柴田勝家の系譜試論


  <明智一族に関連して、柴田氏の系譜の検討>

 柴田勝家の系は、明智一族の日比氏から出た可能性がないかという検討をここで試みることにしたい。
尾張の柴田氏は、清和源氏より出た斯波氏の庶流といわれる。太田亮博士は、斯波は柴田から来たものではないかという。祖の義勝が越後国柴田城に居たことから柴田氏を称したと家譜にいうが、これは確証はないどころか、まったくの虚説ではなかろうか(義勝という先祖については不明)。管見に入った斯波関係の系図からは、斯波一族から柴田氏が出たという徴証が見られず、勝家の出自は私には長年の謎でもあった。
 
 柴田氏は権六(修理亮)勝家(1583卒去、享年六十二)から名が知られ、その父は土佐守(実名不明)ともされるが※下記の追補参照、それ以前は不明となっている。勝家は尾張国愛知郡の上社村(かみやしろ。名古屋市名東区)の出身とされており、『徇行記』は下社村人という。下社城(同区陸前町の明徳寺が城跡と伝わる)の城址近くには、勝家誕生地の石碑、勝家手植えという老松がある。
その近隣の一色城(名東区一社三丁目付近)の城主はかつて柴田源六勝重といい、将軍義尚に仕えて文亀三年(1503)七月二日に没した(『尾張志』、神蔵寺過去帳)、とされる。信長の臣、勝家はその子孫といわれるが、系譜は定かではない。年代からすると、源六勝重は勝家の曽祖父くらいにあたるものか。柴田の苗字の地も不明であるが、愛知郡内か(なお、現在の柴田〔現名古屋市南区柴田〕は、近世に柴田屋が開発した柴田新田という)。
 
 さて、東大史料編纂所に所蔵の「明智氏一族宮城家相伝系図書」以下「宮城系図」という)には、明智光秀の従兄弟、三宅弥平次光俊の妹に柴田源左衛門尉源勝定室をあげており、勝定は柴田修理亮勝家の従弟で、丹波柏原城主であったが、天正十年(1582)六月十六日(小栗栖で光秀死去の三日後)に柏原で生害し時に四四歳と記される。三宅弥平次光俊とは、名前は秀満といい、明智左馬助の名で著名であり、通用する俗名は「光春」とされている。
  『明智軍記』にも柴田勝定が見えており、それによれば、妻は明智秀満の妹とし、元柴田勝家の家臣で、長年の持病を理由に所替えを辞退したところ、これが勝家の勘気に触れ、天正7年、坂本にあった光秀を頼ったという。勝定は、光秀に仕え丹波柏原城にあって、光秀の丹波平定に従って転戦し、本能寺の変では、二条御所攻めに参加、続く山崎合戦では先鋒を務めたが、総崩れした明智軍の殿を務めて討死した、とされる(『明智光秀のすべて』)。
しかし、これには別説あり。柴田勝定(源左衛門尉、次左衛門尉、佐渡守、勝全)は、初め柴田勝家に仕え、北庄城の留守居を任されるなど重用された。その後、明智光秀に仕え、天正十年(1582)六月、山崎の合戦で敗退したことで羽柴秀吉に降服し、堀久太郎秀政に仕えて、旧主勝家と賤ヶ岳で戦う。天正十八年、小田原攻めに従軍し堀秀政隊の先陣をつとめ、秀政の子の堀秀治が越後移封後にはこれに属して青木山城主となる。慶長五年(1600)には、福島正則に召抱えられ、三千石を領したという。また、賤ヶ岳合戦の後、源左衛門は自分の息子を村井の斡旋で小姓として利家に仕えさせている。これは柴田久太夫といい、五百石の知行をとり、金沢で没したという(「村井重頼覚書」)。
これらの事情を考えると、柴田源左衛門尉勝定と佐渡守勝全〔かつまた〕は別人であって、両者が兄弟であったのが混同して伝えたものなのかもしれない。

