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若干の例に見る日本法への誤解――比較法的観点から



マーク・デルナウア/奥田安弘編著『欧米諸国から見た日本法――多様な視点を求めて』(中央大学出版部、2024年)第8章(所収)

著者解題

研究者の生活】【本を読むのが好きな人?】【外国語のできる人?【審議会の問題点
大学とは何か?】【入試は大学教員の仕事か?】【法律は言葉の学問】【大学の後継不足
法律研究の崩壊?】【子どもは大人の影響を受ける】【追記1:本書の意義
追記2:本の出版】【追記3:「従来から」は誤用?】【追記4:学会誌は必要か

追記5:弁護士への信頼度


研究者の生活

この度、マーク・デルナウア/奥田安弘編著『欧米諸国から見た日本法――多様な視点を求めて』(中央大学出版部、2024年)を出版しました。
 http://wwr2.ucom.ne.jp/myokuda/publications/japanese_law.html

そのなかで、「第8章 若干の例に見る日本法への誤解――比較法的観点から」を書きましが、とくに以下の記述(279頁~280頁)の背景を紹介します。

喩えて言えば、大学研究者の仕事は、白鳥の泳ぎのようなものである。すなわち、水面上は優雅に泳いでいるように見えるが、水面下は必死で足を動かしている。世間的には、大学の授業や会議、さらには学外活動などで活躍している人が優秀な研究者と思われているようであるが、大学を所管する文科省の職員が同じような認識では困る。一般の目からは見えない大学の研究室あるいは自宅などで、黙々と外国語文献を読んで、本や論文の執筆に膨大な時間を費やすという地道な活動があってこそ、教育などをすることができるのである。

このような文章を書いたのは、その頃に下記の記事を見つけたからです。

名古屋大学附属病院「自己研鑽」
 https://www.asahi.com/articles/ASRCC4T3WRCBUTFL00N.html
 https://www.asahi.com/articles/ASRD173XNRD1UTFL01X.html

要するに、名古屋大附属病院では、勤務医が時間外に病院に残り、学生に教えたり研究論文を書いたりしても、原則として労働時間と認めず、無給で自主的に勉強した「自己研鑽」として扱っていると言うのです。

法律の教員も、私の経験によれば、国立大学では、勤務時間が決まっており、また私学に移ってからは、少なくとも中央大学では、教員の勤務時間がそもそも決まっていませんでしたが、いずれにせよ研究のため、週末土日など、世間が休みの時でも、研究室に出ていました。

私たち法律研究者の目からは、名古屋大学附属病院において「自己研鑽」の無給が問題となるのは、むしろ研究時間が少ないことに問題があるのだろうと思われます。職業が大学の教員だと知ったら、「授業が少なくて良いですね」と言う人がいますが、それを聞くと悲しくなってきます。

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本を読むのが好きな人?

法律の分野に話を絞ります。この分野の研究者について、よく言われるのは、「本を読むのが好きなのですね」という言葉ですが、そこには少し誤解があります。

そもそも私たちは、自分が論文や学術書を書くために、他の人のものを読むだけであって、アウトプットがなければ、何の意味もありません。その論文や学術書は、オリジナリティ(独創性)とフィージビリティ(実現可能性)の両方を兼ね備えている必要があります。

つまり、いくら独創的であっても、単なる思いつきでは通用しません。逆に実用性があっても、既存の判例や学説をまとめたにすぎないものは、学問的価値がありません。外国の立法・判例・学説を紹介するだけであっても、同じです。

たくさん外国の文献を引用していても、他の人が読んだら、そんなことは書いてないということがよくあります。また、その裏側にある社会的・経済的・歴史的な背景、法体系全体の調和、実際の運用などを調べないで、日本に取り入れるべきだと主張しても、実際には、まったく日本法には適さないということがあります。

要するに、文献を多数かつ正確に読んでいるのは、当然のことであり、それを踏まえて、他の人が書いておらず、かつ説得力のある独創性が求められる、それが大学研究者の「本来の仕事」です。

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外国語のできる人?

