美濃の林氏諸家の出自と系譜

 
  戦国末期〜江戸初期にかけて活動した稲葉正成(その後妻が春日局)を出した美濃の林氏の系譜は、本巣郡十七条(現瑞穂市北部地域)の城主で、その通婚関係も含めて活動には興味深いものがあるが、系譜の探索は難しい点もある。現段階で知られる史料を基に、とりあえずの検討を加えてみることとしたい。
 
  この十七条林氏は、一般に伊予の河野一族の出自とされ、その祖通弘が室町前期に美濃に来住したと伝える。しかし、加賀の林氏との関係を言うものがあり、また、南北朝期に既に林氏が美濃に見えることから、この辺の検討も必要となる。

(1) まず、加賀の林氏との関係であるが、加賀の称藤原姓林氏(源義仲に従った林六郎光明の系)の流れとみるもので、『美濃諸家系譜』によれば、加賀国江沼郡林の郷の住人林七郎左衛門通兼、族類五十余人と共に暦応二年(1339)敗れて当国に逃れ、本巣郡樽見に住し土岐頼遠頼康に従うというものである。
  しかし、加賀の林氏は「光」を通字とすることが多く、「通兼」という名は相応しいものとは思われないうえ、加賀の林氏の系図にも通兼は見えない。従って、美濃の林氏が他国から来住したと伝える程度以上の意味があるとは思われないものである。美濃の近隣の尾張、伊勢、三河にも別流の林氏が居た。

  ただ、留意しておきたいのは、加賀・越前方面から美濃・尾張に来住した諸氏もいくつかあり、例えば、加賀の林一族では、尾張の兼松氏がそうした系譜所伝を伝える。すなわち、斎藤別当実盛に討たれた林太郎光平(林六郎光明の子)という光右(『尊卑分脈』には見えない)の五世孫、林二郎大夫正光は斯波高経に属したが、その弟の正輝は越前国足羽郡兼松村に居住して兼松小太郎と名乗り、その子孫の備前守正盛が尾張国葉栗郡に来住し、その裔は織田氏、徳川氏に仕えている。
  斎藤氏と同じく利仁流を称する厚見郡茜部(赤鍋)の堀氏は、信長の寵臣堀久太郎秀政を出したことで有名だが、越前国堀庄に起った堀権大夫季高の後裔とする系譜を伝えている。しかし、途中世代の人名に異同もあり、その系譜も確認しがたい面がある。堀秀政の次男親良が菅原姓を称していたのをみると、江州美濃部氏の一族の後裔という所伝が比較的妥当と考えられる。すなわち、美濃部の祖久茂の弟・兵庫允貞政が江州高島郡に居た堀左衛門尉資政(上記季高の四世孫という)の養子に入り、建武の頃に佐々木道誉に属したが、その九世孫が秀政とされる。
  これらを含め、北陸から濃尾に遷住の所伝をもつ諸氏がかなり見られるが、移動の経緯も含め十分な検討を要するところである。
 
(2) 美濃国内に起ったという林氏も十分、考慮に値する。この関係で管見に入っているのは次の四氏である。
ア 本巣郡根尾谷の神所寺谷に延元中(1336〜40)、根尾右京亮がおり南朝に属して脇屋義助も来てこれに拠ったこともあったものの、後に土岐頼康等に陥されたが、右京亮の次男に林出羽がおり、根尾の神所村中屋敷に居住し、のち徳山(現藤橋村)に移ったとされる(『新撰美濃志』)。
この根尾氏は土岐一族と云い、浅野支族には根尾氏も見えるが、おそらく古族末裔ではなかろうか。なお、土岐一族の土居駿河守は林右京亮ともいったように『姓氏家系大辞典』に記すが、この辺の事情は不明である。徳山氏も土岐一族に出た系譜を伝えるが、一説に坂上氏族といい、疑問が大きい。
イ 郡上郡の鷲見藤三郎忠保が建武三年(1336)八月に八代城に攻め入り敵の頸一つを取ったが、そのとき一族の林孫三郎が負傷した旨の上申書を呈出したことが知られる(長善寺文書)。鷲見氏は鎌倉前期頃から見える美濃の豪族で、藤原姓を称するが、その実、美濃古族の末裔とみられる。上記アの根尾氏も、地理などから考えると鷲見氏と同族関係にあったのかもしれない。
ウ 信長秀吉に仕えた美濃金山城主森武蔵守長可の叔父で重臣に林長兵衛尉がおり、土岐郡高山城攻めや大森攻めに活躍した。森氏は幕藩大名として存続し清和源氏と称したが、これも実際には美濃古族の末裔であったとみられる。森長可の叔父については、母方の可能性があるが、具体的には不明であり、この林氏も古族の血筋かも知れない。
エ 安八郡平野庄の山王権現社社人に林氏も見える。これも、職掌から考えると古族の血筋か。
 以上のように、南北朝初期には既に美濃に林氏が在ったことが知られるが、これら林氏と十七条林氏との関係はまったく不明である。
 
