□美濃の稲葉・林氏について ( 美濃の稲葉、林氏についてのご質問の詳細) 美濃の「稲葉、林」についてできる範囲で調べてきましたが、どうしても越智姓河野支流に付会したものであろうかという疑念を払拭することができませんでした。 美濃河野氏の足跡は「鎌倉・南北朝期の河野氏と美濃国」−美濃河野氏源流小考−「伊予史談」283号石野弥栄氏(愛媛県歴史文化博物館)の小論文が河野四郎通信の子通政その子政氏が美濃墨俣(水運の要衝)に地頭として土着し美濃河野氏の源流となったことを解明していますが、美濃土岐氏は四国伊予に所領を持ち室町幕府管領細川頼之の対抗勢力として、伊予河野氏とは近い関係であったと思われます。 「大日本地名辞書」には大野郡清水は伊予河野党の人々が流寓して居れる処とあり別流の河野庶流も美濃に土着していたことは確実であると思います。 「稲葉氏由緒答問録」に系図は京都で浪人から求めたと書かれており、稲葉氏の出自を一層不明確にしていますが、元禄頃の臼杵稲葉家でもよくわからないようです。 しかし「稲葉塩塵」の父祖は「得能長太郎」とあり私自身は「河野通兼」は得能氏庶流につながる人ではないかと考えておりました。 「稲葉塩塵」は又別の河野庶流からの養子であろうと思われます。 月桂院の稲葉一鉄の墓の後方上段は林家の墓であり墓の他、五輪塔の頭の部分だけが無数あります。 河野七郎左衛門越智通兼は加賀藤原姓林氏(林六郎光明の系?)と藤原姓稲葉氏を冒し家督をとったものと思われます。 「美濃国諸旧記」「美濃国諸家系譜」「美濃明細記」「続群書類従系図部集」「臼杵稲葉系図」「系図纂要第十五」などは「通兼」以前は紛乱があるようで、年代的にも多分に信頼できないと思います。 「通兼」以降の系譜は、ほぼ符合しますが、それ以前は河野庶流のだれかの子孫であろうという推測に過ぎませんでした。 宝賀氏の編著「古代氏族系譜集成」1255頁*5の記載に長年の 疑問が氷解したような思いが致します。 林 正啓様(美濃源氏フォ−ラム岐阜事務局)より (1) 樹童からのお答え 02.10.7 @ 伊予の河野氏については、『古代氏族系図集成』刊行後もいろいろ考えましたが、系図が多い割に良好なものが少ないようであり、標記の美濃の稲葉・林氏についてもきわめて難解で、河野一族と美濃の稲葉・林氏との関係もまた考えれば考えるほど、よく分かりません。そうした前提で、以下の記述も読んでいただきたく存じます。現段階の試論です。 A 明治に華族となった河野敏鎌家の系図が中田憲信編『各家系譜』(国会図書館蔵)の五にあります。それが美濃の林氏については、比較的良好な系図の模様で、それによれば、伊予河野宗家の通義の子とされる通弘から始まっています。従って、『集成』1255頁の*5は、修正を要するようです。 B 稲葉氏が林一族とするのは仮冒の模様で、2の林一族の系図の中には見えません。こちらは、『集成』755頁掲載の「美濃ノ中臣連」から出たようで、同系図の末尾部分に見える七郎通兼が塩塵に当たると考えられます。おそらく、一柳氏も近い同族と思われます。 なお、この「美濃ノ中臣連」が中臣勝海連の後裔とするのは、仮冒のようで、実際には美濃国厚見郡の古族(姓氏不明も、和邇氏族の中臣丸連か)ではないかと思われます。 お答えが貴殿の予想外のものではないかとも思われますが、以上が現段階のとりあえずのお答えです。 (2) 林様からの返信 02.10.7 1 お答えのAで,一般的に流布されている通義三男通弘という「群書類従」所載の系図につきましては疑問に考えております。 「戦国大名系譜人名事典」新人物往来社に山本大氏作成の河野氏略系図があり、「通義の子通久は父の死後に生まれ叔父の通之に養育された」と記載されており、この通久以外に通義の子はいなかったのではないかと思われます。 また、「通義(通能)は応永元年11.16没(25)通義の弟通之は兄通義の家督を継いで伊予守護となったが、兄の遺言に従い兄の子犬王丸(通久)を養育した。