私も力が有り余っていた40代・50代の頃は、実務家やマスコミなどの招きで、啓蒙的な話をしに行くことがありましたが、そこで辟易したのは、「大学の研究者だから、自分たちの知らない外国法の話をしてほしい」と求められることでした。

そもそも外国法を調べるためには、まず外国語を習得する必要があります。「いろんな国の言葉が出来て良いですね」と言われることがありますが、学生時代から今日に至るまで、どれほど苦しい思いをしているのか、想像してもらえないのが残念です。私の学生時代は、カセットテープを毎日聴き、今も電車での外出時には、MP3でダウンロードした海外のニュース(英・独・仏)を聴いています。

なかには、幼少の頃に親の仕事の都合で外国に住んだことがあり、まさにバイリンガルという人もいますが、私のように、ずっと日本に住み続け、大学院を終える頃に、やっとドイツの留学試験に通って、初めて海外に出た人間にとっては、外国語は努力して習得するしかありませんでした。

外国語くらいは、その国に住めば、自然に覚えると思っている人がいますが、日常会話ならともかく、学術的な問題について読み、書き、話せるようになるためには、相応の努力が必要となります。それでも限界があるのが「言葉の壁」です。

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審議会の問題点

その意味で問題と思うのは、政府の各種審議会です。上記の「学外活動」のうちでも、審議会の委員になることは、世間的には、一流の大学教員の証であるかのように受け止められているようです。しかし、私たち研究者の間では、「雑用」と呼んで、これに追われる人は、研究時間を削られて、気の毒だと思いますし、積極的に参加したがる人は、研究から逃げていると疑われるでしょう。

(注)中大移籍後の経験を述べれば、まず大学の仕事は、最低限に絞っていました。たとえば、学部の授業や通信教育の授業を持ってほしいというお誘いがよくありましたが、すべて断りました。全学の委員も、一度会議のため多摩キャンパスまで行きましたが、他の学部の人が嫌がるようなことを述べたら、それから会議の通知が来なくなりました。マスコミの取材や講演などは、最初のうちは、内容次第で応じることが多かったですが、段々と断ることが増え、退職前の数年は、大部分を断っていました。さらに、『国際家族法』や『国際財産法』を出版するようになってからは、学会報告や判例評釈の依頼も断りました。全体のことを考えているという理由からですが、アドホックに、本書のような本を出版したり、内外の雑誌に書いたりすることはあります。力の有り余っている若い人には、ぜひ「断る勇気」を持ってほしいと願っています。「雑用」を理由として、研究成果を挙げれないのでは、「逃げている」と言われても仕方ありません。

問題は、審議会のあり方自体です。欧米主要国の法律の条文を単に並べて、あたかも世界の動向を示したかのように嘯き、日本も同じような立法をすべきであると主張していることがあります。また、それと異なる立法をする場合も、従来の日本の判例を金科玉条のごとく扱い、それを立法化するだけで、十分な合理性があるかのように主張していることがあります。

さらに困るのは、当の大学研究者の間で、審議会の権威を絶対的なものとし、議事録には出ないような立法の裏側を知っていると自慢したり、同じように諸外国の法令を表面的に調べただけで、論文や本を出したり、酷いものは、日本の判例や学説を単に整理したにすぎないものを論文と称して公表する例を目にすることです(そうでないものも多数ありますが)。

本当の研究の意味は、それらにあるのではなく、もっと広い視野に立って、オリジナリティとフィージビリティを兼ね備えたものを書くことにあるのではないか、とくに力の有り余っている若い研究者には、それを要望します。

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大学とは何か?

学生の話に移りましょう。私の学生時代から、すでに「大学のレジャーランド化」という言葉がありましたが、それは、学部によって異なるでしょうし、学部と大学院とでも異なるでしょうし、今は、もうレジャーランドを通り越しているのかもしれません。

何よりも不思議に思うのは、大学スポーツに推薦入学の制度があることです。推薦で入学した学生は、一日中練習に明け暮れ、大学の授業は、期末試験で顔を見ることがある位だと聞きます。それでも卒業できるのは、「めくら判」で単位を与えているからとしか考えられません。それで「学士」と言えるのでしょうか。

アメリカでも、大学スポーツが盛んであり、プロ並みだと言われていますが、日本と大きく異なるのは、他の学生と同様に評価されるので、勉学にも励む必要があることです。日本であれば、「文武両道」とはやし立てますが、大学生である以上、むしろ当然のことです。

日本とは大違い! アメリカの大学スポーツの実態
 https://www.ryugaku.com/sakaecolumn/daigakusuports.html

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入試は大学教員の仕事か?