(3) 十七条林氏が伊予河野の族から出たことは、その系図と記述内容からみてまず問題ないのではないかと考えられる。
  この氏は越智郡拝志郷(現今治市拝志で、市街地の東南方)から起こり、河野六郎通有の子の四郎左衛門尉通種が初めて拝志郷に住んだといい、通種の子には、「通時(六郎、拝志左近将監)、通任(拝志四郎)、通貞(拝志三郎)」が「河野敏鎌系図」(『各家系譜』五所収)にあげられており、この兄弟は元弘・建武頃に活動したことが知られる。そのうち、通任(拝志四郎)については、「中先代蜂起之時楯籠于白滝城」と譜註に記されており、これら伊予拝志一族の系譜と活動年代から考えて、美濃に来住したという通弘は通時・通任兄弟の孫くらいの世代にあたるのではないかと推される。通弘は上記系図には河野本宗通義の子にあげて「河野二郎」と記されるが、この位置づけは疑問であり、また呼称も一般には「七郎」とされていて、通弘以降も「七郎」の呼称が子孫に屡々現れることに留意したい。

  さて、上記「河野敏鎌系図」に拠ると、通弘は応永二年(1395)に美濃に来て守護土岐左京大夫頼益に仕え、長森城攻めに従軍してその軍忠で大野郡清水城主となり、応永廿七年(1420)に五十一歳で没したと記される。その後は、通弘の子の「林右京亮(七郎)通則−同七郎左衛門尉通堅−四郎二郎通村(呼称からすると、通堅の弟・四郎通延の子か)」と続いて、通村まで清水城に居たが、この代に本巣郡にも采邑を賜り、のち安八郡に移居してその地を林村と名を変えたとある。林村とは林本郷村・林東村・林中村をいい、現在の大垣市林町・錦町辺りに当たる。
  同系図では、通村の子・新右衛門通安は尾州丹羽郡に移って、林佐渡守通勝・新九郎通具兄弟の父となったとされるが、この系には疑問もある。尾張には中島郡拝師郷があり、熱田神宮神官に林朝臣姓諸家があるうえ、佐渡守通勝(信勝)の父は林弥助といい、春日井郡楽田城主林右馬允信高の子だという所伝(この場合、通勝は林通安の養子とされる)もあるからである。
  通安の弟の七郎(左近大夫)通忠は本巣郡十七条に居た。その子が斎藤道三の重臣で道三とともに鷺山で討死した林駿河守通政(名は正通、政長とも。入道道慶)であって、その子の惣兵衛正三まで十七条に居たが、正三の次男が稲葉正成(初名は林市助)とされる。なお、河野敏鎌の系では、左近大夫通忠の弟・河野九郎左衛門尉通正が祖とされている。

  * 以上は、「美濃の稲葉、林」で記述したものも含めて、整理したものである。


 (関連して、林正啓様よりの質問・指摘) 03.9.1受け

(問い)
1 基本的な質問ですが、『古代氏族系譜集成』1255頁注5で、「通弘を河野宗家の通義の子、或いは七郎通遠の子とする説もあるが、『百家系図稿』所収「得能、土居」系図により通綱の子とするのが最も妥当か。通弘が通綱の子でない場合は、七郎通遠の子とするのが、諸説の中では妥当であろう」とされておられますが、
  通綱が討死したのは1336年であり、通弘が美濃へ来たのは1379年です。その間43年も空白があり、通弘が1330年頃の生年としても50才前後で美濃へ移住したことになります。河野敏鎌系図によりますと、通弘は1369〜1420で51才没となっており、どうしても一代か二代欠けているような気が致します。

