花房氏の系譜

(問い)『太平記』巻九には、六波羅探題陥落時、自害した者の中に「花房六郎入道」という名が見えますが、戦国期の宇喜田家家臣・花房志摩守、あるいは常陸国花房(茨城県金砂郷町)の地と何らかの関連がある者なのでしょうか?

 (茨城県在住の方より)


 (樹童からのお答え)
 
 徳川幕府の大身の旗本として花房氏があり、全国の花房(華房)という苗字のなかでは最も著名でありますが、備前・播磨辺りの出身で戦国期には浮田氏(直家、秀家)に仕えたことがよく知られています。このほかの花房氏として、三河国設楽郡巾々浪城主、大和国添上郡の古市氏の家老、伊勢国度会郡人などが『姓氏家系大辞典』にあげられますが、これらの系譜は不明です。

 旗本花房氏の系譜は、『寛政譜』などにいくつか伝えられており、以下は主にこの花房氏について記述します。
  この氏は、常陸国久慈郡花房邑から起り、清和源氏足利一族の上野律師義辨の子の花房五郎職通の後裔と称していましたが、ともに仮冒で信頼がおけません。すなわち、同氏は常陸出自でもありませんし、足利一族の上野氏の後でもありません。この花房氏の一族が常陸に居住した形跡はなく、比較的信頼できる中世系図『尊卑分脈』でも上野律師義辨の子には「職通」という人物をあげられず、花房という苗字も記されません。花房氏が歴史的に現れるのは、戦国大名浮田氏の重臣としての活動とその後に因るものでしかありません。

 それでは、旗本花房氏の実際の系譜はどうだったのでしょうか。苗字の起こりが地名や職名に多く由来することを考えて、「花房」を考えてみることが必要です。
  花房という歴史的地名は、常陸・美濃・安房・肥後等に見られます(『日本歴史地名総索引』)。現代では、これらの地のほか、栃木県宇都宮市・新潟県妙高村・富山県八尾町・福井県大野市・佐賀県伊万里市などでも地名が見られますが、いずれも起源が新しい模様で江戸期くらいから後の地名とみられています。従って、古くからの地名であるものが検討対象となりますが、なかでも美濃及び常陸の両地域に注目されます。
  いま最も原型に近いのではないかと考えられる花房氏の系図が『美濃国諸家系図』にあり、それとほぼ同様で概略的なものが鈴木真年翁編の『百家系図』巻12に見えますから、後者は前者のエッセンス版かもしれません。それら系図に拠ると、もと纐纈と書き、それがのちに花房に変わったとされます。『日用重宝記』には、「纐纈」にハナブサという訓が見られますから、纐纈も花房も同訓であることが分かります。

  纐纈は現在では音で「こうけつ(文語ではカウケツ)」と訓まれることが多く、岐阜県に集中して見られる苗字として知られていますが、もとは「ククリ」と訓まれ、「キクトヂ・ハナブサ」とも訓まれ、布の染色方法に由来します。この辺の詳細な事情は、吉川弘文館発行の『国史大辞典』「くくりぞめ(絞染)」の項(今永清士氏執筆)をご覧いただければ分かると思われますが、絞染(括染)とは布帛に模様を染め表すため糸などで結縛布地を防染する手法で古くから中国・インドなどで発達してきたものであり、天平三纈の一つが纐纈とされます。江戸時代の絞染で注目すべきは庶民の衣服に見られる木綿絞だと上掲書に記されますが、古代でも麻や木綿の染め方として用いられたと推されます。というのは、「くくり・はなぶさ」という地名が麻などの古代の衣服管掌氏族(及びその後裔)の分布地に現れるからです。

  いま久々利・纐纈・花房という地名が最も知られるのは美濃(岐阜県)です。久々利は全国でも可児郡可児町(現可児市)久々利だけですし、纐纈は可児郡御嵩町中の南町に纐纈神社が鎮座しています。花房については、加茂郡七宗町(もと武儀郡七宗村)の上麻生大柿にあり、花房山は揖斐郡(久瀬村と藤橋村の村境)にあります。これに関連して、北九州市若松区の花房山城が当地の中世豪族麻生氏により築かれたという事情もあります。
  『書紀』景行四年条には、美濃のククリの地名が見えます。すなわち、景行天皇の行宮泳宮(くくりのみや)があげられ、天皇が美濃に行幸され、八坂入彦皇子の娘弟姫を妃にしようとした故事が記されます。『万葉集』にも「ももきねの美濃の国の 高北の 八十一隣(くくり)の宮に ……」(歌番3242)と見えますから、ククリが古い地名と知られます。「泳」がククリと訓まれるのは、『古今集』に収める在原業平朝臣の歌「千早振る 神代も聞かず 竜田川 唐紅に水括るとは」からも知られます。
  これらククリ・ハナブサの地名に関係したのが、花房氏の先祖ないし源流とみられます。

