2 有島氏の系図

 有島氏の系図の概要

  この二十年来、私は鈴木真年・中田憲信の研究足跡を全国各地、あたうる限り追い求めてきた。幕末から明治前期という激動の時期とはいえ、この両人が見聞、収集、記述した系譜には貴重なものが多いというのが、その理由である。真年の『列国諸侍伝』『松柏遺書』などに掲げられる古社の祠官家の系譜*6には、現在行方不明となっているものがかなりあって、それらに何処かでめぐり会えないかと期待してのことである。  
  そのなかにおいて、『有馬家譜』という系図が東北大学付属図書館の狩野文庫に所蔵されていることがわかった。これが市来四郎編中田憲信考定とあるので、いったいどの有馬氏の系図かと思い、手にしてみて驚いたことに、表題の「有馬」は何かの間違いで、実際には有島武郎兄弟に至る有島氏の系図であった。市来四郎(1828〜1903)とはもと薩摩藩士で砲術などで同藩の兵器改善に尽力し、明治初期になって旧主島津家の委嘱により島津氏家紀編纂事業にあたり、十六年の長期をかけて完成した人物である。こうした過程で知り得た有島氏の家系を整理したのが同系図(
以下、本稿では「有島系図」と記す)であった。これに、中田憲信がどうして関与したのかは不明である。

  まず、この有島系図の概要を記すことにしたい。
  それに拠ると、有島氏は桓武平氏に出たとされており、系図は桓武天皇に始まって、平清盛の曾祖父出羽守正衡の長兄駿河守維盛を祖とする。この維盛は一般に知られる小松内府重盛の長子維盛ではなく、伊勢平氏の祖となった維衡の孫で、越前守正度の長子にあたる十一世紀中葉に活動した武人であった。維盛の曾孫貞頼の子として同系図に記載される平太兵衛尉貞政は、寿永四年、上皇を奉じて肥後国益城郡に入り、その子・平六左衛門尉行貞は承久の変の際、官軍に属し宇治川合戦に敗れて後、土佐に入り天福二年(1234)に歳六十で死去した。
  行貞の子・平二郎貞義は土佐国長岡郡植田邑に居住し、その子の代に三流に分かれる。長子信貞は父の居を継ぎ植田平太と号し、次子貞方は長岡郡吉田邑に居して吉田氏の祖となり、三子の貞末は香美郡韮生郷に居して韮生・入野氏の祖となった。植田平太信貞の孫、五郎通貞は香美郡韮生郷の有島名有川辺りに居したが、元弘三年(1333)五月に国人数輩とともに鳳駕(
天皇)を迎え*7、延元三年(1338)五月には摂津阿倍野で戦死した。その子に有島次郎通行と有川五郎左衛門尉通次がおり、兄の有島通行は延元三年十二月、懐良親王に従い吉野行宮を発して讃岐・豊後を経て翌年肥後国に入り、弟の有川通次は土佐で細川頼之に属した。
  九州に行って有島氏の初祖となった有島次郎通行の子に、塩見太郎行村と有島四郎行時がおり、兄の行村は日向国臼杵郡塩見に居して後に肝属氏に従い、弟の行時は征西大将軍に伺候し天授三年八月に筑前(
ママ。肥前か)国蜷打で討死した。その子の有島靱負佑行敦以下の六代は、阿蘇大宮司に属して肥後国益城郡に居した。六代目の有島治部丞行度兄弟の時に阿蘇家の抗争が起り、阿蘇惟前・惟賢方についた行度と行継の兄弟は、大宮司惟将方についた長兄の行俊と分かれて、行度は日向に行って島津一族で諸県郡都城の主たる北郷氏に属し、弟の行継は豊後に行って大友氏に仕えることになった、と記される。有島行度の行動は、薩摩に行って島津氏の臣となった阿蘇惟賢に随行した結果とみられる。
  これ以降、行度の子孫は代々、都城の北郷氏、さらに文禄年間に分家した平佐(
薩摩国薩摩郡。現川内市)の北郷氏に仕えて江戸末期、明治に及ぶが、その家禄は若干の変動があるものの、江戸前期の人たちで五石から弐拾石と系図に見えており、島津本家の陪臣で小身の武家であったことが知られる。その家には一族や阿蘇氏等から養嗣が入ったこともあり、一族には医者となって阿多郡入来に移住した者も系図に見える。
  以上が有島系図の概要である。


