稗田阿禮の実在性と古事記序文  2

    (続き)


 古事記序文で注目すべき記事

  『古事記』序文が、本書の内容と合わず、あとから付加されたものであることは確かだと思われる。ただ、序文内容には注目してよい記事、留意点が見えるので、これらを併せて記しておく。

 その第一は、序には壬申の乱に関する記事分量が多すぎるとの指摘があり、この辺はともかく、私にとって留意されるのは、そのときに天武方が赤い識別標識を付けたという記事である。『書紀』にもほぼ同様に読みとれる内容があるので、そちらから得た知識だという見方もできようが、若干差異がある。すなわち、壬申の乱では大海人皇子方が、戦いの時に敵と区別するために衣服の上に赤色を付けたとするのが『書紀』(天武元年七月二日条に「赤色をもって衣の上に着く」との記事)であり、『古事記』序文のほうには「絳旗(深紅の旗)、兵を輝かして」と見える。これは、五行思想の火徳を自称した中国の漢の高祖、劉邦赤帝の子を自称し、旗幟にみな赤を用いたとするのが『漢書』高帝紀)にならって、自らが創業帝王である正義の軍である事を主張したのだろうと言われている。
 こうした敵味方識別の壬申の戦ぶりが斬新なだけに、この同時代に生きて戦場にあった人物かその者から話を聞いたり伝えた関係者が執筆したとみることを示唆するように思われる(多氏では、品治が美濃で挙兵し、伊賀でも戦闘をするなど活躍した)。『書紀』天武紀の壬申の乱の記事を見ただけでは、むしろ「古事記序」は書けないとするのが穏当なところではなかろうか(「和迩部臣君手記」なども、古事記序作者は見うる可能性があるが、『書紀』天武紀を見なければ古事記序が書けないわけでもなかろう)。

 第二に、前項までに見たように、稗田氏というのはかなりマイナーな氏族であり、こうした出自の、世に知られない者を出すことによって、直ちに序文の記事が後の造作だと読者に見破られないような配慮があったのかもしれない。だから、「阿禮」なる者は、現実に序文が書かれた時の人々にとっては誰も知らない者だったのではあるまいか。そもそも、こうした序文を付けた『古事記』が、当時の公的な場に提出されなかったとみるのが自然であろう。

 第三に、序文では、『書紀』で力が入れて書かれたとは必ずしも思われない成務天皇について高い評価を与えていることに留意される。すなわち、上古の賢帝として、神武のほか崇神・仁徳・允恭とともに成務という五人の天皇をあげて、成務の治績を「境を定め邦を開きて、近淡海に制(おさ)め」と記される。允恭の氏姓の正定も併せてあげ、行政区画と身分秩序の整備を重視しており(矢嶋泉氏の表現に基づく)、よほど大和朝廷の歴史に通じた者が序文を書いたとしか受けとりがたい。戦後の古代史学界では、津田博士説の影響などもあって、成務天皇は実在性の低い大王とされてきたことに対する警鐘にもなろう。

 第四に、『古事記』が国撰ではなく、多氏など特定氏族による私撰ないし偽撰だとしたら、津田博士などのいう『記・紀』編者による律令国家体制のもとでの造作説も成立が難しくなると思われる(梅原猛氏は、歴史を偽造したのは、「二十世紀の津田左右吉そのものであった」とまで言う。基本的には、私見でもほぼ同旨であって、歴史的事件の捏造や新規の創作・制作は相当に難しいと思われる。総じて言えば、津田博士とその亜流学説論者は、史書や系譜の偽造をごく簡単なものだとみる言動をする傾向がある。こうした古代の「超能力者」の存在を考えるのは、実証史学におおいに反する)。
 『古事記』の内容的には、大己貴命や海神族(世にいわゆる「出雲」族。ただし、私見では、大国主神関係の意味で「出雲」を用いることに大きな疑問がある)の関係者の所伝や、神々・特定著名人物(神功皇后、武内宿祢など)の系譜が多く取り入れられている事情がある。だから、これらと無関係の多氏一族の者(例えば、「弘仁私記序」に見える人長)が、平安時代初期になって同書を初めて整理(ないし作成)したという見方には、大きな疑問を感じる。多氏一族の関係者がなんらかの整理をしたとしても、そうする前に、すでに殆どの著述内容が完成していたとするのが自然だと思われる。この原文に対する多氏一族関係者の手入れは、それがあったとしても僅かなものであったろう。ただ、序文だけをこの関係者が記したという可能性はあろうが。

