奥田メモに戻る Return to Memorandum 研究生活裏話:半生を振り返って【その3】奥田安弘 【学会の経験】【大学教授のなれの果て】【弁護士登録のリスク】 【大学政策への疑問】【法科大学院助教の疑問】 ■学会の経験 学会の裏話を書いていないことに気づいたので、ご参考までに私の経験を述べたい。かつては、学会で先輩研究者から有益な話をたくさん聞くことができ、また貴重な経験をさせて頂いたが、以下では、主に亡くなった方のみ実名としたい。 最初の学会報告は、1983年5月の国際私法学会である。ちょうどドイツから帰国し、香川法学に「国際海上物品運送法の統一と国際私法の関係――国際私法は排除されるか」という論文を掲載したので、同じタイトルで報告をさせて頂いた。かつて国際会議に出席していた海商法の大物研究者が出席し、「そんなことは考えてもいなかった」と猛烈な批判をしたが、国際私法研究者の多くは好意的であった。 同じ年の10月にも、海法学会で報告をするよう求められ、まだ経験の少ない私は、同じテーマですることを予定していた。ところが、ある日、海法学会理事長の鴻常夫教授が私の自宅に電話をしてきて、上記の大物研究者が手ぐすねを引いて待っているので、他のテーマにするよう求められた。学会報告まで半年もなかったが、私は、「東ドイツの1976年海商航行法典について」というように、テーマを変更し、本を1冊読んで、学会報告を乗り切った。その後、2003年に恩師の窪田宏教授が亡くなっていたことを知り、2006年9月に退会した。 海法学会のサイトには、当初のテーマである「ヘーグ・ルールズからハンブルグ・ルールズまでの国際私法問題―抵触法と実質法の交錯」が掲載されたままになっていたので、学会の事務局長を務める中央大学の某教授に何度も訂正をお願いしたが、現在まで訂正はなされていない。 その後、国際法学会でも、1991年5月に「渉外民事事件における過剰管轄」、1998年10月に「本国法主義における国籍認定の諸問題」というテーマで報告をしたが、2001年10月の学会では、「国際違法行為と民事賠償責任」の企画を任された。当時、私は、中国戦後補償裁判で意見書を提出したり、証人尋問に呼ばれたりしていたので、自らコーディネーターまたは報告者を務めるよう求められたが、裏方に徹することにした。ところが、私の代わりのコーディネーターや報告者が私の企画であることを全く紹介してくれなかったので、出席の会員からは、私が指示を出している姿を見て、「不思議だ」と言われてしまった。 2002年4月には、国際法協会日本支部でも「外国人の子どもの人権と国内裁判所へのアクセス――扶養料取立システムの構築」という報告をしたが、2023年の中央大学退職を機に、国際法学会と国際法協会は、両方とも退会した。 国際私法学会では、1989年10月に「スイス国際私法における住所および常居所の概念について」、2005年5月に「契約外債務および債権譲渡の準拠法決定における基本理念―企業実務・裁判実務の観点から」というテーマで報告をしたが、何よりも1999年6月の第100回記念大会を北大で開催し、その現場責任者を務めたことが思い出深い。その際に、理事に選任され、学会のHPも作成するよう依頼され、某会員の助力を得て、記念写真を掲載することができた。しかし、その後、理事長が交替し、HPも専門業者に任せるということで、私の作成したHPは、完全に削除されてしまった。 国際私法学会では、当初、私は質問魔であり、一つの報告に約10の質問メモを出していたが、それでは他の人が質問できないということで、「質問は一人1回」というルールができてしまった。また、妻が体調を崩し、マンションの定期点検に私が立ち会う必要が生じたが、その頃から、学会が年に1回6月の第1週末に開催されるようになり、学会(および理事会)への出席が困難となっていった。かつて曽野和明教授が私法学会の理事を兼任され、国際私法学会と日程が重なるため、日程を変更してほしいと発言されたことを思い出し、私も、日程の変更を提案したが、駄目であった。曽野教授の提案さえ通らないのであるから、私のような個人的事情が考慮されるはずもなかった。 