが、その東側近隣には寺泊矢田という地名があって、物部氏族の矢田部氏に関連しそうでもある。桐原関連では、但馬国養父郡の式内社の桐原神社(兵庫県朝来市和田山町室尾)が、祭神を一に経津主神とする事情もある。
 越前国今立郡の石部神社(福井県鯖江市磯部町)は、祭神を「吉日古命、吉日売命」としており、これは近江甲賀の石部鹿塩上神社の祭神に通じる。「鹿塩」について言えば、大和の吉野郡吉野町樫尾にある式内川上鹿塩神社に通じ、これは樫尾の巨岩の祭祀と吉野国樔部らの祖石押分にもつながりそうである。甲賀の近隣には少彦名神を祖とする鳥取連関連の川田神社や、熊野神奉斎の飯道神社が式内社としてあり、越前の石部神社もなんらかの形で物部氏関連を示唆する。近江国蒲生郡の石部神社も、少彦名神関連と伝える。
 こうして見ていくと、東側に分布する石部神社については、物部氏や少彦名神との関連がありそうである。


 西側に分布する石部神社

 同じ神社名の石部神社なら、西側の広域丹波の一帯(丹波、丹後、但馬はもとは同じ一国で、「三丹」ともいう)も同じ祭神で、同じ奉斎氏族だったのだろうか。西側七社のうち、丹波国船井郡の出石鹿部神社、丹波国氷上郡の部神社、丹後国与謝郡の阿知江部神社という三社の「石」の文字は、左に山ヘン(山偏)で、右側のツクリ()部分が石の字だから、岩に通じるような文字であることに留意したい。
 この西側の石部神社分布は、福知山盆地から日本海側の出石盆地への彦坐王の四道将軍行軍路とされる道筋にあるという見方がある。但馬あたりで石部神社の分布が止まっても、この分布地域は天日矛の経路とはズレがありそうである。また、神社鎮座地と銅鐸出土地との関連をみる見方もあって、時代は多少ズレがあっても、この銅鐸出土地との関連を考える見方に魅力を感じる。というのは、銅鐸と石部神社とが物部氏に関係があるとみられ、物部神社も同様に丹波・丹後・但馬に式内社が分布し、『和名抄』の物部郷も丹波・丹後にあるからである。
 とくに丹後国与謝郡の野田川流域には、上記の阿知江石部神社が巨大な奇岩雲岩に因むといい、与謝野町域には物部郷があり、式内社の物部神社・矢田神社がある。阿知江石部神社は祭神を長白羽命とすると伝えるが、この神は少彦名神系の服部連の祖神であった。同町域からは比丘尼城などで銅鐸が合計三個の出土がある。
 東側の石部神社が物部氏関連としたら、西側の分布もほぼ同様で、出雲から三丹地方を経て播磨に向かう初期物部氏の移動経路上に主にあるのではないかということである。


