笛氏と笛吹連


 
T 笛 様の調査・検討

 わが家の所伝と鎌倉権五郎景政
 私は鹿児島出身で、名字は笛(ふえ)といいます。この名字だけで古代に辿ると、ご存知とは思いますが、尾張氏族の「笛連(笛吹連)」にたどり着きます。
 ところが、当家に現存する家系図には、桓武天皇五代・鎮守府将軍・平良文曾孫、鎌倉権五郎景政という名が書出しの筆頭にあり、笛家としては、その21代目とされる惣右ェ門・惣左ェ門の兄弟からしか具体的に分かりません。私で27代目となるので、一代につき、二十歳で子を作るという、単純計算をしてみました。惣右ェ門・惣左ェ門の兄弟は140年前ほどの先祖と考えます(実名は記載されていない)。
 かなり調べてみますと、鎌倉権五郎景政という先祖の所伝は、そもそも系譜の仮冒ではないかと考えもしますが、家に言い伝えられているのは、先祖は鎌倉から鹿児島にやって来た、というくらいです。当初は、梶原氏一族で鹿児島に下向した酒匂氏の分家か?とも思いましたが、どうも、この笛という古代氏族の名が邪魔をし、単純に推理する事が出来なくなっております。また、単純に梶原氏系、大庭氏系としても、孫か兄弟か従兄弟か解らないと史実にはあるので、酒匂氏からの分家としても、権五郎の末裔とは言えなくなります。
 
 笛姓の現状
 笛姓は現在、日本には戸籍筆頭者が約百名いると把握しております。
 その内、約七割が九州に存在し、すべて私の血縁だと判明しております(養子縁組も含む)。後の約三割は宮城県に集中しており、血縁は判明しませんでした。この様に笛姓は、近年代(室町後半)に、誰かが、古代氏族である笛連を復興したのだと思います。
 『政治要略』という平安時代の史料に「笛連後裔か?」と注訳付きで、天暦六年(952)十一月 左衛門少志の「笛 有忠」が最後で、笛氏はこの有忠で廃絶したのではないかと思われます。
 
3 古代の笛吹連との関連
 『系図纂要』なる系図書には、笛吹連(笛連)祖・健多乎利命と見えます。一説として、某HPには、「健宇那比命」と、「節名草姫」(紀氏の出自か?と疑問付をつけてある)との間に生まれたのが「笛連王」だという記事があり、この「笛連王」という名は、『丹哥府志』にあるようです。この者とは尾張氏族の「健諸隅命」に当たるのではないかと思ったのですが、そのHPを運営されている方の系図では、「健諸隅命」は「健田背命」の子となっています。
 ところで、古代で「笛連王」なる名前は奇妙な感じが強いのですが、こうした人物がはたして実在していたのか?、実在していたらその実名は誰に当たるのか?、という疑問も生じています。
 後、笛吹連は、後に笛吹部と単なる笛氏と分かれていくとも見えますが、この辺はどうでしょうか。
 
4 まとめ
 この様な事情で、私は平氏末裔の血脈より、笛連という血脈の方が、興味深いのです。
 平良文→景政という系譜も偽物だと認識しておりますし、先祖についての系譜仮冒は確実だと嘆いておる次第です。それ以上に、「笛」にまつわる苗字と姓氏について、なにか手がかりをえられないかと願っています。
 
 私のこれまでの調査は以上のようなものですが、笛連等についての知識・所見などを、お聞かせいただきたいところです。
 
 09.10.14頃に受けた数通のメールを整理し、その趣旨を咀嚼して上記に掲げたので、記事には多少の誤解があるかもしれないことをお断りしておきます。
 

  U 樹童の感触・検討など
 
 実のところ、この関係ではあまり調査をしたことのない点も諸々ありますが、尾張氏族や楽人に関連して検討したこともありますので、いままでに管見に入っていること、とりあえず現段階で感触として言えそうなことを下記に書いてみます。新たな史料が出てくれば、再検討を要する点もあろうかと思いますので、この旨、ご留意下さい。(以下は「である体」で表記
 
