稗田阿禮の実在性と古事記序文  1

   

    稗田阿禮の実在性と古事記序文
                     

                                     宝賀  寿男


  太安万侶墓誌の出現とともに論争が消えたともいわれる『古事記』序文の偽書問題について、大和岩雄氏や三浦佑之氏などの最近の論述などを踏まえつつも、別途の視点からの検討をこころみるものである。その契機の一つに、平城宮跡出土木簡について気づいた事情もある。
  この問題は、国文学の問題ではなく、歴史学の問題として、水掛け論で終わってはならないと考える。偽書論と真書論(正書論)のどちらが論理的に妥当なのかを、宣長等の権威を排して冷静に論ずる必要性をまず記しておきたい。

 
 はじめに
 
  私はかつて、『東アジアの古代文化』誌に「猿女君の意義─稗田阿禮の周辺」という論考を三回にわたり掲載して(一〇六〜一〇八号。二〇〇〇年冬〜二〇〇一年夏)、『古事記』序文についての位置づけを論じたことがあった。その基本趣旨は、賀茂真淵が提起したと同様に、当該序文への疑義が主たるものであり、その意味で古事記偽書説に通じるものでもある。この論考において、「猿女君とは異なり、稗田氏については存在を認めるほうが合理的である。稗田阿禮の存在も疑問大であるものの、明確には否定し難いこともある。」と結論的に書いたことがある(一〇八号に掲載の(下))。つまり、論旨のなかには、「猿女君」とは姓氏ではなく、その役割を演じ職掌をつとめる女性を尊称的に「君」と言ったに過ぎないということもあった(こんな基本認識すら、『古事記』成立論を論じる学究たちにないのは遺憾と言わざるをえない。猿女公の姓氏を名乗る者は、史料にいっさい見えない)。「猿女公氏」という記事が太政官符にあっても、「猿女君を出す氏」の意味にすぎない。ただ、『古事記』は序文や成立経緯に難があっても、本文記事の内容の古さは高く評価するものでもある。
 誰が読んでも、『古事記』の本文と序文とはそぐわないものがある。これは、早く江戸中期以降に多田義俊『日本神代記』や賀茂真淵、沼田順義などが指摘する。序文の著述者が太安万侶ではなく、別人が後世に作文したものであるならば、『古事記』の成立年代・編纂者などを含め成立史が大きく変化してくることにもなるのは当然である。宣長が最古至高の歴史書的な存在に高めたものだから、同書をまだ盲信する研究者が多く、これまで、総じて言えば、古事記偽書説への否定論や反駁の根拠も論理的に甘いものが多かった。それが、太安万侶墓誌の発見と共にますます高じてきて、古事記偽書説がほぼ雲散霧消してしまうような錯覚の論調が多くなり、粗雑な脇の甘い論理の展開が更に多くなった(この辺は、纏向遺跡と邪馬台国畿内説との関係に類似する)。大和岩雄氏や三浦佑之氏が言うように、太安万侶の存在が疑われてきたのではなく、彼が『古事記』を編纂したことが疑われてきたのだから、古事記編纂になんら言及のない当該墓誌では、それが出ようと出まいと、古事記の存在証明にかかる疑惑については、殆ど変化がないということである。この辺の論理の混同・粗雑さは、学問的に困ったものであると感じざるを得ない。

