不弥国の所在地についての試論


         不弥国の所在地についての試論


 

  『魏志倭人伝』に登場する邪馬台国への経由地の国名のなかで、対馬・一支・末盧・伊都・奴の諸国についての比定地は大筋ではあまり争いがない。問題は、奴国の次に挙げられ「東行に至る百里」の位置とされる「不弥国」である。この地をどこに比定するかにより、その後の道筋が大きく変わってくる。

  戦前から、畿内説・九州説ともに「宇美」現糟屋郡宇美町一帯)に比定する説が強かったが、このほか遠賀川中流域の穂波郡穂波郷(現飯塚市〔旧穂波町も含む〕の辺り)に比定する説(菅政友、久米邦武)、太宰府付近説(白鳥庫吉)、さらには志賀島説(田中卓)、宗像郡津屋崎説(笠井新也)などまでが出されてきた。
  しかし、奴国から考えても「@東行、A百里」の位置にあったと記される不弥国の比定は難問であり、ましてや榎一雄氏が説く伊都国基点説では、どこにも比定のしようがない。もっとも、なぜか榎氏は太宰府か宇美の方面に比定するのが妥当といわれており、これは地理の記事からはかなり不可解であるのだが。
  いずれにせよ、「不弥」が「海」ないし「産み」(神功皇后伝承で、応神天皇を産んだとするもの)という音に基づく見方が上記諸説の基礎にあったと思われる。

  これに対して、地名研究家の楠原佑介氏は、その近著『「地名学」が解いた邪馬台国』2002年2月、徳間書店)で、不弥が長田夏樹氏のいう「洛陽古音」で「ホ・ム(ホ・ミ)」にあたるという立場に依拠して、「宝満山」の西麓の太宰府市付近を考えている。すなわち、宇美町と太宰府市・筑紫野市にまたがる秀麗な山・宝満山(標高869M)は、ホツミ→ホツマあるいはホミであり、天智天皇三年には大宰府の鬼門守護の山として八百万の神々が祀られたと『縁起』に記される。

  楠原氏等の編著『古代地名語源辞典』には示唆深い記事が多くあって、私は割合重宝・愛用してきているが、上掲の近著は、邪馬台国を佐賀県佐賀郡大和町東山田とするなど、地名解釈のほうに重点がかかりすぎており、邪馬台国への経路などの所説について、必ずしも全てが説得的だとは感じらない。それでも、前掲の記述が「太宰府=不弥国」という説の有力な一論拠かもしれないと感じた次第であり、現在の呼称「hou-man」の山がもと「hou-mitu」(あるいは「hou-mit」)の山で、このくらいの転訛は十分ありうるのではないかと思ったりもする。太宰府という地名自体は置かれた官署・大宰府に因るものだから、別の地名がもともとあった筈でもあろう。
  神功皇后伝承に因る応神天皇所産の伝承は、年代的にも実態としてもまったくの的はずれであることは、言うを待たない。
  なお、宝満山という地名の初見は永仁二年(1294)の「天満宮小社御供給人人数注文案」(『太宰府天満宮文書』所収)とされ、このことなどから、「宝満山という山名は比較的新しい山名で、仏教との習合がすすむにつれて生じた名称と思われる」と森弘子氏は述べるが(『日本の神々 第1巻九州』)、この見解については、宝満川の名まで考えると肯くことはできない。


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  足利健亮氏の著『景観から歴史を読む』1998年、NHK出版)は、地図や地名から歴史を考えるための好著であり、そのなかに興味深い記述がある。それによると、福岡県の耳納山が北麓の「三野(あるいは御野)」という地名に由来し、岐阜・滋賀県境の伊吹山がその東麓の池田郡伊福郷(現揖斐川町の粕川北岸地域)に由来するとされる(第15章)。
  この説が個別具体的にどこまで妥当かどうかについてはやや疑問な面もあるが、その地域の代表的な山・川がそれを含む地域名と同じであったことは蓋然性が高い。 そして、宝満山が霊山としてその西麓地域と密接な関係があったことは、前掲の天智天皇三年の出来事でも示される。

