舞草刀と白山神そして物部部族

      

       舞草刀と白山神そして物部部族

 
                                                
宝賀 寿男


 はじめに

 古代史関係を見ていくと、いろいろな疑問が出てくるが、最近では、日本刀の原点の一つとされる陸奥の舞草刀(もくさとう)が白山信仰と関係がありそうなことで、その関係には不思議な感じをもっていた。白山信仰といえば、奈良時代に泰澄が開基したという加賀の白山を中心とする信仰圏で水神や農業神として、北陸の加賀・越前や美濃あたり(現石川県、岐阜県)が主な地域なのに、この信仰がなぜ陸奥までつながるのかという疑問もあり、そもそも泰澄なる僧の出自はどうだったのか、という疑問もある。
 そうこうしているうち、祭祀の内容や奉斎者がよくわからない越前の大虫神・小虫神の奉斎が丹後の与謝郡に起こったのではないかと疑われることに気づき、これら全てにつながりそうな上古史最大の豪族物部氏の影を感じて、ここに整理しようと試みるものである。だから、全体としては、個所によりかなりの推論を含む試論なのであるが(しかも、多くの研究に示唆を受け、なかにはその受け売り的なところで、こなれきれていない文章表現もあり、恐縮ではあるが)、読者におかれては、なにか示唆されるもの、気づかれるものがあったら幸いである。


 舞草刀と白山信仰

 まず、基本的な点をふまえて、舞草刀をめぐる事情を見ていこう。
 日本刀は平安時代の後期に完成の域に達したといわれるが、その原点の一つとされるのが奥州の舞草刀である。岩手県平泉の東南近郊、一関市舞川字舞草、観音山(標高三二四M)の中腹の地で作刀を続けた舞草鍛冶は、日本で最も古い鍛冶集団の一つとされる。ここには、陸奥国磐井郡の延喜式内社、舞草(正式には「人偏+舞」草。まいくさ)神社があって、現在は伊弉册命、稲倉魂命(宇迦之御魂神、宇賀神、豊受大神)などを祭神とする。この舞草神社と白山妙理大権現、馬頭観音を信仰して鍛冶集団が鍛刀に励んだといわれる。
 稲倉魂命は稲や食糧の女神とされるが、神統譜のうえではわが国天孫族の祖神五十猛神の妻神で、水神の罔象女(みずはのめ)、瀬織津姫神、白山神(白山比刀A菊理姫)にもあたる。舞草神社は、現在は観音山の東南麓の切り立った場所に鎮座するが、神社の古い時期には、観音山の東隣にある白山岳に鎮座して、祭神を菊理姫命としていたという伝承もある。その周辺に鍛冶遺跡があって、同社の祭神がもともと白山神だともいわれるから、白山信仰と舞草刀とは密接な関係があったとされる。
 ところで、この舞草刀はどのような人々や氏族、部族に関連し、なぜ白山信仰と関係があったのだろうかという疑問が出てくる。