 
 現存の最古写本の伝来経緯

 『古事記』の南北朝期の写本が現存最古の写本とされるが、これが、京都・奈良を含む畿内ではなく、東海地方の尾張でも辺地にあった中島郡長岡荘の大須(現・岐阜県羽島市南端部)の真福寺に伝わった。現在は名古屋市中区大須にある宝生院真福寺は、宝生坊が南北朝期に南朝方の後村上天皇によって真福寺として建てられ、さらに十七世紀前葉の慶長後期には現在地に遷された。同寺前身の大須観音堂が鎌倉時代からあって、この時期、長岡荘が近衛家の家領だったし、鷹司家とも縁があり、真福寺が北野社の別当寺であったことから、これらの方面から当該書が来たのかもしれないが、それでも、やはり不思議な感がある。
 真福寺には南朝側の関係者(とくに伊勢神宮の祭祀関係者)が多く、真福寺本筆写の賢瑜も自発的筆写ではなく、たんなる筆写者で、その背後にある書写主宰の人脈を考える必要があるとの見方もある。古事記書写が「何らかの程度でも神道乃至皇統問題等の意識の下に行はれたものではないか」(蓮田善明著『古事記学抄』)という問題提示である。だから、古事記序もこの辺までの成立時期を幅広く考えることが必要なのかもしれない。とくに、古賀精一氏は、真福寺二代住職信瑜が賢瑜に書写させたもので、真福寺本の原本は、伊勢神道の大成者たる度会家行(その子が真福寺開山の能信上人)一門父子の古事記であったろうとの推定をしている(「真福寺本古事記攷」、『国語国文』昭和十八年五月号)。
 真福寺には伊勢神道や根来に関わる書物が多く伝わっていたことが宣長の書でもわかり、真福寺本の発見者は十八世紀末頃の名古屋藩士・稲葉通邦宣長の弟子となった)とされる。

 『古事記』については、多氏が注目されることが多いが、多人長の日本紀の講義を聴いた島田清田大外記、伊賀守等を歴任し、官位は従五位下まで昇進)を始めとする、同族の島田氏にも留意される。この島田朝臣氏(もと臣姓で、清田のときに朝臣賜姓)では、六国史や『外記補任』には大外記・少外記等に任じたものが、平安中期まで多く見えるから、この系統に『古事記』関係資料は委ねられた可能性も考えてよいのかもしれない。清田の後でも、島田朝臣良臣が元慶二年(878)の日本紀講読に関与したことが『三代実録』に見えており、菅原道真の師でその舅の島田忠臣など、島田一族が学問に秀でたことは、各種史料に見える。島田臣氏は尾張国海部郡の島田郷に起ったが、同郷は、現在、愛知県の津島市北部ないし近辺の地に比定されており、その十キロほど東北に中島郡長岡庄の大須が位置する。
 『古事記』の序文は誰によって書かれ、どのような経緯で誰によって真福寺に伝えられたのか、不思議な成立経緯の書と感じざるをえない。以上の諸事情から、同書を多人長の撰とみる説には疑問を感じる

 
 弘仁私記とその序文の位置づけ

  『弘仁私記』の序文は、史上初めて『古事記』に言及・紹介した書である。その記事には、太安万侶が『日本書紀』編纂に参加したこともあり、これは他の書物に見られない情報である。この裏付けも含め信憑性は要チェックだが(大和岩雄・三浦佑之両氏とも、安万侶の『書紀』関与は信用できないと記す。私見も同意)、鳥越憲三郎氏はその著『古事記は偽書か』で、「弘仁私記序」については、「日本書紀の訓話の私記に何の必要があって、古事記作成の経緯を述べたのか、まことに不可解である」と書かれる。当該書は『日本書紀私記』の一つで最古のものであり(「養老私記」は時期が早すぎて、平安期の講書と同列には扱い難い。その後に承和、元慶、延喜、承平の私記がある)、弘仁三年(812)の多人長による講筵を基礎に成立したため『弘仁私記』と呼ばれる。