犬王丸は応永13年(1406)湯築城で元服し持通と名乗ったがさらに通久と改名。応永16年通之の譲りを受け家督相続し伊予守護となる」と記載されています。 2 稲葉氏の出自が不明なために付会したものであろうかと思われます。群書類従所載河野系図の1本は津島大橋家作成の系図で、何ゆえ大橋家が「河野稲葉系図」を作成したかを考慮しますと大橋家と林惣兵衛正三、稲葉佐渡守正成、稲葉家との関わりを示す為であるように思われます。 林正三は信長の重臣林佐渡守通勝(秀貞)の養子となっているようで林佐渡守改易のため蟄居。正三は、稲葉一鉄の娘と結婚していた為その子林市助があえて稲葉姓を名乗り(稲葉兵庫頭重通の養子となる)、後の春日局と結婚。改易された家系の林市助と信長を討った明智光秀の重臣斎藤利三の娘が結婚し、結果的には徳川家のもとで繁栄しましたが当時としてはあまり公にできないような系図ではなかったかと想像します。 一般的には、ほとんどが通義流河野氏に系図を作っているように思われますが、河野庶流であればともかく河野宗家通義の子が、はるばる美濃へ土着したとは、とうてい考えられず、また山本大氏によれば、通弘の存在自体が疑われます。 3 石野弥栄氏「諸家系図纂所収河野系図の検討」で、河野墨俣三郎信有(通信−通政−政氏流)は、足利尊氏に随従して九州から東上した河野通盛に率いられ後醍醐天皇の拠る山門比叡山を攻撃し負傷(建武三年六月比叡山南尾合戦分捕生捕井手負注文)。 竹御所(二代将軍頼家女)卒去の後その葬送に河野通久、政氏が加わり河野氏惣庶ともに竹御所に近侍する立場であった。竹御所の母?美乃局=河野通信女(ふつう木曽義仲女)としている。「鎌倉南北朝期の河野氏と美濃国」 4 河野十八門徒 尾張葉栗郡の土豪河野通勝が三河柳堂において親鸞上人に帰依し木曽川を挟み九道場づつ作り、河野十八道場とした。(木曽川笠松、岐南町は河野郷)「河野十八門徒について」細川道夫氏 「系図纂要第十五」記載の通兼が伊予から来て頼った河野六郎通利が居た岐阜市椿洞は現在でも河野姓の人々が三十数軒ほど住み、河野六郎通利の子孫もおり実際に系図もあります。しかし「系図纂要」は通兼の注釈で石手寺、応永の頃を石午寺、応仁の頃と誤記か。通兼を通春の子としていることも年代的に無理があります。 後醍醐天皇の皇子無文元選禅師が了義寺(椿洞)を開基、河野対馬守通村が建立 その後遠州方広寺(臨済宗)へ。(このため河野姓の人々が現在でも居住) 上記のごとく河野氏の足跡はありますが、美濃の河野氏源流は土岐氏のもとでは帰農したか水運業にたずさわったのではないかと思われます。 5 お答えのBについては、美濃の林家(十七条)に隣接し稲葉家の領地があり、少なくとも稲葉一鉄の頃より稲葉、林は姻戚関係があり数代にわたり血縁結婚を繰り返しております。 通兼が塩塵と同一人であろうかという説も以前からありますが、塩塵は徳川氏にみられるような武芸達者な放浪僧が美濃にとどまり稲葉家(美濃の古族でしょうか)を冒したと思われ、従って出自不明です。徳川氏は新田氏流世良田氏に付会したと思われますが、塩塵は「父祖は語らず」としています(寛政重修諸家譜)。 また、湖の海賊衆といわれた堅田衆が味方した大津堅田の本福寺(本願寺旧蹟)の五代住職明宗は美濃から養子となり、河野支流とされ寺には河野文書数点と河野系図があるようです。「本福寺文書」山内譲氏「伊予河野氏関係文書の伝来について」古文書研究第20号昭和58年2月刊 稲葉塩塵は当初祐宗「春日局ゆかりの地小寺城安国寺をたずねて」(発行人池田町小寺区森博士氏)と名乗っていましたのでなんらかの関係があるかもしれません。 塩塵は近江より土岐名字(実際は斎藤氏)の人を頼り美濃へ来たと稲葉氏由緒答問録に書かれています。 ご指摘の通り、美濃の稲葉、林につきましては現段階では本当のところはよくわからないと思います。