 舞草神社と舞草鍛冶の由来

 舞草神社は六国史にも見えて、仁寿二年(八五二)八月に近隣の配志和神社(同じ磐井郡の式内社)と共に従五位の下を授けられており(『文徳実録』)、陸奥百座(名神大社が八五、小社が十五)、磐井郡二座の式内社のうちの一座であった。陸奥では、最北の江刺郡の鎮岡神社(岩手県奥州市江刺区岩谷堂五位塚)や気仙郡三社、胆沢郡七社に次いで、北に位置する。創祀は、養老二年(七一八)に創建の白山妙理権現が舞草神社の前身だと伝えられ、あるいは大同二年(八〇七)、坂上田村麿の征夷のおりに観音堂を建立したとも伝える。大正二年(一九一三)に熊野神社を合祀し、今日に至っている。
 昭和四二年(一九六七)に、郷土史家の佐藤節郎氏が白山岳附近で鉱滓を発見したことが契機で、これまで岩手大学の板橋教授や一関市教育委員会によって調査が実施されてきた。鍛冶にとって不可欠の古代のタタラ製鉄跡が発見され、鞴(ふいご)の羽口、 鏃、おびただしい鉄滓などの発見もあって、学術的な裏付けもなされてきた。
 舞草鍛冶の活躍は、京都の観智院に伝わった現存最古の『観智院本銘尽』を初めとする数多くの刀剣書などで知られる。説話集や物語などでも、古くは平安時代から語りついできている。だから時期が正確には分からなくても、舞草鍛冶の活動は平安時代中頃からと推定され、その後の陸奥国にあっては、武器づくりの集団として欠くことのできない存在であったとされる。奥州合戦の源義家らの武士団や京都の近衛兵などが「奥州刀」として愛用していたという。これが、近隣の平泉を本拠とする奥州藤原氏の時代以前からのことで、この藤原氏滅亡とともに奥州の刀鍛冶の技術が各地に分散したとされる。
 奥州鍛冶の製鉄技術は西日本とは異なるとみられている。その材料は岩手県で豊富に取れた餅鉄(もちてつ)と呼ばれる鉄鉱石であったという。餅鉄とは、石ころのような形の磁鉄鋼で、その六〇%ほどが酸化鉄と言われる高純度の鉄鉱石であって、不純物の含有率も低いといわれる。白山岳は、鉄落山(てつおちやま)という別称ももつ鉱産地であった。
 こうした鉱産地で、しかも鍛造に適した湧き水があっても、刀鍛冶技術なしでは舞草鍛冶は出てこない。舞草の刀鍛冶技術は、いったいどこから来たのだろうか。源頼義・義家父子が前九年役のおりに、都より鍛治を呼び刀を造らせその子孫が当地に定住し舞草鍛治となったともいうが、その源流の蕨手刀という陸奥の特殊形態を考えると、これは信頼できない。古来、当地に起こった技術であろうが、「俘囚の刀、蝦夷の刀」と呼ばれても、蝦夷がもともとから有した技術かどうかとは別問題ではないか、ととりあえずは考えておく。
 ちなみに、これまで全国で出土した蕨手刀は、二八五振りといわれ(盛岡市教育委員会・八木光則氏調べとのこと)、大半が北海道を含む東北であって、単独では岩手県が二六%を占め、最も多いとのことである。


