古樹紀之房間


  上古史の流れの概観試論


  弥生期以降の上古史の流れを試論的に概観してみます。ここでの記事について、個々の論拠や資料はあげませんが、現段階におけるこれまでの様々な研究のまとめ(
試論)と理解してください。
  記紀の記事を盲信するのは厳に慎むべきことですが、一方、資料の乏しい上古代に関しては、頭から記紀を排除するのは、その解明のためには問題が大きいものと思われます。科学的にどこまで歴史の原型が探索できるかという問題だと思われます。


 
 


 
わが国の氏族系統についての私見
  本稿では、平安前期弘仁の『新撰姓氏録』( 西暦815年成立)を基に皇別、神別、諸蕃に分けて記載しているが、その基礎的考えとして、わが国の氏族・部族の系統についての所見(私見)を現段階のもので試みに記しておきたい。これは、日本人という民族の形成問題にも絡み、実に大変難解な問題であり、私自身の考えとしてもブレをもった変遷がこれまでも度々あった。
  しかし、これについての考えなしでは、古代諸氏の系譜探索がなし難いため、敢えて端的な記述を試みたものである。従って、分かり易さを考えて、多少とも割り切って表現している点があることをご理解いただきたい。


○ 現代日本人は単一民族の後裔ではない。中国や朝鮮半島の国々と同様、上古以来、大陸や周辺から日本列島に流入したいくつかの種族(三,四つほど)が長い期間のうちに混合融解して形成されたものとみられる。その形成の時期・過程については明確には記述し難いが、言語や神話・祭祀などから、大づかみに把握することは何とかできそうである。

(1) 日本列島の形成が一万年ほど前のこととして、その前後から大陸から来た原日本人が居住していたことが考えられる。この主体を縄文人とか「山祇族」(やまつみぞく)と呼ぶとして、わが国では狩猟・漁労、焼畑農業をしていたものであろう。

  この種族は、いまのクメール族(
カンボジア人)や中国古代の三苗とか苗族と呼ばれる人々に類似の要素が見られ、本来、アジア大陸北方に居住していたが、次第に南方に居を移して、中国古代の南蛮と呼ばれるものの主力を構成していたものとみられる。この後裔諸氏の多くは、神別の天神に属したが、中臣連や大伴連・久米直・紀伊国造などを代表とする。

(2) 次に、中国の江南(長江南方地域)沿海部の原住地から山東半島、朝鮮半島西南部(忠清南道南部の松菊里遺跡に関係か)を経て、紀元前の時代(明確にはし難いが、前三〜前二世紀か)に日本列島に到来してきた種族がいた。主として筑前・肥前の沿岸地域に居住し(特徴的な血液型分布などの徴表がある)、水稲耕作農業を行い青銅器を使用して、わが国の弥生文化前期の主力を担ったもので(「弥生人」は、前者(1)との混血の結果生じたもので、語の用い方に注意を要する)、航海・漁労に優れた能力をもつ人々であり、「海神(綿積)族」(わたつみぞく)と呼んでよかろう。
  この種族は、中国のタイ語族(
現代の主要民族としてはチワン族など)やタイの人々に類似する要素が大きい。注意すべきは、もとから江南に居たわけではなく、遠い昔は中国北方の高原地帯に居たもようであり、中国の最初の王朝とされる「夏王朝」の王族にも通じる。この後裔諸氏の多くは、神別の地祇に属したが、系譜・出自を仮冒して皇別や神別(天孫)に分類された諸氏も、また多い。阿曇連や和珥臣、尾張連、三輪君などを代表とする。

(3) 三番目に、中国東北地方の遼西地方あたりを原住地(さらに淵源は黄河上流のオルドス地方あたりまで遡るか)として、朝鮮半島を経、その南部の弁辰(安羅〔咸安・ハムアン〕も主要居地の一つか)を根拠として、紀元一世紀代前半頃に日本列島に到来した種族がいた。鉄器文化や鳥トーテミズムをもち、支石墓や後期の朝鮮式無文土器にも関係したとみられる。古代朝鮮の箕子朝鮮、扶余・高句麗や百済・新羅、あるいは渤海を建国した部族とも同族の可能性が強く、「天孫族」(てんそんぞく)と呼んでおく(これもやはり弥生人の一大構成要素であったことに注意)。天孫族自体も、トーテムから見て、二つの大きな種族要素があった。
  この種族は、北九州の松浦半島に上陸して後は、松浦川に沿って奥地に溯り、天山南方の佐賀平野を西から東に進んで、筑後川の中・下流域、水縄山地(身納山脈)、とくに高良山の北麓〜西麓の辺り、筑後国の御井・山本郡(現久留米市域)を中心とする地域に定着した。これが、『魏志倭人伝』に見える邪馬台国の前身たる部族国家(いわゆる高天原」。ただし、この呼称はそれまでの居住地についても用いられた可能性あり)であり、こうした原始国家を二世紀初頭前後頃から形成し、それが三世紀前半の魏朝のときに最盛期をむかえ女王卑弥呼などを出した。