 
有島系図の評価

  これまで見てきた有島氏の系図については、平維盛以降で系図に登場する者は皆、著名とはいえず、維盛以降貞頼までの四代が『尊卑分脈』などに見えるほかは、史料には見えない人々である。そのため、個々的にその実在を確認できないが、一族の官位、移住の経緯などにとくに不自然そうなところはない。有島氏の家格は低かったため、島津氏に仕えた有力武家の系譜を記した『諸家大概』などの史料においても、阿蘇氏は掲載されても、有島氏やその一族は見えない。多くの資料にあたった太田亮博士にも、その系図は認識されず、大著『姓氏家系大辞典』にも有島の項目だけあって、内容は白紙となっている。それでも、故近藤安太郎氏の『系図研究の基礎知識』第三巻には、何に拠ってか有島武郎の家系を記し*8、前掲概要に若干差異があってさらに簡単にした形で記載されている。
  こうした歴史の底辺を支えた一族の不明な点が多い系図についての評価は、相当に難しい。積極的に否定も肯定もできない場合、どのように考えていったらよいのだろうか。
  当初、私は総じて信頼してよい系図ではないかとみていた。系図の連続や記述に不自然な点がとくに見られないと判断したからである。疑惑のある系図では、一世代一人の直系の人のみを何代か続けることがあるが、有島系図で一世代一人で連続する例は、阿蘇大宮司に仕えて肥後益城郡に居した行敦・行綱親子の世代及び北郷氏に仕えた江戸前期の行重以下三代に見られるくらいで、それぞれ特段の問題はなさそうである。また、無理に異なる系図を接合させると、親子の年齢差が不自然に大小となったり、世代数が不自然に多少となったりするが、こうした状況も有島系図には見られない。居住地の移動についても、京→土佐→肥後→日向さらに薩摩となされているが、移動の契機と併せ考えると、これにも不自然さはあまり感じられない。

  有島系図の記事で不自然さを感じるのは、一カ所ある。それは源平争乱期の貞政(
『尊卑分脈』では、その父貞頼までが記載)についてであり、貞政が寿永四年三月に上皇を奉じて肥後国益城郡に入り、寿永三十二年益城山中で病死したという記事である。寿永四年(1185)三月とは壇ノ浦で平家が滅亡した月で、正しくは元暦二年(この年八月に改元して文治元年)であるが、平家が「寿永」の年号をそのまま保持したとすれば、次の寿永三十二年(建保元年に当る)という表現もとくに問題はなかろう。しかし、貞政らに奉じられた「上皇」が誰か、壇ノ浦敗戦後にそうした立場の人がいたか、については疑問が大きい。この点だけで、系図の信頼性を疑問視するほどの重大さとは考えなかった。若干の誤伝、誤記は系図には付き物とみられるからであり、たんに貞政らが敗戦後に肥後に逃れたことの訛伝ではないかとみていたのである。
  以上を総合的に考えてみて、有島系図はほぼ信頼できるとみていたわけである。

