3 土佐中央部の古社と奉斎者

 
長岡郡植田邑と殖田神社

  先に、有島一族に関係深い香美郡韮生郷が古代から重要な地であったことを記述した。韮生郷に移る前の長岡郡植田邑も、実はそれ以上に重要な地であった。『和名抄』の殖田郷の後身であり、同郷は現・南国市東端部の植田・久礼田から土佐山田町新改にかけての地とみられるが、植田には七世紀前半の城カ谷古墳群(
二基)があり、式内の殖田神社や国史見在の殖田上神が鎮座する。こうした要地には、必ずや古族の後裔が居住していたはずであり、伊勢平氏の一族といえども、鎌倉前期に逃れてこの地に入って、すぐに地名を苗字にするほど有勢となったということは考えがたい。その意味で、植田氏こそ古族の末裔としたほうが自然であろう。土佐には植田氏は殆ど残らなかったようで、『南国市史』にも活動は見えず、その系譜はほかには伝わらないが、当地の殖田神社の祭神は、土佐一宮たる土佐郡の土佐神社と同じ味高彦根命といわれており、古族とは土佐国造一族としてよさそうである。

  この植田邑に初めて居住したとされるのが平二郎貞義であり、その兄弟を有島系図は記さないから、これが実際の有島一族の祖ではないかともみられる。その長子・植田平太信貞は父の居住地にあった。その弟・貞方は長岡郡吉田邑に居し、その子の是貞は吉田平二と名乗ったとされる。吉田はいま南国市西部に位置し、『和名抄』の江村郷に属していた。土佐の吉田氏はなかなか有力で、足利尊氏のときに功により吉田村を賜ったといい、建武三年(1336)四月、岡豊の八幡山東坂本で長曽我部氏らとともに北朝方に属して戦っている(
佐伯経貞軍忠状)。
  吉田備中守周孝は、近隣の岡豊城を本拠とした長宗我部国親の妹婿であり、それ以降、長宗我部氏の家老をつとめ、その族裔には江戸末期に高知藩の藩政を担った吉田東洋
元吉正秋。周孝の弟・備後守重俊の九世孫)が出ている。その家伝によると、相模の山内首藤氏から出て滝口四郎俊宗の子孫といわれるが*10、山内首藤氏の系図を見てもこれに該当する部分はないから、後世の系譜仮冒とみられる。寺石正路著の『土佐名家系図』にも吉田周孝・重俊兄弟より前は具体的な系譜はあげられず、ほかに吉田氏の系譜伝承は見えないから、有島系図にあげる出自が妥当しそうでもある。

  先に、植田氏の一族が多く居住した香美郡韮生郷に関して記述したが、追加事情もある。五百蔵という苗字は珍しく、管見に入った限りでは、土佐と播磨にしか見られない。播磨では明石郡にあり(
いま神戸市西区北部で、三木市のすぐ南)、美嚢郡吉田村(いま三木市南部)の人、五百蔵孫六によって開拓されたので、その名があるという。この三木市南部から神戸市押部谷にかけては顕宗・仁賢天皇兄弟が隠れた縮見(志染)屯倉の地であり、その管理者細目は兄弟を援助した功により忍海部造という姓氏を与えられたが、鈴木真年によると、五百蔵氏は細目の後とされる。忍海部造氏は開化天皇の皇子・彦坐王の後とされるが、彦坐王の実際の系譜は三輪君同族の出とみられるから、この五百蔵・吉田の例などからみても、土佐の五百蔵氏は三輪君同族の土佐国造一族の後裔ではなかろうか。