 可児郡の久々利には、中世、土岐支族の土岐久々利氏が起こります。纐纈(花房)氏はこれとは別流で、それ以前からこの地に関係した氏族の末裔とみられます。纐纈氏は『美濃国諸家系図』等では仁明源氏を称しますが、この系図の出自部分は信頼できません。仁明天皇の孫・参議源興基の子女ないし弟には、纐纈氏が遠祖とする「興康」という人物が見えないからです*1。その意味で、『古代氏族系図集成』487頁に記載の「仁明源氏花房氏系図」は修正の要があります。
  古代にククリの地に関係したのが、前掲の「八坂入彦皇子」(記紀に垂仁天皇の弟とされる)か美濃国造神骨の一族かとみられます。神骨命の娘二人は景行天皇の子・大碓命に密通して、生んだ子が美濃の守君・武儀君等の祖となったと伝えますが、大碓命は同母弟の小碓命(倭建命)に殺害されたという伝承があり、子孫を残したことは考え難いものです。この系統は、実際には、大碓命が妃としたという三野前国造(美濃県主)の娘の一族・関係者であった可能性が高いと考えられます。
  中田憲信編『皇胤志』では、景行天皇の皇子五十功彦命の子の久々理彦命が大野君(美濃国大野郡住)等の祖とされますが、五十功彦命は景行の皇子ということで大碓命に通じており、世代的にみて三野前国造の祖・神骨命*2の子であって、久々理彦命が実際の守君・武儀君等の祖ではなかろうかと推されます。守君の起源の地は大野郡守村(現本巣郡巣南町北部の森)とされており、地理的に本巣国造や大野君との関係が推されますが、武儀川の下流域にも森(もと山県郡で、現岐阜市北部)の地名があります。
  守君の末裔は可児郡兼山(金山とも書き、いま兼山町で久々利の北方近隣)に居て森蘭丸を出した森氏となり(俗に清和源氏義家流と称)、花房の地名は武儀郡七宗村の上麻生大柿にあるからでもあります。おそらく纐纈氏はこの森氏の一族というのが実際の出自ではないでしょうか。森氏一族には「泰」という通字が多く見え、纐纈一族にも「康(泰)、守」という通字が多く見えます。

  纐纈を初めて名乗るのは源義家に仕えた纐纈源五真康と上掲系図に記しますが、同氏で初めて史料に現れるのは源平争乱期の纐纈源五盛康(盛安、守康、盛泰とも。真康の孫)であり、『平治物語』古態本等に見えます。同書には、頼朝遠流の事付盛康夢合せの事や平家退治の事という項に盛康が見えており、それら記事に拠ると、源義朝の郎等であり、頼朝に八幡大菩薩のお告げで決して「もとどり(髻)」を切らない(出家しない)ように助言し、頼朝遠流の際には近江の鏡の宿までお供したこと、平家退治の後の建久三年には頼朝に召されて美濃国多芸荘半分や可児郡上中村(久々利村の北方数キロの地で、上掲の御嵩町中の纐纈神社鎮座地を含む*3)等の地を賜ったと記されます。『新編美濃志』には纐纈源五守康は可児郡宇佐村の人と伝えるとあります。
  前掲系図では、その六世孫の康俊は南北朝期の土岐頼遠に属したといい、また、同様な時期に森氏の祖左衛門尉泰家も土岐頼貞に属したと伝えますが、泰家の八世孫が森三左衛門尉可成(蘭丸兄弟の父)となります。土岐久々利氏の初代悪五郎康貞は、土岐頼貞の孫で頼遠の甥ですが、その兄の惣領頼康の名前にも用いられる「康」の字からは、兄弟の母が纐纈・森一族であった可能性もあり、従って外祖の地・久々利を承けたことも考えられます。土岐久々利氏は天正の頃、森氏に亡ぼされたらしいと伝えます。
  纐纈康俊の孫・頼重の系統はそのまま美濃に残り、纐纈右京という人が斎藤道三の部将のなかにいたと『新編美濃志』に見えます。『美濃国諸家系図』所収の系図では、右京亮晴直が頼重系統の最後にあげられ、斎藤秀龍に属して弘治二年(1556)四月廿日の鷺山合戦で討死したと記載されます。また、寛永末年頃成立かとみられる『美濃国諸旧記』には、斎藤道三家臣に方県郡上中村城主の纐纈右京安秀がおり、その子に明智光秀家臣の藤大夫晴遠がいたと記されており、安秀は上掲の晴直と同人ではないかと推されます。
  一方、纐纈頼重の弟の孫五郎職重は赤松家に属して播州に移り、その六世孫が浮田氏に仕えた花房助兵衛職之(職秀)や志摩守正成(助兵衛と再従兄弟)とされます。こうした美濃及び播磨両系統の纐纈・花房系図は、世代的にも内容からもほぼ信頼できるものと考えられます。なお、播州に移ったとされる孫五郎職重の活動時期は、応永頃(十五世紀前葉頃)ではないかとみられます。 