  ところが、この一、二年ほど坂東八平氏や磐城の海道平氏など各地の平氏と称した一族の系図を様々な角度から検討してきたなかで、その殆どに系譜仮冒が見られ、その場合、実際にはその地の古族の末流とするのが妥当という認識が、私のなかに次第に強まってきた。清盛につながる伊勢伊賀の平氏についても、同様に系譜仮冒があったとの認識が強まった。具体的にいうと、伊勢平氏には桑名首ないしは安濃県造の流れを引くものが系譜に混入した疑いが強く、伊賀平氏には山田庄司一族(
その本姓は不明も、古代の伊賀臣など古族の流れか)が同様に混入した疑いが大きくなってきた。そうすると、武家の桓武平氏については、越後の城氏や常陸の大掾一族など極く一部を除くと、殆どが仮冒で、その系譜には十分な検討を要するということになる。その意味で、土佐の平氏と称する有島系図についても、厳重な検討が必要となってきた。
  その検討結果を次に詳しくあげることにしたいが、再考した後の結論を先取りして簡述すると、有島系図は桓武平氏と土佐の植田・有島一族の系図を接合したものと判断されるが、この接合部以外はほぼ信頼しうるというものであった。この一族が平氏と称しても、それは姓氏の仮冒であり、有島系図はいわば良質の偽系図というのが私の評価である。


 
有島一族の出自・動向の検討

  有島系図の検討にあたっては、@維盛流の在京(
ないし在伊勢)の平氏、A土佐の植田・有島一族、B肥後の有島一族、の三部分に分けて考えていくのがよかろう。そのうち、とくに@とAとの接合部に十分な検討を必要としよう。
  まず、維盛流の在京の平氏についての検討である。駿河守維盛の流れはあまり栄えたとはいえず、在京(ないしは一部は在伊勢)で衛府武官から累進する者は諸国国司まで至っている。この系統からは、後白河法皇の寵姫丹後局の最初の夫で同族清盛に殺された左衛門佐業房と業兼・教成兄弟の親子が出ているくらいである。母の後援で兄の業兼は治部卿従三位まで栄進し、弟の教成は藤原実教の養子となって中納言正二位となり公卿山科家の祖となった。それでも、業兼の子の宮内卿業光までしか『尊卑分脈』は記していない。

  有島氏はこれとは別の流れで、維盛の子の信濃守盛基の子孫に位置づける。この盛基の子に盛時・貞基・貞時などがあげられ、その孫世代が源平争乱期の頃の人にあたり、ここまで同書に記載される。すなわち、盛時の孫の基時は寿永三年に北陸道合戦で討死したとあり、貞基の孫の政基の弟は『分脈』には見えないが、『東鑑』元久元年(1204)四月条に見える進士三郎基度兄弟が位置づけられる。基度は伊勢国朝明郡富田の館に居住しており、弟の松本三郎盛光ら、安濃郡の岡八郎貞重ら、多気郡の庄田三郎佐房らの伊勢平氏一族と語らって、反鎌倉の兵を伊勢伊賀であげたが、蜂起三日で鎮圧された(
三日平氏の乱)。盛時らの末弟・貞時の子孫としては、子の貞長・貞義・貞頼の三人があげられるのみで、孫世代は記載がない。
  貞長兄弟の後が記載されるのは、管見に入った限りでは、中田憲信が関与した『各家系譜』の第八所収の「杉家譜」に見える書込みくらいである。そこでは貞長・貞義については子の世代まで、貞頼については孫世代の行貞兄弟まで記されるが、内容的に有島系図の当該部分の簡略であるので、同系図からの転記ということも考えられる。そうすると、貞頼の子の世代以降は裏付けるものがなくなる。
  貞頼の子が前掲の貞政で、この者の譜註記事の問題点は先にあげた。貞政の兄弟の主馬允貞利、その子・井堰六郎盛貞は各々壇ノ浦合戦、備前藤戸合戦で討死したと有島系図に記されるが、両者の討死は史料に見えなくとも史実であったことも考えられる。問題は貞政の子の貞宗・行貞兄弟である。父とされる貞政は壇ノ浦敗戦後、肥後国益城山中に逃れたのに対し、兄弟は京に残ったようで、この辺のつながりにも疑問がないでもない。承久三年の変が起ると、貞宗・行貞兄弟は官軍に属して宇治川で合戦し、兄の貞宗はそこで討死し、弟の行貞は土佐に入って、天福二年(1234)に歳六十で卒去したと有島系図に記載される。この行貞の子が長岡郡植田邑に居した貞義とされているが、どうも行貞の前後辺りに系図接合の問題がありそうである。前掲で問題がありそうな部分とした個所(
すなわち『尊卑分脈』に見える貞頼と見えない貞政兄弟の周辺)については、さらに後述する。