日本の大学と欧米の大学の違いとして、入試制度の違いがよく挙げられます。

各国の大学入試について リンク
世界の大学入学制度
 https://okke.app/post/university_entrance_2023

「各国」とか「世界」と言いながら、比較の対象は、前者は独仏英米、後者は米英独であり、こういうところにも、欧米偏重が窺われます。それより問題であるのは、日本が共通テスト+個々の大学の入試によっているのに対し、これらの欧米諸国がむしろ高校の成績や卒業試験によっていることです。論理的に考えれば、大学の入学時点では、高校での勉学の成果を評価するのですから、それは、「高校の仕事」と言えます。

ところが、日本の場合は、個々の大学が入学者を選抜するという考えによっているのか、あるいは高校の評価を信用できないと思っているのか、「大学の仕事」と考えているようです。大学の仕事とは言っても、結局のところ、大学教員が入試の出題・監督・採点に駆り出されるため、これも研究時間を奪う要因となっています。

法科大学院の入試も同じです。7月末に前期の授業や期末試験を終え、やっと8月上旬に採点作業を終えたら、法科大学院の場合は、すぐに入試の季節がやってきます。とくに既修者コースの試験科目になっている六法科目の教員は、その前から出題に追われ、8月下旬以降の本番を終えたら、今度は採点に追われます。

世間的には、「受験生の一生を左右するのだから、教員がそれ位の仕事をするのは当然だ」と思われるかもしれませんが、法科大学院は、せっかく入学しても、成績が悪ければ、(単位だけ揃えても)留年となり、留年が続けば退学ですし、せっかく修了しても、司法試験に通らなければ、修了の意味がありません。

つまり学部のように、入学さえすれば、ほぼ全員が卒業し、良い会社に入れるわけではありません。そうであれば、法科大学院の学生は、自己責任として、「入学したければどうぞ」、「しかし修了は保証できません」、「司法試験の合格はなおさら保証できません」ということで構わないのではないでしょうか。

ただし、そのためには、現在の未修者コースや既修者コースという区分をやめて、法学部で一定の成績を収めた者だけを入学させる制度に変える必要があります。つまり法学部出身者以外は、学部からスタートしてもらうという発想です。そんなことを提案しても、実現するとは思えませんが。

(注)どうにも理解できないのは、未修者コースという制度です。本書270頁以下のとおり、これは、米国のロー・スクール制度を真似た疑いがありますが、大きな誤解によります。現に私は、現役時代に司法試験合格者名簿をいち早く事務で受け取り、ゼミの出身者の合否を確認していましたが、既修者の大部分が合格しているのに対し、未修者は、ほとんど合格しませんでした。本人たちからすれば、法科大学院の入学試験は、小論文や面接とはいえ、合格したので、司法試験も合格するものと思ったのかもしれませんが、その期待は、見事に裏切られたことになります。現に2023年までの統計によれば、既修者の合格率が30%台から40%台であるのに対し、未修者の合格率は、おおむね10%台で推移しています。未修者教育については、様々な提言がなされていますが、そもそも前提に誤りがある以上、それを存続させるのには無理があります。何よりも本人たちの人生を狂わせることに思いを致すべきでしょう。

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法律は言葉の学問

私が法科大学院で約20年間教えた経験によれば、前半の10年と後半の10年とでは、大きな違いがあります。それは、小中高において脱ゆとり教育が普及した時期にも重なっていますが、その他にもスマホやLINEの普及なども関係しているように思います。

法律は「言葉の学問」です。それは、実務家養成を目的とする法科大学院も同じであり、たくさんの言葉を駆使して、説得力のある文章を書く必要があります。ところが、私の現役時代の経験では、法律の条文をそのまま写して、あとは結論しか書いていないという答案が多数見受けられました。