 その王家の支族は二世紀前半頃に筑前海岸部へ遷住(いわゆる「天孫降臨」で、「日向」とは筑前国怡土郡から那珂郡にかけての一帯とその近隣地域のこと)、更にその王族庶子が遙か東方の大和へ移動して(いわゆる「神武東征後記)、二世紀後葉に原初大和朝廷を形成した。この王家一族から分出した後裔諸氏の多くは、皇別(皇親)や神別の天孫に属したが、初期大和朝廷の王統(皇統)自体はこの部族内で交替があったとみられる。天皇家・息長君のほかでは、物部連、出雲臣、額田部連、服部連、鳥取連、玉祖連、鏡作連、忌部首や宇佐国造、火国造、筑紫国造などを代表とする。
  この種族の源流は、中国古代の殷・周・秦・羌族などの東夷系(
北狄ともかなりの混血があったか、習俗で似通ったものがある)に通じており、箕子朝鮮の王族ないし扶余王族と同族の流れとしてよさそうである。地域的には、朝鮮半島南部の伽耶(とくに安羅などの地域)→忠清南道北部→中国の遼西→山西省南部、さらにはその遠い源としては黄河上流部の大湾曲地帯(オルドス地方)まで遡る可能性がある。また、始源地域から四川省にも進出し、古代三星堆文明を築いた種族も同族とみられる
 本HPの扶桑国関連の頁をも参照されたい。


  この一派として別途、遅れて日本列島に渡来したのが天日矛の一族集団であり、子孫が一旦朝鮮半島に戻って暫時留まった後、その子孫(この引率者も同名の「天日矛」として伝える)が再来日して但馬の出石地方に定住した。出石定住は三世紀前半頃とみられる。

  以上の三ないし四の種族・部族が主となって融合して、現代の日本人の多くにつながってきたものとみられるが、当然ながら、日本列島の中でも地域により混血の対象・程度に濃淡の差がかなりある。なお、古代の蝦夷・熊襲・隼人などは、弥生文化を拒絶して、列島内の原住地から辺地に居住した部族のようであり、古来からの山祇系の流れを引いていた色彩が強い。これが、まったくの異民族ではないことに留意(日本列島にはいわゆる「少数民族」は存在しない)。埴原和郎氏も、「アイヌも沖縄人も縄文人を祖先とし、その基層的要素において本土人と同系であるといわざるを得ない」とする(『日本人の成り立ち』1995年刊)。

(4) その後も絶え間なく、大陸や朝鮮半島から新しい文化や技術・信仰などをもって人々が渡来してきた。なかでも、四世紀後葉から五世紀前葉にかけての応神朝頃の渡来の波(このときは弓月君を中心とする秦部族や、阿智使主を中心とする東漢部族が二大要素)、五世紀後葉の雄略朝頃の渡来の波(今来の漢人)が大きかった。
  七世紀後半の百済・高句麗の滅亡によりわが国に流入してきた人々も、また大量であった。奈良時代にも、大陸との交流を通じて人々がやってきたが、九世紀になると遣唐使も次第に行われなくなり、大陸からの渡来が途断した。この平安前期のころから一千二百年ほどの期間、現代日本人にむけての民族形成・融合の過程が着実に進行することになる(
といって、地域的には融合過程がかなり異なり、血液型等で差異がでる)。

○ 弘仁の『新撰姓氏録』では、原則として二世紀後葉の神武朝以降に渡来してきた氏族を「諸蕃」に分類し、この系統の氏族が弘仁当時の京及び五畿内の有力諸氏全体のほぼ三分の一を占めていた。「皇別」とは神武天皇兄弟以降の天皇の子孫の氏族とされ、また、「神別」とは天皇家の先祖も含んで神々の子孫の氏族とされ、そのなかには天神・天孫・地祇の分類があった。
  こうした分類の基準は一応、明確であるが、具体的な分類は各氏の系譜所伝をふまえてのものであったため、姓氏や系譜・出自の仮冒の例も相当に多く見られるなど、問題も多いことに十分留意される。これらについて、個別具体的な検討が必要なことに留意されたい。

