(塩神関係の応答及びご案内)

   映画「ひとにぎりの塩」のご案内

  いま、塩自由化をうけて、石川県の能登半島で行われている伝統的な塩生産を紹介する映画ができ、公開中です。上映館は多くありませんが、塩がどれほど重要で、どのような過程を経て生産されるのかを、能登の自然と併せて紹介する良い映画だと思われます。

  塩に多少とも関心のある方は、是非、ご覧いただければ、と思います。

  映画「ひとにぎりの塩」の案内アドレスは  http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tymv/id341023/

       この映画の公式サイトには、塩の話が詳しく紹介されています。
                  http://hitonigiri-movie.com/ 

 (2011.11.18 掲上)



 <呑舟様からの来信>   08.7.29受け
 
 塩についてにお話がUPされてましたので、興味深く読まさせていただきました。
 
 私の郷里に塩釜神社も広大な塩田もかってはありまして、今は塩釜神社のみ残っています。昔は専売公社の事務所もあったのですが。
 
 製塩は特定の氏族が製塩技術を独占した形跡はないのですが。
 製塩そのものはそんなに難しいものではなく、暇があれば素人でもできます。古代の人は見よう見真似で塩を得ていたのではないでしょうか。海水を煮詰めますと塩が出来ます。但し、薪と時間がかかるから効率が相当悪い。
 平安時代以前はこれを改良し、海藻を採ってきて、釜の水で塩分を洗い落とし、濃度の高い海水にしこれを煮詰めて塩を採ります。これを「藻焼き」といったそうです。平安京の出土木簡に私の郷里から塩が納められたと記録されていますが、これらはほとんど「藻焼き塩」です。
 門司の「藻刈り神事」はこの製塩法の象徴として現代に伝えられているのでしょう。
 
 これでも効率が悪いため、次に入浜式と呼ばれる製塩法に変わります。
 入浜式は遠浅の浜を利用して、上げ潮に海水を塩田に流入させ、下げ潮に門を閉じて海水を留め置き、天日による自然蒸発ののち塩の付着した砂を一定の間隔で作ってある井戸に放り込み、その上澄みの塩分濃度の高い塩水を各井戸から集め、大釜で煮詰めて最終塩にしていました。
 となると、瀬戸内海が遠浅海岸と日照日数で全国的に優位にたち、瀬戸内海沿岸諸藩は専売として藩財政の主要歳入としていました。こうなると技術と資金は必要になりますので個人では出来ません。藩の事業となってきます。
 
 忠臣蔵の筋書きに浅野と吉良の反目の一つに吉良塩と赤穂塩の品質が赤穂が上回っていたので製法は聞いても浅野が教えてくれなかったから吉良が仕返しにイジワルしたとかまことしやかに俗本では言われてますが、まったくのでたらめで、当時の製塩法は製塩職人を連れてきて作らせばよいので、門外不出のものではあいませんでした。また吉良には塩田はなかったといわれています。
 実際、赤穂の塩田は隣の他藩、姫路の塩職人を呼んで作らせたので、笠間から浅野が入ってからの本格工事です。これも入浜式です。人手ではなく自動的に濃塩水を集める工夫はすばらしいものです。
 これを指揮したのが以前にお尋ねした「赤穂藩家老、大野九郎兵衛」です。現銀の藩庫高を増やすため赤穂藩で初めて藩札を発行したのも彼です。この塩の取引にかかわったであろう大坂商人が親戚筋の「義商 天野屋利兵衛」こと大野九郎兵衛直治と思われます。これが証明されれば「忠臣蔵」の様相が大きく変化します。
 
 さておき、製塩に話をもどしますと、昭和に入り入浜式も効率が悪く、「流下式」に変わります。
 流下式は15Mぐらいの高さのやぐらを組み竹の枝を万遍なく何段にもわたり下向きにくくりつけ、一番上に海水をポンプでくみ上げ、上からせせらぎのように流下させ、一番したのしづくが天日で塩分濃度が高くなったところを集め、薪の代わりに石炭で煮詰めて製塩していました。旧専売公社の国内塩はそうして作られていまいた。
 
 戦後は塩の需要は食卓塩よりも工業塩の需要が多かったので、NaClであればなんでもよかったので安い海外の岩塩の輸入とともに全国の塩田は閉鎖されていきました。
 よって入浜式がはじまる前は、海に面する人なら塩は自給自足はできていました。ただ効率がわるいので専門の職人はいたでしょうが。
 