他の教員は知りませんが、少なくとも私は、オリジナルな試験問題を出していました。つまり授業で取り上げた事例(最高裁判例など)、司法試験の過去問、どこかの本に書いてありそうな事例などは避け、あるいは一捻りして出題していました。それには、膨大な時間と労力を必要としますが、裁判では、常に前例のないような事件に取り組むことになるので、それが当然だと考えてきました。

しかし、残念ながら、学生のほうは、かつて見聞した事例そのままでなければ、お手上げ状態になるようで、法律の論理がまったく欠けてしまうか、または論理的にあり得ないような思いつきを書いてしまうことが多くありました。それは、司法試験でも同様であり、最近の採点実感では、思いつきの答案でも「一定の評価をせざるを得ない」という開き直りが見られます。
 http://wwr2.ucom.ne.jp/myokuda/memorandum/bar_examination.html

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大学の後継不足

以上のように大学研究者の本来の仕事や現状の話をしたら、「大学の研究者なんかになりたくない」と思われたでしょう。理系については、以前から大学の研究環境が悪いとか、後継者不足に困っている、という話がネットでよく取り上げられています。

日本人はもうノーベル賞を取れない
 https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2017/09/story/news_170928_2/
 https://toyokeizai.net/articles/-/307150
 https://diamond.jp/articles/-/284194

(注)京都大学のウェブサイトでは、ノーベル賞をはじめとする各賞の受賞者一覧を掲載しています。なかには、京都大学関係者だけを掲載しているものがありますが、ノーベル賞などは、日本人(元日本人)のすべてを掲載しています。これをみると、ノーベル賞の受賞者は、圧倒的に理系が多いのですが、今後は、アメリカの研究機関に所属していたり、さらにアメリカへの帰化により、日本国籍を失っていたりする人が受賞する例があっても、日本の研究機関に所属している人の受賞が今後あるのかと危惧します。
 https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/about/history/honor/award-b/nobel

法学の世界も全く同じです。もはや田中耕太郎『世界法の理論』のような本が出ることはないでしょう。また、法学部や法科大学院では、研究者教員が定年退職になったあとの後任人事に苦労しています。そのため私は、第8章のⅤで「大学の研究環境」を取り上げました。

本当は、このままでは日本の法律研究が駄目になるとか、後継者が育たないということが書きたかったのですが、過激な部分をなるだけ削除しました。「大学を所管する文科省の職員が同じような認識では困る」というのは、せめてもの抵抗の証です。

(注)世間的には、大学教員の仕事は楽そうに見えるかもしれませんが、楽な仕事などありません。何よりも大学教員としての職を得るために、大変な努力が必要ですし、大学教員になってからも、いわゆる「雑用」の合間をぬって、研究成果を挙げる必要があります。大学院で長い学生生活を送るのだから、楽だと思われるかもしれませんが、その間のストレスは大変なものです。会社勤務や法曹実務家の人は、自分たちのほうが余程大変だと思っているかもしれませんが、大学教員の場合は、その大変さが世間の目から見えないだけです。
私は、ハンブルク空港から大学のゲストハウスまでタクシーに乗る際は、必ず助手席に座って、運転手と話をしていましたが、なかにはハンブルク大学で博士号まで取ったのに、就職がなくてタクシー運転手をしている人にも何人か会いました。ドイツでは、法学部に入学しても、司法試験(2回試験)に通らなければ、タクシー運転手をするしかないと言われています。そのため、私が1981年に初めてハンブルクに行った際にも、大学の近くに司法試験予備校(なぜかフランス語でécole préparatoireと言います)があり、多くの学生が今も通っているそうです。かつては、弁護士でも博士号を取得する人が多く、皆そのためのゼミナール(Oberseminar)に参加していましたが、今は博士号を目指す人が少なく、ドイツでもLL.M.の制度を設けたり、教授職が少ないため、任期制のJunior Professorという制度を設けたりしているようです。

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法律研究の崩壊?