 この時の『日本書紀』の講書については、『日本後紀』弘仁三年六月戊子条に、「参議従四位下紀臣広浜、陰陽頭正五位下阿倍朝臣真勝等十余人読自本紀、散位従五位下多朝臣人長執講」と見える。私記序には弘仁四年に開講とあって、一年の矛盾がいわれるが、前年に指示があって四年に始講とか、三・四両年に講書がまたがるとかの解釈がなされる。
 『弘仁私記』の記事を様々に検討した志水正司氏は、その結論として、「要するに、弘仁私記は、弘仁三・四年の講筵よりやや遅れて、弘仁十四年(823)以後・承平六年(936)以前に、そしておそらくはその上限に近いころ、書紀講読の際の覚書乃至記録をもととし、また序文を附して編述されたものと考察される」とみている(『日本古代史の検証』、1994年刊)。この見解にはほぼ肯かれるが、その場合は、「弘仁私記序」は弘仁三年あるいは同四年という講筵の直後の成立ではないし、著者も多人長の関係者とされても、年代的に多人長自身ではまずありえないのではないかと思われる(また、人長の子孫は史料に伝えられず、その後の六国史に多一族本宗の者は見えず、叙爵者がない)。
 そこで、大和氏のように、弘仁講筵の聴講参加者であった島田清田による序作成を考えることになる。同序には、大春日朝臣穎雄や美努連清庭(後に、左大史正六位上などを経て外従五位下豊前介となる御野宿祢清庭のこと)の各々父親の名前が具体的に書かれるなど、六国史などに見えない続柄が記される事情もある。だから、弘仁講筵の遺された資料が「弘仁私記序」の基礎にあることは否定できない。ただ、それに何らかの追加資料があったかもしれないが、この辺は不明である(話を更に混乱させるかもしれないが、友田吉之助氏の著『日本書紀成立の研究 増補版』には、弘仁私記本文には現存の『書紀』本文に存在しない約八十個の語句・文章が列挙されると早くから知られていたと記しており、現存『書紀』自体でも、その成立後に記事に書換えがあることを示唆する。これは、『書紀』の固有名詞の表記でも、平城宮出土木簡から言えよう)。

 「弘仁私記序」と『古事記』序との関係については、共通して「有舍人。姓稗田、名阿禮、年廿八」という同じ表現が出てくることから、著者が同じという可能性がないでもない。その一方、古事記序が「正五位上勳五等太朝臣安萬侶」、弘仁序のほうが「従四位下勳五等太朝臣安麻呂」と異なっており(官職を書かない形は同様であって、こちらを重視すべきかもしれないが)、「弘仁私記序」が『古事記』序を見て、後に書かれたとするのが割合自然のようである。その意味で、先に『古事記』序を書いたのが多人長で、その時期を天長承和年間(824〜847)だと大和氏がみるわけでもある。
 この辺までは大和氏の見解にのるものでもあるが、両序文の内容・表記から考えると、多人長や島田清田が各々の原文となるものを書いたとしても、その後年に更にまた別人の手が加わったことも考えられる。それは、「姓は稗田」なる者の関与という記事にも違和感を覚える面もあるからである。太朝臣安萬侶の表記と平仄のとれない氏名の記事を同じ序のなかに書くとは思われ難い〔註1〕。この辺は、氏と苗字とが混在し始めたり、姓氏仮冒が多く現れる時期、おそらく平安中期頃以降のことではなかろうか。冗談めかして言えば、「姓は丹下、名は左膳」という名乗りの匂いをすら感じる。

〔註1〕西宮一民氏が、『続日本紀』文武四年(700)八月乙丑条に「姓は吉、名は宜」とある例、和銅四年(711)八月丙午条に「鴨部の姓を賜ふ」とある例から、姓をウヂ(氏)に用いた例があることを指摘し、矢嶋泉氏の『古事記の歴史意識』(2008年刊)もこの指摘を引用するが、これらは十分な反論にはならない。矢嶋氏自体が、古事記序の記事のなかに允恭天皇の氏姓の正定の事績として、「姓を正し氏を撰びて」とあることを認めており、これと明らかに矛盾する。
吉宜は後に吉田連を賜る百済系亡命者であり(もとは僧の恵俊で還俗させ、「姓吉。名宜」を賜わり務廣肆を授かってその才芸が用いられた。後に正五位下典薬頭まで昇進)、こうした倭地渡来後間もない氏にあってはただちにはカバネを持たなかった。『姓氏録』でも、例えば左京諸蕃の「王、高」とか右京諸蕃の「面氏、己氏、斯氏」、あるいは未定雑姓右京の「筆氏、古氏、呉氏」などの掲載がある。また、「鴨部」の例については部姓という捉え方もあり、『姓氏録』に右京諸蕃の「刑部」や山城諸蕃の「祝部」も見えて、「姓」を氏の替わりに表示したとは必ずしもいえない(和銅四年〔711〕八月に酒部君大田ら三人が庚寅年籍〔690年に造籍〕の例により「鴨部」を賜姓したというもの)。稗田阿禮などを含む稗田氏は純内国産民であり、しかも和風表現の記事が後に続く書の序文にあって、「漢語的な人名表示」だと強弁する不自然さを思うべきである。
ところで、実はこの辺は反論者側に調査不十分という問題があり、『書紀』の「姓」の用例を調べれば、@カバネの意味、A氏姓併せた意味、B氏として用いた例、が各々混在して記載される。具体的には、用明天皇紀二年条に中臣勝海連を殺害した彦人皇子の舍人迹見赤梼について、「迹見姓也。赤梼名也。」という割注があり(カバネの首は不記載)、これが稗田阿禮の例と類似するから、『古事記』序自体にはとくに問題がないことにもなるが、姓氏表示の不釣り合い感はやはり残る。
 
