最近の安本美典説の検討
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はじめに
安本氏の1981年刊の著作『倭の五王の謎』を見たところ、安本説が「天皇一代=約十年」「天照大神=卑弥呼・台与」「神武東遷=邪馬台国東遷」という基本骨格を保持しつつも、その採られる年代論・推計年代値が時期に応じ、当初論からかなり大きく変化しているのが分かった。そこで、割合最近の著作を基にして、安本説の年代論を考えてみることにしたい。
そのため、それら著作にあたることにするが、全部には当たりきれないし、意味もなさそうなので、そのうちの主なものとして、1999年刊の『応神天皇の秘密』、2005年刊の『大和朝廷の起源』の二冊を基にして、ここでは取り上げる。この後でも、お考えが変化しているかもしれないが、もう動かす幅が安本氏にはないはずだと思うし、実際そこまで細部まで詳細に追求して見ることには手が回らない。また、意味があるとも思われない。ここで『大和朝廷の起源』を取り上げたのは、大東文化大学名誉教授の小林敏男氏が、最近の「邪馬台国新聞」第5号(2017.5.22)では年代論の重要な著書・論文のなかで、安本氏の著作も取り上げ、同書掲載の論考「天皇の在位年数と寿命」をあげているからでもある。
記紀の紀年問題についての要約 『書紀』の紀年問題・崩年干支などの年代論は古くから歴史学界の大きな課題であるが、那珂通世・三品彰英・丸山二郎・橋本増吉・田中卓などの高名な先学が取り上げて種々やっていたときは、これら先学の学名がいくら高くて歴史学識が豊富でも、統計数理的な知識・技法の面では総じて乏しいから、割合簡単な計算で紀年比定がなされる程度であった。すなわち、『古事記』の崩年干支が具体的に何時を指すのか、崩年干支と書紀紀年との差異をどのように考え、どちらを高く評価するのか、書紀紀年と『三国史記』などの朝鮮側史料との紀年を比較し、書紀紀年の該当年を干支二巡120年引き下げて考えるのがよいものもある、などの問題意識だから、まぁ比較的幼稚なものである。ほかに、笠井倭人氏の年代検討などもあるが、一部に有効な示唆や見るべきものがあっても、総体的には是認できるのか疑問であったり、受け入れがたい内容となっている。 この関係の学説史の検討を、ここでするわけではないから、しかも手数も時間もかかり、年代値に関する原型史実を求めるという目的のためには、ある意味ムダな作業が多いのだから、本件の検討につながるものは別として、先学の時代の検討について、安本氏の見解(主に上記二冊に拠る)にも触れつつ、拙考の結論のあらましだけを先に記しておく。
@『古事記』の崩年干支を信頼してよいのは、天皇崩年がほぼ合致する安閑天皇以降の五例だけである。それより前の継体天皇以前の崩年干支は、なんら根拠なく、散発的に割注に記される事情があって、一応の参考にするとしても、書紀紀年との相違が合理的に説明できず、先ず依拠しないほうが無難である(実のところ、継体以前の崩年干支にはなんらかの法則性があるのかもしれないが、これがいまだもって分からず、また、先学からの解明もなく、従って的確な利用法を見出せないでいる)。
学界では、崩年干支の確実性を疑う研究者が多いとされるが、すくなくとも単純な年代比定では、崩年干支は使いものにならないのは確かなのであろう。安本氏も、崩年干支の利用については疑問視しており、拙見もこの点ではほぼ同様であるが、崩年干支と書紀紀年とがほぼ一致する時期(それでも、細部の月日には若干の差異が残るが)以降は、お互いの補強になろう。
A 書紀紀年の該当年を干支二巡(120年)引き下げて年代比定を考えて妥当するとみられる代表例は、卑弥呼と神功皇后との関係記事や、応神天皇の元年(西暦390年)であり、ほかにもこの応神元年周辺の朝鮮半島関係記事には近似的な数値を示すものがあるが、この辺もあまり顧慮する必要がないかもしれない。