○ わが国の神別諸氏(皇別・諸蕃系を除く)の殆どが、天孫族・海神族・山祇族の三系統に分けられる。その場合、火具土神(カグツチ、火産霊神)・火雷神の後と称し月神を信仰した山祇族は別として、天孫族海神族との間にはかなり類似した要素もある。とくに、両族とも日神(太陽神)の信仰をもち、“素盞嗚(スサノヲ)”という名の神を遠祖とする所伝をもっていたことに留意される(鳥トーテミズムも海神族で若干見られる)。
  この素盞嗚神とは朝鮮神話の始祖神・檀君に通じる神であり、この遠祖伝承が正しければ、中国江南にあった越(
タイ族)の色彩が見られる海神族も、わが国渡来前の朝鮮半島南部で地域先住の人々と混血して、その系自体は上古代朝鮮の支配階層の流れを多少とも汲んだものであったのかもしれない。
 天孫族の素盞嗚神は熊野大神として現れ、その子とも同神ともされる五十猛神八幡神、波比伎神)の流れが天孫族であり、一方、海神族のほうの素盞嗚神の子の八島士奴美命(大歳神と同神かその先祖)の流れが海神族であって、年代的にも性格的にも、二人の「素盞嗚神」は同神ではあり得ない。記紀神話や氏族系譜伝承では、後者の海神色の濃厚な素盞嗚神が強く現れるが、記紀神話では前者の素盞嗚神も散見する。
  また、高天原で天照大神と争った素盞嗚神とは、海神族の象徴としてのものであり、大蛇退治の神の後裔の複数者たちの集合体が一人の神として現れたものとして捉えられよう。記紀神話に現れる素盞嗚神の性格があまりにも違いすぎるとして、二人の素盞嗚神として把握する考えもあるが、もともと別人(
別神)で多数の神々に用いられた呼称であった。

○ 天孫族と海神族との差異について、敢えて端的に特徴をあげてみると(母系等の影響もあって、多少とも例外はあるが)、概ね次のようなものか。
 天孫族……熊野大神・五十猛神(八幡神)・角凝魂命・高産霊神(高木神)・天照大神・活玉神(伊久魂神)・天目一箇命・少彦名神などを祖神として奉斎。
  粟・麻などの植物。熊(
猪など)・鳥(とくに白鳥・鷹・鷲)などの動物。安(夜須、安芸、安濃)・高(多賀)・三野(美濃)・鏡山・鷹取山・嵩山(嶽山、御岳山)などの地名。巨石・石神信仰。温泉神、医薬神。妙見信仰。鉄鍛冶・製塩や土器・鏡・玉・剣・弓矢・衣類の製作。日置部・額田部・鳥取部・服部・玉作部。

 海神族……大歳神・大国主神・大己貴神・大物主神・事代主神・建御名方神・猿田彦神・白山比神などを祖神として奉斎。
  稲・葦などの植物。竜蛇・鴨(
白鳥もあり)などの動物。長(那賀、長田)・葦(葦田)・志賀・竜王山などの地名。虚空蔵信仰。青銅・銅鐸・銅矛の製作。海部・磯部(石部)・水取部・猪養部。

 山祇族については、これほど明確ではないが、その特徴としては、火神迦具土(カグツチ。火産霊神、香都知命)・天石門別命・天手力男命・多久豆魂命、武甕槌神、九頭竜神、加美神、丹生神などを祖神として奉斎。犬狼信仰・月神信仰が見られ、山部・久米部・佐伯部などがある。なお、「安」の地名は、山祇族にも関連する。
 なお、巨石信仰は、どの種族にも多かれ少なかれ見られるので、要注意。



  上古代の論点及び年代についての私見
   
(具体的に本HPのなかで取り上げるものもあります)
  歴史の流れを把握するとともに、系譜関係の判別のため、わが国上古代の年代をどう捉えるかは、大変重要である。とくに最近では、古墳築造・出土物など考古学関係の年代をかなり遡上させる傾向がまま見られており、注意を要する(とくに邪馬台国畿内説に立っての関西系学者の年代操作もあるようで、気にかかる。ただ、その一方、安本美典氏の古墳年代観は、邪馬台国東遷説の立場にも通じて、天皇一代約十年説に立って逆に多少とも繰り下げ気味であり、これも一代の治世期間が「約十年」というのは短すぎて疑問がある。真理は、おそらくそのほぼ中間にあるとみられるが、総じていえば、私見は安本説のほうにやや近いが、邪馬台国東遷説は空想だとみている)。