  次に、土佐の植田・有島一族である。有島系図では、貞義の子の世代に三流に分かれ、植田・吉田・韮生・入野・有島・有川の苗字が出たと伝える。貞義の曾孫の植田五郎通貞が香美郡韮生郷有島名有川の辺りに遷居したとされ、その子の通行が肥後に入ってから、故地の名に因んで有島を号したとみられる。そのため、土佐には有島の苗字は残らなかったようであり、現在では有島の地名も残っていない。ところが、有島名の一部の有川(
あらかわ)のほうは今でもあり、いま香美郡香北町西部の物部川の北方に位置して、その小支流に沿った山間地となっている。現在、その住戸はわずか四戸といい、かってはもっと数が多かったとしても、かなりの寒村である。有島名はこれより広い地域とすれば、有川の南方の有瀬辺りまで含んでいたのかもしれない。有川氏のほうは、土佐に残って守護細川氏に属したようであるが、その後、一切歴史には出てこない。
  中世の韮生郷は『和名抄』の山田郷の郷域に含まれたが、延喜式内の美良布神社に由来する地名とされる。この地には先に貞義の末子・貞末が移って韮生八郎と名乗っており、その子・貞富も韮生又八郎と号した。貞富の弟・貞家は長岡郡入野に居して入野小平次と名乗ったが、入野はいま香美郡土佐山田町中央部の長岡台地北部、新改川北岸に位置する。入野から新改川に沿って西南に三キロほど下れば、植田の地になる。入野の入野左馬助は本姓山本氏といい、山本氏は香北町北東部の永瀬にあって戦国期の山田氏に属した土豪として見えるから、これらは皆、一族であろう。
  韮生郷は戦国土佐七雄の一、山田氏が起った地ともいい、その墓所が同郷の五百蔵(
いおろい)にあり、郷内の窪聖福寺の檀越として山田殿があったという応永五年文書(韮生郷阿弥陀堂仏経奥書)もある。山田治部少輔元義は滅亡に際して、韮生郷の永瀬の山本氏や窪(久保)の久保氏を頼ったという。山田氏の系譜ははっきりしないが、大中臣(大仲臣)姓を称し、韮生郷から物部川に沿って次第に南下したともみられ、室町期の応仁の乱後には楠目城(土佐山田町南部)に拠り台頭した。一説に香宗我部氏と同祖で鎌倉初期に分かれたともいうが、その具体的な系図や鎌倉期の活動は不明であり、香宗我部氏となんらかの縁組があったとしても*9、むしろ土佐古族の末裔ではないかと推される。楠目には、六世紀前半に築造とみられる大塚古墳があり、銅鐸の出土もあって、やはり要地であった。
  古社美良布神社は香北町字韮生野に鎮座し、いま三輪君の祖・大田田祢古命の母たる鴨部美良姫を祀ると伝える。これはおそらく訛伝でも、三輪・鴨同族の土佐国造関係者の奉斎があったものとみられる。同社には二つの銅鐸が保存され、もと五百蔵村にあったと伝える。五百蔵村はいま香北町西部にあり、有川の二キロほど南で、物部川の北岸、美良布神社の西方対岸に位置している。当地の荒神社の永禄七年(1564)十一月の棟札には願主大中臣頼秀(
山田氏)の名が見える。その地名に因む五百蔵氏も、桓武平氏の出と称する。
  五百蔵氏の始祖を右馬助平忠正(
清盛の叔父)といい、その子・忠重が保元の乱後に外祖父たる大和国宇智郡安岡庄(不明)の安岡氏に養われて安岡を号し、その六代の孫貞重の次男が韮生郷に移って、五百蔵氏を称したという。安岡氏も土佐の名族で平姓を称し安芸郡吉良川などに見えるので、古来同国に居住し同郡安田郷や香美郡安須(夜須)郷などに由来があったことも考えられる。また、信頼しがたいが、頼朝の弟、土佐冠者希義を討った蓮池権守家綱の系譜の一伝にも、平忠正の次男の忠綱の子とある。忠正の子としては、『尊卑分脈』に忠綱は見えるが、その子は見えず、その兄弟として忠重は見えない。三河の中根氏や伊賀の服部氏などでも、平忠正の子孫と伝えるものがあるが、甥の清盛の手に斬られた、保元の乱における悲劇の人物の子孫伝承はまず信頼できないものである。