  いま宝満山頂の巨岩の断崖上に竈門神社の上宮がおかれ、山麓の太宰府市内山には下宮がおかれている。同社は延喜の式内名神大社で、古来九国の総鎮守といわれ、明治には官幣小社に列している。現在、その祭神は玉依姫命(神武天皇の生母)を祀り八幡大神等を配祠するが、本来はその名通りの竈神たる三宝荒神=五十猛神、すなわち八幡大神)が祭神であったと考えられる。
  この祭神こそわが国天孫族の始祖であり、邪馬台国の国王一族の祖であった。九合目付近には竈門岩という高さ2M余の三つの巨石が鼎立していて、巨岩信仰が顕著に見られるのも、天孫族との関係を窺わせる。
  同じ天孫系部族の周防国造が領域とした周防国熊毛郡には竈八幡宮(現熊毛郡上関町長島に鎮座)もある。同社は式内社で長門二ノ宮たる忌宮神社(やはり天孫族系統の穴門国造の領域たる長門国豊浦郡、現下関市長府に鎮座)の分霊とも伝え、忌宮神社の祭神応神天皇・神功皇后等は八幡大神の転訛であり、その境内摂社に高良神社があることが注目される。忌火の神とは、宮中の内膳司にあった竈の神であった。この竈の火を使って、天孫族は鉄鍛冶を行った。また、高良神社は邪馬台国の本拠地域の霊山高良山に鎮座する当地最高の神社高良大社につながるものである。

  宝満山の東側の谷に源を発するのが宝満川で、筑紫野市・小郡市を縦貫して南に流れ、その沿岸に天山・筑紫神社・津古生掛古墳・御勢大霊石神社などを見ながら、久留米市街地の北方対岸で筑後川に合流する。そうすると、宝満川の上中流域たる筑紫野市から太宰府市にかけての一帯に不弥国があり、その下流の筑後川合流点辺りから高良山麓にかけての地域に、邪馬台国首邑が位置したと考えると、邪馬台国への道筋として地理的に自然であろう。
  久留米市の高良山の西北麓辺りは、福岡市から春日市にかけての那珂川下流域にあったとみられる奴国から見て東南の方向に当たるが、『魏志倭人伝』の方向記事が数十度、時計と逆回りにずれていたと考えるとそれほど不自然ではない。こうした邪馬台国・奴国の比定地から見ると、太宰府辺りはちょうどその中間点にも当たる。


 

  太宰府辺りの遺跡・出土遺物に関して、楠原氏も前掲書で、「七世紀の大宰府造営によって弥生期の遺跡は大部分破壊されたと思われるが、それでもなお筑紫野市境に近い太宰府市高雄の吉ケ浦遺跡からは弥生中期〜後期の木棺墓一〇余、甕棺墓七〇余基と鉄鏃・斧・鉋などの鉄製品が出土している。また、隣接する筑紫野市側には江戸期に発掘された二日市峰遺跡をはじめ永岡遺跡・剣塚遺跡など弥生遺跡が多数分布する」と記述する。これは、重要な指摘といえよう。

  弥生期の鉄器の普及度合いについては諸説あるが、天孫族は大陸から渡来してきたこともあって優れた鉄技術を持ち、一族から古代の製鉄・鉄鍛冶部族を出している。そうすると、邪馬台国の時代にはすでに鉄器が主流をなしていたものであろう。地元の久留米関係の考古学研究者は、“青もの”(青銅器)が久留米市域からあまり出土しないとして、当地の邪馬台国所在地比定を否定するのが大勢だとも聞くが、これは時代基準がズレていると考えられる。そろそろ、青銅器によって弥生時代や邪馬台国問題を考えるような見方は改められるべきであろう。
  天孫族がその始祖伝承から、天・太陽神や鷹などの鳥、霊山(高山)を尊崇したが、邪馬台国が高良山、不弥国が宝満山、そして有力支族が治めた伊都国が高祖山と、その地域の顕著な山に依ったのも全体的に符合するところである。


 以上、古来議論の多かった「不弥国」の位置について、楠原説に賛同しつつ試論を概略的に提起する次第である。   
                          (了。2002.7.1記、03.12.6、07.12.28追補)



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