  中国や朝鮮半島関係でも、建国年代の遡上等で、立場・主義が違うが同様な傾向が見られており、考古学の役割とそれが単独でなしうることの限界(
相対的な編年・年代比較にとどまり、絶対年代の判定は困難な場合が多い)をよく考えて対処すべきではなかろうか。
  また、木材の年輪や炭素あるいは銅鏡を用いた年代測定法にも、その標本数・資料操作や基本認識等に問題がかなり見られ、これらも年代を古くみる形で測定が出される傾向にある。様々な例からみて、年輪年代法による測定結果の科学的な確度は、少なくとも古墳前期〜弥生時代についてはかなり低いという見解もあり(山口順久氏)、六世紀より前の年代判定にあたっては、その科学性を担保する基礎作業が更に必要とされよう。これらを含めて、基礎データの開示をもとに科学的な手法が十分な検証を経て、歴史学の分野に適切に導入されることが期待される。

 上古代(とくに神武以降の時期)の重要事件をについてもまた、たいへん大胆なものとうけとられようが、私の年代観を以下に記述しておきたい。この年代の算出にあたっては、貝田禎造氏の『古代天皇長寿の謎』(六興出版、昭和六十年刊)などに重要な示唆を受け、『日本書紀』の紀年については原則として、神武〜仁徳天皇の期間では書紀紀年の四分の一が実際の年代(いわば四倍年暦)、履中〜允恭天皇の期間では同二分の一(二倍年暦)、安康ないし雄略天皇以降の期間は現今と同じ(等倍年暦)と考えた
  また、『古事記』の崩年干支記事は信頼し難い面があって、記紀でほぼ合致する六世紀前半以前のものについては基本的には採用すべきではない(
種々検討してみると、雄略天皇あたりからの崩年干支は、ほぼ妥当か)。
  なお、一般に学界では、書紀年代や記紀伝承については全くの捏造と受け取られがちである。その論者の理解の超える記紀記事については、自己の分析能力に起因するものもあるのに、これを安易に偽造捏造とか作り話として捉え、論じる傾向も見られる。これは、思考の責任転嫁であって問題が大きい姿勢であり、決して科学的・合理的なものとはいえない。記紀の合理的な解釈なしには、その合理的批判や原型探索はできないことを銘記すべきである。また、考古学者といえども、古代年代を論ずる限り、記紀をまったく無視することは許されないはずである。
  津田史学亜流の諸説には、記紀記述をごく素朴に受け取り、記述の時間と場所等についての大きな誤解に立ったうえで(
神・人についても、ほぼ同様)、殆ど全面的な記紀否定の立論が多く見られる。その一方、肯定論からの素朴な受け取りも依然としてかなり見られる。これらの双方の意味で、記紀等の古代史関係文献の検討・批判は、大変不十分な状況にあり、より多角的・科学的な角度から冷静になされるべきものと思われる。「皇国史観」という誤解誘発的な語の安易な使用は、厳に慎むべきものと思われる(皇国思想に反対する立場には変わりがないが)。高天原神話や天孫降臨などの記紀の神話伝承も、頭から後世の作と決めつけるのは却って不自然である。

  記紀や『旧事本紀』は、記述の全てが正確なはずはないが、四,五世紀の日本の政治状況について、重要な情報を提供していると判断される(ただし、『古事記』及び『旧事本紀』はいわゆる「偽書(ないし偽撰書)」と判断される)。文献資料からみて、日本列島の西暦四世紀は、決して“謎の世紀”ではない。また、簡単にそう片づけるべきではない。
  私は具体的な結論としては安本美典説と異なることが多いが、安本氏のいう津田史学批判は、総じていえば、津田史学の論理過程・結論に対して妥当すると考えている。すなわち、津田史学は、近代的合理性と数量化の精神を欠いており、研究者の主観的判断に基づく議論で、史実構成のために有用な情報をも無益な情報と一緒に捨て去るという袋小路に屡々迷い込むという批判である。
  ただ、こう指摘する安本氏の結論にも、自らの“天皇一代約十年説”“卑弥呼=天照大神説”に自縄自縛され、疑問な点が多々あるのが惜しまれる(
本HPでは、天照大神の男性神説など、その一部を掲載してある)。また、『魏志倭人伝』等の中国関係の資料にも、書物の伝来経緯等を含め疑問な面が相当にあり、これらに全面的な依拠することは、研究姿勢として問題がある。考古学だけで上古史の記述はまずもってできないことにも銘記すべきであろう。


 
以下、具体的な項目について記述する。
 
神武東遷と邪馬台国   神武の東遷の開始は西暦 173年頃であり(以下に記述する年代数値は殆どが推定であるが、「西暦・頃」は省略して記す)、筑後川下流域(久留米市域)に首都をおいた邪馬台国の王家の庶流たる伊都国王家の庶子的存在であった神武兄弟が、筑前の怡土地方(福岡県前原市辺り)を出発してから二年弱ほどの期間かかって大和盆地南部に侵入、この地を征服して大和近傍地域を勢力圏とする王となった。神武の即位が 175年のことで、19年在位したのち194年に崩御。その後継の手研耳命は一年弱のうちに(短期間だけ在位か)、異母弟の綏靖天皇に殺害され取って代わられた。
  神武の活動年代は、書紀紀年の検討や初期諸天皇(
大王)の世代数・即位者数などの説明変数から、客観的に導き出すことができると考えられる。