 笛吹連という姓氏
(1) 古代に笛吹連という姓氏があったことは、『新撰姓氏録』河内神別に「笛吹連(一本に「笛吹」)」があげられ、「火明命の後なり」という記事があることから確かめられる。同書で火明命の後ということは尾張連一族の意であり、『旧事本紀』天孫本紀の尾張氏系譜には、火明命の六世孫、「建多乎利命 笛連、若犬甘連等祖」と記される。また、大和国葛城地方には笛吹の地名と笛吹神社(葛城市笛吹)があり、いま『延喜式』神名帳に掲載の葛木坐火雷神社が笛吹の地にあるものと解され、そこには笛吹神社もある。宮司は笛吹連後裔という持田氏が世襲したとされる。
 
(2) このあたりが笛吹連の基本であるが、いろいろ注意を要する。それを、以下にあげておく。
 例えば、上記の建多乎利命の記事「笛連、若犬甘連等祖」は現在の解釈の一つであり、「笛連」を御巫清直勘注本には「竹田連」と見え、竹田連も『姓氏録』左京神別(但し、久米氏族系か)にあり、また尾張氏族のなかにも「湯母竹田連」「竹田川辺連」があって左京神別にあげられて、「武田折命」(タケタオリ=建多利。建多利という表記も見える)の後と見えるから、御巫清直勘注も誤りとはいいがたい。「笛」の字は分解すれば「竹田」だし、笛は竹から造るということであれば、竹田の地に笛氏が居たという事情も考えられるからである。
 「若犬甘連」についても、「若大甘連」という表記で見える本もあるから、現伝の天孫本紀に多少の誤記はありうると考えられる。若犬甘連については、大化の改新の際に蘇我入鹿の誅滅に活躍した葛城若犬養連網田という者が知られるから、同族の笛連ともども葛城地方にあったことは自然である。
 
(3) 葛木坐火雷神社で祀られる火雷神は、紀伊国造・大伴連などの山祇族の祖神であり、笛吹神社は尾張連などの海神族が祀る神社であるから、これは本来は別社であって、どこかで混同ないし併祀され、同じ地域において祀られた結果だと思われる(『日本の神々4大和』の葛木坐火雷神社の項、木村芳一氏もほぼ同旨か)。笛吹神社は式内社ほどの神格がなかったことにも留意しておきたい。
 
(4) 笛吹神社がそうした神社であったが、その社伝には、興味深いものがある。
 すなわち、社伝によると建多乎利の子の「櫂子(かじこ)」が崇神朝の建埴安彦の乱で活躍し、天磐笛を賞賜されて笛吹連の祖となったとされる。その櫂子の子孫が持田氏で、現宮司は第八五代だと伝える。「櫂子」という名がどこまで信拠できるか不明だが(カジは舟の梶、あるいは木の枝の意か)、その通称が「笛連王」として伝えられた可能性もないでもない(古代の名前としては奇妙だが、後世に名づけられた通称なら、ないとはいえない)。また、「櫂子」が建多乎利の子であったのなら、イトコにあたる大海媛が崇神天皇妃であったと伝えるから、建埴安彦の乱に関与したことはありうるものである。
 
(5) 天孫本紀の尾張氏系譜には多くの混乱があるが、とくに建多乎利の兄弟の世代(火明命の六世孫世代。年代としては、崇神前代の孝霊・孝元天皇の時代)から同十一世孫とされる乎止与(景行朝の倭建命遠征に関係する建稲種・宮簀媛兄妹の父だから、垂仁朝頃の人〔八世孫世代〕とみるのが妥当)までの世代・系譜の混乱が著しい。これを是正して、原型の系譜を求めることが必要となる。
 なお、倭建命・宮簀媛の婚姻からみても、建稲種が成務朝の人とみられ、「国造本紀」に成務朝に尾張国造に定められたのは乎止与と見えるが、形式的にはともかく、実際にはその子・建稲種(に実権があった)とするのが妥当であろう。
 
(6) 後世の尾張氏系図関係では、国造家の直接の祖先にあたる乎止与の父を小縫命とするものが多くあり、この関係が正しいとすると、系譜の原型は「建多乎利−小縫(乎ヌヒ)−乎止与(小豊)」という形でつながることになる。大和葛城から尾張国へ移ったのが小縫ないし乎止与の時期とすると、これは崇神朝ないし垂仁朝という頃になり、大和朝廷の勢力伸張の過程と符合する。
 
(7) 「建多乎利−小縫」という関係が妥当であれば、小縫の兄に大縫なる者がいて、建多乎利の子として大和葛城に残ったとしても、あながち不自然ではない。この大縫こそ、上記の「笛連、竹田連、若犬甘連」等の祖であったと推せられる。また、年代的世代的に、「櫂子」「笛連王」にあたる人物でもあろう。
 