 石作連の起源

 一方、石作神社について言えば、『延喜式』神名帳に記載される石作神社は、全国で六社あって、そのうち尾張国に四社も集中してあげられ、同国には石作郷も二郷が見えるから、尾張国造尾張連との同族性を称する事情も窺われる。石作神社の残り二社も、近江 (上記の長浜市)と山城国乙訓郡だから、分布は殆ど東側に偏っているが、史料に現れる主な石作連は播磨であった。
 『播磨国風土記』の印南郡大国里条には、帯中日子天皇(仲哀天皇)の崩御により、息長帯日女命(神功皇后)が陵墓造営のために石作連大来を連れてきて讃伎国の羽若(羽床)の地の石を求められたといい、この地の池之原の南に石の造作物があって、その形状は家屋のような大きさだという。この巨大な石造物が「石宝殿」とも呼ばれて、生石神社(兵庫県高砂市阿弥陀町生石)の神体となっている。同社は式外社であるが、著名な古社であり、祭神を大穴牟遅命、少毘古那命とされる。
 同風土記の飾磨郡安相里条にも石作連の記事があり、さらに宍禾郡石作里条にも石作首が居住し、これが『和名抄』の宍粟郡石作郷(現・宍粟市域)につながる。
 さらに、播磨国賀茂郡の既多寺の知識に石作連知麿・石勝も見えており(天平六年の「大智度論巻五十六跋語」)、賀茂郡には式内社の石部神社(兵庫県加西市上野町)もあった。当社の祭神は現在、宗像三女神とされるが、どこかで祭神が変わったものか。石作部の人々は美濃、尾張、近江などにも居たと史料から窺われるが、カバネを負う者で具体的な人名として史料に見えるのは播磨だけのようであるから、『姓氏録』に見える左京・摂津・和泉の神別の石作連の記事と併せて考えても、播磨あたりが起源の地とみられそうである。
 『姓氏録』には、左京神別にあげる石作連条に火明命の六世孫の建真利根命の後だとし、垂仁朝に皇后日葉酢媛が石棺を作らせたことで石作大連の名を賜ったと見える。実は、日葉酢媛が神功皇后と同人であり、実体は成務天皇の皇后であったから、基本は同じ話が神功皇后の二分化により別様に伝えられたと考えられる。摂津・和泉神別の石作連、山城神別の石作の記事も、系譜の基本は同様であり、「天孫本紀」尾張氏系図とも同じである。
 それでも播磨起源からみると、尾張氏との同族は不可解なものである。石作連の祖とされる上記の建麻利尼命と石作連大来との関係は不明であるが、命名などから見ると前者の子孫が後者ということになろう。石見国邑智郡の式内社、田立建埋根命神社(島根県邑智郡美郷町宮内)でもその祭神を建真利根命・大山祇神とすると伝えるから、これが元からそうだったとしたら、当地にも石作連一族が居住したことになろう。
 これら諸事情から、石作連の系譜を考え直してみる。
 その場合、丹波国氷上郡の石部神社(石は山偏。現社名は磯部神社)が丹波市氷上町石生にあることに着目され、同社の神体山である剣爾山〔けんじやま〕の山頂付近には大きな磐座があるから、まさに石部であった。石生に着目すれば、播磨に接する吉備東部の大族、石生別君に留意される。この石生は「石成、磐梨」とも書くが、備前国磐梨郡には『和名抄』に石生郷や和気郷、物部郷など七郷があげられる。磐梨郡石生郷の地からは銅鐸出土もあり、当地の和気氏は金属精錬に縁由をもつ氏族であり、遠祖の鐸石別命も銅鐸と無縁ではないと谷川健一氏もみている(『青銅の神の足跡』)。
 垂仁天皇の皇子の鐸石別命の後裔と称するのが石生別君(磐梨別君)であり、後に和気朝臣氏となって、和気清麿を出している。この系統は天孫族息長氏の一派であって、実際には垂仁天皇の後裔ではないが、応神天皇と同族であった。系図の世代を比較し、合わせて考えれば、鐸石別命こそ建真利根命に当たる者ではなかろうか。鐸石別命の実父は讃岐の讃留霊王こと建貝児命であったから、讃岐の羽床石の話とも符合する。そして、石作連の祖の大来とは、おそらく鐸石別命の子か子孫であろう。
 息長氏の系譜は少彦名神の後裔であったが、その主流は讃岐、播磨から摂津、さらには近江北部に遷住して、そこに定着する。その一派は更に北陸道を進んで、越前に三尾君氏、加賀に江沼臣氏、能登に羽咋君氏などを分出した。江沼臣氏がその領域に三つの石部神社を祭祀したのは、その同族性を裏付けよう。具体的には、本拠地に江沼郡の菅生石部神社(石川県加賀市大聖寺敷地。敷地天神、菅生天神ともいう)を奉斎するとともに、同郡に宮村石部神社、能美郡に石部神社(石川県小松市古府町。船見山王明神)を祭祀した。菅生石部神社は、加賀地方では白山比盗_社に次ぐ大社であった。
 これに関連して、近江国の蒲生郡・石部神社(滋賀県蒲生郡竜王町と近江八幡市安土町に論社)、愛智郡・石部神社(同県愛知郡愛荘町沓掛)や甲賀郡・石部鹿塩上神社、越前国今立郡の石部神社は、息長氏族の移動経路の痕跡を示すものではなかろうか。ただ、越前の石辺神社については、与謝郡与謝野町温江にある大虫神社の関連から物部氏関係の可能性もあろう。