曽野教授が日程変更を提案された当時は、国際私法学会は、5月と10月の年2回開催であり、そのため私法学会の10月開催と重なったものと思われる。その後、国際私法学会は、年1回6月開催となったので、私法学会との重複はなくなったが、私のように個人的事情を抱えるものにとっては、とんだ災難となってしまった。ただし、マンションの定期点検のほうは、変更可能なように案内に書かれていたので、それを試せば良かったのであるが、毎年変更というのは、さすがに気がひけてしまった。 そうこうするうちに、学会報告の質は低下の一方であり、質問する気も起きなくなった。私より少し若い某会員が原稿なしで、漫談風に報告をして、本人は「好評をはくした」と思ったようであるが、初めて学会報告をする会員も、それを真似しはじめたからである。私は、理事会で「報告原稿の義務化」を提案したが、元祖漫談会員が強硬に反対し、結局、私の提案は通らなかった。このような経緯があり、だんだんと理事会にいずらくなり、2019年6月、自ら理事を辞任せざるを得なくなった。理事の定年は70歳であるから、それよりも早い辞任であった。 ただし、報告原稿さえ用意すれば良いというものではない。ちょうど私が「報告原稿の義務化」を提案した時には、学会報告で原稿を用意していながら、何を言いたいのか、訳が分からない報告があり、元祖漫談会員も、それを例に出して、「報告原稿さえ用意すれば良いというものではない」と主張したのであった。私もそれには異論ない。ただし、その報告をした会員は、論文でも何を言いたいのか分からない原稿を書く人であった。そのような人の例を出して、「報告原稿は不要」という元祖漫談会員も酷いものであるが、それほど学会のレベルは低下しており、漏れ聞くところでは、他の法律学会も似たような状況だそうである。 その後、コロナ禍を経て、学会は、今でも会場とオンラインのハイブリッド方式で開催されているようであるが、私は、オンラインでさえ参加する気持ちにはならない。国際私法の看板で本や論文を書いている関係上、まだ退会はしていないが、単に会費を支払い、年に1回、年報を受け取るだけである。自分自身、いろいろ計画があるが、本や論文などの形で発信していきたい。 TOPに戻る ■大学教授のなれの果て 私が大学院生であった頃は、大手の大学教授は、定年退職後も別の大学に移り(いわば天下り)、ほぼ終身で勤めることができたようである。世間では、今もそうだと思っている人がいるようで、私も「中央大学を退職したのなら、次があるでしょう」などと言われたことがある。 しかし、これは昔の話である。今は、私立大学も定年年齢を引き下げたり、定年後無期限の大学年金を期限付きの企業年金に切り替えたりしている。私が『欧米諸国から見た日本法』(共編著、中央大学出版部、2024年)で書いたとおり、2004年から大学の認証評価制度が実施されるようになり、教授会構成員の年齢が高すぎる場合には、認証評価で指摘を受けること、少子化傾向の進展などにより、大学経営が厳しくなったことなどが影響しているようである。 ただ上記の本で指摘したとおり、認証評価制度は、アメリカの大学が自発的に始めたものを官主導で文科省が日本の各大学に押し付けたものであって、似て非なるものである。私の大学院生時代に戻れば、200字詰め原稿用紙100枚~200枚程度の論文を1年に1本出し、それらをまとめて論文集にする場合にも、印刷所が活字を拾っていた時代であるから、元の論文が正確に本になっているかどうかをチェックするのがやっとであった。それでも、立派な体系書を出版する人もいて、学問的には、レベルが高かったように思われる。 ところが、WINDOWS95が出て、PCで論文を作成するようになり、国立大学の民営化、大学の認証評価制度などによって、国からの締め付けが厳しくなった結果、最近では、むしろ論文や本の量が減り、質も低下しているように思われる。出版社は、定年退職した名誉教授ではなく、現役教授の本を出版したがっていると聞いたことがあるが、今や大学を定年退職でもしなければ、何よりも研究・執筆の時間がない。それをひと昔前と同じように、現役教授の本を出したいというのは、今の研究環境を知らないのではないかと疑ってしまう。 