  植田・有島の一族を以上のように見ていくと、その出自として土佐(
都佐)国造を考えざるをえない。しかし残念ながら、土佐国造関係の系図は殆ど伝わらない。僅かに中田憲信が関与した『諸系譜』第十六冊(国立国会図書館蔵)に、この関係の簡単な系図が記載される。この「土佐本山氏」と題した系図は、志賀高穴穂朝に都佐国造を賜った小立宿祢に始まり、奈良朝から土佐郡の郡領を世襲して壇ノ浦合戦で戦死した本山太郎真成・同小次郎相成親子に至っている。ここで系図は終わるが、一族には土佐氏があった。
  この系図に現れる者について、史料での裏付けはないが、命名法や世代配分などからみて、信頼できそうである。そうすると、本山氏は土佐国造の後ということになるので、検討を加えてみよう。


 
土佐の本山氏

  土佐七雄の一で長岡郡本山郷(
いま本山町寺家・本山を中心とする地域)に起った本山氏の系図も、はっきりしない。『南海通記』には「土佐の郡司本山氏、細川頼春に属す」とある記事も見えるから、前掲系図のあとも本山氏は存続して土佐郡領家を世襲したとして、その妥当性を傍証するものといえそうである。
  ただ、本山氏がもと八木と称したとの所伝があり、これも気になる。八木が苗字ならよいが、姓氏(
姓には造・宿祢があった海神族の氏)なら、土佐国造家出自と矛盾することになるからである。しかも、十二世紀の長岡郡豊永郷(本山郷の東隣で、現大豊町の大半)には佐伯・宗我部・紀・秦などとならんで八木の氏もあげられる*11。これより先、十世紀前半の承平年間、紀貫之の『土佐日記』にも、前国司貫之の帰任に際して、当地の有力者として馬のはなむけをした「八木のやすのり」(八木康則と表記か*12)が見えている。そうすると、本山という苗字は、土佐国造流から後に八木氏の出に系統が変わったのであろうか。これも一案であろうが、やはり採り難い感がある。
 本山氏のいう八木については、池内天神社の大檀那八木実茂(
本山氏で、梅慶の父)や、本山豊前守八木清茂(茂宗ともいい、梅慶のこと)という表記もあり、一応、系譜仮冒で称された姓氏か、としておきたい。本山・豊永の嶺北地方の土佐国造関係者が称したのが、八木氏とみたいということであるが、八木・土佐国造の関係はなかなかに判じがたい。嶺北から出た池内氏は、八木氏の末と伝え、香宗我部氏の家老であった。

  これらに関して、清和源氏吉良の庶流、八木伊典(
本山梅慶の祖父とされる)が初めて当国にきて本山の祖となった、という所伝がある。この場合、吉良は土佐の吉良氏ではないようであるが、やはり土佐の七雄の一であった吉良氏であろう。吾川郡弘岡の吉良森城に拠った雄族、土佐の吉良氏の系譜も諸説あって、源頼朝の同母弟・希義の子の希望の後とも伝えるが、希望は史料に見えず、徴証がないので、この所伝は疑問が大きい。
  八木氏にはついては、前掲のほか、弘安六年(1283)正月の譲り状に左近将監八木為時・有時が見え、香美郡長久寺(
土佐山田町新改)の地蔵蓮華銘に永徳二年(1382)、檀那伊豆守八木康綱と見えており、八木伊典以前から土佐にあったことは確かである。しかも、戦国期の吉良氏は平姓を称したことが神社の棟札に見える*13。本山氏も、戦国期に本山茂辰(梅慶の子)が平姓を称していたことは神社棟札に見える*14
  本山氏が吉良庶流であったかどうかはともかく、これら平姓と称した諸氏が土佐国造の末流であった可能性も考えられるのではなかろうか。本山氏が梅慶のとき嶺北の本山郷から進出してきて、その経営拠点とされた朝倉城は、『和名抄』の土佐郡朝倉郷の地(
高知市朝倉で、鴨部郷の西隣)にあって式内社の朝倉神社の神体山に連なって築かれた。同社は土佐国造の祖、天津羽羽神(事代主神の妻神で、天石門別命の娘)を祀っており、その神奈備の赤鬼山の西南端には高知県三大古墳の一とされる朝倉古墳もある。
  八木真満・同隼人佐が連署した天正六年(1578)十二月の土地売券が長岡郡大
おおそね)郷に関してあるが、大郷は『和名抄』の長岡郡大曽郷の後身で、その郷域は現南国市南部であった。また、嶺北関係者であるが、片山半兵衛尉八木幸泰という武士も見える。片山が長岡郡片山郷に由来する苗字であるなら、片山郷が大曽郷の南隣に位置したことも気にかかる。大には、八木という地名や住吉神社(古来、疱瘡の神として名高い)、年越山古墳群があり、また、関町田遺跡からは銅鐸が出土している。これまで高知県から出土した銅鐸は十個といわれるが、大郷の東隣の香美郡田村郷からも出て、前掲の五百蔵・楠目からの出土に合わせると、合計五個の銅鐸が香美郡から出土した。本山氏の勢力圏であった土佐山田町の土居からも出土があり、土佐出土の銅鐸が本稿関係諸氏の要地に集中している。銅鐸祭祀関連の氏族としては、諸説あるが、私は三輪君・鴨君や尾張連など海神族と密接な関係があったとみている。その意味で、三輪氏族の同族から出た土佐国造が土佐出土の銅鐸に関係したことが十分に考えられる。