 常陸国久慈郡の花房は、古代美濃に居た支族が遷住して伝えた地名だと考えられます。
  三野前国造(美濃県主の後身で、本巣国造ともいう)の同族の倭文シヅリ連・長幡部は、ともに「麻」に関係深い少彦名神の後裔で古代の衣服・繊維関係氏族ですが、それぞれ常陸国久慈郡に遷住した所伝があります。常陸への東遷の所伝が同じ事件なのか、別の出来事なのかは不明ですが、『常陸国風土記』や鈴木真年翁著述の『日本事物原始』によると、長幡部の遠祖多弖命は崇神朝に三野国引津根丘から久慈郡太田郷(郡衙の東七里)に移り、そこで長幡部社(現常陸太田市幡に鎮座)を祀ったと記されます。倭文連のほうは、久慈郡で静織(綾織)を製作したもので、久慈郡静里(郡衙の西十里。現瓜連町静)に静神社を祀ることが伝えられます*4。倭文連の遠祖は、大和国葛城の猪石岡で始めて静織を製作したと伝えますから、やはり支族が東遷したことが知られます。
  美濃の「引津根丘」とは、『美濃国神名帳』の不破郡引常明神の鎮座地とみられますが、現在遺称地がなく、一説に関ヶ原・垂井付近とされています。しかし、この比定地はやや疑問であり、私は大垣市(もと大柿)の西部の静里・綾野から垂井町東部の綾戸にかけての地ではないかと推しています。ここに「静里」という地名が残ることに注目され、倭文連・長幡部はかなり近い同族であったことが推されます。
  ところで、常陸国久慈郡の花房は、静神社の僅か四キロほど東北に位置しており、この地名は倭文連の後裔の居住地と関係があったと考えられます。この地の花房も由来が比較的古く、建武三年八月日の伊賀盛光軍忠状に花房山と見えます。
  常陸出身の花房氏については、僅かに『那珂町史』所載の「源姓飛田氏系譜」に室町初期の江戸氏の家臣として管見に入っています。すなわち、那珂町菅谷の飛田氏は清和源氏源義親の後裔と称していましたが、十四世紀後葉頃の人、飛田長則は江戸氏家臣花房長清の三男であったが、飛田氏に養嗣に入ったと伝え、その子孫は佐竹氏に仕えたと同系譜に見えております。この花房氏は江戸氏の家臣であったことから考えて、久慈郡花房の出で倭文部との関係が推されます。

 『太平記』巻九には、六波羅陥落のとき探題北条越後守仲時に随って都落ちし、近江国番場宿で自害・討死したのが432名ということで、そのときの多くの武士の名があげられます。群書類従本「蓮華寺過去帳」に記される人々と対比すると、若干の差異がありますが、この辺りは比較的信頼できる史料とみられます。そのなかに、花房六郎入道があげられ、「蓮華寺過去帳」では花房六郎入道全幸と記されます。この者がどのような人物かはよく分かりません。
  ただ、番場で死亡した武士たちを見ると、六波羅に仕えた武士だけあって、その多くが京都を中心に西国辺りの出身が考えられます。具体的には、糟谷・高橋・安藤といった北条家家人以外では、出雲隠岐の佐々木一族、播磨(寄藤、浦上、櫛橋など)、備前(真上、庄など)、備中(陶山、小見山など)、美作(皆吉など)の武家があげられます。しかしそれに限らず、花房六郎入道の付近に見える人々については、御器所(尾張か)、怒借屋(武蔵か)、西郡(三河か)、秋月(阿波か)、半田、平塚(相模か)、毎田(舞田・真板と同じで、山城か)、花房、宮崎(信濃か越中)、足立……の順で京都以東とみられる武士もあげられており、こうした順を重視すると、当該の花房が美濃出身であった可能性がかなりあるのではないかと思われます。