これだけ授業ノルマ、会議、書類の作成が増えているのに、以前と同じように研究時間を確保し、論文や本を執筆する時間などあるはずがない。その結果、多数の現役教員が名を連ねた薄っぺらな教科書、あるいはオムニバスの本が出版され、このままでは、日本の法律学は衰退するばかりだと危惧する。時代が変わったのだから、インターネット化を進めるべきだと思うかもしれないが、それでは、国がマイナンバー化をごり押するのと変わらない。十分な研究時間を与え、しっかりした論文や本を出版することなくして、法律学の未来はないものと思われる。 再度、私の大学院生時代に戻るが、その頃は、大手の大学教授は定年まで勤め、そのあと別の大学に天下りすることが多かったようである。私が北大に在籍していた2000年頃までは、それが当然と考えられ、東大などの母校に戻る場合を除き、多くは定年まで勤め、そのあと札幌近郊の私学でほぼ終身で勤めていたように記憶している。 しかし、関西で生まれ育った私は、北海道の環境に馴染めず、ちょうど法科大学院創設という話を聞いたので、中大への移籍を決めた。そのため、前述のとおり、北大の人たちからは、「裏切り者」と罵られ、「北大法学研究科叢書」へのエントリーさえも拒否された。私自身も、中大法学部の芳しくない噂を聞いていたし、何よりも研究室が曙橋(新宿)であるのに、中央図書館が多摩(八王子)にあるという研究環境の変化が待ち受けているので、「もう研究者としては終わり」と思っていた。北大の人たちからも、「お前は研究者をやめるつもりか」と言われたが、本人自身がその覚悟であった。 ところが、実際には、中大を退職するまでの間、年に数回は、多摩の中央図書館に通い、和洋の雑誌や本をコピーして、研究活動を続けることができた(今はキャンパスの都心回帰のため困難となってしまったが)。また研究スタイルを変え、外国の雑誌に書く割合を増やしたり、これまでの研究成果を踏まえ、体系書の執筆に取り組むなど、様々な試みをするようになった。やはり研究への思いは断ち切れなかった、ということである。 一方、北大では、2003年の国立大学民営化以降、様々な要因によって研究環境が悪化し、そのまま北大に残っていたら、それこそ研究者生命は終わっていたであろう。現に50代で東京の私学に移る人が増え始め、定年まで残る人も、63歳から65歳まで給与が半分となり、その後の再就職はない、という厳しい現実に直面することになった。したがって、私の決断は、決して間違っていなかったと思っている。 TOPに戻る ■弁護士登録のリスク ところで、退職後に弁護士登録をする人もいるので、念のため申し上げたい。おおまかにいえば、私は、法科大学院の創設前に北大教授を10年以上勤めていたので、司法試験合格および司法修習というハードルなしに、弁護士登録をする資格は有している。 https://www.moj.go.jp/housei/gaiben/housei07_00004.html しかし、中大の退職前に1年間の研究休暇をもらい、すぐにコロナのためオンライン授業を経験した者としては、仮に法律事務所でspecial councilorなどのポストを用意してもらったとしても、いまさら都心に通勤をする気にはなれない。また個人で弁護士事務所を立ち上げる人もいるが、今回のように坐骨神経痛で3か月間も杖をついて、休みながら歩いているようでは、すぐにでも廃業せざるを得なかったであろう。なぜなら、事務員の給与や事務所のテナント料、弁護士会費など、諸々の経費を稼ぐ必要があるからである。 中大ローの修了生のなかには、まだアソシエイトの者がいたり、企業法務に入った者もいるが、パートナーとして事務所経費を負担する身になれば、いずれ分かるであろう。弁護士事務所のなかには、1年目からパートナーとして事務所経費の負担を求めるところもあり、そのような事務所は、年々増えているようである。 さらに弁護士登録のリスクは、様々であるが、とくに委員会活動の義務があることが挙げられる。よく弁護士事務所のサイトでは、所属弁護士が弁護士会の様々な委員を務め、社会的正義のために働いているように書かれている。しかし、多くの弁護士会では、会費を徴収するだけでなく、委員会活動を義務としている。 