  前掲した蓮池氏は、高岡郡蓮池(
現・土佐市東部)の住人であった。その権守という称から在庁官人であったとみられるが、平姓を称してもやはり土佐国造の族裔であったか。蓮池氏と吉良氏とは近隣にあり、何らかの関係があったことも考えられる。『地理志料』には、源頼朝は弟・希義を殺害した蓮池家綱を排除して、希義を援助した香美郡人夜須七郎行宗を功賞して蓮池城に置き、蓮池殿と称されたというが、こちらの蓮池氏がのちの吉良氏につながるのかもしれない。
  また、蓮池の近隣東方には井関(
現・土佐市)という地名があるが、有島系図に井堰六郎と号した盛貞が見えるのも気にかかる。盛貞は寿永三年十二月備前藤戸合戦で討死と譜註に記載されており、同系図に土佐に入ったとされる行貞の従兄弟に位置するが、井堰氏も土佐の有島一族であったとしたら、『尊卑分脈』に見える貞頼兄弟までが本来の桓武平氏であって、貞頼の子に位置して同書に見えない貞利・貞政兄弟の世代からが土佐の有島一族であったのかもしれない。


 
土佐神社の祠官家諸氏

  土佐一宮たる土佐神社は土佐郡の大社・都佐坐神社として土佐郷の一宮村(
現高知市東部の一宮)に鎮座して、土佐国造の祖味高彦根命を祭神としており、同社を土佐国造(及びその同族の波多国造)の一族が奉斎したことは確かであろう。その宮座にあげられる祠官家にはそれらの族裔がかなり含まれていたと思われる。こうした諸家のうち、天太玉命の後裔と伝えるものを除いてあげると、永吉、石谷(のち執行、公文)、谷、国実、山本、宮窪、橋詰、野中、大塚、野ノ内、芦田などがあった。
  このうち、山本・野中氏は韮生郷に関係があった。野中三郎左衛門尉藤原親孝は韮生の大川上美良布神社を再興している。野中氏は韮生郷の吉野土居に居た豪族で、かっては山田氏に属したが、長宗我部氏の興隆でこれに降った。藤原姓というから、あるいは吉田氏の一族だったか。野中氏には、豊後から来たという所伝があるが、豊後の野中氏とは別族であろう。山本氏については、先に述べた。
  石谷氏については、『南路志』に「石谷民部小輔領千石一宮社職」と見えており、石谷民部少輔重信は布師田城に拠ったが、長曽我部国親に降って高鴨大明神(
土佐神社)の社内に徙り居る、と記される。土佐郡布師田村は一宮村の南東にあり、式内社の葛木男神社・葛木神社が鎮座して、土佐郡家があった地といわれる。両式内社の祭神はいま葛城襲津彦夫妻とされるが疑問が大きく、おそらく土佐国造の祖神を祀り、葛城の高鴨にあった神・味高彦根命なのであろう。一宮には一宮古墳群があり、布師田にも七世紀前半築造とみられる布師田古墳群があった。こうした要地に拠った石谷氏が、土佐守護代細川氏ないし土岐氏の末流と称しても信頼できず、土佐郡領家の後裔とみるのが自然であろう。
  この石谷重信の近親というのが公文将監重忠であり、公文氏は高岡郡日下村(
現・高岡郡日高村東部)の国史見在社で土佐二宮ともいわれた小村神社の神主家であり、平姓を称したことが棟札から知られる。公文氏は長岡郡比江(南国市比江)にも居り、当地を根拠とした公文氏は代々国衙の公文書を扱った家で、国衙鎮護のため日吉神社を勧請しその神職を務めたともいわれる。比江には土佐国府跡があり、また比江廃寺は出土遺物などから白鳳時代の寺院跡とみられ、県下最古の寺院とされる。