今となっては伝承に対して、それを証明できる確固たる証拠はありませんので。 (3) 林様より引き続いての信 02.10.9 ご参考までにいうと、次の史料もあります。 「揖斐郡志」 美濃諸家系譜によれば、加賀国江沼郡林の郷の住人林七郎左衛門通兼族類五十余人と暦応二年敗れて当国に逃れ本巣郡樽見に住し土岐頼遠頼康に従う。延文元年三月より大野郡清水山に築城して住す。或いは長良山の城とも云う。貞治六年七月十七日七十三にて卒す。 その子林源太郎或いは鬼太郎光祐或いは通祐、稲葉左衛門尉と云い十五歳父と共に当国に来り頼康に仕え兼山に住すと云う。その養子を通高となす。これ塩塵なり、光祐の弟源三郎或云新三郎通村駿河守又佐渡守とも云い、土岐頼康、康行に仕え清水城に住し後頼益に仕う。その弟主膳通重は竹中氏を称し津汲に住す。通村の子新太郎武兼豊後守樫原に住す。その弟新左衛門通雄加賀守清水城に住し、その養子六郎左衛門通貞は通高の六男なり。その子通利その子右近太夫通忠始め清水城に居り、後武儀郡山中村に住し、又本巣郡十八条村に居る。その子正長十七条村に居り、二男左近太夫通政駿河守入道道慶山中城に住し、享録三年土岐成頼の執権となると云う。清水城主のこと他に徴すべきもの無し。今参考として存す。 (新田義貞討ち死に後、脇屋義助らの南朝勢力とともに根尾谷に落ち延び後に土岐氏に従ったものかと思われます) 稲葉塩塵(天文七年七月十二日卒)は伊予の河野氏彦六通貞と云う。初め州の安国寺に入りて修学す。寛正年中伊勢神宮に詣でんとして山中群盗に会いその数人を撃殺す。 是より武名を負い自ら還俗して塩塵と云う。去りて諸州を巡り当国に来る。土岐成頼その妹を嫁かしめ池田の小寺山城に居らしむ。 その子通則備中守右京亮、通雄、忠通、一徳、通俊、光朝(白雲)、常通、通光、通友あり。 通則、土岐政房、政頼父子に仕えて小寺山に在り。その子通勝、通房、通明、豊通、通廣、良通あり。又女子四人あり。斎藤山城守道三、玉井若狭守、岩手弾正忠長誠、古田肥前守に嫁せり。 「美濃国諸旧記巻七」 系図抜粋 伊予親王より四十五代河野四郎通信十三代の孫河野弾正通直 越智通直(河野弾正忠遠江守)−通實(伊予守始名彦三郎通成と号す芸州竹原にて細川武蔵守頼之が為に生害す) −通高(稲葉七郎刑部少輔始め予州の住人なり。後美濃国に入りて土岐氏に随順せり。本巣郡軽海の城に住す。 −通以(通高子)稲葉備中守法名元塵 本巣郡軽海の城に住す −通兼(通高子)林七郎右衛門、後に左衛門尉という。大野郡清水の城主林氏の家督となるなり。 永徳三年亥年五月生、嘉吉二年十月二日卒す。・・・ 通政又政長ともいう。林駿河守入道道慶本巣郡十七条村の城主なり。 元亀三年十月二十五日卒す。法名壽昌院前駿州大守月郎宗伯大居士。 通富(通以子)稲葉伊予守法名塩塵、加茂郡御座野遠見山の城に住す。 「濃州城主誌略」抜粋 通義と改むその二男通弘一族たるをもって稲葉家を頼み予州より濃州に来り。 大野郡清水の村に居住せり。その子通則土岐の萱津持益に属し是より土岐家の臣となれり。その子七郎右衛門尉通兼は清水の城より郡上に移る。・・・ 「美濃明細記」 軽海東城 本巣郡 稲葉七郎重見 (イニ)通高 康暦の頃より居レ之 軽海西城 本巣郡 稲葉家代々居住 応仁2年稲葉石鹿入道御座野村遠見山に要害を構えて移る (イニ)の意味不明。 ※樹童按ずるに、「一に」と同じく、「一説に」「異説に」かで、重見という名に係るものか。 「稲葉氏」 龍徳寺文書中大永五年(1525)12月19日付の稲葉光頼による玄高後室への田地売券がある。 又同日付玄高後室より龍徳寺への寄進状に「為月岩玄高祠堂」とある。月岩玄高禅定門の石塔が今養源院にある。雲峰守徳公と年月同じで「可為稲葉家先祖也」と注してある。 恐らくこれは稲葉塩塵の冒した本家であろう。 慶長6年(1601)の龍徳寺書上に 「本郷庄雲門山龍徳禅寺稲葉一鉄法印先祖、国枝一党之位牌所」 とある。 