 白山信仰と熊野信仰

 山岳地帯にあって修験道とも密接な関係がある白山信仰と熊野信仰は、互いに浄土観、死生観ともつながっている。熊野信仰には、熊野三山の一つに那智社があって、那智の滝を神体として滝神・水神を祀るから、ここで白山信仰ともつながる。舞草神社の付近にも、白山神社と熊野神社があって今は合祀されている。熊野三山協議会の調べによると、全国に三一三五社ある熊野三山ゆかりの神社のうち、東北地方には全体の四分の一弱の七三六社もあるとされる。だから、舞草鍛冶の源流を考える場合、より包括的な熊野信仰から入ったほうが良さそうである。
 ところで、紀伊の熊野三山はどのように成立したのであろうか。これについては、元々は熊野川を神体(神の依代)とする信仰(熊野本宮)、神倉山の「ごとびき岩」という巨岩を神の依代とする信仰(熊野新宮、速玉社)、那智の滝を神体とする信仰(那智社)、というルーツの異なる自然神信仰に祖先神信仰が流入してきて、三社一体の信仰として捉えられるようになったという見方がある。それでは、本宮の神をスサノヲ神、速玉の神をイザナギ男神、那智の神をイザナミ女神、とされる。しかし、こうした個別独立の祭祀が後に統合化したという見方には、私は疑問を感じる。こうした上記の祭神比定自体も、後世的であって疑問がある。
 熊野祭祀の起源を考えれば、そこに物部氏族の熊野国造と穂積臣という奉斎者がいて、彼らが古代から奉仕し続けてきた事情がある。そもそも、熊野祭祀自体も、物部氏族と同族の出雲国造が奉斎した同国意宇郡にある熊野大社に源流をもつからでもある。熊野三社のなかでも、速玉神と本宮神とが延喜式内社にあげられ、前者のほうが神階が高かった事情も加味して考えてみる。
 こうして見ると、本来の祭神は、速玉神(速玉之男神)の実体が物部氏族の始祖神の饒速日命かその直系近親祖神とみられ、本宮神(家津美御子神)はわが国天孫族の始祖神たる五十猛神(いわゆる素盞嗚神)で、那智神(夫須美神)とはその妻神で水神・滝神たる瀬織津姫神(豊受大神)が実体ではないかと推される。後ろの二者は、伊勢皇太神宮でも内宮・外宮で祀られる(天照大神が伊勢の祭神であるというのは、後世の転訛にすぎない)。
 物部氏族は、古代氏族のなかでは祭祀・習俗にあって格別の特徴がある。不老長寿の変若水(おちみず〔越智水〕)や常緑樹の橘に深く関わるから、熊野の神木が「椥(なぎ。「梛」とも書く)」で、熊野の地に生えるイチヰ科の雌雄異株の常緑樹というのに相通じて自然だし、熊野の神鳥が八咫烏というのも、これが太陽に棲むという伝説の鳥であって、天孫族の太陽神信仰・鳥トーテミズムにつながる(「八咫烏」が天孫族系の鴨族の祖・鴨健角身命の異名とされるのは、その表象例にすぎない)。速玉神がごとびき岩に発現したとか、那智神が滝の巌頭に鎮座したなど、巨石祭祀も鍛冶部族たる天孫族に顕著である。
 だから、熊野の創祀以来の祭祀事情から見て、三社が当初から一体不可分であったとみられる。那智神が『延喜式』に見えなくても、それが後世的な祭祀とは必ずしも言えないのは、各地の物部氏にあって滝神の祭祀が顕著に見えるからである。


 陸奥における熊野信仰の導入

 さて、熊野信仰はどういう経緯で陸奥において拡がったのであろうか。
 本家の熊野三社は熊野灘をのぞむ紀伊半島南部の東岸部にあり、地形的にもその写し霊場ともいえる神社が陸奥にあって、それが宮城県の名取市高舘地区にある高舘熊野三社だとされる。平安末期の保延年間(一一三五〜四一)に、「名取老女」という分霊社設置の伝説があるが、それ以前から熊野信仰が陸奥に入ってきていたとみられる。『熊野年代記』には、延喜十九年(九一九)に行われた補陀落渡海に陸奥国から十三人が同行したと記される。
 風琳堂主人さん(菊池展明氏)のHP「熊野大神の原像─養老二年の祭祀伝承」などに拠ると、熊野神祭祀と陸奥との関係については、養老二年(七一八)に鎮守府将軍大野東人が熊野神の分霊を迎えたのが起源であり、瀬織津姫が熊野本宮神として、エミシ降伏の祈願神として陸奥にやってきたのだという。すなわち、今は岩手県一関市の室根町となるが、旧室根村のHPには、室根神社の創祀伝承が記載されており、それらをふまえて概ね次のように書かれる。

 養老二年、大野東人は鎮守府将軍として宮城県の多賀城にいて、中央政権に服しない蝦夷征討の任についていた。蝦夷は甚だ強力で容易にこれを征討ができなかったので、神の加護に頼み、当時霊威天下第一とされていた紀州牟婁郡本宮村の熊野神をこの地に迎えることを元正天皇に願い出て認められ、その結果、「紀伊国名草藤原の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義、湯浅県主正四位下湯浅権太夫玄晴」とその家臣が熊野神の神霊を奉じて紀州から船出して、五ヶ月後に陸奥の本吉郡に着いた。
 瀬織津姫神が「熊野本宮神」としてエミシの地に上陸した地が宮城県の唐桑半島(同県気仙沼市〔旧本吉郡唐桑町〕)である。その舞根(もうね)地区に神を仮安置したのが今の舞根神社(瀬織津姫神社)だとされ、現在も瀬織津姫神社が鎮座する。熊野本宮神は、鎮守府将軍大野東人が受けた託宣により、磐井郡鬼首山、今の一関市室根町の室根山(標高八九五M)へと祭祀地が遷るが、現在の室根神社の本宮神は伊弉冉[いざなみ]命で、中世に勧請された新宮神は速玉男命・事解男命とされており、瀬織津姫の神名は見られない。