  谷氏は一宮の神主家で、天文の吉良家老臣に谷将監があり、天正の谷忠兵衛忠澄は一宮の神官で長曽我部元親の老臣であった。谷氏はのち山内家に仕え、一族から儒学・国学の学者を多く出した。江戸前期の儒学者谷素有(
時中)・一斎親子や谷秦山丹三郎重遠)、その子・垣守、その子・真潮(北渓)などがあげられる。
 谷秦山の家は、一宮の神主家の庶流で長岡郡八幡村(
現・南国市岡豊町八幡。一宮の四キロほど東方に位置)の別宮八幡宮の祠官家であり、谷左近を家祖としていた。垣守の曽孫にあたる者が、もと高知藩士で陸軍中将、子爵となった谷干城通称を守部、号は隈山*15である。別宮八幡宮は近隣の岡豊城に拠った長曽我部氏の信仰が厚く、城の鬼門を守る守護神として崇敬された。
  谷氏は大己貴命の裔で大神朝臣姓といわれる。この姓氏はおそらく姓氏の仮冒で、谷氏は土佐国造の族裔(
神依田公の流れか)とみられる。谷という苗字は先祖が三輪谷に居たことに因むというが、これも疑問である。「谷」という地名は、長岡郡谷村(嶺北の本山郷の一村、現・大豊町谷)や安芸郡谷村(現・馬路村魚梁瀬)もあったが、おそらく吾川郡の弘岡上ノ村(現・春野町弘岡上)の字、谷に因むのではないかとみられる。同村には吉良氏の本拠吉良城があり、吉良氏建立の八幡八幡宮がある。谷の東北近隣には『和名抄』の土佐郡鴨部郷(現・高知市西南部の鴨部・神田の一帯)があり、神依田公の一族はこの地にあったとみられている。鴨部郷にも式内の郡津神社が鎮座して祭神は大国主命とされ、鴨部の大黒様として信仰されてきたが、その奉斎者は知られない。

  以上、これまで記述してきた諸事情を総合的にみると、植田・有島一族では吉田氏以外は史料に見られず、寺石正路著の『土佐名家系図』にもあげられないが、九州の肥後や日向に長期間居住していて土佐の事情を十分踏まえた系図を偽造することは無理と考えられる。鎌倉・南北朝期の植田・有島一族の人々の存在は、史料に一切見られなくとも、基本的に認めてよいとみられる。その関係者からみて、この一族は、上古以来の古社・古墳群の存在する要地にあったことが分かり、系譜は土佐国造の族裔とみるのが穏当であろうと思われる。
  土佐国造の姓氏は、初めはおそらく土佐君姓とみられ、奈良期には土佐凡直姓となっていた。古代の氏姓国造にあっては、「君→直→宿祢」と変遷した例が多く見られるが、土佐国造の姓氏について、こうした変遷があったかどうかは知られない。同国造一族には神依田公、その改姓した賀茂(
公ないし宿祢などの姓が脱落か)があったとされるが、これ以外には姓氏が知られない。従って、現段階では植田・有島一族の本来の姓氏は不明のままである。