 それでも、『古事記』の本文記事の内容を評価するという見方のもとで、序文偽作説を唱える研究者はまだ根強くある。その後にあっても、大和岩雄氏や三浦佑之氏などが健筆を揮われている。両氏の序文疑問説の論拠は力点が違うが、ほぼ共通していて、そのなかでは、「稗田阿禮が疑わしい」という、中沢見明が初めて指摘して以来の問題点がいまだ厳然と残る。真書説(正書説)の立場のほうでも、偽書説の立場でも、これが重要な問題点だという認識はあると思われる。三浦氏が西條勉氏の著『古事記の文字法』(一九九八年刊)のなかの第四章「偽書説後の上表文」をとりあげ、偽書説の論拠十点のなかに稗田阿禮の問題点もいれる。この辺を古事記学会で講演しており、その近著『古事記を読みなおす』(二〇一〇年刊)のなかでも、同論拠五点のなかに当該問題点を入れている(稗田阿禮以外にも重要な問題点が偽書関係でいくつかあるが、問題論点をしぼる意味でここでは殆ど言及しない。また、学説史を書くつもりでもないから、学説・見解の主張者をイチイチあげない)。
 三浦氏が、西條勉氏は偽書説の論拠に対してことごとく反駁したと表現するから、稗田阿禮実在性の疑問について、どのような的確な反論がなされたのかと思って西條氏の著作を見たところ、これについては「水掛け論」と言っているだけである。率直に言って、私は唖然としてしまった。これが真書説としての反論になりうるのだろうか。普通に受けとめたら、阿禮の実在性の立証がまったくできないでいて、そのための「遁辞」にすぎないことは明らかである。
 それでも、三浦氏が別の観点(後述)から偽書論をしていることで、「水掛け論」という論議に何故か納得してしまっているのか、上記書『読みなおす』のなかでも、再び取り上げ、稗田阿禮への疑惑を含めた「疑惑は「序」を疑う者と信じる者とのあいだで水掛け論になるだけで、どちらの立場にとっても決定的な理由にならないのではないかと思います。」と記している(二七六、二七七頁の記事)。三浦氏は、稗田阿禮の実在証明が困難な人物であることを認めつつも、判断する材料をもたないとして、この議論に介入する気はないとする(『古事記のひみつ』一一〇頁)。
 私は、両氏の認識・論理に対してまったく呆れてしまい、こんな姿勢では歴史学的な研究・論争にならないと強く感じたところである。三浦氏も西條勉氏も歴史学者ではないから、そうした認識を持ちにくいのかもしれないが、こと稗田阿禮の実在性に関しては文学論争では決してない。稗田阿禮の人物像が不明であるということ以前に、その実在性自体が問題だということであり、この辺を曖昧にしてはならない。

 稗田阿禮の実在・非実在はきわめて歴史的な問題であり、かつ、序文偽作説において決定的な役割を果たすものでもある(もっとも、実在したからといって、直ちに『古事記』編纂に関与したことの証明にはならないが)。こうした認識を、なぜ三浦氏は持てないのだろうか。大和氏も、「稗田阿礼の実在を証明することこそ、偽書説を否定するきめ手である。ところが、誰一人として、客観的資料で、実在を証明した人はいない。」と明確に指摘する『『古事記』偽書説は成り立たないか』)。これは、一九七九年の新聞掲載記事及び一九八八年の刊行本で言われるものだが、それから三十年ほど過ぎても、事態はまったく変わっていない。
 
 前書きが少し長くなってしまったが、稗田阿禮と序文の問題を、いい加減な遁辞を使わないで、改めてきちんと向き合って取り上げたいと考えて本稿を書いた次第である(だから、ギリギリと論理的に検討・追求する記事にしているつもりである。そのため、表現が多少きつく面もあるが、読者のご寛恕を乞うものでもある)。基本的には、上掲の拙論考を基本に、その後の学界の動きや検討を踏まえた拙論考のアフターケアという意味合いももつことを最初に言っておきたい。