 この記事に見える熊野神奉斎者の名が後世的ではあるが、熊野の穂積氏一族と受け止めれば特に問題はなかろう(「湯浅玄晴」については、後世の訛伝・付加か)。室根神社は舞根神社の北西十七キロほどに位置しており、そこからほぼ真西に二五キロほど行くと、平泉近郊の舞草神社の地となる。だから、舞草神社の祭神は、その淵源を室根神社→舞根神社、更には遠く紀伊熊野(牟婁郡)と遡ることになるし、室根は牟婁峯に由来するといわれる。
 一関市滝沢には滝神社があって、瀬織律姫を祭神としている。その本殿には、「熊野白山瀧神社」の額が掛かっており、瀬織律姫と「熊野・白山」の修験道との関連性が推察されるとの見方も別のHP(「堀貞雄の古代史・探訪館」)に示される。瀬織津姫については、岩手県の遠野郷「早池峰山」を中心に広く信仰されていて、同神を祀る社の数が岩手では二三社で、青森・秋田・宮城県で各一社、山形県が二社という数を見ても、岩手への集中ぶりが分かる。
 陸奥の穂積については、『姓氏家系大辞典』に陸前の青葉山城主に穂積玄蕃武成がいたと記されるが、これはある程度、信頼できるのかもしれない。気仙沼市には、上記の穂積重義を祖先とする古館家などの家系が現存するとされる。源義経に従って陸奥に随行し、そこで討死した鈴木重家の遺児の重義を奥州鈴木氏の祖とする系図があるが、陸奥には鈴木氏が多いから、この鎌倉期以降の分布で全てが説明できないとみられる。
 なお、「蝦夷」とは、私の理解では、陸奥あたりに住んでいた朝廷の命に服しない先住民であって、アイヌ種とは異なるとみられる。