2 稲葉氏系統は彦六を代々称していますので、七郎通遠の後裔ではと考えております。
  いずれにしても、土岐氏は光定の頃、(光定は伊予で没)伊予に所領を得ており四国への往来には海賊衆たる河野衆の先導が欠かせないものであったろうと思われますが。

 

 (樹童からのお答え)

 1 美濃の林氏の祖先

  ご指摘の1については、その通りだと考えます。『集成』は、鈴木真年翁の『華族諸家伝』稲葉正邦条の記述に拠ったのですが、その後、再考したところ、ご指摘のような年代差に気づき、HP所載の応答欄「□美濃の稲葉・林氏について」の「(4)樹童よりの再返信 02.10.12」の2Aで、「通弘は通任の孫(ないしは曾孫)の世代にあたるのではないかと推されます」と表現しております。
  上記の林氏諸家についての記述も、これを承けたものです。

 2 稲葉氏の初祖塩塵の父祖など

  美濃の稲葉氏系統は、「彦六を代々称しています」が、私は、現段階では伊予河野一族の流れを引かない可能性のほうが大きいのではないかと考えています。
  しかし、河野一族の出自という可能性もまだ残されており、その場合はどう考えるかということでもあります。要は塩塵(通貞、通高)なる初祖の父祖の問題ですが、諸説あり、なかなか適切な判断ができません。

  塩塵について、河野宗家の教通(刑部大輔、六郎)の子とする所伝が見えますし、真年翁も判断にあぐねてか、『華族諸家伝』稲葉久通条では「河野四郎通信十世河野彦六通成男塩塵」と記す一方、『史略名称訓義』では「伊予の河野弾正少弼通末の男出家して塩塵と号し…(中略)…還俗して稲葉七郎左衛門通高と号し」と記しています。
  ところが、「河野彦六通成」も「河野弾正少弼通末」も、河野氏の系図に見えません。様々に通成や通末を考えてみたところ、おそらく両者は同一人物で、本宗刑部大輔教通の弟の兵部少輔通生(訓はミチナリか)に当たるのではないかと思われます。世代的に符合するうえ、「末」の字は「生」に似ていますし、「成」は「ナリ」と訓むからでもあります。河野氏の系図では、通生の子に通高をあげるものもあります。従って、塩塵が伊予河野の族であれば、兵部少輔通生の子と考えておきたいと思います。
  なお、稲葉系統の「彦六」の呼称が何時の時点で生じたかという問題があり、一鉄通朝(良通)が最初ではないかとも考えています。その子・貞通も彦六を称していますが、一鉄の父・通則が「彦六」を呼称としていないようですし、一鉄が六男だったという事情もあります。塩塵が「彦六」を称していたように記すものもありますが、その確証はないと思われます。

  次に、これは当方からの質問なのですが、土岐氏は「光定の頃、伊予に所領を得ていて、光定は伊予で没した」という所伝は、見たことはありません。これについて、なにか具体的な史料があるのでしょうか。

   (03.10.5 掲上)


 (林正啓様よりのお答えなど) 03.10.6受け

1 土岐光定につきましては、「土岐氏主流累代史 全」渡辺俊典氏著(瑞浪市在住の郷土史家)に拠り、取り上げてみました。
  それによりますと、
 「尊卑文脈」
 光定=土岐悪五郎 光貞 隠岐守 悪党讃岐十郎追捕カラメトルニヨリ
 隠岐守ニ任ズ 母 千葉介平胤頼ノ女 法名定光 号興源寺伊予国ニアリ
 没年 弘安四年(1281)八月一日
 法名 興源寺殿宗岳定光 妻 北条貞時女
 墓 瑞浪市市原光善寺跡 (興源寺 永仁元年1293年頼貞が、ここで父光定の十三回忌法要を行っているから、ここの墓は供養墓で、松山市東方町矢谷の興源寺が葬地とも考えられる)

 妻 北条貞時女というのは明らかに誤りであると思います。

 これに関しては、池田町宮地の河野氏から分家した大野町瀬古、古川村の河野氏系図に妻は北条経時三女とありますが、一般の個人系図ですので、どの程度信頼できるのか分かりかねます。