仄聞したところによれば、それを免れるためには、三つの方法が考えられる。第1は、法科大学院の教員になることであるが、私の場合は、自ら退職したのであって、しかもこの年齢では、今さら採用してくれる法科大学院などあるはずがない。 第2は、弁護士会活動を免除してもらうための金銭を弁護士会に支払うことである。会費の増額と言ってもよいであろう。ビッグローファームでは、このように多めの会費を支払っても、本来の弁護士業務をしてもらったほうが収入が増えるであろうが、小規模な事務所では苦しいであろう。 第3に、弁護士会活動を義務としない会に登録することである。私がまだ香川大学に在籍していた頃、神戸大学の先輩が退職後に神戸に住みながら、沖縄弁護士会に登録して、弁護士活動をしていたという話を聞いたことがある。今はどうか分からないが、当時は、まだ米軍占領の時代に司法試験を受けないで弁護士登録をした人がいたからだそうである。しかし、これは、伝聞情報にすぎない。 ちなみに、東京の弁護士会では、上記の弁護士登録の基準を満たしていても、大学教員時代の専門などによっては、登録を認められない人がかなりいるようである。また、自宅で開業することは認められず、必ず事務所を設けるか、または既存の事務所に所属することが求められると聞いている。いずれにせよ、私は、自宅でコツコツ原稿を書いているのが性に合っているようである。 TOPに戻る ■大学政策への疑問 法科大学院および新司法試験に対する疑問は、『欧米諸国から見た日本法』所収の「若干の例に見る日本法への誤解」および筆者解題に書いたとおりである。 http://wwr2.ucom.ne.jp/myokuda/publications/japanese_law_examples.html しかし、まだ言い足りないことがあるので、法学(とくに国際私法)の分野における日本政府の大学政策について、疑問点を幾つか挙げたい。 ①年齢構成 法科大学院などの専門職大学院は、2004年から5年に一度の認証評価を受けることになり、それに対する疑問点は、上記の拙稿でも書いたが、中央ローについては、教員の年齢構成が高すぎるというコメントがいつも付いていた。実際のところ、大部分の教員は、60歳以上であり、50歳台以下が少ないので、研究科長からは、新規の人事の際に、原則として、60歳以下とするよう求められていた。 しかし、これは、ダブルスタンダードであり、東大教授が63歳で定年退職となった後は、何の問題もなく、中央ローでの人事が進められているようである。また法科大学院では、一定以上の経験年数がなければ、常勤の教授として採用しないと言っておきながら、年齢構成が高すぎるというのは、ある意味矛盾している。 たとえば、研究者教員の場合は、当該科目の教育歴が求められるから、中大の学部や他の大学で採用された者を引き抜くことになる。かつて東京の私学では、互いに引き抜きをしないという不文律があると聞いたことがあるが、それほど本来は、仁義に反する行為であると認識されていた。とくに一定年数以上勤めてきた研究者を引き抜くのは、引き抜かれる大学側にとっては、迷惑であろうし、勤務年数があまり長くない場合には、やはり差し障りが色々あると思われる。 また実務家教員については、拙稿では、補助的役割しかないと主張したが、国側は、一定数以上の実務家教員の採用を求めている。しかし、裁判所や検察から派遣されてくる者は、数年しか在籍せず、その間、授業以外に研究をするかと言えば、疑問に思われる。普段から研究をしたことのない者がいきなり法科大学院に派遣されたからといって、その間だけ研究をするとは思えない。また弁護士は、若い頃には、本来の弁護士業務に多忙であり、一定の年齢以上になり、事務所の運営を他の弁護士に任せることが可能にならなければ、法科大学院の常勤の教員にはならないであろう。すなわち、実務家教員、とくに弁護士教員が高齢であるのは、ある意味で必然と思われる。 ②国際私法 国際私法という分野は、本当に誤解が多く、一般の人だけでなく、国の官僚や教授会の他の構成員でさえも、理解していないと言わざるを得ない。たとえば、国際私法という科目がないのに、国際取引法という科目を設けたがるのは、無理解にも程がある。 