□ 美濃の仙石氏と西沢氏
(問い)天正13〜14年、仙石氏が讃岐を支配したとき、西沢氏が同道した話から、仙石秀久が讃岐にきた経緯はどのようなものかに興味があります。いつ頃、秀久と豊臣秀吉との出会いがあったかが分かるとよいのですが。西沢氏が当地に一軒ありますが、何かのつながりがあるのでしょうか。


(樹童からのお答え)

1 仙石権兵衛秀久は、美濃国本巣郡十七条に居住した利仁流藤原姓と称する仙石氏の出で、治兵衛久盛の四子であり、始め越前の萩原氏(伊予守国満で、叔母の夫)の養子となるも、仙石一族が死去して嗣がなくなったため、実家を継いで斎藤龍興に仕えました。永禄十年(1567)に龍興の稲葉城が信長により攻略されたとき、織田信長に謁して木下藤吉郎秀吉に属したとされます。
  秀久は、天正二年(1574)に近江国野洲郡で一千石を与えられ、同八年に淡路洲本城主で五万石、同十三年(1585)に四国討伐の功で讃岐一国の主で高松城主となったものの、翌年九州出兵に際して豊後戸次川の大敗で同十五年に所領没収、同十八年の小田原北条氏征伐の際に従軍しその功績で信濃国小諸城主五万石に復活し、その後、関ヶ原戦では東軍徳川秀忠に属し真田氏の上田城を攻撃しており、子孫は信濃上田藩主のち但馬出石藩主として明治まで続きました。

2 仙石氏の系図とその概略も記しておきます。
  仙石氏の系図で最も詳しいと思われるものは、鈴木真年編『諸氏本系帳』四に所収の「仙石系図」であり、その末尾に「嘉永二年八月朔日以田畑本写了 源貴義」と記される。なお、呈譜された「仙石家譜」では、仙石秀久から始めて、その父を治兵衛久盛とするのみで、先祖は記されない。

  上掲の仙石系図は、利仁将軍男叙用から始まりその五世孫後藤太則明、その子妙見四郎能季(ママ。能秀が妥当か)・五郎勝秀兄弟に至り、能秀の孫の経兼までが『尊卑分脈』に見える。経兼の孫・成基は頼朝公に仕えて美濃国本巣郡生津等の地頭職を賜り、その子孫は代々本巣郡に居住し、その六世孫久重は尊氏将軍に仕え山県郡中村千石谷に因んで千石次郎と名乗ったが、その四世孫基秀は嗣子がないため、外甥久重(土岐一族船木満久*1の子)を婿に迎えて家を継がせており(この由来で源姓も称される)、その曾孫が権兵衛(のち越前守)秀久となる。久重の後は、その子「久春−久盛−秀久」ということです。
  しかし、同系図を仔細に検討してみると、後藤太則明と、その子とされる能秀・勝秀兄弟との間に実際には切れ目(断絶)があり、勝秀の子の勝命が則明の養子となったという事情が背景にあって、利仁流に仮冒して系図が続けられたものと考えられる。『続群書類従』巻159所収の「桐原系図」には、内舎人範明の子として能秀・勝秀兄弟はあげられておらず、能秀・勝秀兄弟の実際の出自は、その活動地美濃国本巣・方県郡の古来の系統で三野前国造家の末裔と考えられ、勝秀の後には安藤氏も出ている(美濃で多く見られる安藤氏は多くはこの同族か)。
  能秀が妙見堂を建立し、その弟勝秀が妙見を信じて僧となるなど、妙見信仰が顕著であるのも東国の知々夫国造(同じ少彦名神の流れ)に通じるものがあることに注意したい。

*1 船木氏は、本巣郡船木に起った土岐一族で、土岐光定の子の孫三郎頼重を祖とすると『分脈』に見える。この始祖の名が一に頼久とされ、「仙石系図」書込では頼直とされるが、この書込では、その子に「頼重(兵庫助、孫四郎)−頼乗(大学助)−満久(兵部少輔)」と記す。満久は、土岐持益・成頼に属して船木に住したとあるから、この系図ではどこかで少し世代の欠落があるのかもしれない。
  仙石氏は、本巣郡十七条に居たというから、近隣で通婚があり、そのなかで船木氏から養嗣に迎えられたという所伝は、割合自然であろう。


3 仙石秀久に仕えた西沢氏については、越中国川中荘に居た山口氏の一族が主君畠山氏の没落後、濃州石津郡西沢村に遷住して地名に因み西沢氏を号したといわれ、西沢六郎兵衛武実が初代とされます。西沢武実は仙石越前守秀久に仕え、天正十八年(1590)小田原合戦で戦死しましたが、その子孫が但馬出石藩家中に残って明治に至りました。
  仙石秀久の讃岐に同道したとされる西沢氏がこの一族としますと、西沢武実とその兄弟くらいにあたると推されますが、「西沢系図」からは讃岐に定住した一族のことは見えず、現在香川県に残る西沢氏との関係は不明です。
  この山口・西沢氏は、毛野一族で陸奥の俘囚長吉弥侯部小金の子孫であり、吉彦宿祢姓で奥州前九年・後三年の両役に見える吉彦秀武の子孫とする系譜*2を伝えます。その系譜の概要は、宝賀会長が論考「奥州合戦の吉彦秀武一族」(『歴史研究』第420号、1996/5)で記述しております。

*2 俘囚長吉弥侯部小金は弘仁二年四月にその勇敢さを褒められ外従五位下に叙せられたが(『日本後紀』)、その八世孫が『陸奥話記』に見える出羽国雄勝郡の郡司吉彦秀武であり(『古代氏族系図集成』947頁)、秀武の玄孫山口三郎宗武は足利蔵人義康の家人となり、その六世孫行実が畠山阿波入道道誓に仕え、その子孫は畠山氏に仕えて越中国川中庄を知行したと伝える。

 (03.4.5 掲上、5.20追記)

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