 神武東遷の時期や位置づけ等をこのようにみるとき、いわゆる「邪馬台国東遷説」は妥当しない。「伊都国東遷説」も同様に成立しない。そもそも、古代においても「国」の移遷を安易に考えるべきではない。古代氏族諸氏の多くの系譜からみると、その殆どの系譜で神武世代と崇神世代との間に四世代(約百年当時の一世代は約25年とみるのが概ね妥当かがおかれており、この四世代分の日本列島の人物(皇室関係者ばかりではなく、全ての古代氏族の多数の先祖も当然含む)を全て抹殺しない限り、神武の東遷時期を三世紀後半ないし四世紀初頭に繰り下げることはできない。
  三世紀前半の卑弥呼の時代には、北九州と大和にそれぞれ有力な部族国家が並立していたとみられる(
北九州にあったのが邪馬台国とその連合地域・勢力圏であるが、大和のほうはかなり小さく、この当時、両者の接触は殆どなかったとみられる。当然、出雲など他の地域にも、規模は異なっても同様な部族国家の存在が考えられる)。天孫族の日本列島渡来の経緯等からみても、王権から排除された王族庶子一派が新天地を求めて、他処に移動する例が北東アジアのツングース系種族には多く見られるが、神武兄弟も同様な例とみられる。邪馬台本国そのものが本拠地を捨てて遠距離の移遷をしたことは、その契機からいっても説明し難く、無理がある。
 
なお、北九州における邪馬台国王家の後孫は、大和王権による掃討で後世には残らなかったので、古代氏族の系譜には一切現れることがない。後世の偽撰なのに国宝指定された『海部氏系譜』のなかに卑弥呼などがいると説く所論もあるが、まったくの誤解にすぎない。邪馬台国関係者の流れとみられるのが、四世紀代に大和王権から征討の対象とされた「熊襲」である。「熊襲」は、南九州に居た「隼人」(山祇族系統で、名前は犬のように「吠える人」→「吠人」に由来)とはまったく異なる。この辺を、津田学説等は混同している。

  応神ないし崇神より前の初期天皇について、記紀掲載の系譜が殆ど直系の父子継承であることや命名等を根拠に、その存在を簡単に否定する論法が多く見られるが、これは乱暴粗雑な思考である。仲哀天皇以前も当然、兄弟継承(ないし傍系継承)がかなり行われており、「X倍年暦」(「X」は上記のように「4か2」)の存在などで、否定説の殆どに対処できる。
  崇神は神武の五世孫にあたるが、現在に残る史料からは、その途中の世代については具体的な系譜をあまり明確にはできない(
一応の推測はなしうるが)。崇神(御間城入彦五十瓊殖命)の前代との関係については、先代の開化はおそらく崇神の従兄弟で、先先代の孝元が叔父、その前の第七代天皇とされる孝霊(彦太瓊命)が崇神の父ではないかと推される。
 
崇神天皇の在位期間   崇神の四世紀前葉の在位期間(315〜331年の17年)のうちに、吉備・丹波、北陸・東国へとその版図を大きく拡大させた。初期大和朝廷は次第に力を貯えてきたものの、三世紀中の版図では大和盆地周辺にとどまったとみられ、崇神朝になって前代と比べ飛躍的な差異があったとみられる。その意味では、崇神が大和朝廷の実質的な初代大王としてよかろう。
  巨大古墳の出現は、こうした政治統合体の確立の産物とみられる。崇神の陵墓は、陵墓治定されている現崇神陵古墳(
行燈山古墳)とするのは疑問であり、箸中山古墳(現在通行する呼称、いわゆる箸墓古墳)の可能性が大きいと思われる。『古事記』の崩年干支に基づく崇神崩年の318年(ないし258年)は根拠が極めて薄く、また、安本美典氏の説では、崇神在位を340年代前半〜350年代後半とみているが、その基礎となる古代天皇の人数による推定式は、平均在位年数10年余などの説明変数が単純すぎて推定年代のブレが大きいなど(一代10年の問題は上掲)、問題が多い。

