佐々木・鷦鷯についての雑考 |
1 ミソサザイという野鳥をご存知でしょうか。 鷦鷯(「しょうりょう(旧カナではセウレウ)」とも訓)という漢字があてられるこの鳥は、わが国では北海道から九州まで広く分布する留鳥で、おもに山地の水辺に多くに住んでいて、概ね全長10センチほど翼長5センチほどの大きさとされる。ユーラシア産は一種だけで、背面は焦茶色、腹面は淡色で所々に細かい黒褐色の横斑が見られる。 わが国の野鳥の中では最小の鳥といわれ、その小ささは、中国の古典『荘子』に「鷦鷯巣於深林、不過一枝(鷦鷯、深林に巣くうも、一枝に過ぎず)」とも記される。 この鷦鷯は古代では「雀」という漢字でも表現されるように、鳥網スズメ目ミソサザエ科に属しており、一方、いま一般に雀といわれる鳥は、スズメ目ハタオドリ科に属していて、概ね全長約14センチ弱、分布範囲も南千島から琉球諸島までとされるから、鷦鷯よりやや大きく、やや広範な分布である。 なぜ長々と特定の野鳥の話をしてきたかというと、このHPが「古樹紀之房間」ということで、樹々に巣くう鳥も関連して取り上げてきただけからではない。わが国古代史において、「雀・鷦鷯」が大きな位置を占めているからである。 すなわち、この名をもつ大王・仁徳天皇(『古事記』に大雀命、『書紀』に大鷦鷯尊とその名が記される)が古代政治史上で大きな画期を記しており、考古学的にもその陵墓に治定される大山古墳(仁徳天皇陵古墳)が大きな問題となってきた*1。 その御名代部としての「雀部」(訓みは後述)は、現存資料から見ても畿内のみならず関東から中四国まで広く分布し、古代の氏・雀部(これにつく姓としては、朝臣・臣・連・造・君・直・宿祢や部姓がある)、地名の雀部郷や、さらには中世・現代の地名・苗字につながっている。わが国最古の歌集『万葉集』にあっても、その所載最古の歌が仁徳天皇の御代の作成と伝える。それが、仁徳天皇の皇后の磐之姫皇后のものと伝承されており、その巻第二の冒頭に「難波高津宮に天の下知らしめし天皇(大鷦鷯天皇、諡を仁徳天皇といふ)の代、磐姫皇后、天皇を思ほして作りませる和歌四首」と記載される。その歌は、「君が行(ゆき) 日(け)長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ」というものである。これに続く古歌は、半世紀ほど後の允恭天皇末期のものとされる。 いま、私が学ぶ研修所同級に鷦鷯(ささき)君がいる。初めて聞く苗字なので、その先祖の出た地を尋ねてみると、島根県の美保関町辺りだということである。これを手がかりに調べてみると、なるほど、現在の島根県八束郡美保関町・鳥取県境港市の辺りに鷦鷯姓の主な分布がある。ある調査によると,「島根県美保関町(7軒)、松江市西川津町など全国に45軒」があるとされ、滋賀県北部にも少し分布があることが分かった。実は、私の先祖の苗字も同訓ササキの佐々木と伝えており、その意味でもいささか興味を引かれるところであった。 太田亮博士の『姓氏家系大辞典』には、「鷦鷯」の項目をたて、ササキと訓して「佐々木に同じ。日用重宝記に見ゆ。また雀部裔とも考へらる」とのみ記されるが、具体的な系譜や分布を記さない。調べてみると、人情本『春色梅児誉美』で名高い江戸後期の戯作者の為永春水(1790〜1843)は、本名を鷦鷯(佐々木)貞高といい、通称は越前屋長次郎で鷦鷯斎春水、狂(教)訓亭主人などの別号を持ったことも分かってきた。春水は江戸の町家出身の模様であり、鷦鷯を苗字とした事情は残念ながら不明である。 