法号雲峰守徳 稲葉通則 大永5年乙酉8月2日討死 62才 有池田郡龍徳寺中墓 (美濃明細記)稲葉一鉄父 (4) 樹童よりの再返信 02.10.12 懇切なご教示、感謝いたします。個別の中世地方史や中世史料に疎い面があるものですから、たいへん参考になりました。 貴信により有益な示唆をうけ、再考した結果を次に記してみます。 1 通義の子の通弘という系図については、ご指摘のように疑問となります。 山本大氏の記載「通義の子通久は父の死後に生まれ叔父の通之に養育された」のように考えて妥当なようです。 ただ、先に挙げた河野敏鎌家の系図(『各家系譜』五所収)が美濃の林氏や河野一族については、比較的良好だという感触はやはり正しいのではないかと思われます。同系図や呼称によって考えると、河野宗家の南北朝頃の家督は、「六郎通堯→その弟・九郎通義→その甥(通堯の子)・六郎通之→六郎通久(通義の子)→その子・六郎通直(また通豊、教通)」と引き継がれたとみられます。「六郎」は、弘安時の中興の祖・六郎通有以来、殆どの河野家督の呼称になったようです。同系図の前半部分には、他書に見えず割合信頼性のある貴重な越智氏系図が神代より記載されております(下記の註1を参照)。 2 そこで、美濃林氏の祖とされる「通弘」については、その父祖の部分で造作ないし系譜・系線の混乱があった模様ではないかと推しています。すなわち、伊予河野宗家の通義の「子」の通弘という位置づけがおかしいとしたら、通弘の父祖が河野一族のどの辺りに位置づけられるのかという問題になります。 @ これについては、前掲「河野敏鎌系図」には、通弘に「初居伊予国越智郡拝志村応永二年入美濃国……大野郡清水村……応永廿七年庚子閏正月廿七日卒 年五十一」、その子に「通厚(拝志三郎)、通烈(河野六郎)、通則(河野七郎、林右京亮)」の三人をあげることが大きなヒントになると思われます。通則の子孫に、林総兵衛正三、その子の稲葉佐渡守正成(春日局の夫)が出たことも、否定できません。 A 伊予の拝志氏は越智郡拝志村に起こり、六郎通有の子の四郎左衛門尉通種に始まりますが、通種の子には、「通時(六郎、拝志左近将監)、通任(拝志四郎)、通貞(拝志三郎)」が前掲系図にあげられており、この兄弟は元弘・建武頃に活動したことが知られます。通任(拝志四郎)については、「中先代蜂起之時楯籠于白滝城」と譜註に記されます。 この「拝志」と活動年代から考えて、通弘は通任の孫(ないしは曾孫)の世代にあたるのではないかと推されます。稲葉佐渡守正成については、『古代氏族系図集成』1255頁の*11に記すように、「通種−通任」の子孫だとする系図(東大史料編纂所蔵『越智系図略』)もあります。残念ながら、この系図と前掲敏鎌系図とは、中間世代の名前が違いすぎます。 また、単なる偶然かもしれませんが、前掲敏鎌系図には、通弘の叔父に通任(河野刑部七郎)があげられており、美濃林氏の祖・通弘が河野七郎と号したと伝えることも想起されます。 通任については、伊予の今岡氏の祖ともいい、『豫章記』には貞治二年(1363)六月八日、今岡兵庫介(通任の子か)を鎮西に遣わすことが見えます。 3 一方、稲葉塩塵については、河野一族の出自という所伝がいくつかありますが、その子孫が大野郡清水村(註2)で林(拝志)一族と通婚して、出自を仮冒したことによるものと思われます。稲葉氏は、厚見郡稲葉に起った氏であり、秀郷流藤原氏の伊賀氏の流れという氏もありますが、私は、先信で書いたように、美濃中臣の流れではないかとみています。 すなわち、塩塵が稲葉伊賀守光兼の遺跡を継いだという所伝もありますが、私は、もともと稲葉氏であったとみるわけです。中世系図の流浪伝承とか落胤伝承は、殆どが信頼できるものではありません。三河松平氏の祖・親氏については、随分検討し、賀茂朝臣姓とするのが比較的妥当な模様ですが(『集成』1382頁参照)、いまだに分からない部分が多くあります。