  『古事記』には、西田長男氏が平安初期の系譜とみる「大年神の系譜」や関係記事もあり(大年神は稲荷系ないし稲作の海神族系の神か。この神関係の同様な記事が『旧事本紀』地祇本紀にもあり、これを後世の混入とみる研究者はかなりいる。中世における卜部家の加筆か)、イザナギ神鎮座という淡の多賀社(「坐淡海多賀也」と記)も創祀年代は不詳であり、延喜以前の文献には見えないという指摘がある(真福寺本以外の諸本や『書紀』では「淡路」と記されており、誤記説もある。多賀社は天平神護二年〔766〕の時点で確認されるとの反駁もある)。これらの見方では、古事記の全文が古い記事というわけではなかった。
  『記』の神では、高天原に最初に出現した神とする「天之御中主神」から始まるが、この名の神は『姓氏録』に「天御中主神」という表記で二か所(天孫族系の少彦名神を祖神とする大和神別の服部連及び御手代首の記事)だけに見え、『古語拾遺』(大同二年〔807〕成立とされる)にも見えるものの、具体的な活動の形跡がない抽象神であって、『書紀』にも殆ど見えない(本文に記述はなく、一書の一つ〔第四〕にだけ見える)、異端ないし新しい神であった(北辰信仰や妙見信仰にも結びつく傾向があるから、これは山祇族系、ないし少彦名神系とか新羅系の神か)。『延喜式』神名帳を始め六国史にも、この神を奉祀の社名を伝えないことに留意される。
 宮地直一等編の『神道大辞典』は、この「哲学概念的な神は、民間の信仰と遊離していたため、長い間大した発展もしなかった」とまで言う。こうした神々の内容を、平安前期にあって人長が『古事記』の内容としてその記事のなかにすぐ取り入れたのだろうか。私には疑問に思われる。日枝・鴨・松尾社の神々が『古事記』にことさら登場する事情もあり、この辺は平安期の追加もありえよう。これら神々が『古事記』本文に取り入れられたのは、かなり遅い鎌倉期ごろなのかもしれない。
 『弘仁私記』の本文自体は、鎌倉期十三世紀末頃成立の『本朝書籍目録』に「弘仁四年私記」とあるから、それまでに成立していたが、その序文は最初から現在の内容で付いていたかどうかは分からない。すなわち、『古事記』の序文も、当初はどのように付いていたかは不明である。

 これらの意味で、『古事記』は序文も含め、現在のような形になったのは平安前期の九世紀だとみる大和岩雄氏や三浦氏の見解にそのまま従いえない。『姓氏録』が『書紀』を参照していることは記事本文に見えるが、『古事記』をまったく参照・引用していない事実や同書の保管場所がまったく不明な事実(『弘仁私記』に保管の記載がない)からみても、『姓氏録』成立当時の平安前期には、『古事記』が存在していなかったか、存在していたとしてもまだどこかに私蔵(隠蔵)されていたものではなかろうか。
 要は、その当時、『古事記』は公的な存在ではなかったということである。この事実一つ取り上げても、和銅五年成立という時期には大きな問題があることがわかる。

 
 『古事記』書写の経緯

  南北朝時代の応安四年(1371)から翌年にかけて、寺僧・賢瑜が『古事記』三巻を書写した真福寺本が現存する最古の写本とされる。しかし、それよりほぼ百年前の鎌倉時代中期、1260年代には公家や祭祀関係者たちによる同書の書写が行われたことが真福寺本奥書から分かる(花山院通雅による中巻書写がまずあり、大中臣定世〔当時は神祇権大副。後に従三位で伊勢神宮祭主、神祇大副〕及び卜部兼文〔当時は神祇権大副正四位上〕による書写が知られる)。それまでの期間、すなわち奈良時代から平安時代・鎌倉前期には全く知られていなかった『古事記』の存在が、和銅五年(712)から十三世紀前半までの空白の約550年を経て、神祇関係者のなかに突然顔を覗かせたことになる。
 南北朝期に賢瑜が書写したものは、上・下巻と中巻とが系統を異にする(大中臣定世による上・下巻及び卜部兼文による中巻の書写が真福寺本のもとだみられている)。そして、現存『古事記』の諸伝本は、真福寺本を含め伊勢本系統の諸本と、『弘仁私記』序を多く引用する『釈日本紀』の著者卜部懐賢(兼方。兼文の子)の家の卜部家本系統の諸本という二つの系統に大別される。これら伝来の諸本は、伊勢神宮など神祇関係者のもとに永く所蔵されていた模様である。多氏や鴨氏あるいは島田氏等、弘仁講筵の関係者の族裔など他系統が伝えた本は知られない。
 「弘仁私記序」があったらばこそ、現存の『古事記』が和銅五年成立の勅選書として公的に認知されたという見方を大和氏が示しており、私見でもこれに同意するものである。そうすると、『古事記』が注目された鎌倉中期において、『古事記』序文も「弘仁私記序」も併せて記事の最終的な調整がなされたのではなかろうか。