  柴田勝全が堀秀政に仕えたのは、あるいは秀政重臣の堀直政(斯波奥田一族の出)の縁ということでもなかったのか。「宮城系図」には、明智一族の頼弘の弟、頼景(頼種)は母が尾州中島郡奥田の城主尾張民部大夫満種(斯波義将の孫)の女で、外伯父持種の養子になって尾州奥田に移ったと伝える。斯波奥田氏の持種の子孫に堀監物直政が出ており、幕藩大名として存続して、明治になって奥田に復して三家が子爵に列している。堀直政の系譜では、持種の子の「氏英」の玄孫が直政とされるが、氏英と頼景(頼種)とが同一人か義理の兄弟なのか、その関係は不明である。
光秀の譜代衆の家臣にも奥田氏がおり、奥田宮内少輔景綱は弘治二年の明智攻めの際に明智城に篭城しており、山崎の合戦に参戦して死亡した奥田景弘と同一人物か、もしくは近親とみられている。ともに「景」を通字としていて、頼景(頼種)の子孫に相応しい。山崎合戦には奥田庄大夫も従っている。
 
 明智氏の初代頼兼と同人とみられる頼重の弟・頼高(下野守、入道浄皎)について、「宮城系図」に日比氏祖とある。日比氏は、美濃国安八郡に多くあり加賀野古城に拠るとされるが、尾張にもあって愛知郡日比津村(名古屋市中村区)にて日比下野守勝定等の名が見える。日比下野守勝定は源氏というから、この勝定は下野守頼高の子孫であった可能性が大きい。その支族で愛知郡柴田(比定地不明)に展開したのが柴田氏ではなかったろうか。明智氏と尾州海東郡との所縁は、頼重が足利尊氏に属して尾張の海東左近将監の跡を賜り、その弟・頼高が兄の譲りをうけて海東庄や美濃国妻木郷等を知行し甥の頼篤に譲っている(岐阜県立図書館蔵「土岐系」)。頼高の弟・頼助も兄頼高の譲りをうけているから、頼高・頼助兄弟の後が海東郡やその東隣の愛知郡に残ったことは十分考えられる。

  なお、柴田氏が通婚し、勝家が外甥(姉妹の子)の三左衛門尉勝政(佐久間盛次の子で、玄蕃允盛政の弟)を養子としたほど深い縁由のある尾州愛知郡御器所の名族佐久間氏は、織田氏の重臣であり、その系譜が称桓武平氏三浦一族の出とされるから、これと通婚した柴田氏が卑族の出とは思われない。そして、源姓を称したことに着目すると、それが真実なら、尾張にあって斯波一族でなければ、土岐一族あるいは小笠原一族の流れという蓋然性が高い。源満政流の山田・浦野一族が尾張には多いが、この一族は「重」を通字とする傾向があり、ここでは除外してよいと思われるので、土岐の蓋然性を考えるわけである。それにもかかわらず、勝家らの柴田一族が系図を明らかにしないのは、勝家が滅ぼされたという事情に加えて、明智光秀との同族関係を秘匿したものではなかろうかとも推測される。もっとも、家紋からは柴田氏と明智氏との関係は窺うことができないが。
 
5 先にふれた海東郡から愛知郡にかけての地理関係を具体的に見ると、興味深いものがある。
「宮城系図」に拠ると、明智頼兼の所領としては、尾張国海東郡に「萱津、甚目寺、岩塚」があげられており、前二者は現在の海部郡甚目寺町の中央部から東部にかけての地域(甚目寺から萱津にかけての辺り)とみられる。この愛知郡萱津から同郡日比津(現中村区北部の日比津)までは、庄内川を挟んで東へ1.5キロほどの近隣という地理的位置づけにある。萱津には、後に土岐本宗となった左京大夫頼益も所領を持ち、はじめ萱津二郎と号したことが知られる。
岩塚については、日比津の南方約3キロの愛知郡岩塚、現在の中村区岩塚一帯が比定される。また、甚目寺町桑丸の付近が桑山村だとすると、桑山氏が明智頼兼の後裔とする蓋然性が高まる。初期の幕藩大名(三家いずれも断絶)で見える桑山氏は、海東郡桑山郷に起った氏で、その家譜には、秀吉に仕えて立身した桑山彦次郎重晴(1523〜1606)をその藩祖として、藤原秀郷流の結城一族庶流と称したが、その系図には疑問が大きい。重晴の父を修理大夫以則というのも、以則が法名でなければ、名前は通字から見て疑問がある。
  家紋は桔梗であるうえ、「宮城系図」に見える明智氏との通婚からみても土岐一族の出自かとみられ、『土岐累代記』には土岐の同氏として「丸毛・桑山・世保」をあげている。「宮城系図」の記事が正しければ、明智刑部少輔(修理大夫)国篤の妹は桑山右衛門大夫頼晴の妻となっており、この「晴」を通字とし、修理大夫を通称とした土岐一族がいたことが分かる。