2 池田町宮地の河野氏は、鎌倉から嫁いできた北条氏の娘の供をして美濃に来て、その後土岐氏より土地をもらい帰農したとあります。
 その河野通長という人の母は北条師時女とあり、またその家系は「群書類従」に見える河野宗賢坊であり又河野壬生川氏でもあると書かれておりますが、本当のところは不明であり、なにがなんだかよくわかりません。
 信頼に足るものではありませんが、北条氏に関わる娘が鎌倉から嫁いできて、その供として河野氏に関わる誰かがついてきて美濃に定住したのであろうか、と推測するのみです。その使用紋は三文字紋と九枚笹とあり、さらに疑わしく思われます。「五枚笹でなく九枚笹を使用」と断り書きもあります。
 九枚笹の紋は豊後臼杵の稲葉氏家臣(北海道帯広市十勝毎日新聞社林氏主張の加賀藤原姓林氏)の美濃の加賀藤原姓林氏の使用紋です。
 本来、加賀藤原姓林氏の紋は九曜紋(月星紋)のはずですが?

3 大分県立先哲史料館は豊後臼杵藩主家の「稲葉文書」を近年収蔵しましたが、塩塵は河野教通のあとではないかとも考えているようです(「河野家譜(稲葉本)」)。本当のところはわからないようですが。
(教通は永亨の乱の際、幕府から一時美濃に留まるよう命じられていますが、美濃との関わりはそれ以上わかりません)
 河野通久戦死の地である臼杵姫ガ岳を、その後裔である稲葉氏が所領としたという見解のように思われます。(一柳氏が先祖の地を望んだと同様に)

 <続いて、次の内容もあります> 同日受け
4 根尾の林出羽、森系図に見られる林通安の娘が森可成の室となり長可、蘭丸、などの母になったとされており少し気にはしていましたが、よくわかりませんでした。
 山王権現社社人の林氏は、全く知りませんでした。

5 鷲見家譜は高富町(現山県市)の鷲見家菩提寺広厳寺のとなりに住む鷲見氏より頂きました。郡上郡鷲見郷を領していた鷲見美作守の後裔であり、「全国鷲見会」という組織もあるようです。

6 林六郎光明の子、今城寺光平の子、家継の系は豊後臼杵の稲葉氏家臣で明治に北海道へ移住した十勝毎日新聞社の林氏が主張している系統です。
 「群書類従」河野系図に何者かが書き入れしたような紛乱が現代まで継続されているような気がします。

7 改易となった林佐渡守通勝の系統の一つであろう尾西市の脇本陣林氏が清水の林七郎通兼からの系譜をもっております。
 美濃太田の脇本陣(重要文化財)林氏はよくわかりませんが、大垣の林村の出身であると伝え「変形隅切り三文字と織田木瓜」の紋を使用しているようです。
 また、各務原市鵜沼地区は昔はほとんど林の領分だったと主張する知人(林佐渡守の後裔と自称)の本家の敷地内に大山積神社が祭られていたそうです。
 土岐氏と各務原の関連は、鵜沼に六代守護土岐頼益の墓所大安寺があります。
 佐渡守通勝の系は、惣兵衛正三が通勝の養子となっており、以前より美濃の林となんらかの縁戚関係があったと思います。

8 余談ですが、むしろ稲葉正成が小早川秀秋の家臣を辞し武芸川町谷口になぜ蟄居したのかと疑問に思います。
 一説に母が安藤氏であったためともいわれ、また安藤守就は信長から疑念をもたれて谷口に蟄居しております。どういうわけか、谷口には改田氏(開田氏?)があり、三文字紋を使用しています。
 信長が本能寺の変で討たれてから旧領を取り戻そうと北方に出張してきたところ、稲葉一鉄と合戦となり討たれました。しかし、稲葉正成の母は稲葉一鉄の娘であるはずで、また春日局は稲葉重通が亡くなってから養女となっており、その辺りの事情がなんとも理解しがたいところです。

 京都麟祥院の系図資料は見たことはなく、「古代氏族系譜集成」の注釈で知るのみですが、意外に真実を語っているような気がします。


 (樹童の感触の一部)