 陸奥の巨石祭祀

 先に見た養老二年の熊野神導入が史実であったとしても、このときこれを奉斎した穂積氏が鍛冶技術をもっていたことは、なんら伝承にない。おそらく、もっと遠い昔から、陸奥には鍛冶部族物部氏の支流があって、なんらかの鍛冶技術も伝えていたのではなかろうか。それを示唆するのが、神武侵攻時に東国に退出した伊勢津彦の伝承である。この者の一族の系譜は、物部氏の初期分岐(宇摩志麻治命の兄弟の流れ)とみられるが、東国の相模・武蔵や房総地方に繁衍し、古代東国の諸国造家の祖となった。この余流が陸奥まで至ったことも、十分考えられる。
 陸奥の安倍頼時・貞任一族の系譜伝承だけでは弱いが、陸奥各地に多く見られる石神信仰はそれを示唆するものではなかろうか。陸奥には、式内社を見ても石神社がきわめて多い。具体的には、黒川郡の石神山精神社、賀美郡の賀美石神社、玉造郡の温泉石神社、桃生郡の石神社、栗原郡の遠流志別石神社、胆沢郡の磐神社などがあげられる。
 これら石神に関連して、『東日流外三郡誌』などで有名になった「アラハバキ神」がある。『東日流外三郡誌』は戦後の偽作文書であるが、その偽書問題とアラハバキ神とは別物である。陸奥では宮城県大崎市岩出山町の荒脛巾神社などがあるが、同種とされる「客人(まろうど)神、門客神」などの別神の名義という形で、出雲や武蔵、三河、伊予などでアラハバキ神は多く見られるから、真面目に検討を要する。総じて、三重県を境に以東はアラハバキ神社、以西はほとんどが客神社(客人神社)の名で見られるとされる。
 島根県では佐太神社や出雲大社などに多く見られるが、氷川神社などの埼玉県(武蔵国造関係)や愛媛県(越智・風早国造関係)、愛知県三河東部(三川蘰〔かづら〕連関係)にも多く分布する。この神が、物部氏と出雲族に密接に関連するとの指摘もある。
 これが、伊勢神宮内宮の「矢乃波波木神」や「箒神(ははきがみ)」に通じるとしたら、韓地伽耶の安羅〔あら〕荒、阿耶)から列島に渡来の天孫族の始祖・五十猛神がアラハバキ神の実体ではなかろうか(伊勢神宮の第一別宮とされる内宮別宮の荒祭〔あらまつり〕宮の神は天照大神の荒魂といい、「アラハバキ姫」とも伝えるが、実体は水神で瀬織津姫のことであり、五十猛の妻神)。アラハバキ神には巨石信仰が伴っており、柳田國男が『石神問答』で「神名・由来ともに不明」とした謎の神だが、上記の分布を考えると手がかりが得られる。これを、谷川健一氏などが蝦夷の神とするのは俗伝・俗説に惑わされすぎている。岩手県花巻市東和町谷内にある丹内山〔たんないさん〕神社は、神体がアラハバキ大神の巨石(胎内石)という巨石で著名であり、当地の物部氏が関与したと伝えられる。
 陸奥・出羽には、史料に見える物部氏の分布が多いとはいえないが、上古に初期分岐した物部部族がかなりあったのではなかろうか。それらが鍛冶技術も携えて畿内・東国から陸奥に至り、奈良時代にやってきた物部同族とも連携して、新しい作法も取り入れ、舞草鍛冶の源流になったのではないか、と私は推測している。
 舞草神社の所在地「舞川」の地名は、四国の高知県、土佐国香美郡山川(現・香南市香我美町山川)の石舟明神(式内社の天忍穂別神社)の近隣にもあって、舞川の地石は、饒速日命が休みをとった時の舞楽をなされた跡だと伝える。舞草神社や石見など各地の物部神社の付近にも、各々伝統的な神楽が伝えられる事情がある。石舟明神は、香美郡の物部鏡連・物部文連の一族が奉斎した神社とみられており、河内や越後などの各地で物部氏一族は磐船神社という名の神社を奉斎した。
 『陸奥話記』には、安倍貞任の与党賊徒のなかに、藤原経清、散位平孝忠らとともに散位物部惟正も見える。物部惟正の系譜は不明だが、上記の丹内山神社に関係したかもしれない。平泉の西北近隣八キロの地には上衣川村字石神(現・岩手県奥州市衣川区の石神)があり、ここに胆沢郡式内の磐神社が鎮座する。高さ四Mの巨石が神体で、近くに安倍貞任の歌にも出てくる安倍氏の衣川館(『陸奥話記』にいう「衣川関」)の跡があって、安倍氏はこれを「荒覇吐神(アラハバキ神)」として祀ったと伝える。これら諸事情が上記推測の背景にある。