この辺の朝鮮半島関係の記事を含む時期は、もとから外地記事があったのではなく、書記編纂などの過程で、あとから記事に組み入れられたものとみられる。というのは、本文記事では倍数年暦で記載があるのに、朝鮮半島関係の記事(とくに百済)が普通年暦(等倍年暦)で進行するが、当初からの記事であれば、こんなはずがないからである。
安本氏も、単純に干支二巡引き下げて年代比定を考えればそれで良いというわけでもないと指摘している。また、朝鮮半島関係記事が大きく二つに分かれて、1つは応神紀に、もう一つは雄略紀に入れられている事情の指摘も同氏からあって、この干支二巡関係はまったくその通りであろう。また、応神紀に見える直支王関係は、前後の記事や『三国史記』に見える前王の死没記事から見て、直支王の在位時期が応神天皇の治世に重なるとしても、直支王死没は応神の在位時期内ではなかったとするのが妥当であろう。
B 書紀紀年記事と中国暦法の検討が進み、すくなくとも安康天皇3年8月条より以降は元嘉暦で記され、允恭天皇より前の記事は、元嘉暦より後の暦である儀鳳暦で記載されているという分析がなされており、これが確定的な通説として受け入れられている。安本氏の上記著作では、この両中国暦の説明記事があり、おそらく、この中国暦の採用事情の故に、その具体的な年代数値観を安本氏は根底から変えたのではなかろうか。
C 邪馬台国問題の検討のなかで、倭地の古暦として「二倍年暦」の使用が窺われると次第にみられるようになり、ここに初めて「倍数年暦」の議論がなされるようになった。
この関係で注目されるのは、奈良県在住の貝田禎造氏による著作『古代天皇長寿の謎』(1985年刊。六興出版)の発表であり、邪馬台国研究関係者の一部が認める二倍年暦に加え、上古の時期では「四倍年暦」を初めて提唱し、具体的には仁徳天皇以前の書紀紀年はこの四倍年暦で記載されると指摘した。これによって、津田博士亜流の学説から後世の偽造とか恣意的な紀年延長とかとして簡単に切り捨てられていた書紀紀年に新たな生命を吹き込んだ。年代の勝手な造作とか、恣意的な引き伸ばしという津田学徒などからの議論に対して、そうした認定が根底から疑問だとの大きな石を投げ込んだと言うことである。しかし、これが、いまだ認識されているとは言いがたい。
要は、これより前の学説・研究は、「倍数年暦」の感覚がまるでないから(だから、すぐ紀年記事の引き延ばしや造作という単純な考えに落ち着く)、どんな高名な学者が唱えようと、ある意味、クズみたいなものである。先に「ある意味ムダな作業」と称した由縁でもある。邪馬台国関係記事に、倭人が「春秋二歳」として数え、当地の人は長寿で、「あるいは百年、あるいは八、九十年」という長寿もいるとあるのを無視するから、上古天皇の長寿をたんなる捏造(あるいは、辛酉革命説のために紀年延長をしたのだ)として切り捨てることにつながる。安本氏は、天皇長寿については「倍数年暦」の立場で踏まえ検討する面もあるが、上記の画期的な「四倍年暦」については認識が起こらず、その結果、結論に影響しているのではないかともみられる。
記紀の紀年記事を切り捨てずに、修正(調整)・検討できるのは、数字がまったく孤立的でしかない『古事記』の崩年干支ではなく、唯一、この倍数年暦論だけである。そして、この数値調整は、倭五王などに絡む中国史書、軍事を含む様々な対外交渉の対象となった朝鮮関係史書などの記事、そして「生物としての人間」という感覚などに基づくものである。
D記紀の紀年にかかわる年代論を、統計的手法で分析しようと試みたのが安本美典氏であり、その意味で、上記貝田氏とは別の意味で画期的なものである。しかし、ここまで安本説・関連説を多面的に検討してきたことで分かるように、その手法や数値採択には歴史的常識を無視した恣意的なものがかなりあって、方法及び結論が合理的だとはとても言えない。当初段階の安本説年代観を別面から補強するような役割を果たしたのが、平山朝治氏の単純な「最小二乗法」による推計値であるが、これらの問題点をここまで縷々検討してあげてきた。
