安本式推計及び平山式推計などの年代数値の検証 |
ここまでは、安本氏の見解・推計とそれに通じる平山氏の見解・推計を種々、検討してきたが、ここでは、具体的に年代推計値を取り上げて、両氏の算出された推計値が妥当なのかを検証してみる。
まず、両氏の推計値とそれに関連する拙考推計値などを含め様々な推計値の一覧表を掲げることにする。
私自身もこうしたことを試みたことがなかったが、一覧で見ることで、いくつかのことに気づいた。その辺をアトランダムで述べると、次のとおり。 主要点の列挙 1 説明変数を天皇在位者数の1つだけとすると、平均在位年数を10.3年ほどと少なくみる安本・平山推計では神武を西暦270年代に即位したとみるのに対し、13年余ほどとみる相関式推計による拙見では西暦160年代に即位となり(書紀紀年に基づく採用値は175年)、110年ほどの大きな差異が出る。 2 安本・平山推計では、敏達以前を推計の対象としているが、両者の数値系統間で5年の差異が一定してあり、基礎となる26継体〜29欽明の4天皇の期間にあっては、既に約20年も過剰に引き下げている。
すなわち、安閑以降の書紀紀年と『古事記』崩年干支はほぼ合致しており、この辺から後の書紀紀年を徒に疑うことはない。その前の雄略についても、478年を元年とすることは倭五王の遣使記事等から見ても疑問であって、倭五王研究者でこのように雄略元年を引き下げて考えるのは、ほかに例を見ない。
こうした傾向を長く遡上させて神武まで及ぼすと、神武即位年代は250年代まで繰り上がる。
3 一方、変数1のときに在位者数で試算した拙考では、13成務〜21雄略の8代の時期では、15〜30年ほど繰り上げすぎではないかとみられ(この期間の平均在位年数は12年台だったか)、神武即位年代は約20年ほど引き下げられて180年代に近くなろう。
2・3の調整から考えると、神武の即位年代は約180年〜250年代の幅にほぼ収まることになろう。
4 わが国使用の中国暦の始まりが元嘉暦とされ、これが中国では元嘉22年(西暦445)から使用されており、倭王済の451年の遣使でわが国にもたらされたとすると、安康朝から同暦が使用されても不思議ではない。現に允恭朝の同暦到来をいう見解もあり、『書紀』安康3年8月条以降が確実に元嘉暦による紀年とされる。
そうすると、『書紀』の言う安康元年及び雄略元年の紀年を根拠なしに疑うことができない。
5 『書紀』記事で百済・新羅関係では、雄略8年条の新羅攻めが『三国史記』新羅本紀の慈悲王6年の記事に対応し、雄略20年条の高句麗による百済滅亡が『三国史記』高句麗本紀・百済本紀の475年条の記事に対応する(この場合、雄略元年は456年となる)。武寧王の墓誌からその生年が462年と知られ、これが『書紀』雄略5年条の記事に対応することから、その場合は雄略元年は458年となる。これらに見るように、『書紀』と朝鮮関係史料からは、雄略元年が457年前後と『書紀』編者に認識されていたことになろう。これらに加え、倭五王の遣使記事から見ても、478年という時期は雄略の即位後、かなり長い年数が経っていると考えざるをえない。
6 『書紀』紀年記事で、安康天皇以降は元嘉暦とすると、このときから、わが国上古以来の倍数年暦が現在と同じ等倍年暦に変わったとするのが自然である。その場合、『書紀』に言う雄略治世の23年を勝手に短縮することはできない。その場合、安本氏が言う478年は雄略治世の後期で、晩期に近いものと考えられる。
7 中国史書に見える倭五王遣使記事を『書紀』と照らし合わせると、このころの書紀紀年比定を「8年」分だけ後ろへ引き下げると、ピタリと両書の記事は一致する。その場合、倭王の讃は仁徳、済は允恭、武は雄略に当たり、珍は履中、興は木梨軽皇子に当てるのが無理がない。上記8年は、『書紀』に言う武烈天皇の治世期間の8年とも符合しており、これは王権簒奪者たる継体天皇の初期段階とも重複する。書紀紀年の上では507年とされる継体元年は、実質的に515〜517年頃とするのが妥当だと研究者からみられており、そうすると継体元年が515年だとすれば、すべてが整合的になる。この場合、雄略元年は465年となる。
一方、安本推計の場合、雄略を基礎とするだけあって、その直近父系の允恭・安康については、ほぼ問題が少なそうであるが、それでも、443年及び451年に遣使の倭王済について、457年が即位年と推計する允恭に当てるのはかなり無理があろう(この倭牛王については後述)。 8 『書紀』紀年記事で、仁徳以前が4倍年暦、履中〜允恭が2倍年暦、安康以降が等倍年暦で期されているとして年代配分した場合、拙考の説明変数2個(天皇数とその世代数)で考えた推計式から出てくる数値とはほぼ合致する。この数値は、前項にいう倭五王遣使記事とも合致する。