 北陸の泰澄の活動

 ここで目を北陸に転じて、奈良時代に加賀国(当時は越前国に属)の白山(標高二七〇二M)を開山したことで著名な僧・泰澄について、まず考えてみる。後世に作られた伝記『泰澄和尚伝記』(「和尚伝」とも略す)や『元亨釈書』に主によると、次のようなものである。
 泰澄の生没は天武天皇十一年(六八二)〜神護景雲元年(七六七。従って享年八六歳)と伝え、奈良時代の修験道の僧で、白山を開山して「越の大徳」と称された。伝記として知られるのは、越前国麻生津(福井市南部。遺名地が浅水)で豪族三神安角(みかみ・やすずみ)の次男として生まれた。若年で出家して法澄と名乗り、丹生郡の越智山にのぼって十一面観音を念じて修行を積んだ。大宝二年(七〇二)には文武天皇から鎮護国家の法師に任じられ、その後養老元年(七一七)に越前国の白山にのぼり妙理大菩薩を感得した。養老三年からは越前国を離れ、各地にて仏教の布教活動を行い、養老六年には元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師の号を賜った。天平九年(七三七)に流行した天然痘を収束させた功や聖武天皇の病気加護などにより、大和尚位を賜り、泰澄に改めた、と伝える。
 こうした伝記では、丹生郡第一の雄峰・越智山に入って十代の若年時から修行をし白山信仰を切り開いたとされ、その麓の大谷寺(丹生郡越前町大谷寺)で入寂したと伝える。同寺から五キロ余ほど西に聳える霊峰越知山の山頂(標高六一二M)には山岳霊場・越智山三所大権現がある。大谷寺に隣接して越知神社が鎮座しており、天照皇大神を祭神とする。なお、「十一面観音」は、陸奥の舞根神社・室根神社の遷座の伝承にもでてきており、瀬織津姫神の祭祀に十一面観音を習合させたことは、白山・早池峰などに見える。『和尚伝』には、白山神の本地仏としてこれがでてくる。
 泰澄の大和尚授位については、具体的な僧位規定がなされたのは二〇年ばかり後の天平宝字四年のことだと『福井県史』は指摘するなど、『和尚伝』の記事には鵜呑みにできない個所もありそうである。


 越前の物部氏の分布

 丹生郡の越知山頂には越知山神社があり、現在の祭神については、本殿が諾冊二神(イザナギ、イザナミ)・大山祗大神・火産霊大神で、別山が天忍穂耳尊、奥之院が大己貴神、日宮神社に饒速日尊とされる。総じて、これらは天孫族の物部氏の祭祀傾向のように感じられる。火神奉斎は鍛冶族としての現れともみられるし、天忍穂耳という祭神は、瓊瓊杵命の父神だが、土佐の石舟明神や陸奥国胆沢郡の石手堰神社など石神・磐船関係の祭神としても見えることに留意したい。なお、福井市には福井駅の東方五キロほどの河水町に現在、越知神社があり、明治に誤ってこの社名にしたともいわれ、足羽郡式内の神傍神社に比定されている。
 越智山という名は、泰澄が岩に独鈷を突き立てることで湧出した清水・独鈷水にも関係するものか。この清水は万病に効く霊泉とされ、大きなブナ林の中にある巨石の割れ目から水が湧き出ている。物部氏族と越智水、越智神社や越智氏との関係は、信濃や伊予で見られるし、不老長寿の霊水なら美濃の養老の霊泉や因幡の宇倍神社にも関係がある。泰澄が天平年間に玄ムより十一面経を授けられたともいわれるが、玄ムが出自する阿刀氏は物部氏の初期分岐であり、熊野国造は阿刀氏からの分岐でもあった。
 ところで、どうして泰澄はこれらの神々を奉斎しようとしたのだろうか。その出自するという「三神」という氏はほかの史料に見えず、系譜も含めて不詳である。これが、音の通ずる「三上」なら、近江国野洲郡にあって三上山を神体とする三上神社の上古からの祠官・三上祝氏になり、天御影神(天目一箇命)の後裔で物部氏とも同族であった。『泰澄和尚伝記』は、奥書によれば、天徳元年(九五七)頃の成立とあるが、古代の越前・加賀の奈良・平安時代の史料には、この和尚伝を除き、三上・三神という氏はまったく見えないから、広く「物部」という観点で、この地域について考えてみよう。
 奈良時代の加賀を含む越前地方には、物部を名乗るものがかなり多い。太田亮博士の『姓氏家系大辞典』で越前の物部という項(モノノベの第27項)をみると、そこには、天平神護二年の越前国司解などをもとに、多くの物部姓の人々をあげ、物部の分布が敦賀郡より丹生郡に及び、最も多いのが足羽・坂井二郡で、江沼郡にも及ぶと記される。その記事で考えられるのは、次の二点である。
(1) ウヂ・カバネをもつ物部氏一族としては見えないが、全てが無姓の物部で見えるから、物部氏の初期分岐か配下の天物部かの流れということかもしれない。上記大辞典第28項では、加賀には加賀郡芹田郷があって、芹田物部の居地という記事も見える。
(2) 第27項記事の越前国司解に見える物部の人々は、殆ど全てが戸主で十八名おり、なかには郡領級の家柄もあったとみられる。というのは、続いて『三代実録』貞観十八年二月紀に見える記事の紹介もあるが、坂井郡人の従八位上物部恒継の男の貞守が、丹生郡人物部富主の位蔭を詐り冒して位子にあげられ課役を免れようとしたとあり、郡領級の官位をもっていた者があることが分かる。現存の史料に残る越前・加賀の郡領級の者で物部氏一族ではないかとみられるのは、丹生郡主政で外従八位上の笶原連与佐弥(天平三年越前国正税帳)くらいである。
 なぜ越前の物部氏関係者に注目したかという理由がもう一つある。それは、祭祀の内容や奉斎者がよくわからない越前国丹生郡の大虫神・小虫神の奉斎が、丹後の与謝郡で初期物部氏の一派により起こったのではないかと疑われたからである。


