邪馬台国東遷はなかった

安本美典氏の邪馬台国論への疑問提起

                              宝賀 寿男  


  最初に、安本美典氏のいくつかの所説に対する反対の拙見が述べられます。

 <標題そのものの、邪馬台国東遷説批判については、 東遷説批判 に飛んでください
    ただ、その前に安本説関係の東遷説批判 の記事もあります。



   1 はじめに

  今から三十余年前(2017年現在から数えると五十余年前)、昭和40年春頃には井上光貞博士(当時、東大教授)著の『日本の歴史1 神話から歴史へ』(中央公論社の「日本の歴史」全集1)がベストセラーになり、戦後何度目かの古代史ブーム現出に大きな力となっていた。当時、大学生となったばかりの私は同書をむさぼり読み、その手際の良い学説整理と明快な論旨展開に魅せられた記憶がある。その一方で、どこか違うはずだという違和感を持った部分があったことも確かであり、いつか機会があったら、さらに研究したうえで自説を整理・開陳したいとも思った。
  昭和43年秋に大学紛争のあおりで、幸か不幸か、大学では半年弱の長期休講の期間を得ることになり、日本古代史研究に十分取り組むことができた。このとき、相当に大きい分量で古代史の概説的なもの(
国の始まりから継体登場前くらいまで)を書き貯めたが、一部にやや不完全な部分もあって、未だ公表には至っていない。それでも、爾来、本業の公務の傍ら、時により取組みの強弱はあるものの、ほぼ継続して古代史及びそれに関連する氏族系譜を研究し、また、それらの動向を追っかけてきたところである。

  この最近三十余年(
同上)という期間、邪馬台国問題に関して精力的に活動してきた研究者たちのなかに、安本美典氏と古田武彦氏を数えることには、あまり異論もなかろう。両者とも、大学生時に古代史学を専攻しなかったということで、その所説を異端視する向きもあろうが、様々な角度から古代史を研究して多くの問題提起・見解を示すなど、顕著な著作活動を行ってきており、その結論の是非はともかく、活動の大きさは否定しがたいものがある。
 両者間にはいくつかの論点があって熱烈な論争もおこり、それぞれに熱心なファンも生まれたようである。安本氏の著述によると、井上氏の前掲書に強い刺激をうけ、日本古代史関係の文献を統計的に分析するという手法で探求することができないかと考えて、本格的に取り組んだ結果が、最初の著、昭和42年(1967)10月刊行の『邪馬台国への道』につながったとされる。これにやや遅れて、古田氏の登場は昭和46年(1971)11月であったが、『「邪馬台国」はなかった』という衝撃的な題名で、一躍マスコミにもてはやされたのを記憶している。

  安本氏の『邪馬台国への道』は、当時の私にとってかなり説得力・示唆に富んだ著作として受け取られたので、その後の多くの著作も殆ど目を通してきた。安本氏と古田氏の諸々の論争にあっても、とくに自説の発表はしなかったものの、総じて言えば、私は安本氏の立場のほうに割合、理解を示してきたように思われる(
ただ、個別には古田氏の見解も妥当なものがあると評価もする)。本稿表題は両氏の著作『「邪馬台国」はなかった』『古代九州王朝はなかった』に因むが、私見をいえば、前者は採らないが、後者は概ね是とするところである。多くの歴史研究者の邪馬台国論のなかでも、相対的にかなりの信頼感をもって見てきたのが、安本氏の諸論考であったといえよう。とくに三角縁神獣鏡等の考古学関係の論考については、考古学専攻の学者以上に優れた部分もかなりあるとみており、総じて高く評価し、あるいは参考にしているところでもある。
  それにもかかわらず、本稿を記述しようとしたのは、『邪馬台国への道』(
以下、当初版とする)がその後、「新考」(昭和52年6月)、「最新」(平成10年6月)という名で改訂されてきたものの、当初版に感じた問題点を依然として抱えており、それが改まるどころか、邪馬台国東遷論と絡まって、却って強固になったように感じたからである。例えば、神武の活動時期については、当初版の「西暦240年(±誤差)頃」から新考版の「270年頃」に、さらに最新版では「280〜90年代頃」まで引き下げられている。
 そうした年代論の影響で、安本氏の説く倭五王等の関連諸問題まで、その解が損なわれるのは、座視に耐えないないようにも思われる。実のところ、統計学に詳しいはずの安本氏はどこかでお気づきになるか、あるいは誰かが批判を加えて認識を改められるか、のどちらかではないかと思っていたのだが。それが、現在までほとんど変更がない模様である。