1 鎌倉期の土岐氏の系図については、裏付け史料がないことが多く、その記事についてはかなり信頼性がないのではないか、と私は感じています。
  たしかに『尊卑分脈』の一本には、光定について、「号興源寺ゝ在伊予国」と記しますが、この記事がない別本もありますし、『系図纂要』にも寺が伊予に在ることは記事にありません。光定の事績が何らかの形で裏付けられない限り、「寺在伊予国」の部分は直ちに信頼しないほうが無難ではないでしょうか。ましてや、光定の伊予での死没にはならないと思われます。
  少なくとも南北朝〜室町初期において土岐一族と伊予国浮穴地方とは関係があったものですが、先祖の光定が現実に伊予と関係があったかは別問題のはずです。伊予における土岐神社の存在も、それが誰を祀り、誰によって創始されたかは不明です。
  『梅松論』には、建武三年(1336)五月十日過ぎのこととして、「四国の細川の人々、土岐伯耆六郎、伊予の河野一族などの国人たちの軍勢五千騎余を乗せた五百艘余の船」が尊氏に味方して来たとあり、この「土岐伯耆六郎」は呼称や系譜の所伝から土岐頼清とみられる事情があります。
  また、年代未詳(十四世紀前葉)の金沢貞顕書状断簡(『金沢文庫古文書』365号)には、「伊予国守護注進ニ、土岐左近大夫被殺害之由、……」とあり、すでに鎌倉末期には土岐一族が伊予に在ったことも知られます。ここに見える「土岐左近大夫」とは、左近将監従五位下にあった船木頼重(土岐頼貞の同母弟)に当てるのが年代的に妥当であろうと考えられます。

  このほか、土岐氏の通婚についても同様で、光定の母について、『尊卑分脈』では「千葉介−−女」として記載していて、「−−」の部分が「平頼胤」とされたり、『系図纂要』では「千葉介常胤女」と記されたりしています。しかし、年代的に「常胤の女」とするのは疑問であり、常胤の子で美濃の東氏の祖・胤頼ならあり得ましょうが、証拠がありません。また、胤頼は千葉介にはなっておりません。この辺にも、所伝が確かではない面が見られます。

  光定の子とされる定親・頼貞・頼重三兄弟の母について、上記『分脈』『纂要』に「平〔北条〕貞時女」と記すのも、ご指摘のように明らかに誤りです。これも、年代的に符合しないからです。無理に貞時以外の北条一族(例えば経時)を考えることもないと思われます。
  しかも、定親・頼貞・頼重三兄弟の父についても疑問があり、年代や隠岐孫太郎・隠岐孫二郎・隠岐孫三郎という呼称から考えると、この兄弟は本来は光定の孫で猶子となったものではないかと推測されます。
 話が横道に逸れて恐縮ですが、以上に見るように、土岐氏の初期段階の事績・系譜については、多くの点で慎重に考えたいところです。

2 貴信にも示されるように、美濃に伊予河野一族の流れがいくつか居住したことはありうることですが、これらも個別に十分検討する必要があるところです。
  例えば、根尾谷には江戸中期頃まで一柳氏の支族が大庄屋として存続したことが最近、分かり(『岐阜県の地名』)、ますます一柳氏の故地が伊予ではないことに傾いた次第でもあります。

  いただいた資料からは、豊後臼杵藩主稲葉氏所蔵の『稲葉家文書』の「河野家譜(稲葉本)」に河野宗家教通の末子にあたるのが稲葉の初祖塩塵とあるとする一方、同文書には「伊賀・稲葉氏系図」もあって、そこには塩塵以下の河野を祖とする稲葉氏の系統は書かれていないとされています(『史料館紀要』第二号、1997年)。後者が正しいとは必ずしも言い切れませんが(こちらのほうも疑問という可能性もある)、塩塵の伊予河野一族出自は、やはり相当に疑問があると考えています。
  「伊賀・稲葉氏系図」は一度、見てみたいものです。

3 そのほか、林氏や鷲見氏についての情報、ありがとうございました。
 鷲見氏については、祖先の「鷲」にまつわる伝承など興味深いものが多々あります。これは、鷹・鷲あるいは白鳥などの鳥類に関わる天孫族の信仰に関係あると考えられ、この系統の古族末裔を感じさせます。鷲見氏の本拠郡上郡には白鳥という地名も見えますね。谷川健一氏の好著『白鳥伝説』は、全てについては必ずしも首肯できるものではありませんが、物部連氏などと白鳥伝説との関わり合いが様々に記述されています。

  (03.10.7 掲上)
 03.11に林様との間でなされた 「越智系図略」について(応答) を掲上しましたので、併せてご覧下さい。
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