 丹後国与謝郡の物部神社

 物部氏の淵源については、九州の筑後川中・下流域から筑前の遠賀川流域を経て畿内入りしたとみる立場が多く見える。その場合、北九州と畿内を結ぶ経路としては、太田亮博士などのように伊予北部など瀬戸内海沿岸が考えられてきたが、物部氏族が瀬戸内に展開した時期を考えると、疑問が大きい。年代的系譜的な検討を踏まえてみると、畿内に入る前の重要中継地としては出雲を考えるのが自然である(これは、「饒速日命=三輪の大物主命」説を全く否定する立場からのものであることをお断りしておく)。
 出雲からは畿内までの経路は、但馬、丹後、丹波、播磨と続く式内社・物部神社の配置が示唆するものでもあるが、なかでも京都府宮津市の西側、丹後国与謝郡の野田川流域、現在の地名でいえば与謝郡与謝野町あたりが重要である。
 この地域に物部郷や式内の物部神社があり、物部郷に比定される大字石川の小字、物部及び矢田の一帯には、式内の物部神社(祭神は宇摩志麻治命)及び矢田部神社が鎮座する。後者のほうは、伊香色男命及び矢田荒神(実体はアラから来た五十猛神か)を祀る。当地西南近隣の三河内には、弥生期の梅谷遺跡があって銅鐸を出土し、出雲大社巌分祠もあってその白雲宮境内に湧き出る神水は不老長寿の効能があるという。その南東近隣の野田川中流域には、前期古墳の蛭子山(えびすやま)古墳(全長一四五M。日本海側では第三位の規模)や、これに先行する白米山(しらげやま)古墳もあり、大虫神社・小虫神社もある。
与謝郡には、天孫族の始祖神、五十猛神を祀る木積神社という名の神社が、式内社も含めたくさんあるとされる(同町弓木に式内社の論社)。正応の田数目録には、「与謝郡物部葛保、物部郷少神田」の記事もある。丹波郡の久住〔くすみ〕もと与謝郡域ともいう。京丹後市大宮町)にも、木積山・木積神社があって高蔵大明神とも言う。「木積」は、河内の石切劔箭命神社の社家が当初は穂積、後に木積と名乗るように、穂積につながる名辞であり、「高蔵大明神」も、よく誤解されがちな尾張連の祖・高倉下ではなく、饒速日命かその近親祖神を意味する。