 鎌倉末期頃までの時期には、花房氏が美濃以外で生じていたことも管見には入っていません。この点からも、問題の花房六郎入道は美濃出身ではないかと考えられ、その場合には、前掲の纐纈康俊の割合近い一族ではないかということになります。

  以上、推測と状況証拠を積み重ねた現段階の結論は、お問い合わせの「花房六郎入道」という人物は、戦国期の宇喜田家家臣・花房志摩守の傍系の先祖ではないかとみられます。
 (なお、他の資料が出てくると、この結論が変わりうることをお含み下さい


 〔註〕

*1 源興基の弟には興範・興扶・能子女王が史料に見え、また興基の子女としては忠相・敏相・宜子女王が見えるが、「興康」は見えない。「興康」の位置づけとしては、名前からは興基の弟とするのがより適当だが、系図に記す承平元年(931)57歳での卒去だと、寛平三年(891)47歳に卒去したとされる興基の弟ではありえない。こうした矛盾は、興基の子弟について具体的な事情を知らない者によって、後世に偽造されたものか。
  纐纈氏の系図としては、初祖とされる纐纈源五真康以降がほぼ信頼できるものと考えられるが、承暦三年(1079)に源義家が朝廷の命により同族源国房と源重宗の争いを鎮めるなど美濃の所領に関与した事情を考えると、纐纈真康が義家に仕えたという所伝はほぼ信用してよかろう。なお、纐纈真康の父祖三代の名前に「守」の字が見えるのは、この氏が守氏(古代守君の後裔)の出自であったことを示すものか。

*2 三野前国造の祖神骨命は、『古事記』開化天皇段に皇子日子坐王の子として「神大根王、またの名を八瓜入日子王。……三野国之本巣国造・長幡部の祖」と記されるが、世代的にも行動形態からみても、この皇族出自の系譜関係には疑問が大きく、実際には倭文連の祖建葉槌命の後裔とみられる。天羽雷雄命(建葉槌命)について、委文連・美努宿祢・鳥取部連・長幡部等の祖と記載する系図もある。
  「八坂入彦皇子」という名も、上掲の八瓜入日子王に通じるものがあるが、「国造本紀」には「三野前国造 春日率川朝(開化朝のこと)、皇子彦坐王の子八瓜命を国造に定め賜ふ」と記される。

*3 御嵩町中の東隣の同町御嵩には願興寺があり、同寺に現存する嘉禎三年(1237)六月二十四日書写了の大般若波羅蜜多経奥書に施主として「中村上地頭源康能」と記され、同寺の縁起(願興寺略記)に盛康の子と伝える。

*4 石見国の志都乃岩室(静の石窟)には、神代の頃に大己貴神・少彦名神が座したと伝え、これが同国安濃郡の式内社・静間神社(現島根県大田市静間に鎮座)となったとされるように、静と少彦名神とは関係が深く、倭文連の祖の建葉槌命は少彦名神(=天日鷲翔矢命)の子にあたる。

  (03.1.18掲上)


 <追記>

  美濃の纐纈氏が古代の守君に出た可能性、及び守君が少彦名神後裔とみられる三野前国造に出た可能性を、先に本文で記しましたが、系譜的に整理しますと、「少彦名神−天羽雷雄命−生玉兄日子命(鴨県主祖)……神骨命、その子弟の多弖命(長幡部、倭文連祖)」となります。
  少彦名神の後裔には、服部連・神麻績連などの繊維・衣服部族が多く出ていますから、長幡部・倭文連一族から出た守君の後裔に染色に因む久々利(纐纈)を名乗る苗字が出るのは自然だと思われます。

 「御嵩」も、中国洛陽付近の名山の嵩山に通じ、少彦名神など天孫族に縁由の深い地名です。

 (08.8.6掲上)
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