 
 稗田阿禮の実在性の問題

 一般論的には、実在性を立証するほうが、非実在性を立証するほうよりも容易いのではなかろうか。史料のすくない上古の時代については、そうではない場合もあるかもしれないが、それでも信頼性の高い文書史料により実在性が立証されることのほうが多いのではなかろうか、ということである。
 さて、稗田阿禮の名が、氏が「稗田」で名が「阿禮」(真福寺本には「阿礼」と表記)だとしたら、七世紀後半を生きた時代の「舎人」として、そのカバネ()がどうだったのかという問題が当然ある。西暦六七〇年施行の庚午年籍や、その廿年後の庚寅年籍に記載がある畿内の人々にあっては、僅かな割合の奴婢を除き、皆が「カバネ付きの氏」を持っていた。だから、阿禮のカバネが不記載なだけで、この者の非実在性の問題に即、つながる。
 本件問題については、阿禮が非実在の者だったか、阿禮のカバネを序文の作者が知らなかったということになる。稗田阿禮と太朝臣安万侶とが現実に古事記の編纂で接触していたのなら、安万侶が阿禮のカバネを知らないことはありえないし、自らは序文のおわりに「正五位上勳五等 太朝臣安萬侶」ときちんと書いている(もっとも安萬侶の官職抜きの表現はこれまでも問題にされてきた。カバネの軽重は当該氏にとって重要な問題であったから、書き落とすことも考え難い。この辺までの同様な指摘は、先に藪田嘉一郎氏も行っている)。だから、阿禮が現実に舎人として生きた人物であるのなら、序文におけるカバネの欠落は、阿禮を知らない人物が古事記序文を書いたことを意味する。
 カバネのない者(庶民以下の者)が王族や上級官人の傍近くに仕え、その命を受けて重要な役割を果たせるわけはない。これが基本認識だから、天武天皇が「舎人」(序文の表現)に阿禮を登用することはないし、ましてやその個人の能力を具体的に把握・評価して、天皇自ら直接に命じて、重要な倭国の上古からの歴史(帝紀と旧辞)を誦唱させるようなことはありえない。だから、阿禮が実在の人物であったのなら、必ずやカバネをもっていたことになる。阿禮にどのような学問の素養があって、それがどのような環境で鍛えられたというのだろうか。渡来系の人物なら家に伝わる専門的な学問技術があろうが、阿禮には様々な意味で純国産の人だという匂いしかない。「姓稗田、名阿禮」と言う書き方は「漢文」での名前表記のやり方であるから構わないという見解もあるようだが、カバネのある日本においてこうした書き方はそもそもそぐわない(ただし、誤りとはいえないことは後述)。いったい、日本の重要文献の編纂関係者でこうした氏名表示をしているものが他にあるのだろうか。公的な場に提出される文書としての形式を備えていないと言えよう。

 だいたい、日本列島に文字や筆記具が既にできていて使われ、文筆関係の専門家(東文氏、西文氏などの主に渡来系氏族が担当)がいた時代に、いくら個人の暗誦能力が優れていたとしても、専門とは関係のない特定個人に倭国の重要な歴史を暗誦させるはずがない。阿禮の誦唱した基が既に文書化されていたら、その書をそのまま伝えればよいだけである(『書紀』天武天皇十年〔六八一〕三月丙戌条に、天皇は川嶋皇子ら十二名〔うち皇子・諸王が六名〕に命じて、帝紀及上古諸事を記定せしめ、中臣連大嶋・平群臣子首が親ら執筆して録したと見える。この『書紀』の記事は、『古事記』成立まで「天武天皇即位以来修史のことなし」という弘仁私記序の記事と矛盾するし、このメンバーには多氏一族は見えない)。古事記序には、大陸渡来の漢字を用いて古い日本語を書き表すことの困難さも語られるが、この辺の基礎技術は既に七世紀のうちに開発済であった(犬飼隆氏の「文字から見た古事記」)のだから、これも疑問が大きい記事である。
 なぜ、「誦唱」という過程が必要であったのだろうか。この辺の現実離れをした記事内容自体が、古事記序文を疑わせる。そもそも、その暗誦の前提ともなる阿禮に覚え込ませる歴史書(帝王日継と先代旧辞)の内容は、何時に誰がいったい編纂したものだろうか。推古朝あたりにできた原文があったとしても、史実の「削偽定実」という作業は、十分優秀な専門学識があったとは思われない下級官人クラスの稗田阿禮ごときが到底なしうるものではなかった。太安万侶でも、一人では短期間で極めて無理な作業ではあるまいか(天武天皇でもまったく同様。多氏に古事記原典が伝わっていたとするのも、内容的に疑問が大きい)。こうした基本前提すら、古事記真書説派の研究者は誰一人、的確な説明をしてきていない。
 そして、稗田阿禮の実在性を示唆する資料は、『古事記』序文及び『弘仁私記』序文(以下、「弘仁私記序」と表記)のほかには、これまで一切見つかっていない。後者にはほかも疑わしい内容の記事(多人長・島田清田など講書参加者の当時の位官など)がかなり多くあり、実在性の具体的な裏付けができない者は、基本的に否定されるか疑われるのは歴史学として当然であり、その場合に人物実在性の立証責任は真書説を唱える人々にあることは言うまでもない。なにがいったい、「水掛け論」なのだろうか。