  つまり問題は、「
統計学的手法」と強調されても、その基礎データの取り方に問題はないか、統計学的分析に限界はないか、ということにある。歴史的事件の分析にあたっては、事件報道の5W1H、なかでも年代(When)及び地理(Where)という要素を十分踏まえて考察しなければならないが(更に、人物Whoの問題も重要で、これも看過できないが)、この二大座標軸から見て、安本氏の結論が狂っているのなら、その統計学的手法のどこかに問題があることになる。
  安本氏の論について、最大の問題点は実のところ、売り物にしている年代観である。安本氏は、「日本古代史の諸問題の解決の鍵は、年代論にある。古代史論争の混迷の元凶は、年代論の不徹底にある」とまさに正しく認識されているが(
『日本誕生記 2』 136頁、1993年刊)、だからといって、そのご自身で用いられる手法や導かれた結論が正しいわけではない(これは津田博士についても、同様のことがいえよう)。

  安本氏の把握する年代論には、その統計的処理も含めて多分に疑問があると考えられる。また、その地理的把握にもかなり大きな問題点がある。さらに、これら二点とは視点が異なることであるが、その記紀尊重の姿勢は一応肯けるとしても、記紀に記される地名・人名の固有名詞に関して、津田史観につながるようなごく素朴な受け取り方
地域などの比定)もあり、これも問題が大きい。これを、「記紀記述の信頼し過ぎ」という表現をする者もいるが、この表現は妥当とはいえない。むしろ、記紀関係固有名詞の比定の錯誤、ないしは記紀記述についての把握・分析の誤り、だと端的にいうべきであろう。記紀表記の丸呑みは、合理的批判精神をもった科学的な文献史学からはほど遠いものである。

  これら安本氏の所説での主要三点の問題点について、もう少し具体的にいうと、
@ 安本氏の年代観は、応神天皇(
ないし雄略天皇)以前の諸天皇歴代(応神も含め、応神から遡って崇神・神武の天皇や、さらには天照大神までの歴代)について、活動期間の見方が多少とも後代へ引き下げ過ぎていること。これは、「天皇一代の治世期間が約10年」だとみる年代観に起因するし、その算出過程に問題がある。

A 記紀に記される「出雲・日向」等の地名を、奈良時代以降の理解(
現代の地名からの素朴な理解。奈良時代の編纂者の理解)そのままで考えるのは、事件の原型を見誤ることになること(記紀神話等に見られる「出雲」は島根県ではない場合があるし、「日向」も宮崎県ではない場合があるということ)、

B 天照大神が記紀に記すものそのままに女性神として受け取ったり(
その結果、卑弥呼に比定)、地域の異なる地に居た複数の大国主神について、その全てを同一神として受け取るのは、問題が大きいこと(同名異神の可能性のチェックが必要である)、
 などがあげられる。

  これら三つの問題点(When、Where、Who)を中心にして、以下で具体的に検討を加えていくこととしたい。その際、Whenの時間的視点には、
古代の「暦」(暦法も十分念頭に置いていたい。なお、安本氏の説はこの三十年(同上)ほどのうちに多少とも変化しているものもあり、その場合には原則として新しい説のほうを検討の対象としたい。年代論についても、詳細については『季刊邪馬台国』とくにその第64号(平成10年春号)等を踏まえて記述することとする。

 
 (続く)


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