  このほか、明智一族から出て加藤清正の先祖となった加藤四郎頼方が尾張の加藤氏の養子となって応仁の頃に愛知郡中村に移住したこと、明智一族から出たと「宮城系図」に見える土田刑部頼久(実際には明智国篤の養猶子の可能性もある)の子孫が海東郡土田(現西春日井郡清洲町土田)に住んで信長の母・土田御前を出したことなど、土岐明智一族と海東・愛知郡地域は、様々に縁がつながっていた模様である。
 
 結び
以上のようにみると、尾州の海東郡から愛知郡にかけての地域が土岐明智一族に縁由の深い地であることが分かる。明智一族から出たとされる日比氏も、愛知郡日比津を苗字の地としたものではなかったろうか。おそらく勝家を出した柴田氏も、明智の流れであったのが、これら尾張に分岐した支流は早くに系図を失ったのではなかろうか、という疑いも出てくる。
  いずれにせよ、柴田勝家には系譜資料が乏しいために、これ以上は踏み込めないが、一応の仮説としてここに提起しておきたい。

   (04.11.23掲上、05.8.21若干補訂)


  〔追補〕

『百家系図稿』所載の柴田系図
  最近、気づいたことであるが、鈴木真年翁編纂の『百家系図稿』巻12には、柴田系図の掲載があり、それに拠ると、次のように記される。
@ 系図は、勝家の父を柴田土佐守平勝成(尾州愛知郡上社城主)として、この者から始まる簡単なものである。
 なお、ここでは柴田を平姓とするが、佐久間氏の平姓に引かれたものか。柴田一族の通称などからみても、称源姓とするのが妥当か。
A 平勝成の子には、女(佐久間玄蕃助盛政母)、勝家、勝直、女(滝川左近将監一益妻)の四人をあげる。勝家の後については、「−」を記して、子孫のあることを記すが、それ以上は示されない。
B 勝直の子に勝仲(十兵衛。仕福島正則)をあげて、この世代で系譜は終わっている。

2 柴田勝家の子孫など
  勝家の子孫についても、『姓氏家系大辞典』や『戦国人名事典』等に基づき、少し触れておく。
  勝家の実子としては、権六勝敏(於国丸)があげられるが、養子説もある。勝敏は、天正十一年(1583)四月の賤ヶ岳合戦ののち捕らえられ、同年五月十二日に近江佐和山で十代半ばほどで斬られている。早世したと「柴田系図」(浅羽本)に見える宮内少輔某と同人かどうかは不明である。
  勝家の養子としては、近江長浜城主となった伊賀守勝豊が知られる。勝家の姉の子ともいわれ、実父は吉田次兵衛とされるが(諸説ある)、勝家と不和となって、早くに秀吉に降伏し、賤ヶ岳合戦のときは病気療養中であって、その戦中ないし直後に死去したとされる。
  養子として柴田の家名を残したのは、三左衛門尉勝政の系統であり、その子の「勝重(弟に勝次、その子に勝定等)−勝興(弟に信勝、勝利、勝忠など)−勝門……」と続いて、旗本として存続した。
  なお、真偽不明だが、勝家の庶兄に信慶がおり、その子の「勝春−弥左衛門−源八」という系図もあるという。

  (05.8.21掲上)

 ※独り言へ戻る     常陸の柴田氏へ戻る


  ホームへ  ようこそへ   Back