 信濃のように海のない国は塩の確保は大変だったでしょう「敵に塩を送って」貰わないと戦争はできなかったでしょうが。
 以上は、つれづれなるままに書き込んでみたものです。   
 

 
 <樹童等の追記・感触>
 
 ご教示等、ありがとうございます。貴信にご示唆を受け、もう少し追補的に以下に記述します。

 塩もいまでは工業用塩の用途が大きくなっていますが、食用としてかつては大きな位置を占めていました。ほとんどが海に面した日本列島では、塩分は何らかの形で取り得たのではないかと思われ、塩を専管する部曲(部民)も管見に入りません。ということは、塩生産はあまり特殊な技術ではなく、塩を専門的に管掌する古代氏族もいなかったことに通じそうですが、「塩屋連」はその名からして何らかの形で製塩に関与したことがうかがわれるという程度です。
 とはいえ、塩が特定の地域から都に庸・調として納めされた事情があり、専業に近い形の従事者もいたと思われます。『延喜式』主計に見られる十八の諸国がそれで、主として若狭を除くと、三河以西の西日本に偏在しています。これに先立つ藤原京や平城京・長岡京の都城跡で出土した塩付札木簡も、その辺の事情を示しており、若狭や周防大島(屋代島)の関係がかなり多く見られます。
 
 武烈即位前紀には、権勢をもった大臣平群真鳥が滅ぼされるのに際して、あらゆる塩に呪いをかけて天皇に供出されないようにしたが、角鹿の塩だけ呪いをかけ忘れたという逸話が見えます。平群氏の故地は筑前とみられるから、同地から瀬戸内海沿岸を通じる地域の塩を所管していたことが、この話から示唆されます。上記『延喜式』でも、筑前・周防・安芸・備後・備中・備前・播磨と伊予・讃岐、淡路・紀伊という瀬戸内海沿岸の十一国が貢納国としてあげられます。一方、「角鹿の塩」といっても、敦賀辺りを集散地とされた越前・若狭一帯の海域の塩を意味していたものでしょう。
 古墳時代にさかのぼる若狭湾沿岸の製塩遺跡は実に約七〇か所にものぼり、土器製塩の先進地区の一つに数えられること、敦賀湾から越前海岸にかけても若干の製塩遺跡があるので、越前から近江にかけて勢威をもったオホト(継体天皇)の実力は、こうした塩の生産圏ならびに輸送ルートに影響を及ぼしえたに違いない。という指摘が『福井県の歴史』の記事にありますが、塩関係の木簡を見ても塩専門をうかがわせる部民はいない事情にあります。若狭では、四世紀末頃の浜祢式製塩土器を最古として、八世紀代には大容量の船岡式が現れます。
 瀬戸内海沿岸では、なかでも吉備の製塩がよく知られ、当地の製塩用土器は、出土地の岡山県瀬戸内市(旧邑久郡)牛窓町牛窓の師楽(しらく)遺跡の名をとって師楽式土器と呼ばれます。同遺跡は古墳時代後期とみられていますが、この頃の土器製塩は瀬戸内内海沿岸に広がるとともに特定の場所に集中するようになるので、専業集団による塩作りが行われたとみられます。吉備では、岡山県の牛窓・児島・倉敷、広島県福山の松永などの地で製塩遺跡が発見されていますが、かように塩の一大生産地だった吉備でも、製塩に関わったとみられる部民が名前からは不明です。邑久郡にみられる部民の「海部、土師、須恵」あたりが関与したものかということでしょうか。
 このほか、九州の塩は太宰府へ、また陸奥松島湾の塩竃(鉄釜)による塩は陸奥の鎮守府(多賀城)へ、佐渡・越後からは出羽の雄勝城へと納められたとみられますが、その実態はあまり明らかではありません。
 