  古墳文化そのものも、おそらく三世紀後葉以降に発生し、崇神朝以降の大和朝廷勢力の強大化とともに発展して、列島内に広域伝播したものと推される。その萌芽は多少ともあったにしても、三世紀代にあっては巨大古墳造成の社会基盤が整ったとは考え難い。最近、年輪年代法や三角縁神獣鏡中国産説等に引っ張られて、古墳築造やさらには弥生期の年代を繰り上げる傾向(それも、ごく特定の古墳だけの繰上げ傾向)がまま見られるが、斎藤忠氏がいうように、立地・墳丘形態・内外部施設・副葬品などの観点に加えて、文献資料なども併せて総合的に判断されるべきであろう。記紀を無視し、具体的な埋葬者についての検討なしには、具体的な築造年代の探究は困難である。考古学も年輪年代法も、それだけ正解なものではなく、「科学技術」を用いるからといって、導き出された結論が「科学的・合理的」なものではない。現在まで、算出された数値の検証はまったくなされておらず、おそらく検証不可能な数値であって、こうしたものに依拠する議論は問題が大きい。
 初期の大古墳たる箸中山古墳の築造をもって、古墳時代の始まりとみてよいのではなかろうか(
この辺は通説に同じ)。同古墳は決して卑弥呼ないし台与の陵墓ではない。
 
倭建命等の遠征   大和朝廷の勢力が九州・陸奥まで広く及んだのは、皇族将軍たる倭建命(日本武尊)の遠征や景行・成務の親征などによるもので、景行天皇治世時の四世紀中葉のことである。それに先立つ、崇神朝の東・西両方面への征討においても、皇族ないしそれに準ずる関係者が大いに活動した。
  戦後の学界では倭建命の存在を否定する説が多いが、遠征随行者などの大勢の具体的な人物の系譜位置づけなどからみて、単純な否定は問題が大きい。倭建命周辺の記紀系譜には混乱が多く見えるのも確かだが、倭建命と九州の建緒組命(
応神の曾祖父にあたる崇神朝頃の人)との混同などに起因したものか。なお、邪馬台国の末流・残滓は四世紀中葉の景行朝にはほぼ消滅したかとみられる。

  これら大和朝廷の大々的な内征をうけて、成務天皇の時代には国造・県主などの地方官が置かれた。氏姓制度の整備も、地方制度とほぼ軌を一にしたものであろう。なお、近年、国造等設置や氏姓制度(氏の原始的呼称は生じたとみられるが、カバネの制度は時代が下がり、允恭朝か)の整備の時期を大きく繰り下げ、大和朝廷初期の大王権を弱くみる説も屡々見られるが、国造被任命者や地域の政治動向等、具体的な事情を考えたものではなく(具体的な人物の名を挙げて、国造の任命を論述した説は管見には入っていない)、根拠に乏しい。
  考古学関係年代の繰上げと国造設置年代の繰下げといった相反する学説が一緒に呈示されることは、理解しがたい。そのいずれも、問題が大きく、納得のいくものではない。
 
神功皇后の朝鮮出兵   成務天皇の皇后(後記)たる神功皇后が夫の死後、外征して新羅(当時の王は第十一代助賁尼師今か)を討伐したのもので、時期は 372年後半か。この事件の影響をうけ、新羅の紀年も「四倍年暦」(当時わが国が採用していた暦で、四季が各々一年と数える)に変わっている。神功皇后は決して非実在ではなく、また、仲哀天皇の皇后でもない。この辺の認識のないことが上古史の解明を妨げている。神功皇后の活動時期を的確に把握すれば、たんなる造作・神話ではない。
  ただし、「息長帯媛」と本来呼称されるべき女性は、その意味(
息長氏から出た女性で、帯彦の妻という意)から考えて、もともと仲哀の皇后であり、「記紀で対外活動が見える神功皇后は、本来の息長帯媛ではなかった」ということである。神功皇后の系譜は彦坐命の孫で、名を迦具夜比売命(カグヤヒメ。垂仁皇后の日葉酢媛と同人の可能性大)といい、成務天皇の皇后となって「大帯比売命」と号したもので(成務天皇は後継男子がいなかったが、皇后はいた)、記紀に諡号が息長帯媛と記されるものである。

  この神功皇后出兵事件の五年ほど前から、大和朝廷と百済(近肖古王)との接触があったとみられる。こうした外交は成務朝の日本列島内の統合を受けてのものであり、その王統の朝鮮半島起源も関係するものか。朝鮮半島との外交開始とともに、大陸系の文物移入も始まり、古墳関係でも、列島内独自の様相を示す前期古墳の時代から、中期古墳の時代に入ったものとみられる。同時に朝鮮半島でも、前方後円墳や古代日本の文物・習俗などが見られるようになる。

