ブラジルの現代美術

                                        小林  滋


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 その国に数年間居住したことも動機となって、東京国立近代美術館で開催されているブラジル現代美術展「Brazil;Body Nostalgia」 (期間;6月8日〜7月25日) に行ってきました。

 ブラジルというと、移民が大量に渡っていますから日本でよく知られていると思いきや、実はこれがお寒い限り。地球の裏側の遠い国のためか、せいぜいのところ“リオのカーニバル、アマゾンのピラニア、サッカー王国”といった程度の反応しかみられないのが普通です。しかしながら、言うまでもなく、その地には素晴らしい文化が生まれています。マシャード・デ・アシスとかジョルジ・アマードが書いた小説、『黒いオルフェ』とか『セントラル・ステーション』といった映画、オスカー・ニーマイヤーの建築(ニューヨークの国連ビルや首都ブラジリアの設計)、カルロス・ジョビンのボサノバ(「イパネマの娘」)などなど。

 今回の展覧会では、殆ど日本に紹介されたことのないブラジル現代アーチストの中から人の作家が選ばれ、その作品が展示されています。同国で生活したことがあると冒頭に申し上げましたが、こと美術に関しては(それも現代アートとなると特に)なかなか触れる機会はありませんでした。そこで、大きな期待を懐きつつ、竹橋まで足を運んだ次第です。

 
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 会場で最初に出くわすのが、1920年代を代表する画家タルシラ・ド・アマラウの二つの画。巨大な卵を抱いた蛇が描かれている「ウルトゥ」と、画面をはみ出さんばかりに人物を描いた「黒人女性」です。展覧会カタログの解説によれば、当時夫だった詩人のオズワルド・デ・アンドラーデが、妻のタルシラの絵に触発されて『食人宣言』を発表し、西欧の文化を単に模倣するのではなく、必要な利点のみを選択的に「食べ」て吸収し、それを栄養分として地に足のついた表現を生み出すことを唱えた、とのことです。これを読んでもう一度二つの絵を見てみますと、なんとなく一つに合体し、旺盛な食欲を示す女性(=ブラジル)が、分厚い唇を持った口を大きく開けて、巨大卵(=西欧文化)を飲み込んでいるかのような感じとなります。

 今回は出品されておりませんが、タルシラは、他にも「食人」とか「食べる人」といったタイトルを持つ絵を描いています(カタログに掲載)。「食べること」に随分とこだわる画家だったといえるかもしれません。
 
 そういえば、ブラジル人の食べることに対する執着には目を見張るものがあります。その旺盛な食欲が遺憾なく発揮されるのは、何といっても“シュラスカリア”といわれるレストラン。お店では、同国産の牛肉(塩による味付けがなされています)を串刺しにして焼いただけの単純な料理“シュラスコ”が出されます。勿論、ポルコ(豚肉)やフランゴ(鶏肉)もありますが、やはりカルネ(牛肉)が中心です。なかでも、クッピン(牛の瘤)とかマミーニャ(胸の肉)など、安価ですがわが国では余りお目にかかれない部位の肉が、非常に硬いながらも却っておいしく、食べ放題で2500円程度の値段ですから、地酒のピンガ(あるいはカイピリーニャ)を飲みながらドンドン食が進みます。それでも、日本人がどんなに頑張ってみたところで高が知れてて、食べる量はブラジル人の三分の一程にもならないでしょう。かなり後から入った我々が済んでしまっても、彼等はマダ食事の真っ最中といった感じです。

 ただ、現地の日系人が開くパーティーでこの“シュラスコ”が出される場合には、様子がヤヤ異なって、手の込んだタレの中に前の日からタップリと漬け込んでおいた肉が焼かれるようになります。それも一番柔らかいフィレミニヨンが専らですから、“シュラスカリア”で出されるものに比べたら、数等美味なことは間違いありません。ですが、スグにお腹に凭れてきて、食べ続けることが出来なくなってしまいます。

 同じようなことは、あるいは朝食のパンについても言えるかもしれません。ブラジルで生活している時は、毎朝、近くのパン屋に買いに出かけます。単に塩味がついているだけのせいぜい10円程度の安いものですが、オレンジジュースとコーヒーを飲みながらこのパンを食べますと、ナントも言いようのない味がしました。