 越前の大虫神社と剣神社

 さて、大虫神社・小虫神社(ともに式内の名神大社で、与謝野町温江に鎮座)であるが、同名の式内社として越前国丹生郡にも両社(大虫だけが名神大社)が鎮座する。越前のほうには、大虫神社(福井県越前市大虫町)の社殿の横に、大きな岩を神体とする大岩神社(お岩さま)が祀られる。奥宮の鬼ヶ嶽山頂の社の境内には「石神の湧水」という神水もあって、これらは物部氏の祭祀を思わせる。出雲には物部氏祖神の関連で加賀という地名もあり、上記の大字石川の地名などとも併せ考えて、物部部族は越前・加賀方面に崇神前代の時期に遷住し、早くに当地に繁衍した一派があったのではないかとみられる。
 越前の大虫神社の社伝によれば、崇神天皇のときに南越地方を平定・開拓した神の霊を鬼ヶ嶽の山頂に祀ったのに始まるといい、その神の名を天津日高彦火火出見命(いわゆる日向三代のうちの第二代。ニニギの子で、山幸彦の通称あり)とするが、これは神の名が転訛したとみられる。越前国では越前一宮の気比神社とともに二社だけの名神大社であるから、国内の神格は高く、上記のような越前開発神(名は不詳)を祀る神社とみられる。
 以上のように考えれば、剣神・鍛冶神たる天目一箇命の後裔だけあって、越前には剣神や磐座を祀る古社がかなり多い事情とも符合する。具体的には、敦賀郡の剣神社・天利剣神社や、敦賀郡の伊部磐座神社、大野郡の磐座神社・大槻磐座神社・高於磐座神社があげられる。敦賀市莇生野にある剣神社は、祭神に諸説あるが、『特選神名牒』に言う経津主神、『官社私考』に言う都留支比古命は同人で、天目一箇命のことである。
 越知山の南東近隣の丹生郡越前町織田にも剣神社があって、越前国二宮と称され、式内の剣神社あるいは伊部磐座神社の論社とされる。織田信長の先祖は同社の祠官だから、こうした上古からの血の流れも入っていたものであろう。越知山の南、剣神社の北に位置する座ヶ岳という山(白山神社辺りか)があり、同社の古伝によれば、第七代孝霊天皇の時代に伊部郷(今の織田一帯)の住人が、元は座ヶ岳に鎮座の素盞嗚神の神霊を祀ったと伝える。丹生郡式内の麻気神社の論社の一つ(南条郡南越前町牧谷)では、饒速日命を祭神とする。
 これら諸事情を考えると、初期の物部部族が丹後国与謝郡の野田川流域から三派ほどに分かれて、崇神前代に各地に展開していったのではなかろうか。すなわち、@本隊は丹後、播磨を経て河内、大和に入り、A日本海沿いに若狭から越前・加賀へ展開した支流、B若狭あるいは丹後から近江へ展開した支流があったとみられ、泰澄の出自した三神氏は、物部氏の流れを汲むか、近江の三上氏の流れを汲んだものであろう。ともあれ、北陸の白山信仰は上古からの物部部族の影響下に成立、発展したのではないかとみられる。
 
 熊野信仰及び白山信仰はともに死生観をもつ信仰であるが、これというのも物部氏の遠祖神としてあげられる神々が、イザナギ男神が黄泉の国にいるイザナミ女神を訪れたときに絡む誕生経緯に因む。那智で祀る瀬織津姫神はイザナギが禊の際の汚れを祓った神だし、イザナギがイザナミへの縁切りの言葉とともに吐いた唾から化生した神が速玉男神で、次に汚れを掃きはらったものから化生した神が事解之男神だとされる。速玉男、事解之男はおそらく異名同体であって、熊野新宮に祀られる祭神であるが、その実体が饒速日命かその近親祖神とみられることは先に述べた。
 物部氏族の検討には、こうした祭祀面からの検討も十分行う必要があることを痛感する次第である。
 
 (2014.1.28 掲上)

   関連する内容を扱っていますので、ご覧下さい。   銅鐸と鏡作氏 
                ホームへ     古代史トップへ    系譜部トップへ   ようこそへ