 
 大和岩雄氏などの古事記偽書論

 古事記偽書論(その反論に対する反駁も含めて)を精力的に展開してきたのが、ここまでも多く触れてきた大和岩雄氏である。それも、平成九年(1997)刊行の『増補改訂版 古事記成立考』でほぼまとまった形となっている。それでも、最近、三浦佑之氏の『古事記のひみつ』(2007年刊。同書も含む一連の著作で『古事記』序文の記述を疑い、古事記本文は七世紀後半には成立したが、序のほうは、本文ができて百数十年後の九世紀初頭になって、「上表文」の体裁をとって付けられた、とみる趣旨が記述される)に鼓舞されて改めて整理されたのが、平成二一年(2009)に刊行された『新版 古事記成立考』である。その巻末に古事記偽書論者の一覧総括がなされるが、現在では偽書論で孤軍奮闘されているのが、上記の三浦氏と大和氏くらいだと整理される。三浦氏のほうでも、こうした認識は同様である。
 ただ、国文学分野の学究関係に限らないのなら、例えば歴史作家とされる関裕二氏が著『古事記 逆説の暗号』(2008年刊)の始まりのほう第一章で、大和氏所説に理解を示し、これらなどを踏まえた偽書論を分かり易く展開する。真書論を強引で粗雑な論理、体制側にいるものの傲慢だと厳しく批判している(同書の後ろのほうの部分は想像論が多く、誤記もいくつかあって、偽書論以外の所説は総じて疑問大なのではあるが)。
 また、モンゴル史の専門家で世界史・アジア史にも広く発言される岡田英弘氏は、『倭国の時代』(1976年刊)を書いて、その第六章「『古事記』と『三国史記』の価値」で『古事記』偽書説を明確に展開される。実のところ、彼の議論には総じて津田博士ばりに視野偏狭な独断や切り捨て論がかなり多いのだが、それでも、その偽書説には私見と通じるものがある。岡田氏は、朝鮮半島の『三国史記』と対比して、両書とも遥か後世にできたもので、古くからあったもっと確実な材料を勝手に改竄したものであり、その目的が編著者の家柄を持ち上げるためで、古代史の資料として信用度が極めて低いと評価する。とくに古事記序には数々の怪しむべき点があるとし(これら諸点には肯けるものがかなりある。『弘仁私記』序についても同様)、『古事記』自体が平安時代初期の偽作だとする(私見では、偽書説に立ったうえでの岡田氏の見解には同意しない点も多く、多人長を含む多氏だけが過剰に良い評価で家の権威づけがなされているとは思われない。現伝古事記の内容が九世紀になってイチから書かれたとは到底思われないということでもある)。
 こうした諸事情もあるのだから、大和氏や三浦氏は、学究といえども歴史知識や論理的考察能力が総じて低そうな国文学界だけを相手にすることはないのではないかと思われる。
 
 ところで、本稿は、大和氏の諸著作などをおおいに参考にさせていただき、その趣旨にかなり賛同する面をもつものであるが、それでも結論を含むいくつかの点には物足りなさと批判をもっている。
 その一つが、現伝の『古事記』、とくにその序文について、成立や所伝・書写の経緯を中世の南北朝期まで展望を大きく拡げて、神祇・祭祀関係者に十分な視点を当てて検討すべきではないかということである。すなわち、本文及び序文は、平安前期に一応できたとしても、その後も鎌倉中期までにいくつか改変・添削があった可能性があるのではなかろうか(書写の過程での変化は考え得ることである)。だから、稗田阿禮の記事が何時の時点で同書や『弘仁私記』の序に入ったのかという点も、不明だと言わざるをえない。