私が退職した2023年春、中央大学の研究環境は劇的に悪化しました。学生の募集改善を優先し、法科大学院は駿河台(御茶ノ水)、法学部は茗荷谷、比較法研究所は後楽園に移転したのです。いわゆる「都心回帰」です。それに伴って、法科大学院の図書は、多くが削減され(もともと和書が中心ですが)、多摩キャンパスにあった図書は、ほんの一部だけが茗荷谷に移転され、比較法研究所の図書は、最近数年間の洋雑誌などだけが後楽園に移されました。

退職後は、もはや研究室がなく、自宅には妻や自分の法律外の本が山積みになっており、それらを整理しながら、必要最小限度の本を引き取るのがやっとでした。研究室にあった多くの図書は、中大の予算で買ったものは図書館に返還し、私費で買ったもの(海外滞在中に購入したものを含む)は多数廃棄しました。そのうえ、大学の図書室が分散されてしまったのでは、息の根を止められたのも同然です。

現役の教員も、研究時間が足りない状況で、大学の図書室が分散されたのでは、研究に大きな支障が生じます。MARCHの多くは、「授業さえしてもらえば良い」という状況のようですが、ついに中大も、そのレベルにまで落ちたのかと嘆くしかありません。

中大もタコ足大学になったのだから、研究環境の悪化は仕方ないと思われるかもしれません。しかし、その気になれば、いくらでも改善策があります。たとえば、法科大学院のある駿河台(御茶ノ水)、法学部のある茗荷谷、比較法研究所のある後楽園は、それほど離れていないので、その中間くらいの場所に共同利用の図書室を設け(ビルの一部でも構いません)、教員や学生が資料をまとめて閲覧できる環境を整備することが考えられます。ただし、法科大学院の制度改革と同様に、そんなことを提案しても、実現するとは思えませんが。

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子どもは大人の影響を受ける

この見出しは、何かの間違いと思われるかもしれません。しかし、法科大学院の学生でさえも、他の学生のことを「子」と呼び、さらに修了生で弁護士になった者も、他の同窓生のことを「子」と呼ぶのです。

「子」というのは、「親」との関係では、何歳になっても「子」ですが、他人である学生や同窓生(18歳どころか、30歳を過ぎている者)を「子」と呼ぶのは変です。彼らの意識のなかでは、自分たちは、いつまでたっても「子」なのでしょう。

その子どもたちは、大人の影響を受けます。たとえば、法科大学院の教員が研究時間を確保することができず、ストレスを抱えている場合に、おそらく学生はそれを感じ取り、自分たちもストレスを感じるでしょう。教員(大人)が学生(子ども)に与える影響は、法科大学に限りません。

今は、0歳児保育などもあるそうで、そういう保育園から幼稚園、小中高、大学、法科大学院、職場に至るまで、常に子どもたちは大人の影響を受けています。つまり子どものストレスは、すべて大人のストレスの反映と考えられます。

大人の与える影響(保育園の例)
 https://www.kizukihoikuen.jp/diary/other/3312.html

そうであれば、子どものストレスを解消するためには、まず大人のストレスを解消すべきであり、法科大学院では、教員のストレスを解消すべきことになります。さらにさかのぼれば、教員のストレスは、文科省の職員のストレスに由来しているのかもしれません。しかし、それを理由に、文科省が大学教員の貴重な研究時間を奪ってよいはずがありません。

国家公務員と教員のストレスの共通点を指摘する声もあります。
人手不足のブラック職場「官僚と教師」の共通点
 https://toyokeizai.net/articles/-/693570?display=b

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追記1:本書の意義

本書の校正が終わる頃になって、似たようなタイトルの本が何冊か出版されていることに気づきました。『アメリカから見た日本法』、『外から見た日本法』、『アメリカ人が驚く日本法』、『日本法の中の外国法』などです。しかし、本書は、これらの本とは大きく異なっています。何よりもドイツ人の論文が中心とはいえ、広く欧米人がなぜ日本法を研究するのか、という根源的な問いに答えようとしています。

第1章から第5章までは、私がドイツ人のドイツ語原稿を大幅に意訳した後、原著者自身がそれをチェックして、日本語またはドイツ語で修正案をメールし、それに対し、私がさらに修正案をメールする、というやりとりを繰り替えしました。第6章と第7章は、かつて同じような方法を使って、ドイツ人およびオーストラリア人と一緒に書いた論文を大幅に加筆修正したものであり、第8章は、第7章までの論稿を踏まえて、私が書き下ろしました(このシリーズでは、少なくとも1本の書き下ろしが求められています)。