 
 稗田氏の実在性についてのこれまでの議論

 ここで、阿禮に限らず、それを含む稗田氏という氏をまず考えてみよう。

 上古から平安時代前期までの期間(一応、九世紀末までを平安前期としておく)を見ると、これまで「稗田氏」という氏は、具体的に史料にいっさい現れてこなかった。それは、古事記真書説派からもいっさい具体的な存在立証はなかったが、平安前期に成立の畿内有力氏族を網羅したはずの『新撰姓氏録』にまず掲載がない(中世の「姓名録抄」にも掲載がない。猿女公も同様でいずれにも不記載)。『古事記』本文でも、『日本書紀』を含む正史六書でも、稗田を名乗る者はまったく登場しない。正倉院文書を含む『寧楽遺文』『平安遺文』や『大日本古文書』などを含む奈良時代・平安時代を通じる東大史料編纂所の膨大なデータベースにあっても(槙野廣造氏編の平安中期の史料に見える人名を網羅する労作『平安人名辞典』でも同様)、そうした者は皆無である。こうしたデータベースの蓄積が宣長の時代になかったのは勿論である。下級官人を出す氏としての網にも、稗田阿禮関係はまるで引っかからないのだから、稗田阿禮はおろか、その先祖・後裔を含む稗田氏自体の実在性ですら、これまで確実な立証はなかった。

 ただ、七世紀代に稗田氏の実在を示唆する史料は、これまで二つあげられていた。その一つが、奈良時代末期の光仁天皇の子女が、乳母など関係ありそうな氏族の名をつけた形で命名されており、それは山部親王こと桓武天皇にかぎらない。すなわち、皇后の井上内親王所生の酒人内親王・他戸親王、皇太夫人の高野朝臣新笠所生の能登内親王・山部親王(桓武)・早良親王、宮人の尾張女王所生の田親王、同・県主島姫所生の弥努摩内親王(水間君に由来か)、のすべて(女嬬の県犬養宿祢勇耳所生の広根朝臣諸勝の「広根」は賜姓氏なので除外)を通じての基本原則だった。いずれも当時の中・下位の弱小氏族ではあるが、「?田」を名乗る氏があったとみるのが妥当と思われた。ちなみに、皇太子他戸親王が廃され、新たな皇太子を選定する際、藤原浜成は長子山部の母が百済渡来系氏族の出身であることを問題視し、山部の異母弟で母が皇族出身の第三皇子田親王を推挙したとされる(『水鏡』)。
 もう一つが平安中期の書、十世紀後半の左大臣源高明撰述による有職故実・儀式書『西宮記』臨時一の裏書のなかに、延喜廿年(九二〇)十月十四日付で猿女の「田海子」の死闕により、交替に「田福貞子」を貢上した(猿女補任の例)との記事があることである。しかし、『西宮記』自体が何度か増補・校訂、加筆・整理がなされており、誰がどのような根拠で書き入れた裏書なのかの説明はまるでないから、どこまで信頼できる内容かどうかは不明である。ちなみに、弘仁四年(八一三)十月廿八日付の太政官符には、「猿女公之女一人」という記事があるが、これは猿女という職掌の記述だから、稗田氏の記事ではない(稗田氏は実在したとしても、その場合は「猿女公」という職掌につく者を出す氏のなかの一つだから、「猿女公氏=稗田氏」ではないことにも留意)。