  韮生郷北東部の上韮生村(
いま香美郡物部村北部)には、平家一門の門脇中納言平教盛の子の国盛の後裔という久保(窪)・門脇氏もおり、久保氏の系図には忠重も貞の字を名にもつ者も見えるから、これらと五百蔵氏とは同族であったのではなかろうか。五百蔵の東北七キロほどの大束には韮生山祇神社があり、その集落の北の御在所山は霊山で地域全体が平家一族の潜伏地として伝えられる。上韮生村から北に山越えすると阿波国三好郡の祖谷山地方となるが、祖谷山の阿佐氏と久保氏は同族と伝えており、これら諸氏が平家落人伝説を構成している。また、物部川上流に位置して韮生郷と接する香美郡大忍庄槙之山(いま物部村南部)にも、平家一門の資盛後裔と称する小松・専当氏がいた。小松氏は秦氏末裔ともいうが、香美郡式内の小松神社(現物部村別役に鎮座)に由来したもののようである。
  さらに、幡多郡宿毛の岩村氏は、明治維新時に通俊・高俊兄弟(林有造も二人の間の兄弟)がともに男爵になるなど名をあげたが、平教盛の後裔と称していた。その子孫が、山内氏高知藩の家老で宿毛城主の伊賀氏に仕えてその世臣となり、安芸郡から幡多郡に移ったと伝える。その苗字の地を香美郡岩村郷(
現土佐山田町の南端部一帯)の京田としており、この地は『和名抄』の石村郷で、山田郷・殖田郷の近隣に位置した。
  このように見ていけば、香美郡韮生郷とその周辺には、様々な流れの平氏後裔と称する諸氏が居住しており、それらの伝える系譜の差異に拘わらず、その殆どが当地の古族の末流で、遠祖を同じくした可能性も考えられる。まず疑問が多い平家落人伝説も含めて、平家一門の末流という系譜所伝は信頼し難いとみてよさそうである。この問題については、さらに詳しく後ろで検討することとして、有島氏について次の九州での活動も検討しておこう。