(8) 古代の笛吹連・笛連及び笛吹部・笛部(これらが「無姓」の形で記されることもある)については、史料にはほとんど現れない。河内神別の笛吹連も具体的な人名が知られず、畿内では、わずかに奈良時代の写経の役所(経所)の文書などに、無姓の笛吹丈万呂や笛吹申万呂が見られる程度である。
 ところが、尾張には部姓の笛吹氏が二例見える。山田郡両村郷の笛吹部少足(天平勝宝二年四月「仕丁送文」)と尾張国人の笛吹部高継(『三代実録』貞観二年五月)である。ほかの地方には現在のところ見当たらないから、笛吹部と尾張国との深い関係が窺われる。これも、小縫の子孫が尾張国造で、大縫の子孫が笛吹部だったという背景を傍証するものかもしれない。
 
(9) 天暦六年の左衛門少志の笛有忠については、次項に述べる。
 
2 笛吹の名の起こりと笛関係の楽人
(1)「笛吹」が職業部の一つであったことは、異論を見ないし、『令集解』に「奈良笛吹九戸、……倭国臨時に召す」とあり、葛城地方の笛吹辺りに居住していたことが考えられる(『日本の神々4大和』の葛木坐火雷神社の項、木村芳一氏も同旨)。そして、笛吹連・笛吹部の族人が多かったとは思われないから、管掌氏族の姓たる「連」を付けた者と笛吹部とは、ほぼ同族であったと考えてよいかもしれない。そのときの表記によって、笛吹になったり笛になったりもしたのではなかろうか。
 ともあれ、平安時代の史料にも唯一見える笛有忠は「左衛門少志」という楽人に多い地位からしても、楽人であった可能性が大きい。この者は『政事要略』巻61に間違いなく見えているが、その後の楽人には笛姓を名乗る者は史料に見えない。
 
(2) 宝賀寿男会長の論考に「雅楽を担った人々」(『家系研究』第23,24号。1990/8,91/6)があり、そこでは、『楽所補任』(『続群書類従』補任部に所収)という史料に見える平安中期以降の治部省雅楽寮の楽人(伶人)たちが取り上げられ、近世まで残る伶人諸家の出自と系譜が検討されている。現存する『楽所補任』は上巻の端缺のため、鳥羽天皇の天永元年(1110)から鎌倉中期・亀山天皇の弘長二年(1262)という期間にすぎないが、そこには笛の演奏者としては笛氏の者は見えず、小部氏(多臣一族の小子部連末裔か)や大神氏が笛の楽器を担当している。
 『教訓抄』でも保安二年(1121)二月二十九日の記事に、「小部氏笛吹蒙賞、豊原氏笙吹、大神氏笛吹」と見える。

(3) 中世以降の「笛」が姓氏ではなく、姓氏とは別に後から付けられた苗字だとしたら、笛を職掌とした者が名乗った可能性が考えられる。太田亮博士は、『姓氏家系大辞典』笛吹条に「越後古志郡金峰神社の往古旧社家に此の氏あり」と記すが、これは社家で笛をもって奉仕したことに因んだ苗字の可能性がある。

(4) 宮廷の楽人大神氏では、鎌倉前期の右近将監大神景賢以降の「山井家」の系統では、一族歴代が「景」を通字とした名前で近世までつながった。この楽人大神氏で鎌倉下向をした者は『東鑑』には見えないが、鎌倉期に多くの京都官人が鎌倉に行ったことから考えて、そうした動きをした者がなかったとも言いきれない。
 ここからは、推測であるが、笛担当の楽人大神氏の支族で鎌倉下向をした者があったとしたら、その職掌に因んで「笛」を苗字とし、それがさらに関東武士に随行して九州あたりに移動した可能性がないだろうか。 
 まったくの同名異人であろうが、左近将監大神景政(正安四年二月卒、享年五四歳)という者もおり、上記『楽所補任』には弘長二年(1262)に左衛門志に任じたことが見える。
 
 以上、「笛」に関して取り止めのないことをここに書き連ねましたが、根気よく史料収集を続けていくと、もう少しまとまった整理ができるようになるのかもしれません。
 
 (09.10.16 掲上)
 
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