  有島系図について、様々な角度から検討を加えてきて、その一族関係地が意外に上古に遡り、戦国期の土佐七雄とも相互に関係することが分かってきた。残念ながら、その関係史料
*16の乏しさという制約が強く、本稿は不十分な検討にとどまったが、同系図は大きく二つに分けられ(前半の桓武平氏の部分と後半の土佐の植田氏以降)、二つの接合部分を除くと基本的に信頼してよいのではないかとみられる。今後、新たな資料が出てくることは、あまり考えられないが、それ故にこそ、些細なことも見逃さず、着実に厳密に検討を積み重ねて行かざるをえないと痛感する次第である。


 〔註〕

*10
 吉田孝世が宝永二年(1705)に完成させた『土佐物語』では、概略、山内義通の四代の孫、滝口三郎俊氏・同四郎俊宗兄弟は相模国山内吉田を領して吉田と号したが、平家方となったので流浪して尾張に蟄居、その子孫が足利尊氏に属して功を立て、吉田を含む江村郷を賜ったとあるが、こうした記述は山内首藤氏の系譜とは異なり、史料に裏付けがない。
  また、中田憲信編の『諸系譜』第22巻には、阿波の板野郡古文書類の謄写が収められており、そのなかに「板野郡吹田村士族吉田次郎系譜」が見えるが、同系図では山内首藤経俊の弟、滝口四郎俊綱の子に俊氏・俊宗兄弟をあげるものの、備中守吉田周孝まで具体的な名を記さない。滝口四郎俊綱は父・俊通とともに平治の乱のとき、四条河原で討死したが、当時若年で子のあったことは知られず、相当に詳しい「山内首藤系図」にも子孫は記されない。
  なお、土佐で山内氏の後と称する氏に、高岡郡の津野一族から出たものもあるので、この関係をみても、同様に津野系図には吉田氏は見えない。

*11 『平安遺文』六の2283頁に、長岡郡豊永郷の豊楽寺(現・大豊町寺内)の知識としてあげられる。豊永郷から北へ山越えした阿波国祖谷山にも、榎名の八幡宮の応永十八年(1411)棟札に、その地の領主層として佐伯、八木、紀、清原姓の者が見える。

*12 久安五年(1149)に吾橋山の開発領主として長徳寺(本山町寺家にあった寺)の発願造立した者に、頼則・盛政の名が見えるが、この両者は豪族本山氏の祖といわれる(編年紀事略)。この 頼則の名は「やすのり」に通じるか。吾橋庄の名の初見は、応安七年(1374)十二月の信濃守八木下文(『蠧簡集木屑』所収長徳寺文書)とされる。

*13 永正元年九月十日の土佐郡鴨部社の棟札に吉良平三尉殿。天正五年六月の幡多郡の賀茂神社の棟札に吉良播磨守平親貞が八幡宮を再興。天正十八年霜月十一日の吾川郡弘岡荒倉社の棟札に大檀那平朝臣吉良千熊丸(のちの長宗我部盛親)。 

*14 吾川郡芳原村若一王子宮の棟札に永禄元年十一月晦日大檀那平茂辰とあり、また、高岡郡蓮池村の西宮八幡宮棟札。

*15 谷干城の系譜については、『子爵谷干城伝』(平尾道雄著、1935年刊)に詳しいが、家祖谷左近より前は大己貴命後裔とあるだけで、具体的には記されない。

*16 本稿作成にあたっては、『高知県の地名(日本歴史地名大系40)』『角川日本地名大辞典39高知県』『鹿児島県姓氏家系大辞典』や寺石正路著『土佐名家系譜』、近藤安太郎著『系図研究の基礎知識』などを参考にさせていただいた。とくに引用を示さないのは、これらに拠るものである。その学恩に感謝する次第である。

                       (平成10年12月27日完了)

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