なぜ第1章から第5章までを「奥田訳」としなかったのかは、疑問に思われるでしょう。その答えは、一部は「序文」に書きましたが、原著者のドイツ人は、すべて日本語の読解能力が完璧だからです。ただ日本語を書くのは大変であり、それは、私たち日本の研究者がドイツ語を読めても、書くのは、ネイティブチェックが必要であるのと同じです。さらに翻訳は、何よりも原文に忠実であることが求められます。しかし、ドイツ語と日本語のニュアンスの違いから、原著者の意図とは異なる表現になったり、あるいは誤訳さえも生まれかねません。原著者のドイツ人も、日本人研究者の著作については、多くの場合に、ドイツ語や英語などで書かれたものを引用することが多いですが、なかには日本語の著作を引用しています。ただし、それらを論評しますが、翻訳はしていません。それは、日本人の著作が翻訳に値しないからではなく、翻訳自体に限界があるからではないでしょうか。

(注)私が初めてドイツ人にドイツ語で書くよう勧められ、ネイティブチェックを受けたのは、Zur Anwendungsnorm der Haager, Visby und Hamburg Regeln, Schriften des Deutschen Vereins für Internationales Seerecht, Reihe A, Heft 45, Hamburg 1983です。それは、当時ハンブルクで知り合ったラインハルト・ノイマン弁護士のお蔭です。その後、ロベルト・ホイザー教授(当時は、DAAD講師として神戸大学在任中)の勧めで、Tendenzen des japanischen Handels- und Wirtschaftsrechts 1983-1987, in: Recht der Internationalen Wirtschaft, 1989を執筆し、イボ・カウフマン助手の援助で、Neuere Entwicklungen des Staatsangehörigkeitsprinzips im Japanischen IPR, in: The Hokkaido Law Review, Vol.42, No.6, 1992を執筆したりしました。逆に、外国の日本法研究者と一緒に日本語で書いたのは、「フジモリ元ペルー大統領に関する国籍法および国際刑事法上の諸問題」北大法学論集54巻3号(2003年)をケント・アンダーソン教授と一緒に執筆したのが始まりだと思います。本書は、その集大成といえます。

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追記2:本の出版

私がいうのも何ですが、本の出版は大変な作業です。まず、原稿を書くのに1年以上の歳月を要し、その間に何度もプリントアウトをして、見直し作業をします。見直しが不十分なために、校正で苦労しないためです。

校正作業は、著者校正と社内校正があります。つまり編集者との共同作業となります。編集作業を誰に頼むのかは、重要な問題であり、誰でも良いわけではありません。通常、校正ゲラの作成は印刷所に頼むので、2か月程度かかります。ただし、私の本を多く出版している明石書店では、編集者が自分で専用のコンピュータを使って、ゲラを作成し(普通のPCでは無理であり、かつ外国製と聞いています)、コストと時間を削減しています。

普通の本は、2回で校了となりますが、私の場合は、3回行うことが多いです。校正期間は、初校で1か月、再校で2週間、3校はPDFで送ってもらい、2~3日でチェックします。長い修正の場合は、別紙を作成し、ゲラには「別紙(番号付き)」と書きますが、本書では、別紙だけで10頁以上になりました。もちろん校正ゲラは、場所により赤字で埋まりました(ただし、赤字がほとんどないページも多くあり、それは脱稿前の見直しの成果です)。

通常の出版社では、入稿から出版までに半年以上かかり、明石書店でも、4か月くらいはかかります。原稿の執筆からは、1年半以上かかります。最近は、SNSなど、情報の早さだけが重宝がられますが、それが多くの問題を起こしていることを想起すれば、早ければ良いというわけではないと思います。

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追記3:「従来から」は誤用?