さて、出雲国における雀部の分布を見ると、天平十一年の「出雲国大税賑給歴名帳」に出雲郡漆沼郷土田里の雀部君千主、神門郡滑狭郷阿禰里の雀部君小島が見えるから、古代出雲には御名代の雀部とそれを管掌する伴造氏族としての雀部君が居たことが知られる。出雲郡漆沼郷も神門郡滑狭郷も、現在の八束郡美保関町(古代では島根郡美保郷)から少し遠いが、雀部君は出雲国造の同族としてこの辺りまで分布していたことが十分考えられる*2。すなわち、太田博士の推測はおそらく妥当だと考えられる。 中世の出雲では、頼朝の鎌倉幕府草創に大きな功績をした佐々木(塩冶、京極)氏の子孫が代々守護を務め、その一族が出雲や隠岐の各地に繁衍して多くの苗字を分出した。頼朝旗揚げに参加した佐々木源三秀義親子の子孫、とくに五男五郎左衛門尉義清(当初は、舅の大庭景親方で敵対)の流れがこの地や周辺地域に多い。わが家の先もその支流の一つの出だといい、義清の孫・九郎左衛門尉義信が神門郡古志郷(現在の出雲市中央南部の古志辺りで、上掲の滑狭郷の東隣)に住んで起った佐々木古志氏の末裔であって、出雲から備後に遷り、戦国期には毛利家一門に属したものと伝える*3。 これら中世佐々木氏の庶流の苗字や系譜の中には「鷦鷯」が全く見られないから、同じ出雲の地域でも別流で、鷦鷯の苗字は古代雀部君の流れのほうだと考えられる。 2 といって、佐々木が鷦鷯と無縁というわけではない。現に江北には鷦鷯という苗字が見られることは前述した。 江戸中期の享保19年(1734)に膳所藩士寒川辰清が藩命を受け編纂した近江の地誌『近江輿地志略』には、「佐々木もと鷦鷯の御名によれり。亦沙々貴、娑々岐にも作る。佐々木は仮名書なれば、篠笥と相通ず。きとけとは、かきくけ也。五音の相通なれば佐々木を篠笥といふにや」と記される。 出雲も勢力圏とした大族佐々木氏の起源の地は、周知のように近江国蒲生郡篠笥郷(現・滋賀県蒲生郡安土町辺り)であり、この地の大字常楽寺に鎮座し、佐々木一族が古代から祖神として奉斎してきた式内社・沙沙貴神社には、鷦鷯神伝があったと系図に見える。『神道大辞典』の記事によると、同社の祭神は大彦命・少彦名命・仁徳天皇・宇多天皇・敦実親王とされるが、それは、「少彦名命は鷦鷯羽を以て衣とせられた故事に因み、仁徳天皇は大鷦鷯尊と奉称したに因み、敦実親王は宇多天皇の皇子で佐々木源氏の祖であらせられるに因んで、主神大彦命に配祀したものといふ」と同書に記される。 これに対して、私なりに説明を少し加えると、中世の佐々木氏は平安後期以降、宇多天皇の皇子一品敦実親王の曾孫という「成頼」を直接の氏祖と称し、また長くそう信じられてきており、従って近江源氏とも佐々木源氏ともいわれる。しかし、これは太田亮博士もいうように、仮冒であり、公家源氏で正四位下参議左大弁扶義(951〜98)の子に武官(左近将監、兵庫助の官職についたと伝える)の成頼を置き、この者が近江国佐々木に居住、土着したという点に大きな疑問がある*4。佐々木氏は、平安後期には源姓を称していたことは史料(「散位源行真申詞記」)からも確かであるが、それがその通りの実際の出自であったかどうかは別問題である。 平安期に中央の顕貴の公家が地方に土着して武家となったという伝承は、総じてまず信頼できないものでもある。藤原氏でも桓武平氏でも、地方豪族の武家の系譜を仔細に検討してみると、殆ど全部が系譜仮冒であった。 ごく素直に考えれば、太田亮博士の指摘のとおり、佐々木氏は古代の佐々貴山君(狭々城山君、佐佐紀山君)の後裔であることが著しい。