 十世紀はじめの『延喜式』神名帳には、添上郡式内社として売太(めた)神社があげられ、これが大和郡山市稗田町に鎮座し、稗田の地が古来からの要地で、しかも環濠集落でもあるから、この地に古代氏族の稗田氏があっても不思議ではないという事情もある。壬申の乱の際には、将軍大伴吹負が飛鳥から奈良に向かう途中、稗田に至ったことが『書紀』(天武元年七月条)に記される。現在の稗田町南半を中心とした地域には、奈良時代に関わる複合遺跡、稗田遺跡があり、祭祀に関わる斎串・絵馬などの遺物が多数検出された事情もある。この地で祭祀に関与したのが、稗田氏かともみられる。『大同類聚神遺方』には、大和国添上郡売田主之家に伝わる薬として佐野辺薬を記載するが、「売田主の家」とは売太神社神官の稗田氏のことでもあろう。佐野辺薬を猿女薬の転訛とみる説もある。
 これらの諸事情から、確たる人物は見えないものの、稗田氏という氏自体は存在して不思議がないと思われた。ちなみに、その場合、「姓稗田、名阿礼、年廿八(天鈿女命之後也)」との「弘仁私記序」(「天鈿女命之後也」が古事記序にはない)の記述を尊重すれば、天鈿女命と猿田彦命の流れを汲む和珥氏族(和珥臣などの一族で、実際には孝安天皇後裔ではなく、本来は地祇)の庶流とする位置づけが添上郡の居住地にふさわしい。ちなみに繰り返すが、「猿女君」とは、職掌たる猿女の敬称的表現にすぎず、古代の「氏」ではないこの辺も、学究などに随分勘違いされている)。
 稗田氏が実在しても、ただちに稗田阿禮の実在性の証明にはならない。この者の名が見えるのは『古事記』序及び「弘仁私記序」(弘仁四年〔八一三〕成立説もある)だけである。弘仁私記における古事記偏重の記事から見て、その「序なるものは古事記と古事記の編者を推奨するために作られた」という中沢見明氏の指摘に肯けるものがある。文書作成の契機には十分考慮する必要があり、太安万侶の子孫に人長があたるとみる見方は、いずれにせよ、多くの人が認めている(活動年代等から考えて、人長は曾孫世代か)。

 「弘仁私記序」のなかで、稗田阿禮を天鈿女命の後と記すのも、疑問が大きい。何故、稗田阿禮について男の祖神が記されなかったのだろうか(「阿禮は宇治土公の庶流、天鈿女命の末葉なり」という記述で著名な『斎部氏家牒』は、偽書の疑いが濃い「大倭社注進状」の裏書にあり、内容的にも疑問な箇所の一環のなかに記される)。弘仁六年(八一五)の『新撰姓氏録』撰定の後にあまり遅れずに「弘仁私記序」が記されたとしたら(序の「冷然聖主」という表現からは、嵯峨天皇が退位した弘仁十四年〔八二三〕四月中旬以降の成立とみられるが、弘仁十年成立説が多い。「新撰姓氏目録」という表記も当該私記序に見えるが、これも『新撰姓氏録』そのものを指すとの見方が多いが、留保を要する〔後述〕)、疑問が大きい表現といわざるをえない。
 こちらの私記序が、例えば『西宮記』裏書の関係部分のような資料を見て、書かれたという可能性も考えられる。「弘仁私記序」自体について、偽書という説も出されている。すなわち、同序は『古事記』『旧事本紀』と連絡ある仮託の序で、『弘仁私記』の作者(多人長かその学問に近い関係者が原文を書いたか)とは別の作者も考えられている。私記序の成立は『姓氏録』以降、おそらくは天長承和(八二四〜四八)の際に出来たものであろう、というものであり、その筆者も多氏族の島田臣清田(生没が七七九〜八五五)かもしれないと大和岩雄氏は推定する。
 そこで、当該阿禮についての問題回避のために、女性の猿女とみる説もでてくる。「稗田阿禮=女性」説が平田篤胤→柳田國男→西郷信綱という流れで唱えられた。こうした猿女の身分なら官位がなくても良いのだろうという論なのであろう。しかし、これはまるで根拠のない想像論にすぎず、古事記序文には「舎人」と記されるから、これに基づけば男子であるとせざるをえず(阿禮が釆女であった確証はまったくない)、矛盾する。壬申の乱のときに大海人皇子に随った舎人が合計で二十有余人とあり、うち十一人が掲名され、これに加え高市皇子の従者として七人が『書紀』に見えるが、これらは全員が男で、一人が部姓のほかは皆がカバネをもっていた(無姓の舎人二人「古市、竹田」も元の記録に姓が欠如して記してあっただけと推せられることを含む)という事情がある。
 なお、稗田阿禮の実在性を疑って、この者を柿本人麻呂、山上憶良とか藤原不比等などにあてる見解もあるが(梅原猛氏は不比等が筆名で仮託したものであって、不比等が最終編集者だとみる)、その具体的な裏付けはまったくなく、たんなる想像論にすぎない。具体的な証拠に基づかない立論は、どのような学究が唱えようと空虚である。ただ、稗田阿禮に近い人物像を求めると、大海人皇子の舎人であった和珥部臣(丸部臣)君手あたりがモデルに近い存在であったのかもしれない。皇子の命を受けて美濃の多臣品治のもとに連絡をするなど重要な役割を果たし、壬申の乱を回顧して手記(『釈日本紀』所引私記が引用する「和迩部臣君手記」)を書いた者であり、猿田彦命と天鈿女命との後裔にあたる和珥臣一族の出でもあった。君手なら、稗田氏のことも多少は知っていたであろう。壬申の功臣として直大壹の贈位を受け、息子の大石には賜田もあり、君手の子孫の丸部臣宗人に宿祢賜姓はあったが、これらの後裔は知られず、和珥部臣一族の『古事記』関与はとくに窺われない。