  更に、肥後の有島一族についての検討である。有島氏の祖通行が肥後に入ったのは、南朝の懐良親王に従ってのことであるが、九州では阿蘇大宮司家との関係が深かった。当時、南朝方にあった大宮司阿蘇惟澄(
恵良惟澄)の所領日向国臼杵郡塩見(日向市塩見)の地に、有島通行の長子行村が居して塩見太郎と名乗った。その子の行高は同郡川島(延岡市)に居して川島四郎と号した。
  塩見行村の弟・有島四郎行時は懐良親王の征西府に伺候し、天授三年(1377)に菊池氏らとともに北朝方の今川軍と戦って筑前(
ママ。肥前か)蜷打で討死したが、その子の靱負佑行敦は北朝方に回った阿蘇大宮司惟村(惟澄の子)に属して、肥後国益城郡岩下村に居した。行敦の孫・小二郎行兼は益城郡高木村に居し、その子・行視は高木太郎と名乗った。岩下村はいま下益城郡中央町の北部の緑川西岸にあり(対岸の上益城郡甲佐町南部にも同名の地)、対岸で東方近隣の上揚には阿蘇三摂社の一で古くから有勢の甲佐神社が鎮座し、阿蘇惟澄の館跡も近隣にある。高木村は岩下村の西隣に位置して、同じく中央町北部にある。
  阿蘇大宮司家は惟村と惟武の兄弟の時に分裂抗争して、惟村は北朝方について甲佐にあり、惟武は南朝方について阿蘇盆地にあったが、有島行敦以降の歴代(
行敦−行綱−行教−行房−行業)は甲佐の北朝方大宮司家に属し、この系統が優位にたって両統合一を迎えた。それも暫くの間で、大宮司惟長が菊池氏を継いで大宮司職を弟惟豊に譲った後、惟豊・惟将親子と惟前(惟長の子で叔父惟豊のあと大宮司となった)との間に大宮司職を巡って抗争が生じ、有島家も二つに分かれることになった。
  有島行業の長男の小弾正行俊は大宮司惟将に属して阿蘇郡山田村(
いま阿蘇町東北部の山田)に遷居し、その孫・行頼は小野田村(同町で山田村の南隣)に居して小野田平七郎と名乗った。一方、行俊の弟の治部丞行度と図書助行継は惟前方に属したものの劣勢であったため、行度は惟前の子の内記惟賢(玄与斎)に随行して薩摩日向方面に行き、島津一族に仕え、末弟の行継の系統は豊後の大友氏に仕えることになった。
  有島氏では、その家祖を行度としており、これも南遷の事情によるものとみられる。主筋の阿蘇惟賢の子孫は薩摩藩に仕えたが、有島氏とともに北郷氏に属した阿蘇一族もあり、平佐の北郷家にあっては江戸末期に阿蘇鉄矢(
通称矢次右衛門)が藩の大工頭であった。
  こうした九州における有島一族の動向には、とくに不自然さは見られない。日向の都城で島津一族北郷氏に仕えて以降も、問題とすることはとくにないと思われるので、歴史の前面には登場しなくとも、室町期以降の部分は弱小武家の動向を伝える貴重な史料といえるのではなかろうか。


 〔註〕

*6 拙稿「鈴木真年翁の系図収集先」(
『家系研究』第19号)を参照のこと。

*7 元弘三年五月は、六波羅探題が攻略され、高時ら北条一族が自刃して鎌倉幕府が滅びた月である。後醍醐天皇は六波羅陥落の報を聞くと、直ちに帰京の途につき六月五日に入京したので、その帰路を植田五郎通貞等は出迎えたものか。なお、その前年の三月、後醍醐天皇の一宮尊良親王が笠置落城で捕らえられたのち、土佐に配流されており、こうした事情が勤王活動の背後にあったのかもしれない。 

*8 有島氏は、『稿本薩隅日諸家系図纂』には記載があり、これを承けて、角川書店版の『鹿児島県姓氏家系大辞典』には記載されているので、出典はその辺りか。なお、日向薩摩には有川氏がかなり見えるが、別系統(
中原姓で平姓ともいうが、豊前の古族の裔とみられる長野氏の支流であろう)である。トカラ列島の悪石島(現鹿児島郡十島村)にも、平姓の有川氏が江戸後期に神官で見えるが、これは平家落人伝承によって名乗ったものか。

*9 山田氏の系譜については、香宗我部氏の祖となった中原秋家が、その子の小太郎秋通(
主君・一条次郎忠頼の実子という所伝があるが、武田氏系図に見えず、信頼しがたい)に家を譲ったのち、山田に居住してその地を子孫に伝えたというが、山田氏の鎌倉期の動向は全く不明である。また、香宗我部氏から山田氏に養子に入った者(香宗我部重通の子の九郎基真が山田氏の跡を継ぐという)もいたように伝えるが、これもよくわからない。

 (続く


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