佐々貴山君氏は、大彦命を始祖とする阿倍臣の一族とされており、これは『書紀』及び『姓氏録』に記載される。『書紀』では孝元天皇段に、その第一の皇子・大彦命は阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣、凡て七族の始祖なり、と記される。 また、上掲の少彦名命の故事は『書紀』第八段の一書第六に見えて、大己貴神が出雲の五十狭狭の小汀にいたとき、海上からヤマカガミ(白斂)の皮で作った舟に乗り鷦鷯の羽を以て衣とした小男の神が到来したとあり、それが少彦名命だとされる。この記事のなかに、「鷦鷯、此をば娑娑岐と云ふ」とも記されることに留意しておきたい。 以上見てきた事情から分かるのは、「佐々木=鷦鷯(雀)」ということである。次に、「山君」とは、太田亮博士がいうように「山部を率ゐし君姓の氏を云ふ」であり(佐伯有清氏も同旨で、「山は山部・山守部の伴造氏族であったことに由来する」*5)、これを併せ考えると、佐々貴山君(狭々城山君)とは、その実体は「雀部+山君」であり(従って、その後裔が「山君」を除いて、単に「佐々貴」あるいは「佐々木」と名乗ったのも肯ける*6)、仁徳の御名代雀部の山関係の管掌氏族であったということである。 だからこそ、平野部の農業生産力や鉄資源が豊かであった蒲生郡を本拠にして財力を貯え、篠笥郷域に近江最大の古墳である瓢箪山古墳(全長162Mの前方後円墳)も築造できたものと推される*7。同墳は沙沙貴神社の東北方の宮津の地、繖山(きぬがさやま)や佐々木氏本宗六角氏の観音寺城の西南麓に位置し、四世紀後半ないし末葉頃の築造とみられている。その出土品には、二神二獣鏡・キ鳳鏡や車輪石・鍬形石・筒形銅器・鉄製刀剣などあり、年代的に妥当なものであろう。そうすると、五世紀前葉ごろを活動期とした仁徳朝の稚守山(後述)より少し先の時代の墳墓と考えられる。 佐々貴山君と同様な例は、ほかにもある。それは、越後国頸城郡春日山に居した春日山君であり、やはり「御名代の春日部+山君」であったのは、その同族すなわち垂仁天皇皇子と称する五十足日子命の後裔に山守(録・摂津)、山守部君、山公(録・和泉皇別)、春日部君があることからも知られる。近江国栗太郡小槻邑に起こり小槻神社を奉斎した小月之山君(小槻山公。後の小槻宿祢)も春日山君の一族であった。 従って、佐々貴という氏の名は、「後の近江国蒲生郡篠笥郷の地名にもとづく」(佐伯有清氏)ということではなく、地名の「篠笥」は雀部という氏の名に基づく地名の転訛にすぎない、ということである(訓みもササケよりはササキであろう)。 十世紀の『和名抄』には、雀部郷という地名は三河国宝飯郡、上野国佐位郡、丹波国天田郡の三個所に見え、雀部郷から転訛した「佐才郷」も摂津国菟原郡にある(神戸市東灘区の雀の松原がその遺称)。しかも、丹波国天田郡の雀部郷はいま佐々木(現・京都府福知山市北部)*8となっており、その地からあまり遠くない但馬国出石郡に鎮座の式内社・佐々伎神社は、佐々木大明神と称されて、中世の雀岐荘の地、現・兵庫県出石郡但東町佐々木(福知山市佐々木から山越えした西北方近隣に位置)にあって、少彦名命を祀るという事情もある。同社は、延暦三年六月、出石郡司佐々貴山君波佐麻がその祖を祀ったことに始まるという(『兵庫県神社誌』)。 このほか、摂津国武庫郡にも雀部郷(現・尼崎市今北辺り)があり、中世には大島雀部荘となって雀部氏の活動が知られる*9。同郡には佐々貴山君の一族が分住しており*10、『姓氏録』にも摂津皇別に佐々貴山君があげられる。 