私が最初に香川大学に採用してもらった当時は、まさに法学部であるのに国際取引法担当であった。新設学部であるから、設置認可の審査を受けるが、文科省は、疑問に思うどころか、それを望ましいとさえ思っていたようである。しかし、私は、教授会で最年少であるにもかかわらず、「国際私法がないのは変だ」と力説し、結局、国際取引法(実質的には国際私法の財産法部分)と国際私法(実質的には国際法の家族法部分)を隔年で開講するよう、カリキュラムを改正してもらった。 実際のところ、他大学の例をみても、担当科目は、国際取引法であるのに、研究は、国際家族法に重点を置いていたり、国際私法の担当教員として、国際家族法も講義しているのに、財産法分野の業績しかない者もいる。しかし、法科大学院で採用する際には、結局のところ、当該科目の教育歴の有無が重視されるから、一定年数以上、国際私法の授業を担当したことがあるか否かという基準でしか、人事を進めることができない。 これは、本当に愚かなことである。国際私法と国際取引法の違いも理解できない人たちに、我々研究者が翻弄されている実態をみたら、日本の国際私法の将来はないだろうと悲観せざるを得ない。 TOPに戻る ■法科大学院助教の疑問 新着 現在(2025年9月)、中大ローでは、任期制助教を公募している。 https://www.chuo-u.ac.jp/aboutus/recruit/news/2025/07/81561/ それは、主に法科大学院を修了し(中大に限らない)、司法試験に合格した者を対象としている。しかし、私の知る限り、第1回目は、東大ローを修了し、助教期間中に論文を書いたが、今に至っても、他大学のポストに就いているようである。第2回目は、すでに弁護士として活動していたが、助教期間中に論文も書けず、そのまま退職したようである。第3回目は、中大ローを修了し、助教期間中に論文を書いたが、今のところ、他大学のポストに就いているようである。 この3回目の助教については、副専攻が国際私法というので、私が担当を依頼されたが、司法試験で国際関係法(私法系)を選択したというだけであり、私の授業さえ受けておらず、国際私法と国際取引法の区別さえできないような人であった。加えて日本の判例学説を中心に研究すると言って、教授会でもそれを良しとする雰囲気があったが、私は、「それでは、助教論文として認められない」として反対し、副専攻の指導を担当するのも断った。 たしかに、欧米では、自国法の研究を中心として、論文を書くのが主流であるが、日本の法律研究者が同じわけにはいかない。たとえば、外国判決の承認要件としての間接管轄に関する最高裁判決について、最高裁調査官(エリート裁判官)が「鏡像理論」を採用するものではないと書いているが、本人は、ドイツのSpiegelbildtheorieに関する判例学説を原語で読んだことがあるのか、疑問に思われる(日独の条文が異なることは、現在執筆中の『国際家族法〔第3版』に書く予定である)。 ことほど左様に、日本法について書くにしても、外国法研究をしっかりとして、違いを明らかにすることこそ、研究者の役目であると思われるが、残念ながら、わが国では、研究者でさえも、外国の判例学説を受け売りし、条文の違いさえも無視する例が絶えない。日本の法科大学院制度がAmerican Law Schoolと似て非なるものであることは、「若干の例に見る日本法への誤解――比較法的観点から」『欧米諸国から見た日本法――多様な視点を求めて』(共編著、中央大学出版部、2024年)に詳しく書いたとおりであるが、そのような例は、枚挙に暇がない。 本当に法科大学院助教を育てるのであれば、いかに苦しくても、外国法研究をしっかりしたうえで、「違いが分かる」研究者になってほしいと願っている。 TOPに戻る --------------------------------------------------- Copyright (c) 2025 Prof. Dr. Yasuhiro Okuda All Rights Reserved |
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