 もう一つが、古代の姓氏や神統譜・祖神についての大和氏の理解・認識に疑問があるということである。
 先に猿女公についてあげたが、多氏一族の茨田連氏についても、大和氏の見方は疑問がある。『姓氏録』で多朝臣同祖とされる茨田連や豊島連は、垂仁・景行朝頃の多臣の祖・武諸木命(景行西征に随行したと景行十二年紀に見える)の兄弟とされる武多伎利命から出ており(『皇胤志』など)、まさに多氏同祖であった。
 大和氏は、吉井巌氏の見方などを踏まえて、「茨田連をオホ氏系譜からはずすために、日子八井命は作られたと考える」が、もともと「日子八井命」は茨田連の祖先として『古事記』や『姓氏録』に伝えられた名前で、神八井耳命の子に充てられる者の通称(その子にもおかれる武宇都彦命と同一人の別称であって、武諸木命の四代祖)であった。茨田連の系譜が、現実には異なる系譜が仮冒により多臣の系譜に附合されたわけではなかった(後世に作られたものではない)ということである。大和の多神社の西方近隣には「万田(現在は満田と表記)」の地名もある。
 茨田連氏は、大和氏の言う「オホ氏系ではない百済系渡来人」では決してなかった。『姓氏録』には河内諸蕃に茨田勝があげられ、「呉国王孫皓の後、意富加牟枳君の後なり」と見えるが、これが後に茨田連氏になったわけではない(太田亮博士も、無尸の茨田氏は「茨田連の族人ならん」とみる。茨田氏後裔は、平安期に朝廷六衛府の武官で見えるが、この官職には渡来系氏族の後裔が殆どついていない事情もある)。奈良県の多神社の祠官を永く世襲して現在も多氏が残っており、同家には上古からの系図を伝える模様なのだが、これまで公開されたことがない。多一族の歴代・支流諸氏などの解明のためにも、同家系図の公開が是非望まれるものである。

 なお、九世紀代から見える楽家の多氏(多臣自然麻呂を祖とする支流)は、祖系もその居住地も不明で、この役割を参考にできない。多氏の系図で最も詳細な「異本阿蘇氏系図」には、楽家多氏へつながるものが見えない。大歌所の多氏についても、具体的な系図は知られず、十一世紀初頭には見えなくなるから、この過大評価も無理ではなかろうか。
 弘仁私記序の記事では『姓氏録』の記事に対して不満がある、という大和氏や鳥越憲三郎氏の理解・認識は一応、分からないわけでもないが〔註2〕、その原因が「オホ氏同祖系譜」かどうかは不明である。『古事記』の多氏同族の記事が詳しいけれど、これが万全だとも言い難い点がある(具体的には、神八井耳命後裔のなかで坂合部連や雀部臣・雀部造の系譜などに取扱いの疑問ないし留意点があり、火君など九州諸国造の系譜は後世の附合)。私見では、『古事記』が『姓氏録』より優れている系譜記事の個所はあまり見出せないでいる(吉備氏部分は優れるものか。ただ、『古事記』が掲載する氏は畿内に限らないため『姓氏録』不記載の地方本貫の氏もかなり多くあるが、これは両書の性格、記載対象のの差異にすぎない。梅沢伊勢三氏の数え方では、『古事記』所載の氏族総数が二百一氏、『書紀』では百八氏とされるが、氏の数の問題ではない)。
 『古事記』所載の系図には、開化段の神功皇后系譜『書紀』のほうが史実に近い)のように、異世代婚叔父・姪型、姨・甥型)も含め近親婚が異常なほど頻繁な欽明朝以降の通婚を反映して作られたとみられる信頼性のきわめて低いものもある(当該神功皇后系譜は、『古事記』所載の系譜のなかで最悪の偽造系図と評価されよう)。これが、推古朝という時点において作られたとは、到底思われない。内容からすると、天智・天武〜文武朝あたりにしか作成が考え難い(こうした近親婚が少なくなる平安朝初期の作成もまず考えられない)。一方、景行段の息長田別王の系譜は古い所伝をもつ貴重なもので、こちらは七世紀後葉になって作成できるはずがない。『古事記』には、こうした様々な古系譜が混在して記載されている。

〔註2〕志水正司氏は、私記序が『姓氏録』を排斥しているとされる直接的証例は強弁であり、中沢見明のいう、私記序は古事記に加担して『書紀』を排したり、『姓氏録』を斥けたりするようなものではないとする。私記序が誤謬の書として排斥するのは「新撰姓氏目録」であって、『姓氏録』自体を非難したものではないという立場である。私見でも、志水見解のほうが妥当だとみる。
 

三浦佑之氏などの古事記序偽書論

 三浦氏が『古事記のひみつ』など一連の著作で強調される要点は、「天武朝に二つの史書編纂事業が存在することの矛盾」(しかも、「まったく性格の異なる二つの史書編纂事業を同時に行おうとしていた」)である。これは、まったく御指摘のとおりであり、三浦氏はこの大きな矛盾がある故に、そして、古事記序の内容紹介と本文記事との間に大きな齟齬がある故に、各々の執筆者が別人だとみて、その場合、古事記序のほうが疑わしいとみるわけである(三浦氏が、本文記事には存在を危うくさせるような疑惑がないとすることも、私には疑問である。同書の本文でも、追補・変更の可能性があることをここまでにいくつかの例で記してきた)。かつ、『古事記』の記事内容からは、「反律令的、反国家的」な性格の書だと三浦氏がみている。
これらの見方には、私見としても肯くことが総じて多い。『書紀』で殆ど取り上げない大己貴神・大国主神一族、これらは高天原や大和王権から討伐の対象となった勢力であるが、この辺を『古事記』で多くのスペースで取り上げることが無視できないということでもある。この一族(海神族系諸氏)の流れが、『古事記』の編纂・保存に関与した可能性も考えられる。ちなみに、蘇我氏が『古事記』の編纂・改補などに関与したとみる説もあるが、この氏の系譜原態は、天孫氏族の息長氏支流の出とみられ、海神族や大己貴命一族とは関係が無い。その先祖を『古事記』で武内宿祢に架上するだけだから、蘇我氏の役割の過剰評価はし難い。