3 ここまで見てくると、近江の佐々貴山君の出自が示唆される。それは、この氏が実際に阿倍氏族の出であったのか、という問題である。記紀等に孝元天皇の後裔とされる阿倍氏族は、御名代管掌の氏族をあまり出さなかったからである。阿倍氏族には若狭国造となった稚桜部臣も出ているから、例外もあるが、それ以上に、天孫族系の神・少彦名命を奉斎する氏族が天孫族の流れで皇別とされるのは自然ではないか、と考えられる。製鉄管掌に関係する「山君」となった氏族も、史料に見えるのはここまで記してきた佐々貴・春日・小槻のほかは、近江北部の高島郡の角(都努、都怒)だけであり、いずれも天孫族の流れの氏族であったとみられる*11。かって、上掲の筑紫国造が実際には阿倍氏族の出ではないこと(天孫族系の宇佐国造支流で、火国造や応神天皇とも同族とみられる)に気づいたが、実際には阿倍氏族ではない氏が混入していた可能性も検討しておく必要があろう。 佐々貴山君の阿倍氏から初期分岐する段階について記す系図は、管見に入ったかぎり唯一であり、中田憲信編纂の『諸系譜』第30冊所載の佐々木山君に見え、大彦命の曾孫伊賀彦宿祢*12の子にあげられる稚山守臣が始祖とされる。この者が『書紀』仁徳40年是歳条に見える「近江山君稚守山」と同人だと考えられる。稚守山(稚山守)は仁徳天皇に同族(ないし通婚による準同族)として仕え、その御名代たる雀部を山部とともに管掌して佐々貴山君の祖となったものであろう。先に瓢箪山古墳を見たが、その示す事情から考えて、稚守山の先代(伊賀彦宿祢とは別人かも知れない)のときに蒲生郡に遷住してきた可能性が強い。前掲の瓢箪山古墳周辺の遺跡事情も、これを傍証しよう*7。 その祖が伊賀から来たということであれば、阿倍氏族伊賀臣の一族としてよい。仮にそうでない場合には、伊賀臣と通婚があった伊賀国造と同族で、前掲の春日山君・小槻山君とも同族の五十足日子命の後裔に位置づけるのが最も自然な系譜ということになる。五十足日子命(伊賀帯日子命で、意知別命・息速別命とも同人か)は垂仁天皇の皇子と称したが、これは後世の系譜仮冒であった。その系譜は難解だが、本来、彦坐王の一族か大王位を簒奪した応神と同族の出かであった。古代伊賀には伊賀臣・阿閉臣など阿倍臣の同族が繁衍しており、この関係等で佐々貴山君の系譜が阿倍臣一族に架けられた可能性もあろう。 4 問題はまだ続く。「雀、鷦鷯」は本来、どのように訓まれたのだろうか。どの古語辞典にも示されるように、古代のある時期から「サザキ」あるいは「ササギ」と呼ばれたことは間違いなかろう。仁徳天皇の諱「大雀命・大鷦鷯命」も、いま殆ど例外なく「オホサザキ」と訓が付けられている。しかし、「鷦鷯=佐々木」であり、『書紀』第八段の一書第六の記事にも「鷦鷯、此をば娑娑岐と云ふ」と清音で記されることは前述した。氏族の名の雀部も、同様に濁音のない形の「ササキベ、ササイベ、ササベ」と太田亮博士は訓んでいる*13。『和名抄』では、上野国佐位郡の雀部郷について「佐々伊部(倍)」と註すると見えるとも博士は記す。雀部が転じた地名の一つが篠目であり(三河国宝飯郡の例*14)、これにも濁音が入らない。これらの事情から考えると、仁徳天皇の時代の古訓はササキで、これが後に同音が重なることで転訛してサザキないしササギという訓みになったものと考えられる。 仁徳の訓み名がその当時「ササキ」であれば、その上の二音「ササ」を「讃」(中国史料に見える倭五王の名の1つ)で表示したことも考えられない訳ではない。