 塩屋連の起源の地については、太田亮・佐伯有清両博士とも、伊勢国奄芸郡の塩屋郷(鈴鹿市白子・稲生一帯)に基づくものか、と疑問を留保しつつ提示するが、私には疑問に思われます。
 塩屋・塩谷の地名は全国に見られるものの、関係深そうなのは紀伊・播磨・筑前とみられ、そのなかでも紀伊起源が考えられます。『姓氏録』には、河内皇別のみに塩屋連をあげ、的臣・塩屋連・小家連の順で記して小家連が塩屋連の同祖とするが、山城皇別にも的臣の次ぎに与等連をあげて、与等連が塩屋連の同祖とされる事情があります。これら四氏はみな同族関係にあったとみられ、的臣の本拠が紀伊国名草郡の名神大社・志磨神社(和歌山市中之島)で、筑前国志摩郡あたりを故地とする平群臣一族とみられるからです。同社は紀ノ川下流の中之島に位置し、伊達神社・静火神社とともに紀三所の神と呼ばれて、武内宿祢に祀らせたという伝承があり、天孫族の祖・生国魂神を配祀する事情にもあります。
 塩屋は志磨神社の南方約五キロの旧紀ノ川河口部にあり、和歌浦に面しています。紀伊南部の日高郡、日高川の下流部にも御坊市域に塩屋浦の地名が残り(北塩屋に塩屋王子社があって、この地を塩屋連の起源地とみる説もある)、塩屋連一族には塩屋牟婁連(中臣鎌足の母系祖先すじ)という紀伊関係の地名を負う者も見えます。小家連は名草郡大宅郷に関係があるとみられます。
 和歌山市では、北西部海岸の西庄・本脇地区にある西庄遺跡から製塩炉・製塩土器が見つかり、五世紀を中心とした大規模な土器製塩が行われていたことが明らかとなっています。紀伊の海岸部で広く製塩が行われ、白浜町瀬戸遺跡なども含めて製塩遺跡があり、塩の産地別木簡では若狭・周防に次ぐ位置にあって、古代紀伊の主要産業の一つに製塩があげられます。
 この文は岸本雅敏氏の論考「古代の塩の意義」などを参考に書いてみましたが、文献史学による塩の歴史の研究者、広山堯道・広山謙介氏が共著で『古代日本の塩』(雄山閣、2003年) を出されており、古代における塩の検討に際して参考になると思われます。
 
  (08.8.5 掲上)
  


 <今野様よりの来信> 08.8.24受け
 
 宝賀会長は『塩の神様とその源流』のなかで、石城国造の勢力圏であった福島県田村郡小野新町の塩竈神社のほうが(塩竈市のそれよりも)塩竈大神の起源に近いのではないかと推測されておりました。福島県内に塩竈神社が17社もあり(宮城県は4社なので)、東北地方で最も多いことが傍証になるかもしれないともされており、なるほどと思わされました。また、わが国の塩生産が縄文末期頃ないし弥生時代初期にはみられた旨が述べられてあり、一方で、土器製塩の土器そのもののテクニカルな部分から、土師連をとおして少彦名神の影を覗き見ておられたようです。
 ところで、本家鹽竈神社が鎮座する宮城県塩竈市周辺は、縄文後期には既に土器製塩の形跡がみとめられているようで、常陸とともに土器製塩の発祥のエリアとすら思えるのですが、丈部一族はそれよりも早くにこの地に進出してきたということなのでしょうか。今ひとつ時代区分のリンクが出来ておらず、頭が混乱しております。よろしければお教えください。
 
 (樹童からのお答え)
 製塩土器については、当方にはあまり知識がないこともあり、各種の論考・資料を踏まえたうえですが、多少とも推測混じりで以下に感触を申し上げます。

 塩は人類にとって必須の物資ですから、縄文人もなんらかの形で海水から塩を採取しており、縄文後期ないし晩期ごろから、常陸の霞ヶ浦辺りから太平洋岸の松島湾、青森の陸奥湾にかけての地域に限定して縄文土器(逆円錐の深鉢形)での製塩が行われたとされています。松島湾内の宮戸島にある里浜貝塚(東松島市宮戸)や対岸の二月田貝塚(宮城郡七ヶ浜町)などの貝塚から、縄文晩期頃の製塩土器がみつかるなど、塩竃辺りは縄文期から製塩の地で、製塩遺跡や製塩土器等が多数出土します。ただ、縄文の製塩土器は弥生土器とはまったく別物で様式的に大きく異なっていて、常陸辺りが発祥とされており、土器の質としても大陸の影響をうけた弥生期の土器のほうに優れたものがあったようで、弥生期へ技術が伝播することはなかったようです。
 東北では、弥生期には製塩土器がほとんど見られなくなるといい、弥生中期の松島湾の遺跡から製塩土器(に似た土器)が発見されている程度といわれます。他の地域ではまだ発見されていませんから、現段階では縄文期の製塩土器は松島湾においても弥生時代中期で廃絶したと考えられているとのことです。しかし、本当にそうなのでしょうか。
 というのは、平底厚手の製塩土器を採用した製塩遺跡が奈良・平安時代のものとして約百五十個所も松島湾周辺にあり、多賀城にも塩が納入されている事実があるからで、この地の製塩が弥生後期や古墳時代の期間だけ中絶していたとは考え難いからです。塩竃神社の創祀は不明であっても、おそらくは大化前代ではないかと思われるからでもあります。
 弥生期では、製塩土器が尾讃瀬戸を中心として瀬戸内海地方に多く分布し、古墳時代になって爆発的に多くの地域で使われるようになったとされています。また、現代に伝わる神話や神社祭祀は、基本的には弥生期以降に発生したと一般にみられており、縄文期のことは考古遺物を通じてしか分かりません。
 