9 崇神天皇の崩御は、『古事記』崩年干支の指す318年とみるのが自然だとする説が根強いが、これは、『書紀』紀年記事の上記解釈ともほぼ符合する。この崇神朝頃までは、世代数だけで年代推定をする場合とも数値が符合する。
ちなみに、崇神朝より前の時期(神武及び闕史八代の時代)では世代数だけで推定する場合には、過剰な遡上となりがちだが、これは、当該時期の1世代の即位者が少なくなり、かつ、1世代の年数も若干短かったことに因るものとみられる。
10 『書紀』では、崇神朝〜成務朝に日本列島主要部を押さえ、それを基盤に、その後に韓地進出をはかったとされており、『書紀』記事や朝鮮半島関係事情から、その時期は360年代後半頃からだとみられている。これが、安本・平山推計では、崇神朝の初期頃が360年代後半となるから、これは明らかに年代引下げが過剰である。この意味でも、安本・平山推計は崇神朝について20年ないし30年も余計に引下げがなされていることが分かる。
11 応神天皇についても、安本・平山推計では20年ないし30年も余計に引下げがなされており、これを調整すると、高句麗・好太王碑文に見える390年代からの倭の韓地侵攻の大立者が応神天皇だと分かる。神功皇后は高句麗とは対峙しておらず、母系祖先が由来する新羅が専らの攻撃対象であったから、その活動時期は390年代よりは前のことであった。
12 安本・平山推計では上記に見るように過剰な年代引下げがあったことで、倭王讃を応神に当てたり仁徳に当てたりして苦労をし、また、応神と仁徳とを兄弟におくような年代・世代の切迫ぶりを見せている。記紀等の兄弟・子弟の記事からは、この二人が兄弟となるはずはないし、仮に兄弟の場合に仁徳の父親はいったい誰になるのだろうか。
13 安本・平山推計の無理さ加減は、平均在位年数を約10年とか10.3年とかに無理矢理に圧縮することによって、神武天皇以下の大和朝廷の諸天皇を卑弥呼・台与の子孫に押し込んだことに由来する。神武天皇は西暦200年より前に活動した者で、卑弥呼・台与の子孫ではあり得ない。そして、天照大神も卑弥呼・台与と同人視するのは誤りである。
ちなみに、神武〜雄略という期間では、天皇数をどうみるかによるが、手研耳命や神功皇后を加えた合計23人とすると私見の計算では平均が13.57年となり、神武〜欽明という期間では合計31人で12.77年となるから、概ね13年ほどとなろう。この数値は、古代の朝鮮半島のいわゆる三韓の諸国と比べても、まだ若干少ないものとなる。だから、奈良時代という特異な時期を取り上げて、天皇の平均在位年数が10年余とするのは、きわめて疑問なものと言えよう。 14 拙考のように、相関式の説明変数を2つ用いることで、極端な形で数値が出る説明変数1つの場合よりも穏やかに時勢にマッチした数値を算出することが可能となる(総括表に見るように、変数1つから出る推定値の両極端の間に2変数からの推定値が位置する)。なお、拙考に対する安本氏からの「マルチコ」批判がまったく妥当しないことは、別項で詳細に説明した。
倭王讃と倭王珍は誰か 安本・平山推計に基づくと、倭王讃は応神天皇、倭王珍は仁徳天皇に比定せざるをえなくなり、現に安本氏の著書『倭の五王の謎』(1981年刊)ではそうした比定をする。倭王讃を応神天皇に比定するのは、戦後に前田直典氏が主張したことで著名だが、今では支持者が殆どいないのではなかろうか。それは、倭王珍を必然的に仁徳に当てざるを得なくなり、これに続く履中・反正の二代が遣使を出さなかったということになって、無理が生じるからでもある。そして、次ぎに述べる世代の切迫という事情もある。倭王珍が短期間の王と中国史料からみられており、これが仁徳に比定されるのは、『記・紀』に伝える事績から言って無理な話である。 仲哀・応神・仁徳の三代をわずか30年という1世代余ほどの短期間に押し込めることにより、更に無理が大きくなる。応神を仲哀の子とする『記・紀』の記事を疑うのはよいが(これは、拙見でも、応神の王権簒奪があり、仲哀は応神と同世代で、その姉妹の婿とみる)、応神と仁徳とを兄弟と考えざるをえなくなる。これは、応神死後の仁徳ら三兄弟による王位相続争いという事件を記載する『記・紀』に明らかに反している。しかも、応神・仁徳の合計でわずか30年弱の在位期間の天皇二代で、超巨大古墳たる応神陵古墳(誉田山古墳)及び仁徳陵古墳(大山古墳)を築造するという離れ業まで成し遂げたことになる。『書紀』では、仁徳天皇の治世だけで87年という長期間を記載するのだから、これを1/8ほどまで圧縮することにもなり、この辺の説明がつかない。そして、応神か仁徳は十年ほどの短い期間で成人し、子をなして世代交代をしていくことになる。こんなことは生物学的にありえない。 こうした見ると、安本・平山推計では、倭五王前半の二人、倭王讃と倭王珍の比定で、まず破綻を来していると言えよう。 