 他方で、このところ近くの商店街のパン屋で売られているパンは、皆どれもズット軟らかく、様々な味付けがなされるなど、工夫が相当凝らされております。値段も欧米に比べたら高いものの、大層美味ですから売り上げもかなり伸びていることでしょう。最近銀座プランタンなどで販売され出しています欧米産の冷凍パン(欧州で焼き上げ寸前の素焼状態で急速冷凍したもの)も、あの単純そのものの硬いパンだけではなく、中にガーリックなどを添加した柔らかい製品も併せて並べられています。
 
 同じ肉、同じパンとはいいながら、日本のものは外国とどうもかなり違っているようなのです。話が飛躍して恐縮ですが、これはあるいは、外来のものに対する日本人の対処法、その受容の仕方なのかもしれません。肉を使った料理が本格化したのは明治以降ですし、パンも戦後になって日常生活に入ってきました。そうして流入してきたものを、日本人は様々な工夫を加えて、肉の方は魚のように柔らかく、パンも粉っぽさの少ない種々の味の付いたものに変えてきたのでしょう。

 話をモット拡大すれば、食べ物だけでなく、例えば欧米で発明された自動車も、日本人がそれに様々な価値を付加し、逆に大量に外国に輸出されているところです。今や売れ行き絶好調のDVDレコーダーといったAV機器に関しても、様々の便利な機能が付いていますから、あるいは同じように言えるのではないでしょうか?

 
 
 ブラジル現代美術展の話に戻りますと、タルシラばかりでなく、他のアーティストの作品にもなかなか興味深いものがあります。特に、ディアスとリートヴェークによる「デヴォーショナリア(祈り)」に衝撃を受けました。リオ・デ・ジャネイロのファヴェーラ(貧民街)にたむろする約600人の子どもたちの手と足を石膏でかたどり、そこにワックスを流し込んで制作したものが、所狭しと会場の一室に並べられています。社会的弱者に対する関心をアートによって高めようとしたものと言えるかもしれません(カタログによれば、数年の間にその半数の子どもたちが亡くなっていたとのこと)。

 わずかの事例から一般化することは非常に危険なことを承知の上で申し上げますと、ブラジルでは様々な形で西欧美術に対応してきていますが、傾向的には、それらを自分のものとした上でかなりストレートな形で打ち返していると思いました。
 
 他方、わが国の方はどうだったのでしょうか?幸い、美術館では、今回のブラジル美術展と並行して、館蔵品による「近代日本の美術」展も開催されており、そのW部とX部では1950年代以降の現代美術が取り上げられています。全く素人の単純な感想ですが、どちらかと言えば洋画におけるよりも日本画においての方が、西欧的な題材を前にして様々の工夫が凝らされているように見うけられます。特に、美術館の4階では、日本画の加山又造の所蔵作品が14点も展示されていて、その感を深くしました。加山又造の場合、西欧に対してまともに打ち返すというよりも、上手に二つを融合させるという観点が勝っているのではないか、ブリューゲルの世界も裸婦も見事に装飾的な日本画の中に取り込まれているのではないか、と思いました。

 
 
 こうしてみますと、外来文化を受容する場合に、ゴク雑駁な印象に過ぎませんが、日本とブラジルとでは、かなり対応振りが異なっているようです。チョット考えて見ますと、ブラジルは、元来が西欧移民の国です(今回の展覧会も、ポルトガル人のブラジル到来500年を記念してのものです)。日系人が多いといってもせいぜい130万人程度にすぎず、総人口1億6千万人の半分以上が西欧系(ポルトガルのほかに、ドイツ、イタリア、スペインなど)なのです。とすれば、同じ西欧文化の受容といっても、ブラジルと日本とでは、その様相が異なるのは当然かもしれません。日本は、ポルトガル人(!)の種子島漂着以前は、ほとんど西欧との接触はなく、独自に文化を創り上げていたのですから。

 
 今回の美術展では、映像による作品が多く展示されています。先に挙げたディアスとリートヴェークの作品の場合でも、展示物の置かれている部屋の壁に大きなスクリーンが設けられていて、貧民街で起きた何件もの殺人事件に関する映像が延々と尽きることなく映し出されています。そこでというわけではありませんが、リオのスラム社会を舞台にしているブラジル映画「シダージ・デ・デウス(神の街)」のDVD版も日本で発売されているようですから、ここらで街に探しに出てみることといたしましょう。 

 (04.7.4に掲上)


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