上記@〜Cに見るように、拙見と安本氏の見解とは基本的にはかなり似通ったところがあるが、それでも、いくつかの結論の殆どが真逆に近いことになるのは、基礎とするデータ選択や使用法などに、多くの差異、問題があるからである。
とはいえ、安本氏が、長い検討の経過を経たうえで、初期段階の推計方法とかなり変わった形で、1990年代以降に年代推計値を出すのだとしたら、そこには当初の頃の結論等に反省・修正もあるのだろうと思われ、改めて検討する次第でもある。
安本氏の提示する「古代推定年表」について 安本氏は、『応神天皇の秘密』p199において、なんの説明もなしに、「表15」を出しており、これが、『倭の五王の謎』p127で「グラフ9」として先に提示されたものと同内容のものである。
これが、『応神天皇の秘密』の終わりのp298〜302において、【古代推定年表】として、この年表作成の考え方と具体的な数値の図表が示される。それを見ると、安本氏が初期段階で提示・説明してきた数値・内容と多大な変化が起きており、彼の基本認識の大幅変容だと受けとめざるをえない。その大幅変容のわりに、【古代推定年表】の具体的な説明はごく簡単にしかなされていないので、その記事の行間を補いつつ、若干の推定、検算も適宜、行ったうえで、検討を加えたい。
1 結論的な安本案は欄の(5)(以下では、たんに「(5)欄」ともいう)であり、この安本案が上記のグラフ9・表15として提示されてきたことが分かる。そこには、次のような考え方が基礎にあり、初期段階の安本氏が説明・主張してきたことと大きな違いがある。
@安本氏の説明には、まったくないが、『書紀』紀年の元年太歳の年次が、22清寧天皇(元年が西暦480年)以下では記載され、これが安本案の数値と完全に合致する。ところが、清寧の先代の21雄略については元年を、なぜか462年(あるいは463。具体的には明示されないが、安本案として示されるグラフからしか判断できない。どっちみち、1年の差異だから、ここでは462年として以下の話を進める)に置いている。これは、そもそも対応する平山推計の数値483年や安本氏推計の当初の基点478年(これを雄略即位年と安本氏は当初に考えた)を大きく遡るものであり、これ自体、当初の両推計自体の破綻を示している。
清寧天皇以下の諸天皇について、『書紀』紀年の比定がそのまま当てはまるということは、この時期には中国からの元嘉暦が施行され、『書紀』が普通年暦(倍数年暦ではない)での記載であることを安本氏が認めたものだと考えられる。その場合、清寧の前代の雄略について、清寧と同じく元嘉暦で記されるのにもかかわらず、書紀紀年による雄略治世23年がどうして17,8年ほどに短縮されると言うのか。まず、この辺の疑問が大きい。この在位期間の短縮には、まったく理由がないということである。
それは、拙考で按ずるに、雄略について『書紀』どおりの「治世23年」をそのまま認めると雄略元年が太歳干支で示される457年となり、462年3月の倭世子興の遣使・叙任(『宋書』孝武帝紀)とぶつかり合って不都合だ、という理由からだとみられる。中国史書の倭五王遣使記事を尊重する限り、雄略の即位元年を462年以降に考えねばならず、一方、百済関係の諸史料を尊重して『書紀』と相対応させれば、雄略元年が457年を中心とする456〜458年ということになる。
この辺は難解な問題だが、他の倭五王遣使記事との比較などから考えて、拙考の結論では、雄略元年を8年分だけ後ろに引き下げるのが穏当だとみる(実は、この8年は応神王統最後の武烈天皇の在位期間8年にも相当しており、これが、継体天皇の在位期間の初期8年と完全に重複する。こう考えることによって、書紀紀年の継体元年が記事そのままでは507年にあてられるのを、515年まで引き下げる効果をもつ。学界では、継体天皇の元年を実際には515〜517年とする見解が強いとみられる)