  記紀の年代を否定的に批判し、その一方、遙かに遅い十二世紀中葉に成立した朝鮮の史書『三国史記』の年代・年暦を無批判に採用する研究姿勢も学界には屡々見られるが、問題が大きい。朝鮮半島及び中国においても、上古代の年代は十分に批判的に用いる必要が高いことに留意すべきである。
  前者では民族主義的史観も強い。朝鮮半島では、新羅では訥祇王以前には「X倍年暦」が見られ、百済でも近肖古王より前の王について同様であるなどで(
このため、初期の新羅・百済の諸王の在位期間は、生物学的に問題が大きくなっている。ところが、朝鮮半島及び日本の学者などには、そうした指摘や認識が殆ど見られない)、各々の建国年代は相当に遡上されている。こうした年代観の的確な把握も、古代史を見ていくうえで大変重要なことである。
 
応神天皇の皇位簒奪   仲哀天皇の遺子である忍熊王兄弟等を滅ぼし、外戚の品遅別命(ホムチワケ、応神。仲哀皇后大中津比売の兄弟)が皇位を簒奪したのが380年代後半であり(その即位太歳自体は390年か。在位は 413年まで)、ここで王統の変更があった。すなわち、応神の系譜は、遠祖を同じくするものの、神武以来の王統とは別系(いわば息長王統)であり、宇佐国造支流で垂仁天皇女婿の稲瀬毘古命(稲背彦命)の子が応神だとみられる※。
 ※
息長氏の系統は、崇神朝頃に活動した火国造祖・建緒組命の子孫であり、その子の武貝児命(讃留霊王)の別称が息長田別命で、息長氏の始祖でもあり、その子に稲瀬毘古命がおかれる。建緒組は、天孫族の流れを汲んだ宇佐国造系統(少彦名神の後裔)だとみられ、皇別の多臣系統ではなかった。

  世代的には、応神は前天皇の仲哀と同世代とみられ、皇位簒奪者の応神が当時、幼年であったはずがない。応神は神功皇后の子であったはずもないが、神功皇后の女婿(娘の小
〔オナベヒメ〕の夫)であったとみられる。この王統変更の影響などもあって、崇神から応神に至る皇室系譜には、大きな混乱が記紀に見られることに留意される。

  平安時代に天皇即位式の一部をなした儀式に八十嶋祭
即位後に使を難波津に遣わし、海に臨んで生島神・足島神などを祭り、国土の生成発展と御代の安泰を祈祷せしめた祭り)があるが、その起源が応神以後の時代という説(岡田精司氏)もある。ただ、この儀式が新王朝開設に由来したとしても、その由来はさらに古い可能性もあるかもしれない(神武東征に際して、難波の重要性の認識があったものか)。
  この応神在位の時代、大和朝廷は朝鮮半島に出兵して高句麗の好太王と長期間、戦った。好太王碑文のいうような一方的な倭軍敗退は、その後の朝鮮半島の勢力状況からみて考え難い。
  なお、好太王碑文の紀年は「暦(
せんぎょくれき)紀年法」であり、現行干支の示す紀年より一年の繰下げが必要である。具体的には、倭軍が渡海して百済・新羅を破った年〔辛卯〕は西暦391年ではなく、その翌年の392年〔壬辰、永楽元年〕を意味する(この意味で、『三国史記』「高句麗本紀」の年代のほうが妥当である)。中国でも日本でも、干支の示す年代が必ずしも単一でなかったが(とくに日本では八世紀頃まで複数の干支紀年法があったとのこと)、これについては、詳しくは友田吉之助著『日本書紀成立の研究』を参照されたい。
 
倭五王の中国王朝への遣使   朝鮮半島まで勢力を伸ばした倭国が次に中国王朝に修好するのはごく自然な流れである。応神天皇以降の中国王朝への遣使は十分考えられ、『書紀』にもその痕跡が残る。倭王賛は年代的にみて多数説のいう仁徳天皇(在位推定414〜435年)でよく、倭王武は雄略天皇(同464〜487年)で、倭五王の実際の遣使としては478年が最後とみられる。他の倭王では、珍は反正、済は允恭、世子興は安康ないし木梨軽皇子かと、一応みられるが、允恭等の治世時期からみて、世子興は木梨軽皇子の可能性もかなりある。その場合には、『書紀』紀年記事や遣使準備等から考えて、珍は履中に比定されることにもなろう。
  現段階では私は、「珍=履中、興=木梨軽皇子」で、元嘉十五年(438)遣使により安東将軍とほぼ同格の平西将軍を授かった倭隋が皇太子時代の反正ではないかという見方に傾いている。なお、倭五王の表記からの単純な比定は、問題が多い。
  また、東晋の義煕九年(413)の倭国貢献は認めてよく、そのときの倭王は欠名だが、年代等から応神としてよかろう(これについては、久保田穰氏に同説)。