この親氏と塩塵とが同様なケースだとはいえないように思われます。 『姓氏家系大辞典』470頁には、塩塵が稲葉七郎通兼と名乗ったことが見えますが、同辞典の469頁には、通兼が「大野郡清水に始めて城を築く、のち郡上に移る、清水に加納菅八郎を置」という記事も見えます。『新撰美濃志』の大野郡清水条には、「加納悦右衛門は稲葉一鉄(もとの字は金偏に夷)の家士にて、其の父加納雅楽助の時より清水村に住めり」とあり、一鉄の子孫である臼杵稲葉藩の重臣に加納氏があります。この加納氏は、厚見郡加納村に起った氏で、美濃中臣の流れで稲葉氏の一族に加納氏があり(『集成』745頁)、同系図には「七郎通兼」も見えて、これが塩塵本人とみられる者です。 以上、とりあえず手持ちの史料をもとに記してみました。また別途の視点からの検討や別史料に拠り、別の結論となる可能性もないわけではありません。 (註1)「河野敏鎌家系図」についてもう少し詳しく書くと、中田憲信の編著作として国会図書館に所蔵されており、『各家系譜』という系図集の「五」の表紙に「大島、河野、郷」とあげられ、そのなかに「河野家譜 略 稿本」があります。 内容は、二つの部分から成り、その1は天忍穂耳尊(天照大神の子)から始まる越智直の部分で河野通信の孫世代までの系図であり、その2は越智通久(通信の子)から始まる明治までの系図です。古代越智氏の系図では、日向に分かれた三島通庸家の系図(その子の日銀総裁『子爵三島弥太郎伝』の末尾に掲載)も割合信頼性がありますが、こちらはごく簡単なものです。 (註2)大野郡清水村は、揖斐川の東岸で現揖斐郡揖斐川町の東南端部にあり、そこに清水・長良という地名が見えますが、現岐阜市域で、稲葉山麓の旧厚見郡加納と長良川を挟んで北岸の地にも清水・長良の地名が見えます。これらが偶然の一致ではなかったら、もともと厚見郡に起った稲葉氏が移動に伴って移した地名ではなかろうかとも思われます。なお、美濃中臣の祖先の名にも「長良」が見えます(『集成』744頁)。 (5) 林様からの返信 02.10.12 樹童様の指摘のごとく、稲葉塩塵は稲葉氏(美濃の古族)を冒したものと思われます。 塩塵が冒した稲葉家の土地の売買券もあるようです。 稲葉一鉄の母方は国枝氏であり、塩塵の墓がある養源院は池田町本郷の国枝氏の居城本郷城の内にあります。塩塵の小寺山城は近くの山の中腹で安国寺の近くにあります。 とても日常生活できるような場所ではありません。 戦時のみ使用するための砦でしょうか? 「安国寺」 八代守護土岐成頼が舟田の乱で剃髪した寺であり、千人斬りの伝承がある稲葉白雲(塩塵の六男光朝 、白雲斎陽窓住隠大禅定門元亀三年三月十日)の五輪塔が安国寺の畑より発掘され復元されております。また城跡近くの池田町宮地には鎌倉から来たと伝える河野家もあります。 美濃応仁の乱といわれた舟田の乱で土岐元頼、石丸方に味方した国枝氏が没落、また勝利を得た斎藤利国も、元頼方に味方した近江六角氏を討伐し、和議がととのい帰路の途中土一揆の攻撃にあい全滅、守護代斎藤氏が弱体化し、後の斎藤道三が台頭するきっかけとなりました。稲葉氏の名前が史上散見されるのはこれ以後のことであり一鉄の姉か妹が道三に嫁ぎ(妾?通説は土岐頼芸の側室であった三芳野)、次第に勢力を得たように思われます。 林駿河守入道道慶は美濃明細記によると斎藤山城守秀龍執権とあります。 林七郎左衛門通兼は郡上に移る(郡上八幡の近く下田)、加納菅八郎を置という文面ですが、林氏がいた清水山上(小山)からは西濃地区が一望のもとに見渡せ、城(砦)の立地としては最高の場所です。何ゆえ辺ぴな郡上方面に移住したのかわかりません。 その山上には現在、釣月寺があります。釣月院(夢窓国師が開基)清水は土岐頼遠、誅されて後周済坊(河野墨俣氏のあとの土岐墨俣氏)の領地となる。周済の乱で滅亡。 寺を建築の際、数百に及ぶ五輪塔の頭部が出土。