A【古代推定年表】では、清寧天皇より前の時期、すなわち雄略天皇から遡って天照大神までは、一代の平均在位年数はなんと9.41年という、極めてありえない数値をとることになる。しかも、基礎の雄略のところで既に18年(17,8年)の治世という大きな数をとるから、実際には天照大神〜安康の期間は、なんと8.88年という更に短い期間になってしまう。
この「9.41年」の根拠については、「天照大神=卑弥呼」の魏朝への遣使239年から雄略の没年だと彼がみる479年(書記紀年でもある)までの期間240年を基礎に求めたと『応神天皇の秘密』の記事にあるが、これが合計で26代(天照大神からウガヤフキアエズまで5代+神武〜安康まで20代、雄略まで21代)だと9.23年で、25代だと9.6年であって、「9.41年」という算出値は疑問である。安本氏が言う平均「9.41年」が出てくるためには、25.5代で割らなければ出てこないような数値になっている。この辺も理解しがたい。
B「天照大神=卑弥呼及び台与」だとみる安本氏の仮説は、なんら立証されておらず、具体的な裏付けがなく、彼が勝手に思い込んだだけのものである。卑弥呼の魏朝への遣使239年はよいとして、『晋書』起居注に見える266年の欠名女王(多く、台与に比定されるとみられている)まで考えると、同年にこの者が死去したとしても、266〜462年の合計196年が合計23代の諸天皇(台与が天忍穂耳尊の妃とする安本説に基づけば、神武前代まで3代、これに、神武から安康まで20代)に割り当てられ、その場合には、これらの平均在位年数は、更に短くなって、なんと8.52年にまで下げられてしまう。
このような短い数値では、上古では1世代に3人ほども天皇が出て、非常に高い頻度で傍系相続を繰り返したことにもなりかねないが、どのような史料を見ても、このことを傍証するものがまったくない。
C「上古代に遡るほど、天皇一代の在位年数が短くなる傾向を示す」という安本氏の仮説(思込み)は、当初の著作以来ずーっとグラフによりほぼ同様に図示されるが、これがまったくの誤りであることは、本HPで何度も指摘してきた。しかし、ここまで来ても、まだこれに固執、眩惑される方もおられそうなので、安本氏がご自身の案として示す年代数値を用いることで、この仮説が成り立たないことを示しておく。
ア 21雄略から以降がほぼ確定できる紀年と考えると、25武烈までの応神王統後期にあっては、たしかに天皇の平均在位年数が少ない。具体的には天皇5人で合計45年(=507−462)だから、平均在位年数は9年となる。これは、応神王統の衰退期・混乱期だから、やむをえない異例に短い在位期間だと言えよう。21雄略から初代神武までの期間に、こうした時期があったとはまず考え難いし、主要古代豪族の系図を見ても、そうした政治動向の混乱・不安定を示すようなものはまるでない。
イ 26継体から大化改新の頃までは、比較的安定的な形で政治が続いており、大化の改新(乙巳の変)が起きたときの35皇極女帝(在位642〜645)は、日本史上初めて生前退位した天皇で、かつ、初めて重祚した天皇でもあるから、その先代の34舒明天皇までを大化前代期として、継体天皇から見ると、天皇9人で合計134年(=641−507)の治世となり、平均在位年数は14.89年となる(仮に重祚を0.5人として計算する場合には、天皇9.5人で138年、平均在位年数は14.53年となる)。
ちなみに、21雄略から34舒明天皇までは天皇が合計14人で、179年の治世期間、平均在位年数では12.79年となる。