 こうした『書紀』と『古事記』の性格の違いは、関氏の上掲書も別見地から指摘するところであって、『書紀』を親百済の色彩、『古事記』を親新羅の色彩があると評価する。
 しかし、天御中主神に新羅的な色彩を感じることは先に記したものの、多氏が「親新羅」と言えるのだろうか。系図記事で確認できるわけではないが(「大倭神社注進状」は偽書の疑いが濃いので、これに記事があるものの、そのまま信頼はできないが)、多品治の父とも伝える多蒋敷は、その妹を百済王子の豊璋の妻としたことが『書紀』斉明七年(661)条に見える事情もある。出雲の大国主神一族だって、親新羅とはまったく無関係である。だから、『古事記』の色彩については複雑であって、決めつけない方がよかろう。
  『古事記』が七、八世紀の律令国家体制の志向とは異なるくらいしか私には言えないが、本格的な国家事業として編纂された『書紀』との志向や編纂方針が明らかに異なることは誰しも認められよう。真書説からでも、『書紀』が対外的な、新時代に向かう歴史書で、『古事記』が過去・内側に向けられたものだという言い方がなされる(この点について、『古事記』は『書紀』と異なる外交方針が打ち出しているのだから、単純な内向きの文書ではないという関氏の見方にほぼ同意する)。工藤隆氏は、『古事記』が「時代に遅れた書物」「現代政治に密着した書物とは逆方向のもの」だという評価もする(『古事記誕生』)。一方、「律令政府に否定された古事記」という見方をとりつつ、これは「決して時代に逆行する後ろ向きの史書ではない」とするのが金井清一氏である(『東アジアの古代文化』最終号、2009年137号)。しかし、その理由が、「古事記の編纂発起者が当代の国際的近代国家建設を強力に推し進めた天武天皇であるという一事を以てしても明らかだろう」というのでは、あまりに強引すぎて、論拠にはなりえない(まして、律令制国家としての国際的信用にかかわるから、古事記の成立は正史に無視されたのだという金井氏の推測にいたっては、唖然とする以外の反応をとりえない。こうした前向き、後ろ向きの議論もあまり意味あるものとは思えず、要は立場・志向が異なるだけである)。
 ともあれ、こうした複雑な性格をもつ『古事記』が律令国家制度や『書紀』と相反する書物であることは、真書説・偽書説の双方から認めざるをえないようである。そうすると『古事記』を、勅撰とするのは極めておかしなことだし、女性とか後宮の文学だというのとも、話が異なる。この辺の論理矛盾を曖昧にしてはならないのである(論理的に考えると、『書紀』編纂の主体とは主体が違うか、あるいは編纂された時代が違う〔ないしその両方の違い〕、というのが自然な帰結であろう)。


一応の総括

  ここまで記してきたように、稗田阿禮の実在を裏付ける徴証はまったくないし、新資料が今後、出るとも思われない(真書説からの反駁は具体的な実在裏付けがなく、そもそも、これまででも論理的な反駁にはまったくなっていない。繰り返すが、平城宮跡発掘調査の進展でも、今後の新資料現出がまず期待できない)。
 だから、『古事記』研究に関して総括して言えば、大和氏は、「稗田阿礼という人物は実在しないのだから、当時の正史にまったく登場しないのは当然である。このまぎれもない事実を無視し、『古事記』序文の和銅五年に固執していたのでは、真の「古事記」研究はできない」と指摘する。こうした見方(『古事記』の和銅五年撰上はなかったし、同書は勅撰でもない)には、私見もまったく賛意を表するものである。
 信仰や信心が研究の基礎にあっては、冷静な古事記の研究ができないことは言うまでもない(宣長や津田博士が生涯かけて古代研究に尽力したとしても、だからといって、その結論がすべて正しいわけではない。この辺を取り違えてはならない)。あくまでも、論理的科学的な総合的歴史検討が現時点で必要だということである。