以上に見た倭五王の問題点を解消するため考えられるのは、次の2案であろうか。 (ア案) 雄略の即位年を、思い切って『書紀』太歳干支のいう457年まで21年も引き上げる方法 →しかし、この方法で倭五王の讃・済・武を解決しても、神武の即位元年は251年となって、天照大神を卑弥呼・台与に比定する安本案では、神武の活動時期が台与に殆ど重なってしまうから、その立場では絶対に取り得ない。 (イ案) 理由はつかないが、雄略の即位年を478年から16年引き上げて462年とする方法 →462年に雄略が在位していたことは認められるとしても、なぜ462年がその即位年になるのかの説明がつかない。 この年代では、倭五王の説明がつくとしても、応神の即位年が400年までしか上がらず、その場合に391年頃から始まる倭の韓地侵攻はその先代(神功皇后?)の時となる。そして、安本説にとって困るのは、神武元年が255年にまで引き上げられて、晋の起居注にいう泰初(実は泰始)二年、すなわち266年の倭女王の遣使記事の以前になってしまう。当該倭女王は一般に台与のこととみられているから、台与を神武の四代先と考える安本説にとって都合の悪い年代になってしまうということである。 更に言うと、倭の韓地における活動(主に軍事活動)は、390年よりかなり早い360年代後半から見えており(こうみるのが学界の多数であろう)、これらは『三国史記』や石上神宮に伝わる七支刀銘文に記される。これに対処するのは、安本氏の推計を40年引き上げねばならないことにもなる。 上記のような問題意識をもって、安本氏の著作で1981年刊行の『神武東遷』、1983年刊行の『卑弥呼と邪馬台国』及び1981年刊行の『倭の五王の謎』に掲げる年代値を比較したところ、前二冊と後1冊に掲げる数値について、あまりの違いに愕然となってしまった。 『倭の五王の謎』127頁に掲載の安本案は次のような表となっている。 応神はなぜか413年より少し前まで即位時期が繰り上がり、雄略も463年頃まで繰り上がっているのである。これは、いったいどう言うことなのだろうか。雄略即位が478年として立論してきたはずの安本氏が、なぜか突如として15年ほどの繰上げをしている。その真意はどちらなのであろうか。 しかも、上記グラフ9には重大な問題点がある。それは、『宋書』倭国伝に見える430年(元嘉7年)の欠名倭王の遣使が不記載になっている。普通には、この欠名者は倭王讃とされるから、この遣使記事を記載すると、倭王讃を応神に当てる安本氏の説がおかしくなってしまい、倭王珍の在位期間も極めて短くなってしまうのである。 『倭の五王の謎』という書には、好太王碑文を引きながらも、倭の韓地侵攻が391年から始まったことを書かず、石上神宮の七支刀にも触れないという不思議な書き方もある。もうここまでくると、恣意的で支離滅裂としか言いようがない。 要は、倭五王と「天照大神=卑弥呼・台与」説とが両立しないということであり、天皇一代が約10年という安本説の根幹が疑われてしまうということでもある。 なお、附言すると、上記グラフ9に最初に見える「413賛有り(『南史』)」の記事は、坂元義種氏が著書『倭の五王』で詳細に分析し、高句麗が倭国との戦闘で捕虜にした倭人をともなった入貢だとし、「賛」の名も疑わしいとする。『晋書』のほうには倭王の名をあげないから、当時の倭が仮に入貢したとしても欠名倭王としたほうが妥当であろう。倭王讃に爵号が与えられた421年からが、倭の朝貢と考えるのが妥当だとみられる。 応神の即位元年の庚寅については、従来から干支二巡引下げで西暦390年が比定されてきており、高句麗・好太王との戦などからも、これが妥当な年代比定と考えられる。すなわち、413年遣使の欠名倭王は応神に比定されることにもつながり、倭王讃はやはり仁徳に比定するのが妥当ということでもある。 最後に、最近のようにPCやその関連技術が発達すると、難しいそうな数式・数値の検証が、誰でも簡単にできるようになる。統計学者だけしかこの関係の推計ができないということはありえない。数字の魔術に目を眩まされてはならない。 だからこそ、自ら手や頭をつかって、納得のいくような検討・検証を総合的・多面的に、かつ的確に進めることが必要である。これは、他の古代史研究の分野でも同様に言えることなのである。 (2017.9.01掲上。その後も若干加筆)
※この辺までは、安本氏の初期段階の著作に基づいて検討してきたが、1990年代の終わり頃から同氏は年代観を大幅に変更しており、これが上記グラフ9 にも現れている。 そのため、更に追加的に次のHPに記事を追加したので、続けてご覧下さい。 最近の安本美典説の検討(併せて、書紀紀年等についての年代論総論) 邪馬台国の会に関連する諸問題 の総括頁へ |