現在も寺の脇に並べて放置されています。林氏数代の居城とされています。 (通兼が始めて築城し、郡上へ移住したとは、とうてい考えられません。) この近くの月桂院が稲葉一鉄の妻月桂周芳大姉の寺であり、一鉄、後室(信長妹)、嫡子貞通の妻(斎藤道三女)の墓もあります。加納悦右衛門女の子が庶子稲葉兵庫頭重通であり(美濃稲葉氏一万二千石)、その子通重の代に京都で酒の上の狼藉のため改易となり筑波に配流となっております。 「古代氏族系譜集成」所載美濃中臣「七郎通兼」がご指摘の塩塵と考えられますが「七郎通兼」が過去何人も存在したような気が致します。 今まで自分なりに調べてきましたが、四国の新居一族にも拝志があり、考えれば考えるほど迷路に迷い込むような思いでした。いろいろ勉強させて頂きました。 ○別に小生が、空想し稲葉七郎通高が20才で康暦元年 美濃来住、60才で卒と仮定した資料添付させて頂きました。(別添資料へ) 通弘より通高の名前の方が美濃の資料に散見されますので。 ご批判もあろうかと存じますが、小生の勝手な遊び心といった想像です。 (6) 林様からの引き続いての信 02.10.18 「稲葉塩塵の件」 稲葉塩塵が「祐宗」と称したという系譜を思い出し調べ直しました。 真偽のほどは、わかりませんが下記系譜がありましたのでご参考まで。 「後編 諸家大系譜 稲葉氏 六十六」国立岐阜大学図書館蔵 改選諸家系譜後編巻之 稲葉氏中 通高(稲葉塩塵 左衛門尉 始 祐宗) −通則(稲葉右京亮 備中守) −長通(少名彦六 伊予守 従四位下侍従 始貞通) −貞通(稲葉伊予守 右京亮 従四位下 侍従) 室斎藤道三女 継室織田右府信長公姪 濃州曽根城主 天文五年丙申生 慶長八年癸卯九月三日没時五十八歳 法名知勝院殿前拾遺一等玄槻大居士 「後編 諸家大系譜 稲葉氏 六十七」 改選諸家系譜巻之 稲葉氏下 通兼(林七郎左衛門 美濃守 従五位下 濃州清水城主 −通祐(林左衛門佐 右京亮 稲葉備中守 或 通以 通則 移居濃州稲葉山麓 始称稲葉氏 子孫系譜別記 −通村(通兼子 林佐渡守 駿河守) また、「古代氏族系譜集成」1253頁の林通村以下の系図とは別のあまり見られない系譜がありましたのでご参考まで。 (蓬左文庫「藩士名寄」整理番号141〜1〜15) 持高四百石 林八郎左衛門 稲葉七郎左衛門通兼二男 越智通村 永正四年卯年義澄公依命上京細川右近太夫政元臣 香田次郎戸倉次郎五郎兵衛逆ス此節通村有軍功依テ 義澄公預軍賞美濃国大野本巣両郡賜之 一 濃州安八郡林村ニ住故林ニ改 一 永正八末年船岡山合戦之節軍功御座候 一 同十二年亥九月十一日山城国白川ニ而死年五十八歳 妻織田藤左衛門信清女 通安 織田弾定信定家臣信定死去後織田信秀ニ仕尾州春日井郡 楽田之城主申候 一 天文二十二年 十月十二日於京都死 妻南部兵部太夫祐房女 通忠 永正五年辰年濃州十七条ニ移本巣郡十七条ニ而高千六百石 土岐郡下石村ニ而高千八百弐拾石安八郡高田村ニ而高八百石 同郡林村ニ而高千五百石石尾州之内ニ而高八千石余領知仕 一 天文十八年酉五月七日死 女子 大橋和泉守定安妻 (7)とりあえず最後に、樹童より 林様と意見交換して、いろいろ示唆深いものでした。ただ、以上に記してきたものは、現段階の考えですので、さらに検討が進んだり、見解が変わったときはまた掲上したいと考えています。 (以上は 03.1.2に掲上) ○ 03.9に林様よりご指摘等あり、 美濃の林氏諸家の出自と系譜 と関連する応答を掲上しましたので、併せてご覧下さい。 (03.10.5 掲上) ○ 03.11に林様との間でなされた 「越智系図略」について(応答) を掲上しました。 (03.11.16 掲上) |
(02.10.17に掲示、10.20及び03.1.2更に03.10.5、03.11.16に追加) |
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