ウ 35皇極女帝から50桓武天皇(在位781〜806)までの期間(いわば概ね白鳳・奈良時代)を見ると、この時代は重祚・廃位(淳仁。弘文が仮に即位していたら、廃位ということになろう)・生前退位という、上古代の諸天皇にあってはまずあり得ないような事績を示す天皇が頻出する。だから、平均在位年数の数値の採り方がいくつも出てくる。同質性の観点から、上古代の諸天皇には見られない重祚・廃位・生前退位の関係を調整して、重祚2名は半減させ、廃位2名(弘文、淳仁)は除外すると、12人の天皇(=16−2−2)で治世合計が164年、平均在位年数は13.67年となる。これが、重祚・弘文の3人を差し引いた場合でも13人の天皇で12.62年となる。
このように、ウとイと比べると、年代が上古に遡るほど平均在位年数が短くなる傾向があると言う安本氏の仮説が明らかに成り立たない。
エ ついでに、いろいろな試算をしてみると、例えば古墳時代と飛鳥時代の切れ目はやや微妙だが、それが欽明天皇と敏達天皇との間に境目があるとした場合(敏達天皇の陵墓は太子西山古墳〔前方後円墳〕とされるが、『書紀』には母君石姫皇后の陵墓に併葬されたと見え、森浩一氏は時代が合わないとか周囲に「より適当な古墳あり」という印をつけるから、欽明天皇で古墳時代がほぼ終わりとされよう)、古墳時代の21雄略〜29欽明の9人で見ると在位合計が125年(=587−462)、平均在位年数が13.89年となる。また、それに続く飛鳥時代の範囲を30敏達から41持統までとすると合計125年(=697−572)に天皇が9人(=11−2〔重祚・弘文〕)で考えると、これも同じく平均在位年数が13.89年となる。だから、21雄略〜41持統の期間は平均在位年数が13.89年となる。
ちなみに、21雄略から50桓武天皇までの期間では、見せかけ上は天皇が合計30人で、治世合計が344年、平均在位年数は11.47年となるが、重祚・弘文の3人を差し引いた場合では、天皇が合計27人で、治世合計が344年、平均在位年数は12.74年となる。だから、上古代の天皇の平均在位年数が10.33年とか10.35年と安本氏が言うのすら、まるで根拠のない低い数値となる。
安本氏はどうもダブル・スタンダードのようで、一方で31雄略天皇の在位のはじめを462年としながら、この雄略が478年に遣使したとして、在位の短い41用明が586年に在位だとして(『書紀』では585即位〜587崩御)、天皇10代で108年(=586−478)で一代当たり平均が10.8年という計算をする。しかし、これは11代合計で125年の在位期間をもつから、平均は11.36年となるし、雄略〜敏達だと10代で123年、一代平均が12.3年となる。雄略〜崇峻だと12代で130年(=592−462)、一代平均が10.83年となるが、崇峻は暗殺されており、雄略〜推古だと13代で166年(=628−462)、一代平均が12.77年にもなる。「一代当たり平均が10.8年」というのが、いかに恣意的で、かつ、短い年数であることが分かる。 以上の諸ケースに見るように、歴史史料を無視して弘文天皇を加算し、上古天皇にはなかった重祚者をデータ同質性を無視してそのままの人数で計算した場合、かつ、在位の短い用明から計算し、奈良時代に在位の半分がかかる桓武天皇を除外したときに、ようやく平均在位年数が10年台という低い数値になる。この10年台の数値がいかに異常なものかは、上記の様々な試算を見ると歴然とする。
要するに、安本氏自身が導き出した年代値によって、その最初の前提たる@天皇一代の平均在位年数が10年台、A時代が遡るほど、天皇の平均在位年数が短くなる傾向、が明白に否定されるのである。こんなチグハグな年代観で導かれた安本氏の結論が信頼できないのは当然である。
(2017.9.08 掲上) 邪馬台国の会に関連する諸問題 の総括頁へ |
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