常陸の柴田氏について(メモ)  

○「柴田」という苗字は、ある統計によると現代日本のなかでは多い方から第63位となっており、その分布が最も多い県は愛知県で、茨城県は必ずしも多いとはいえない。しかし、その県内分布はきわめて特徴的である。
  具体的には、西茨城郡友部町と多賀郡十王町友部が分布の二大拠点をなしているようであり、後者は『和名抄』の多珂郡伴部郷の地であった。同書には茨城郡の近隣、真壁郡にも伴部郷があげられるから、茨城郡の友部も同様に古代伴部の居住に由来か。友部はもと伴部(←大伴部)であり、大伴連の部民に由来する地名であった。かって、十王町を含む地域を仕事の管轄地としていたことがあったが、そのときはそうした問題意識を何ら有していなかったことが惜しまれる。

○大伴連とその部民の東国・陸奥における分布は、四世紀中葉の倭建命(日本武尊)の東征に由来する場合が多く、この遠征には大伴連の祖・武日命の子弟・配下が主力部隊として随行し功績を建てた。この辺の伝承は、大伴宿禰家持の「陸奥国より金を出せる詔書を賀く歌」(『万葉集』歌番4094)に詠まれる。すなわち、「海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大王の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」と詠われるが、この情景は、大王(オホキミ)すなわち倭建命の東征関連であったと考えられる。
  常陸から陸奥、具体的には茨城県から宮城県にかけての地域には、靱大伴連、大伴行方連、大伴苅田臣、大伴柴田臣、大伴白河連、大伴亘理連、大伴安積連、大伴山田連、大伴宮城連という大伴□□連(臣)という形で「大伴」(のちに「伴」)を冠する姓氏が頻出する。これらは大伴連一族かその配下・部民の出自という系譜をもつと推される。 <大伴氏族概観 を参照のこと>

○柴田氏については、これらのうち大伴柴田臣との関係に注目されるが、この氏は陸奥国柴田郡現宮城県南部の柴田郡)の地名に因んだ郡司級の地方大族であった。なぜ古代常陸の伴部郷の地に「柴田という氏」が多いのかは不明であるが、何らかの形で陸奥国柴田郡から常陸の先住地・縁故地に帰ったものか、柴田という地名の元が常陸国にあったか、そのいずれかではなかろうか。

○中世、三河の土豪・柴田氏は、その出自を秀郷流藤原氏の下河辺一族の出で、常陸国鹿島郡の柴田に因むと伝えるが、本来、同氏が三河古族の出だとみられ、この系譜自体は仮冒ではなかろうか。なお、下河辺一族に柴田氏があったこと、鹿島郡の柴田という地名も確認できない。しかし、中世の常陸の前掲地区にある程度の土豪として柴田氏があったことは認めてよかろう。

○なお、尾張の柴田氏については、今のところ全く手がかりがない。有名な柴田権六勝家を出した柴田氏については、管領家斯波氏の庶流とも伝えるが、勝家の父くらいからしか知られず、明らかに系譜仮冒であろう。尾張に分布が多いということは、古来海神族の地であったという性格から考えれば、その流れを汲むものか、その地域を何らかの縁由で知行したものか。いずれにせよ、柴田氏に絡む謎は多く、資料が皆無に近い。

   ( 02.3.4掲上)

  ※その後の検討で、04.11.23に柴田勝家の系譜試論を掲上したので、併せてご覧いただければと思う次第である。


 (附記) 
陸奥国柴田郡の白鳥伝説

 
柴田郡唯一の式内社で名神大の格をもつのが大高山神社であり、宮城県柴田郡大河原町金ヶ瀬に鎮座する。柴田郡の惣鎮守で「大高宮白鳥大明神」(大鷹宮)と呼ばれ、日本武尊が東征のときこの地を訪れ仮宮を建て、のちに橘豊日尊(用明天皇)も来訪したので、合祀したと伝える。日本武尊の白鳥伝説は著名だが、橘豊日尊にも貴種流離譚にまつわる白鳥伝説が残る。
  隣の刈田郡の唯一の式内社、刈田嶺神社(
刈田郡蔵王町馬場)も白鳥大明神と呼ばれるが、宮城県南部の柴田・刈田両郡にはこのほかにも白鳥神社が多く分布し、古来白鳥が神聖視されてきた。この辺の事情は、谷川健一著『白鳥伝説』に詳しく紹介されている。
                                        


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