(関連する問い)久努郷あたりの古社

  『和名抄』に見える山名郡久努郷の地あたりには古社がなく、鷲巣の六所神社の前身の蔵王権現宮は松下重綱の造立、もう一つの前身は沙汰大明神で、これは北条氏重の造営とも聞いているので、久野氏を古族末裔と考えるのは疑問ではないでしょうか。


(樹童からのお答え)

1 久野城主久野宗成が城の近隣に「六所神社」を建立したことを、私は重視しているわけです。ご質問の「前身」の意味が分かりません。旧来の社殿等の施設を新しい神社に利用したとしても、神社の本体は奉斎される神にあるので、社殿を誰が造立したかは問題にならないはずです。いくつかの神社の祭神を勧請し併せて一社にした例もありますが、一般論としていえば、蔵王権現宮にせよ沙汰大明神せよ、各々の神を併せ祀ったとしても、六所神社の主な祭神ではなかったと思われます。
 調べてみると、鷲巣の六所神社は、明治十八年(1885)に蔵王権現・愛宕神社・六所神社が合祀されたとのことです。
 『袋井市史』史料編1の所載の古文書を見ると、天文四年(1535)及び天文十四年(1545)の六所神社の棟札があり、そこには象王(蔵王)権現とありますから、「松下重綱の造立」というのは誤りと分かります。そして、「蔵王権現=六所神社」として良いようです。また、後者の棟札には、「願主 弾正忠同三郎泰宗」として記載があり、久野氏一族が蔵王権現の社殿新造をしたことが明確に知られます。

2 近隣にも、有力な古社で「六所明神(神社)」があります。
  「六所」を名乗る明神(神社)で著名なのは、高部村(明治前期に隣の赤尾村と合併して高尾村となり、現袋井市南部の大字高尾)の六所明神であり、山名郡式内の郡辺神社の有力な論社となっています。この式内社が「郡辺」の名前からして、古代久努国造の所在地で郡衙の置かれたらしい久努郷にあったことは異説を見ません。高部は「郡辺」(訓みはコホリベであるが、音読みでコウベとなる)につながります。いま久能・鷲巣は大字袋井のかなり北方にありますが、この袋井のすぐ北にも久能があり、往時の久能はかなり南方まで広く延びていたことが分かります(志賀剛『式内社の研究』第九巻272頁)。現在、「久能」という地名で飛び地の形になったのは、区画整理をして新しい町名ができたからだとされているわけです。
  高部の六所明神はいま、赤尾の渋垂神社(元慶二年叙位の国史見在社)に合祀されていますが、郡辺神社比定の第一候補に考えてよいと思われます(従って、自己の旧説を改めたい)。この高部辺りまで『和名抄』の久努郷が範囲としていたと考えれば、室町後期の宗隆より前の久野氏歴代は、久努郷のむしろ南部辺りに居住していたことも考えられます。すなわち、宗隆が明応年中(1492〜1501)鷲巣に久野城(座王城)を築造するまでは、久野氏は鷲巣辺りには居住していなかったということであり、古来から江戸前期まで六所明神を久努国造一族とその後裔が奉斎してきたということでもあります。なお、式内社が国本の八幡社であっても祖神信仰の面から考えて問題がありません。

3 鷲巣の六所神社の「前身」とされる蔵王権現宮は、金属神の金山毘古神(少彦名神ともされる)を祀っており、この神の遠裔の物部氏族遠江・久努国造が祀るのは自然です。なお、松下重綱は久野宗能が慶長八年(1603)に再度久能に封じられる前の領主であり、その系譜は、一般に近江佐々木一族の出とされますが、これも系譜仮冒であって、実際には遠江国造の族裔でした。
  次に、北条氏重の造営した神社が久野宗成の建立した神社の前身になりえないのは、その久野入部の順序を考えれば分かります。すなわち、久野宗成が元和五年(1619)に徳川頼宣の転封に伴い伊勢田丸に転じたのちに、久野に入ってきたのが北条氏重だからです(寛永17年(1640)まで居住)。ただ、沙汰大明神については、袋井市下山梨の沙汰明神は江戸期、久野氏一族が神官でありましたので、鷲巣の六所神社との関係があっても不思議ではないと思われます。

4 袋井市の西南隣の磐田市の鎌田にも六所神社があります。この鎌田を含む鎌田御厨を中心として中世の山名郡中部に勢力をもったのが、遠江国人の松井氏でした。松井氏は駿河の今川氏に仕えて大きく勢力を伸ばし、松井山城守宗能は城飼郡平川村堤城主でしたが、その孫・左衛門亮信薫は今川氏親に仕えた重臣で永正十一年(1514)頃に豊田郡の二俣城主となりました。
  「久野宗隆の久野城とほぼ同じ頃に築城された朝比奈泰熈の掛川城、福島助春の高天神城も今川氏親の遠江侵攻のためのものですが、両城主共駿河出身であり、久野宗隆だけを遠江出身とするのはいかがなものか」という大島様の見方は、この点でも誤解があることが分かります。
  松井氏については、先にも述べたように、やはり久努国造の族裔とみられます(江戸期には、支流の松井氏が幕藩大名であった。清和源氏とも称するが、これまた仮冒)。鎌田御厨庄の十七村の総鎮守は鎌田神明宮で、六所神社の西北近隣に鎮座します。『神祇志料』に拠ると、旧中島村(現袋井市彦島辺りか)にあった島名神が遷座したものとされますが、島名神社はやはり山名郡の式内社でした。彦島には現在、十二社神社があり、その南隣の松袋井には熊野十二社神社があります。この松袋井が松井氏の苗字の地だと思われます。

5 熊野神社は、袋井市では久能(南のほうの飛び地)の西方近隣の大字土橋にも、東方近隣の大字広岡にも鎮座します。熊野神社は静岡県に多く、県下に135社あり、そのうち遠江には73社で、旧袋井町を含む磐田郡は最も多い21社があるとされます(『袋井市史』通史編)。こうした熊野神社の濃厚な分布は、当地が熊野信仰と密接な関係にあったことを示しますが、なかでも木原に鎮座の木原権現(式内社許祢神社)は本体熊野権現といわれます。
  なお、『袋井市史』や『静岡県史』は、奉斎者たる久努国造一族の実体を考えずに式内社比定をしており、その検討は多分に問題が多いと考えられます。
  こうした神社や苗字の地の配置をみると、久努国造の族裔諸氏は袋井市から南方の浅羽町、西隣の磐田市にかけての地域に分布しており、久野(久能)・川井・松井・浅羽などの諸氏があげられます。また、先にも述べたように、久野の同族に原氏があり、その一族の寺田氏も、向笠村(磐田市)の六所神社神主や熊野権現神主を出しています。

 (02.3.11 掲上。3.13 追加補充)


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