後世の持統天皇の諱が野讃良皇女であり、ウノ「ササ」ラと訓まれたことは著名である。も、鳥の鵜のことであり、天孫族系の出雲国造氏の初代国造とされる者の名(ウカツクヌ)にも使われる。 考えてみれば、仁徳天皇の諱も奇妙である。野鳥で最も小さい鷦鷯(雀)を名にして、これに「大」を冠しても、偉大な大王のイメージはとても湧きがたい。しかも、御名代は雀部であって、大雀部ではないのだから、本名はやはり単に雀命(鷦鷯命)であったとしか考えられない。古代の名前に付けられる「大」は、一般には同母の弟に「小」の付く名前を持つ者がいたものとの対比であった。 しかし、仁徳天皇の兄弟周辺には、そうした名前の人物も見られない。唯一、同母弟とされる根鳥命が小雀命にあたるかとも考えたが、そうした兆候もない。国宝『眞福寺本古事記』の三巻をよく見ると、「仁徳」と書き込まれた下の漢字は「大集」としか読めない形で記されている。同書の序文や下巻注で「大雀」と書きながら、三巻では「大集」と書く『古事記』作者の意図は不明であるが、あるいは、異母弟とされる隼別皇子が小雀命なのだろうか。しかし、御名代はまちがいなく雀部なのだから、「雀」が「隼」の誤記のはずがない。 なぜ、仁徳が「オホササキ」の命(尊)なのだろうか。「オホササキ」は「オホ+ササキ」であり、「オホ」は大の意味に間違いなかろう。そのうえで考えるに、「ササキ」とは雀(鷦鷯)と同訓の「陵」以外に考え難い。すなわち、「大陵命(巨陵の尊)」という大王を讃える称号が実名の「雀命(鷦鷯命)」と融合して、「大雀命(大鷦鷯命)」と表記されるようになったのではなかろうか。 なお、近江の佐々木氏については、「市辺押磐皇子の陵守たりしより見れば,佐々木は陵(ササキ)に因める名称なるべしと云ふ」という説も散見する。これは、佐々貴山君の祖韓(カラフクロ)宿祢は大長谷王子(雄略天皇)の意を受けて押磐皇子を謀殺したが、市辺押磐皇子の子(実際は孫と考えられる)の顕宗天皇が即位すると、韓宿祢の子孫は処罰を受けて身分を陵戸に堕とされたと『古事記』に記されることに由来する。しかし、籍張から削除され山部連に隷属させられた者、罰として陵戸とされた者を出した韓宿祢の子孫は、佐々貴山君の一族から追放された者であり、たとえ佐々貴山君の氏の名を保った者が残っていたとしても、それは佐々貴山君の主流ではないので、この説は当たらない。すなわち、韓宿祢の同族(系図では兄弟)の倭宿祢の子孫が佐々貴山君となったと『古事記』顕宗段に記されるのである。 以上、同級の鷦鷯君の苗字に触発されて、古代史分野で様々に思索を巡らし試論を展開してみた。身近なところにも、古代史や氏族系譜の検討材料がかなりあることを改めて感じた次第でもある。 〔註〕 *1 現在、仁徳天皇の陵墓に治定され、その前提で宮内庁に管理される大山古墳(仁徳天皇陵古墳)について、森浩一氏の疑問提起以来、その築造年代を5世紀中葉あたりに下げ、実際の被葬者も別人ではないかという説が現在の考古学者の多数がとるようになっているといわれる。 しかし、同説は古墳築造年代観にまず問題があり、考古学者の古代政治史観にも問題が多い。重要な文献である記紀の記述を全く無視して、唯「考古学」史観では、古墳の被葬者の探索はそもそも無理な話である。私は、総合的な検討を加えた結果、仁徳天皇陵の治定がやはり正しいと考えており、本稿での考察もそれと符合すると思われる。「人」が造った史蹟を「人」の理解や考察を抜きにして検討するなど、多数派の学説はバランス感に問題が大きい。