  なお、五世紀の倭五王の時代にあっても、倭国に大王を出す集団が複数あって、大王の地位はまだ特定の血縁集団に固定していなかったとみる見解があるが(川口勝康氏。遠山美都男氏も基本的に賛意という)、その史料の解釈・操作に誤りがあり、朝鮮半島など近隣他国にも類例がない(当初は三王家があった新羅でも、四世紀後葉以降は金氏王家一本となった)。四世紀の倭の王権は既に男系の世襲王権であって、他の氏族を抜きんでた存在になりつつあったという上田正昭氏の見解(『大和朝廷』)が妥当であり、ツングース系種族であった天孫族の王朝にあって、三世紀以降、固定の王統がなかったはずがない。
 
顕宗天皇以下の在位時期   清寧天皇の死後、その皇后飯豊青皇女(市辺押磐皇子の娘)がごく短期間(一年弱乃至二年余くらいの期間か)、皇位を預かって摂政し、その甥(すなわち履中天皇の曾孫。記紀等の記事では、中間の一世代の人名が脱落している)の顕宗・仁賢天皇兄弟に継承された。顕宗天皇の即位・元年が 493年であり、その二十年ほど後に、甥の武烈天皇の崩御をもって、いわゆる応神王統は断絶した。武烈の享年は十代半ばくらいの若さであり、『書紀』に記すような、暴政伝承や平群氏討滅なぞの治績は考えられない。
  また、顕宗以下の時代は王朝の衰退期で、これに呼応するかのように古墳築造規模も縮小傾向を示した。ただ、いわゆる「後期古墳」については、安康・雄略朝頃から始まったと考えたほうがよいのかもしれない。
  顕宗頃から、わが国は「扶桑国」の名前で中国の史書に出てくる事情もある。
 
継体天皇の皇位簒奪   男大迹王(オホト王、継体)は武烈(在位507〜515年)の即位後まもなく、皇位を求めて越前で挙兵した模様で、武烈の崩御により唯一の大王権力者となり、実際に即位した。その実質在位期間は515〜534年とみられる。なお、これらの年代関係についていえば、継体の即位宣言が507年で、510年頃には優勢が顕著となり〔これを元年とみれば、継体在位は25年となる〕、武烈崩御後の実質的な元年が515年〔継体元年は平子鐸嶺氏にほぼ同説〕ということで、大和入りはその翌年か。
  継体の系譜は、応神(
息長)王統につながるものであり、具体的には応神弟の稚渟毛二俣命(品夜別命、息長真若命)の四世孫にあたる息長王統ということになる)。なお、のちの息長君(真人)氏は、継体同母兄の意富富杼王の後裔となり、現存史料から考えられている息長氏系図については実態(原型)からの改変も考えられる。その意味で、『釈日本紀』所引の「上宮記逸文」の成立に古さを認めても、内容的に全てが信用できるわけではない。意富富杼王は、稚渟毛二俣命の長子で、忍坂之大中津比売(允恭皇后、安康・雄略母)の兄とされる「大郎子」ではなく、大郎子の曾孫であった。このことは、古代の命名法からも言える。

  継体の崩御後はとくに空白期間なく、安閑は同年に即位して、次に宣化、欽明と順に皇位が継承され、いわゆる二朝対立はなかった。この当時の事件については、数種の干支紀年法により記録されていた事情があった(次項参照のこと)。欽明の擁立者として蘇我氏の勢力を過大評価し、二朝対立を想定するのは疑問が大きい。
 
安閑の崩年と欽明の即位年   安閑崩年の乙卯年(=535年)は記紀ともに一致している。従って、書紀紀年は安閑以降では、ほぼ信頼できるとみてよかろう。ただ、書紀紀年においては、七世紀の事件でも、現行干支紀年法を含め「三通りの紀年」が混在して見られること(阿倍比羅夫の蝦夷討伐の例等)などを考慮すると、六世紀末以前では暦干支紀年法(前掲)としてみる場合には、これ以降、一年づつ繰り下げる可能性もあるのかもしれない(その場合の崩御年は、安閑は536年、宣化540年、欽明572年となる)。
  欽明即位年については、仏教公伝の年代から逆算して531年とする必然性はない。この当時なら、欽明の年齢は十歳余かとみられ、即位の年齢としては無理がある。欽明天皇即位は 539年であり、その翌年が欽明元年となる。仏教公伝の時期は書紀や『元興寺縁起』など諸伝あるが、実際には欽明九年(=548年=百済の聖王の廿五年)頃かとみられる。

     (09.4.14 増補。13.1.1、15.3.8及び5.18などに追補)


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