 尾張の石作神社の奉斎者

 尾張に石作神社が多く、石作郷もあることを先に述べた。この事情も説明を要する。
 中田憲信編の『諸系譜』第二冊に記載の「飛騨三枝宿祢」系図や『皇胤志』に拠ると、鐸石別命の後裔は、吉備に残った磐梨別君のほか、東方に移遷して飛騨の三枝乃別や尾張の三野別・稲木乃別、大和の山辺君の祖となったとされる。これは、『古事記』の垂仁段の大中津日子命の子孫とも合致するが、大中津日子命は鐸石別命の別名である。尾張の三野別・稲木乃別は中島県に住み、後に稲木壬生公を出したとの記載も系図にあり、『姓氏録』には左京皇別に稲城壬生公をあげて、「垂仁天皇の皇子の鐸石別命より出づ」と見えるから符合する。中島郡に式内の見努神社(比定社不明で、論社に稲沢市平野天神社〔廃絶〕など)もあげられる。山辺君も、『姓氏録』には右京・摂津の皇別に山辺公をあげて「和気朝臣と同祖。大鐸和居命の後なり」と記される。
 尾張の石作神社は、中島郡の石作郷にあり、それが愛知県あま市石作の石作神社とされるから、これが当国石作部の中心であったのだろう。胴体岩と称する巨岩を神体とする石刀神社(愛知県一宮市浅井町黒岩字石刀塚。同市今伊勢町馬寄石刀なども論社)も中島郡の式内社としてあり、石刀は石門とされるが、これも関連社か。石作郷は山田郡にも見えるが、同郡(長久手市岩作宮後)や丹羽郡(犬山市今井)、葉栗郡(岐阜県羽島郡岐南町三宅が論社)にも式内社の石作神社があった。丹羽郡には『和名抄』に稲木郷が見え、式内社に稲木神社(愛知県江南市寄木字稲木〔祭神は大中津日子命〕、犬山市犬山が論社)もあったから、稲木乃別の居住地の一つとみられる。
 また、大和国山辺郡には石生郷(石成郷)が『和名抄』に見えるが、同書に同じ郷名が見えるのは備前・大和のほかは丹波国氷上郡石生郷だけである。大和の当地に住んだ山辺君が山辺県主の姓氏であったとみられる。「天孫本紀」尾張氏系図には、建麻利尼命が「石作連、桑内連、山辺県主」の祖と記されることを先に見た。こうした諸事情からも、石作連が石生別君に出たことが裏付けられよう。山辺県主が奉斎したのが山辺御県坐神社(式内大社で、天理市の別所町及び西井戸堂町に論社)で、両論社がともに建麻利尼命を祭神とする。桑内連氏は、天平神護二年に左京人桑内連乙虫女ら三人が朝臣姓を賜ったが、『姓氏録』には見えない。


 まとめ

 こうして見ると、石部神社及び石作神社の殆どが物部氏族と息長氏族に関連して説明できることになる。そして、石作神社の祭神は石作連の祖神・建真利根命であろうし、石部神社の祭神については、元来が特定の一神であるならば、物部・息長両氏族の共通の遠祖で、天石門別命(紀伊国造等の祖神・天手力男命とは別神)の別名ももつ天若日子(天津彦根命。天照御魂神の子)が原型ではなかったろうか。
 なぜ播磨・但馬より西に石部神社・石作神社が分布しないのかという問題については、石生別君が吉備東部に起こって、その一族が東に向かったという事情が説明の一端にはなるが、日本海側で但馬より西に見られない事情は、現段階では不明である。
 ここで触れなかった但馬の石部神社三社(朝来郡の朝来石部神社・刀我石部神社、出石郡の石部神社)、伊勢国朝明郡の石部神社(三重県四日市市朝明町)については事情不明な面もあるが、地域的に見て物部氏関連か。但馬国城埼郡に物部神社(兵庫県豊岡市城崎町の韓国神社に比定される)、伊勢国では飯高郡と壱志郡に物部神社が式内社であげられる。
 また、越中国射水郡の磯部神社(富山県氷見市磯辺)と越後国頸城郡の水嶋磯部神社(新潟県糸魚川市筒石)については、もとが石部神社という可能性もないわけでもないが、射水国造が吉備氏族の角鹿国造同族、頸城国造が倭国造同族と各々海神族の流れを汲むから、そのまま文字通りの「磯部」だと考えておく。近江国野洲郡の馬路石辺神社は、鎮座地が守山市吉身で、吉身は海神族の葦積、脚身から来た地名だから、これも海神族系の神社であったか。
 以上で、石部・磯部・石辺及び石作の名をもつ式内社について全て取り上げたことになるが、天孫族の巨石祭祀のもとで祭神と奉斎氏族について体系的に理解できることが分かる。併せて、「天孫本紀」記載の尾張氏系図の疑問点も分かってきたと思われる。
 
 (2014.2.14掲上)


    関連する内容を扱っていますので、ご覧下さい。    舞草刀と白山神そして物部部族

                                         銅鐸と鏡作氏

             ホームへ     古代史トップへ    系譜部トップへ   ようこそへ