これら現在の考古学者(とくに関西系の学者)の考え方については、述べたいことが多いが、ここではこれ以上取り上げず、いずれ別途の記述を考えたい。 *2 出雲では、出雲国造家の一族は出雲臣・勝部臣・日置部臣(これらはともに、のち宿祢姓)や品治部臣・蝮部臣・日下部臣・刑部臣・財部臣(以上は御名代関係)、語臣・額田部臣・吉備部臣・物部臣(職掌関係)などがあげられ、臣か宿祢の姓を持っていたことが分かる。出雲一円には、雀部君・蝮部君や日置部君・勝部君・語部君などの君姓の諸氏も見られ、出雲国造家と何らかの同族ではないか(天照大神の子・天津彦根命を同祖とするも、早くに分かれたものか)、と推されるが、それらの具体的な系譜は不明である。 *3 山口県岩国市にある徴古館に岩国藩士の系図資料が所蔵。出雲の佐々木一族では、戦国期に優勢であった尼子氏の子孫が佐々木氏を名乗って萩藩毛利本家に仕えたなど、多くの分流が毛利氏各藩に仕えた。この辺の系図については、『萩藩閥閲録』『萩藩譜録』に詳しく、また岡部忠夫編著の『萩藩諸家系譜』にも記載が多い。 *4 参議扶義(951〜98)の子には、別人の成頼という人物がいた可能性はある。能筆で名高い権大納言藤原行成(972〜1027)の日記『権記』には、長保三年(1001)八月四日条に中将成頼朝臣と見え、続いて同五年(1003)八月七日条では成頼朝臣夜前亡去云々と記されるが、この成頼こそ公家源氏の家柄にふさわしい。佐々木氏の始祖成頼は十世紀前半に活動しその半ば頃死去したと伝えるから、ほぼ同じ頃に生まれた公家の同名人物に、別人の武官(左近将監、兵庫助の官職についたと所伝)の成頼を重ねあわせて、宇多源氏という系譜仮冒した疑いが濃いものとみられる。 *5 佐伯有清著『新撰姓氏録の研究』考証篇第一の350頁。 *6 例えば、九世紀の承平二年(932)正月の土田庄の田券には多くの佐々貴一族が見えており、『朝野群載』天暦十年(956)の官符には佐々貴山君興恒が追捕使と見え、この当時の姓は君であったことが分かる。さらに、十世紀前葉頃の史料に見える人物をあげると、佐々貴為春(『魚魯愚鈔』)、故佐々貴雅恒(『権記』。前掲の興恒の兄弟か)、佐々貴吉成(『小右記』)と記載されており、その当時の姓は不明である。なお、佐々貴吉成は『小右記』治安元年(1021)八月二二日条に勧学院案主と見えており、時代や名前の「成」から考えると、成頼の兄弟ないし近親であった可能性もあろう。 *7 瓢箪山古墳の境内地に接する四ノ坪遺跡からは、昭和52〜53年の発掘によって、四世紀初頭から中期にかけての住居跡とみられる遺構群が発見されたが、「これらは狭狭城山君氏や沙沙貴神社の草創と何らかのかかわりをもつ遺跡ではなかろうか」、と芝野康之氏が述べる(『日本の神々5』468頁)。 *8 天田郡の雀部郷の比定地については、現在の佐々木(現・京都府福知山市北部で大字としては上・中・下が冠される)にあてるのは吉田東伍『大日本地名辞書』の見解であり、同書は、中世の雀部荘(福知山市中東部で、由良川の土師川合流点より東方上流地域)は古代の土師郷の地とみる。この佐々木も佐々岐・佐々貴とも書かれ、近くの三岳山に鎮座の三嶽神社はかって蔵王権現を祀ったというから、こちらが妥当であろう。 『姓氏家系大辞典』には、「雀部城(佐々木村)あり、雀部氏の居城か」、「丹波誌に「雀部鍛冶。子孫福智山町紺屋町下紺屋町鍛冶半兵衛なり。前田村に由緒あり」と見ゆ」と記載されるから、中世の雀部荘(前田を含む地)も雀部氏の遷住に因るものと分かる。 