 
 「史生稗田友勝」の発現

 平城宮の発掘調査が半世紀以上にもわたって奈良文化財研究所の手によって進められてきており、その発掘成果の報告書として『平城宮発掘調査出土木簡概報』がある。これがインターネットに掲上されるのを全巻通して見ていたら、概報の第三十二(一九九六年一一月)の「二条大路木簡六」のなかに稗田を名乗る人物を見つけて吃驚した。具体的には、一九九五年度に行われた第二五九次調査で出た木簡のなかで、平城宮内裏の東側、東院の北西に接する地域から出たもので、この地域は造酒司と推定されている。そこの出土木簡のなかに「御贖所柏廿把 五月十三日 史生稗田友勝」という記事が一個所だけ見えた。これは、研究者の誰もまだ指摘していないことではないかと思われる。奈良時代に活動したことが分かる人物で唯一の稗田氏とされよう(なお、偶々その近くから出た木簡に、御服所の命婦として、「安倍庭女、都努稗田、石川尾張、安倍藤子」の四名の名が記される)。当該木簡の近くに「御贖所請柏拾把 五月十三日酒部宅継」と記されるものもあった。
 この「史生」(ししょう)という職掌については、『国史大辞典』などによると、「律令制で中央、地方の諸官司に置かれた下級書記的な職員。公文書を浄書し、文案に四等官らの署名を取ることを職掌とした」とされる。書算や法令に通じた者から雑任として式部省で判補され、何年かの勤務を経てその評価により叙位されたから、史生のときは官位をもたなかった。稗田友勝のその後の行方は知られず、勤務実績で官位をもらえたかどうかも不明である。それでも、「史生」という職掌には庸・調・雑徭という課税免除の特典もあって、総じて言えば、木簡作成時の稗田友勝の身分は、いわば一般庶民に毛の生えたような存在といえよう。これが、平城宮のあった時代の稗田氏の地位でもあったろう。

 これでは、その少し前の時代に生きたかもしれない稗田阿禮は、天皇や皇族に近侍してその命をうけるような存在になりがたい。阿禮が実在したのなら、年代的にごく近いはずの「史生稗田友勝」がいたことは、不思議な感じもあり、「阿禮」と「友勝」という名の対比からも、前者の名前に不自然な感じもある。友勝の前後にも、稗田氏関係者は一切見えない事情にある。出土木簡の姓氏名の表記は簡略なことがままあるから、稗田友勝にカバネが表記されていなくても、実際にカバネをもっていなかったことにならない。稗田友勝の木簡の付近で出た木簡に「史生賀陽氏継」「史生武生三継」という記事もあり、この二人については、前者が臣、後者が連というカバネ欠落の表記とみられる事情もある(現存史料から言うと、これら三人はその後の叙爵まで至らなかった)。同所から出た木簡「五月十三日酒部宅継」や「行 林浦海」の前に見える「四月十日別当物部弟益」についても、すくなくとも別当の物部にはカバネがあったとみられる。「林浦海」も無姓とは思われない。
 太安万侶の碑文が分かっても、その『古事記』編纂の事績が立証されるわけではなく、同様に奈良時代に稗田氏が実在したからといって、稗田阿禮の実在性とその『古事記』編纂への関与が立証されるわけではない。こうした意味では、これまでと変化がないとするのが妥当な取扱いであろう。そして、稗田阿禮なる者の実在性はやはり疑問が大きいということになる。
 
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