 人によっては、偽書説でも真書説でも、「どちらも、そう考えればそうともいえるという程度の水準のものだということになる」(工藤隆氏『古事記誕生』、2012年刊)という表現もあり、「奈良時代初頭の七一二年か、あるいは平安時代初頭の八一三年ごろかといった程度の違い」(同上書)ともいうが、稗田阿禮実在性の問題は、こうしたいい加減な認識を打破するものである。この成立時期の差異が『記・紀』記事の造作性(造作主体や記事内容にも当然関わる)にも大きく関わるのは当然である。研究者がこうした曖昧な記述をすること自体が、その研究姿勢を疑わせるし、結論的な記事も同様である。
 矢嶋泉氏は、「『古事記』偽書説はまちがいなく難攻不落の歴史上最強の説だという感慨」をもちつつ、その「核心部分は論理性に支えられているわけではないから、その確信を覆すことはほとんど絶望的である」と評価する(上掲書)。しかし、偽書説が正説だから難攻不落なのであって、稗田阿禮の非実在という点では明確に論理に基づくものである。この辺を誤解してはならない。真書説には決定的な証拠はないが、偽書説にはそれがある

 文献学の「古事記序文の偽書説」と考古学の「三角縁神獣鏡倭鏡説」は、これまでに多く示されてきた文献史料や考古遺物から言う限り、具体的な根拠に基づく明白歴然たるものだと論理的に考えられる。
 それでも、関係学界・学会の大勢がこれらを未だ受け入れていないことは、各々の分野での頑迷固陋な体質と科学的論理的に物事を取り扱うことに対する抵抗感・拒否反応を示していると思われる。三角縁神獣鏡の偽銘文といい、国宝指定の『海部氏系図』といい(この系図所載の者たちについては、実在性の裏付けがあるのは皆無だという大きな疑問がある)、歴史分野の中には偽文書が随分多く溢れてあり(これは中世・近世に限らない)、これら資料の真贋・性格を的確に見分けてこそ、科学的な上古史研究がスタートするものといえよう。ただ、『古事記』が偽撰書でも史料価値がないということでは決してないし、偽撰と判断されて価値を著しく落としたとされる『旧事本紀』も含めて、記事の個別内容から十分な吟味をしていく必要もある。古代史における貴重な史料を、安易に切り捨ててはならないということである。

 古事記序文の検討について深みにはまっていくと、『古事記』本体の研究にも当然つながっていって、記事に際限がなくなるから、一応この辺で本稿を終えておき、気のついた重要な点が出てくれば、今後は適宜、追補することといたしたい。

  (2015.12.20掲上。2017.7.07若干追補、2020.11.08や2021.03などにも増補)
 
 

<追補> 稗田阿禮の不審性

 年齢の不審:『古事記』序に見える稗田阿禮の記事には、具体的な人間として考える時に、姓氏・官職以外にも大きな問題点がある。それは、その年齢の問題でもある。
 序の記事に拠ると、『古事記』の基となる帝紀・旧辞を誦習した時の阿禮の年齢が28歳(「年是廿八」と記す)とあるが、これが具体的に何時かは不明だが、これを命じた天武天皇が朱鳥元年(西暦686)九月に崩御したから、この時点で28歳超となっていた。それが、天武崩御後25年経った元明天皇のときの和銅四年(西暦711)九月十八日の勅により、太安万呂が阿禮の誦習を聴き始めて、筆録(文書化)につとめ、その四か月後の翌和銅五年正月二十八日に『古事記』をとりまとめて天皇へ献上したと記される。
 そうすると、西暦711年の時点で既に阿禮は53歳超の年齢となっており、しかも25年以上の前に覚えた『古事記』の基となる記事をそのまま全て記憶していて、これを誦で再現したことになる。奈良時代初期当時の53歳超なら、通常人は引退か死去、老衰の時期だから、上記の活動は、阿禮がよほどの超人でもない限り、まず無理な活動だったと言えよう。
 
 系譜の不審:『斎部氏家牒』に拠ると、阿禮は宇治土公の庶流であり天鈿女命の末葉である、と記される。ところで、宇治土公は伊勢国度会郡宇治に在ったが、天鈿女命・猿田彦命夫妻の後裔の和珥氏族ではなく、すなわち猿田彦命こと穂高見命の子孫ではなく、穂高見命の叔父の味高彦根命の後裔の三輪氏族支流の出(久斯気主命の後で、石辺公と同族)だと系譜に見える。そして、宇治土公氏は伊勢に住み、この氏から大和などの地域には支族分出は伝えられない。大和の稗田氏の系譜はまったく知られない。
 そもそも、『斎部氏家牒』なる書は、偽書の疑いが濃厚な『大倭神社註進状』の裏書に見えており、しかも、後世の偽造とみられる不審な系譜記事がほかにも多く見え、『斎部宿祢本系帳』などの記事とは符合しない。このことは、既に本文でも記した。

  (2021.03.14追補) 

         
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