なお、丹波には船井郡八木町の西部、大堰川西岸に大字雀部(ささいべ)が現存する。 *9 『細川両家記』には、十六世紀前葉の細川高国・同澄元の抗争に際して、高国方の武士として大島住人の雀部与一郎・同次郎太郎兄弟が見える。 *10 『百家系図』巻54所載の佐々貴山系図。八世紀前葉頃の蒲生郡大領香留の弟・小多比が摂津国武庫郡に遷去したと記載される。武庫郡の具体的な遷住地は不明である。 *11 近江の都怒山君は、『古事記』孝昭段には和邇氏族のなかに記されるが(都怒山臣と表記)、その系譜は具体的には知られず、一方、『滋賀神社由緒記』には別伝を記す。すなわち、紀角宿祢の三世孫に島根宿祢・来子宿祢の兄弟があり、前者が角国造の祖、後者が角山君の祖となったと記されており、こちらのほうが妥当性がありそうである。 角山君の本拠は高島郡角野郷で、式内社の津野神社(現・高島郡今津町北仰に鎮座)を奉斎しその祠官家として続いたが、近くにやはり式内社の日置神社があって、その例祭は両社合同で行われる。日置部も天孫族の流れを汲むものであった。高島郡も小槻山君居住の栗太郡も、古代の鉄産地として名高い。大橋信弥氏は、角山君が鉄生産に関与し、その材木を供給する山林の管理をしていたと推測するが、これは妥当な見解と思われる(「近江における和邇氏の勢力−小野臣・都怒山君・近淡海国造」『古代を考える 近江』平成4年5月刊)。 『続日本紀』天平宝字八年九月条に高島郡前少領角家足と見える人物が、『平安遺文』治暦四年三月廿九日付けの太政官牒には従七位上角山君家足と見え、また、「慈恵僧正遺告」には高島郡人角好文・角武廉も見え、角山君が単に角とも言ったことが分かる。 このほか、『姓氏録』大和皇別には山公が見え、内臣同祖で味内宿祢の後とされるが、これも天孫族の流れを汲む皇室の一族であり、味内宿祢は武内宿祢の弟であった。 *12 伊賀彦宿祢は阿倍氏の始祖大彦命の曾孫(「−大稲輿命−彦屋主田心命−」が中間に入る)で伊賀臣・阿閉臣等の祖とされ、『書紀』にも神功皇后朝鮮出兵の際に舵取りとして参加し、岡水門では祝部として同処の二神を祀らしめたことが記載される(仲哀八年正月条)。この伊賀彦宿祢の活動時期は実際には成務・神功皇后朝のことだから、仁徳朝の人・稚守山との間に一世代入ったほうが妥当だと考えられる。 *13 雀部の訓として、「サザキベ」とする説があるが(関晃氏の『国史大辞典』雀部の項、坂本太郎等監修『日本古代氏族人名辞典』)、大雀命の訓に引っ張られたものか。佐伯有清著『新撰姓氏録の研究』考証篇第一の408頁では「ささきべ」と訓みをつけている。 *14 三河国宝飯郡の雀部郷は、同国一ノ宮(砥鹿神社のことで、愛知県宝飯郡一宮町大字一宮)近辺を篠目郷といいその遺称地とされる。篠目という地名は同国碧海郡にもあって、いま安城市域にある。 (02.5.5 掲上。その後、若干の補訂。07.2.22、09.3.5、23.4.3などにさらに若干補訂) (備考)沙沙貴神社の聖石群 佐々木一族が氏神として奉斎した沙沙貴神社には、「少彦名神の磐境」(磐座)や「陰陽石」(神道的石神)という巨石・石神信仰が見られることを、MuryさんのHPでは画像入りで詳述される。これも、佐々木一族の本来の出自は天孫族(皇族を含む)という古族後裔であったことを示すものであろう。こちらもご覧いただいて、考えてみることも一案である。 なお、天孫族の巨石・石神信仰については、上古史の流れの概観試論 で記述したので、ご覧いただきたい。 |