 弥生後・末期に東国・陸奥に遷住し、広く繁衍したとみられる丈部一族は、神武侵攻により近畿から追い落とされたとはいえ、大 陸渡来の天孫族の流れをくんでいましたから、弥生文化の土器技術ももっていたものとみられます。宮城の塩竃神社でも中世以降の祠官家が阿部・小野・志賀な どの苗字を名乗りますが、系譜検討をしてみると、その殆どが古代の丈部の族裔ではないかとみられますので、古代からの奉斎者が丈部一族であって、その技術 を用いて製塩がなんらかの形で行われたのではないかとみられます。
 松島湾の古代の製塩土器遺跡に関して、その多くが貝塚を伴うという特徴が指摘されます。このことは、製塩の専業化は未発達であったことを示唆するともいわれますが、縄文期はともかく、古墳時代以降では特殊技術を要するのに管掌部族がなかったとは考え難いように思われます。
 宮戸島にある江ノ浜遺跡東松島市宮戸字江ノ浜)は、「貝塚+製塩跡」という複合遺跡で、土錘・鹿角製離頭銛・製塩土器・土師器・須恵器という出土があり、古墳時代の遺跡とみられています。この製塩遺跡から、製塩土器の支脚として用いられたとみられる「円筒形土製支脚」が出ています。岸本雅敏氏は、「円孔をうがったものが、日本海側(富山県じょうべのま遺跡)と東北の松島湾(宮城県江ノ浜遺跡)に分布するのは、北陸と東北の土器製塩の結びつきを示す」とみています(「西と東の塩生産」、古代史復元9『古代の都と村』所収)。もっとも、この形の土製支脚で最古のものは奈良時代の初めだとも記しますから、あまり古いものではなさそうですが。ともあれ、この江ノ浜遺跡は古墳時代にもあったようで、そうすると、この地域の製塩の中絶はなかったことになると思われます。
 また、富山県の「じょうべのま」遺跡(下新川郡入善町田中)は「丈部の間」と解されますが、平安時代前期の遺跡で丈部(はせつかべ)荘の跡ともみられています。この遺跡からは多数の木簡も見つかっており、「丈部吉椎丸上白米五斗」等と書かれたものも出土しています。「丈部」はたんなる符合かもしれませんが、なかなか興味深いものです。
 
 これらの諸事情からみて、弥生後期の辺りで、松島湾あたりの製塩法も変わったのではないかとみられ、製塩土器も変わった可能性があります。九世紀初頭前後のものとみられる多賀城出土の木簡に「塩竃」と見えるものがあり、これが鉄釜という可能性も指摘されますが、平安時代にはまだ土器使用がありますから、何時から鉄製の釜を使った製塩がなされるようになったのか、この辺はよく分かりません。少なくとも七世紀以降は、土器製塩が廃れ、鋳物の塩釜による製塩が主流になったのではないかという指摘もあり、いま塩竈神社の塩釜は奈良時代まで起源が遡れるという鉄の塩釜です。その他でも、上総の金谷神社(千葉県富津市金谷)の鉄尊様という二大鉄片も、俗に釜神というから塩の釜に関係があるとみられます。
 東国や陸奥では、こうした製塩法や用具の変化が端的にどのような形で何時、起きたかは不明ですが、天孫族はすぐれた土器技術をもつとともに製鉄・鍛冶部族でもありました。丈部と遠祖を同じくする三上祝系統の須恵国造一族(丈部の姓氏も見える)が富津一帯を領域にしていた事情もあります。須恵は須恵器(陶器)のスエでもあり、この辺でも土器から効率の良い鉄釜に向けて変化が起きたことが窺われます。なんらかの併用もあったのかもしれません。
 
 あまりお答えになっていないのかもしれませんが、現段階では、この辺がお答えできる限度です。
 
  (08.8.27 掲上)


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