校正には、様々な苦労がありましたが、一つだけ裏話を紹介します。それは、「従来から」は誤用か、という問題です。中央大学出版部の編集担当者は、私の『国際私法と隣接法分野の研究・続編』も担当して頂いた方であり、全幅の信頼をしていますが、第8章の鉛筆書きで、「従来から」を重複表現とし、「従来の」または「以前から」に修正する案が書かれていました。

たしかに、国語辞典などでは、「従来から」は誤用と断定しており、修正が必要とされています。しかし、国の公用文作成の要領(その後、公用文作成の考え方により改訂)を見ると、「慣用になっていたり強調などのために用いたりする場合もあるため、一概に誤りとも言えないものがある」として、真っ先に「従来から」が挙げられています。

公用文作成の考え方
 https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kokugo/hokoku/93650001_01.html

本書の他の章も、日本語版の原案は、私が作成したので、WORDで検索したところ、「従来から」と書いている例が多数ありました。おそらく他の本や論文でも、「従来から」をそれこそ従来から使っていたのでしょう。

そこで、この機会にすべて改めることにし、「従来の」、「以前から」などに修正しました。そのため、再校ゲラの修正が増えましたが、良い機会になりました。たしかに、間違いではないのでしょうが、多用するのは、問題だと思いました。これまでも、いろいろ指摘をしてくださる方々がいて、それを機会に直したことがあり、良い仲間を持って幸せです。

そうしたところ、野球のプレミアム12が東京ドームで開催されているのを観戦していたところ、バックネットの広告に「頭皮のスキンケア」と大きく書いているのが気になって仕方ありませんでした。某大手化粧品会社の商品の宣伝文句として使われているようであり、その会社のサイトでも、大々的に宣伝しているのを見つけました。これこそ、重複表現の典型であり、おかしいと思わなかったのかと不思議です。

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追記4:学会誌は必要か

本書の第8章Ⅴの1において、学会が学術会議の協力団体として認定してもらうため、学会誌の発行を要件とするのは、理系の発想であると批判しました。その理由として、文系、とくに法律の学会では、所属大学の紀要に長い論文を掲載するのが従来の慣行であるのに、学会誌では、字数が制限されるため、学会報告の準備に対する意欲がそがれることを指摘しました。

現に2025年1月に国際私法学会の『国際私法年報』26号が届いたので、ベージを繰ってみたところ、ある学会報告の原稿に「紙幅の制約ゆえ、より詳細な紹介と検討は別稿に譲りたい」という記述を見つけました(241頁注30)。それは、条約の国内受容に関する諸外国の状況について、僅か3頁弱でまとめざるを得なかった理由を書いたものです。

私の提案は、どうしても学会誌が必要だというのであれば、少なくとも個別報告については、要旨のみを掲載し、本格的な論文は、大学紀要に掲載するというものです。改めて意を強くしました。

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追記5:弁護士への信頼度

2025年1月17日のフジテレビ社長の記者会見は、メディアで多数報道されており、その中で日弁連の第三者委員会ガイドラインに沿っていないという点が問題視されているので、以下に原文へのリンクを貼っておきます。
 https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/report/data/100715_2.pdf

それによれば、「第三者委員会の委員となる弁護士は、当該事案に関連する法令の素養があり、内部統制、コンプライアンス、ガバナンス等、企業組織論に精通した者でなければならない」とされています。しかるに、フジテレビ社長の記者会見では、弁護士を中心とした「調査委員会」を設置するというので、問題となっているのです。
 https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2025/01/18/kiji/20250118s00041000178000c.html

一般の方は、弁護士が中心となっているから問題ないと思ったかもしれませんが、単に司法試験に通って弁護士の資格を有していれば、誰でも良いというわけではありません。私のサイトでも、昨今の司法試験の実態を踏まえて、次のように書かざるを得ませんでした。

司法制度改革の当初の理念は、高度な法曹養成だったはずですが、「やぶ医者」ならぬ「やぶ弁護士」が広まってしまうのではないかと心配します。一般の方は、弁護士という肩書に騙されず、ご注意ください。
 
司法試験:国際関係法(私法系)〔2024年度司法試験〕
 http://wwr2.ucom.ne.jp/myokuda/memorandum/bar_examination2.html

本書の第8章Ⅳ「法科大学院」は、まさにその点を問題にしています。司法試験の受験者数や合格者数という帳尻合せのために、どんどん悪い方向に向かっています。かねてより危機感を抱いていた私にとっては、上記のメディア報道がそれを如実に表しています。

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