「越智系図略」について(応答)


 (林正啓様より) 03.11.1受け

1 「古代氏族系譜集成」で教えて頂きました「越智系図略」が以前より気になっておりました。東京大学史料編纂所の方と、たまたま知り合いになりましたので、内容を詳しく教えてもらたいと依頼したところ、コピ−できないそうで筆写したものを送ってもらいました。

2 個人的なことで恐縮ですが、「越智系図略」の河野通有三男通種より通登までは、よくわかりませんが、政長の子として政秀、政久、政行があります。政秀のあとは稲葉政成の系譜があり、政行は近江勢田で討ち死にしているようです。政久は林弥兵衛改半右衛門とあり、本家系図も弥兵衛儀兵衛を交互に使用しており、なんらかの関係があるやに推測しております。
 本家系図も個々の年齢計算をしますと疑問ばかりです。系図に書かれている年齢が真実であれば、どう考えても初代は林駿河守政長の子ではありえません。

3 越智系図略では政秀の母は仙石権兵衛秀久姪女とありますが、本家系図では林駿河守政長の室は仙石権兵衛秀久女と記されていますので、その点は、やや符合します。

4 稲葉政成が小早川秀秋のもとを辞し武芸川町谷口に蟄居したわけは、政成の母が安東丹後守娘と「越智系図略」に記されており、なるほどと思いました。
 しかし、政成が母の実家の安藤氏を滅ぼした稲葉氏の娘と結婚し、後妻として、また稲葉氏の養女(春日局)と結婚したことはよく理解できません。
 これを理解するには無理やりの推測ですが、稲葉一鉄の長臣であったとされる父の政秀は、稲葉氏との関係上、安藤氏の娘と離婚し稲葉一鉄の娘と再婚したのではないかと思われます。離婚された安藤氏の娘は、家格が不釣合いな改田氏と再婚したため夫婦の戒名が又不釣合いとなったのではと考えられます。



 (樹童より) 03.11.3

1 取り上げられた「越智系図略」については、河野一族の通種と稲葉政成との間に不都合な面があって、あまり信拠できないように思いますが、まったく捨て去ることもできないとも思います。この問題となる間は、後の記憶と推測で補ったようにも感じますが、そのときに何らかの正しい所伝も織り込まれていることも考えられます。
 私も、貴信をいただいてから、手元にある同系図のメモを探してみましたが、系図の譜註などは必ずしも正確ではなく、略記したものもあって、よく判断できないものもあります。例えば、林四郎通任については、中先代蜂起のとき白瀧城に楯籠もると言う記述があり、これは「河野敏鎌系図」にも記述がありますが、「越智系図略」では美濃の白瀧城とあって、どうもこの「美濃」というのは後世の敷衍ではないかと思われます。
 同系図では、通種の子の林四郎通任が政成の祖とされますが、通任は伊予の今岡氏の祖となったようで、美濃の林氏にはつながらないような気もします。

2 美濃の林氏の問題は、@本当に河野一族の拝志氏の出自なのか、Aあるいは河野一族の者が美濃に来て在地の林氏の養嗣となって林氏を名乗ったものか、いまだに見極めが付かないことです。おそらく、@の可能性のほうが大きいとは思いますが。

3 その意味で、「越智系図略」を探しているうち、鈴木真年翁の『列国諸侍伝』(静嘉堂文庫所蔵)の次のような記事に気づきました。これまた、混乱の増加につながりそうな気もしますが、念のため挙げておきます。

 林という標題のもとに、簡単な系図が記載されており、「河野通直(弾正忠)−通実(伊予守、安芸国竹原ニテ細川武蔵守頼之ノ為ニ打死)−末子七郎通高(イヨヲ出テ美濃ニ来リ本巣郡軽海城ニ住)−七郎左衛門尉、林左衛門尉通兼(大野郡清水城主林某養子トナル)−通村(林佐渡守)−通安(林新左衛門尉)−通勝(佐渡守)−通豊(佐渡守、初織田勘十郎信行ニ仕、後信長ニ仕フ、天正八年遠流セラル)」というものです。河野通直の子に通実なる者は見えませんから、この辺には疑問があります。



 (林正啓様より) 03.11.4受け

1 鈴木真年翁の「列国諸侍伝」の系図は「美濃国諸旧記」所載の系図そのものであると思います。なかでも通安−通勝(佐渡守)−通豊(佐渡守)とありますが、この通豊は諸旧記にも記載されており他系図には見られないものであると思います。

2(江戸時代に「海国兵談」を著した林子平は、伊予国越智郡拝志郷の出で越智刑部少輔通高の子孫にあたると伝えている)
            豊田武著『日本史小百科(家系)』334頁

 稲葉七郎越智通高については
 美濃国諸旧記 巻之四 本巣郡軽海の城の事
        巻之六 十七条村の城の事
        巻の七 清水の地銘の事ならびに稲葉氏の事
に詳しく書かれております。

「康暦元年11月、予州外木の城にて細川頼之と戦い打ち負けて始めて美濃国に落ち来り土岐氏の臣下となり刑部少輔と号す。則ち加留見長勝卿の開基せられし本巣郡軽海村の明城を修復して始めて是に住せり。是より代々土岐氏の旧臣となりて当国に住せり」

 美濃明細記などにも康暦元年とあり、細川氏との戦いののち反細川氏の筆頭勢力である土岐氏を頼り河野庶流の通高と称する人が美濃へ落ち延びてきたのだと推測されます。

 この康暦元年11月には本宗家の通尭が(1346〜1379)桑村郡吉岡郷佐志原(愛媛県東予市)の戦いで戦死。
 これは史実であり、鈴木真年翁および美濃国諸旧記の記述は正しいのではないかと考えます。

美濃国諸旧記 通兼  永徳3年生 嘉吉2年10月2日卒(1382〜1442)
       通政  元亀3年10月25日卒      (  〜1572)

河野敏鎌系図 通弘  応永27年51才卒         (1370〜1420)
          通則  寛正3年11月22日卒      (  〜1462)
          通堅  文明15年52才卒         (1432〜1483)
          通村  大永3年4月15日卒       (  〜1523)
          通忠  天文18年5月7日卒       (  〜1549)
          通政  天正元年10月25日卒      (  〜1573)
 
 稲葉七郎越智通高なる人物の存在が立証できれば、通高−通兼の系譜は正しいのではないかと考えます。



 (樹童より) 03.11.8
 鈴木真年翁が広く史料を収集していたことも推測されます。
 貴殿が言われるように、「越智刑部少輔通高」の存在が一つの大きなキーかもしれません。

 (03.11.16 掲上) 
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