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   4 邪馬台国東遷論への疑問


  安本氏の著作『研究史邪馬台国の東遷』によると、北九州にあった邪馬台国関係者の大和への遷住を全て「邪馬台国東遷」としてとらえている。二世紀の後半頃に邪馬台国の一部族ないしは別部が大和に移ったのではないか、とみる橋本増吉、植村清二、坂本太郎諸氏の説についても、邪馬台国東遷説のなかで取り上げて記述している。しかし、これはあまりにも漠然とした捉え方である。
 というのは、この「邪馬台国東遷」という用語は、自然には邪馬台国本国の東遷か、あるいは国家統一の動きのなかでの東遷(この場合、「東遷」は国家的統一の概ね完了を意味し、「東征」に類似するか)、と受け取られやすいからである。

 考古学的にみて、銅鐸の消滅や古墳の発生、銅鏡など墳墓副葬品の組合せ、高地性集落遺跡の分布等や氏族伝承から、北九州のとある勢力が畿内に侵入して大和中心部を征服した事実(これを一応、「東遷」に含めておくのが良いかの問題がある)があった可能性は大きいのではないかとみられる。しかし、これが直ちに邪馬台国東遷を意味するものではない。
 考古学的にみて、東遷(ないし侵攻)の主体がどの地域の誰だったかは探索し得ないし、東遷時期が何時であったかは弥生後期〜末期の頃ではないかとは言えても、その具体的年代は現代考古学の限界からいって確定しがたいからである*11。銅鐸の消滅時期から東遷時期を考える見方もあるが、その肝腎の消滅時期が確定しがたいし、大和を征服した勢力が当初段階では奈良盆地と周辺地域にとどまり、直ちにその支配圏を拡大しなかった(できなかった)とすれば、三遠式銅鐸が遠江など東海地方にまだ残っている時期以前の東遷は十分ありうることである。
  また、最近の考古学が古墳の発生時期を三世紀半ば頃まで遡らせる傾向があり、これをどこまで否定できるかも、問題である(甚だしいのは二世紀代まで遡るが、これは疑問大総じて言えば、三世紀末頃までの遡上はありうるか*12。三世紀後半から四世紀初頭にかけての期間にあっては、北九州の勢力が畿内を征服した徴証は、現段階では考古学的にみて何らないという主張も強くなされている。この考えの年代の基礎には多分に問題もあるものの、結論的には総じて妥当ではないかともいえそうである*13

  北九州最大の勢力であったはずの邪馬台国本国そのものが東遷したことを示す記述は、記紀を通じて全く見当たらない。解釈が難しい『旧唐書』でも、「日本国は倭国の別種なり」とあって、「日本」は倭の本国のこととはしていない。応神天皇より前の記紀の記事を全く無視して「空白の四世紀」などと表現する立場は、現在の考古学者等に往々にしてよく見られる姿勢であるが、これは史料研究の姿勢として極めて疑問である。
  その一方、神武天皇の実在性とその東征を認めた場合でも、これが邪馬台国東遷には直ちにつながらない。上古代にあっては、北九州の勢力が畿内へ東遷したとみられるものが、他にも饒速日命集団(物部族)や少彦名神一族(鴨族)、阿曇氏など多数あって、これらの例が神話伝承や同族分布等の資料からあげられるからである*14。神武の東遷・東征を取り上げて、『旧事本紀』等に見える饒速日命東遷を無視するのは、あまりにも恣意的である、と谷川健一氏も指摘する。諸学説を見ても、奴国や投馬国、伊都国あるいは狗奴国の東遷説までも出されている。このように東遷の主体、時期及び出発地により、考え方が変わってくることに留意しておきたい(総じて、想像論が多いが)。

  記紀の神武伝承でも、神武が率いた軍勢はあまり多かったようには記されない。むしろ相当に貧弱で、しかも神武軍の危機の際にも、後援・後続の部隊の派遣もない。神武が苦闘・困難の連続の後に、やっと大和盆地南部の主要部分を平定した後でも、第二代天皇から第九代天皇までの期間は、高市・葛城郡を中心に大和盆地南部ないしその周辺地域を若干含むくらいの勢力圏の首長(大王)であったようにみえる。これは、初期天皇の宮都・陵墓や婚姻相手などについての記紀記事からみて、ごく自然な理解である。
  こうした原初大和朝廷が卑弥呼の邪馬台国と同時期に並立(併立)していたとみられるが、前者が成立後まもない時期にあっては相当小さな存在にすぎず、かつ両者の接触はなく、ましてや前者の中国大陸への遣使などは問題にならない*15。なお、北九州の邪馬台国が「ヤマト」を僭称していたとみるのは、後代の勢力配置に影響された結果であって、疑問が大きい(畿内の勢力が九州の「ヤマト」の名を継いだとするほうが自然)。太田亮博士が早くも戦前に両国併立説を唱えたが、邪馬台国は肥後にあった大和朝廷王族(多氏族)の国という見方で、大和朝廷のほうを大であって本家だと考えたのは惜しまれる(これは、神武の活動時期を古く見過ぎた結果とみられる)。
  その意味では、大和朝廷の大和自生論も宜なしとしないのである。しかし、神武の祖先が「高天原」から降臨し、「日向」で三代過ごしたのち、大和に遷住したと記紀に記されるのを、どう解釈するのであろうか。「日向」が邪馬台国そのものではない以上、やはり、神武は邪馬台国本国から分かれた支分国(支部族)の王族関係者であったと解するのがごく自然である。その意味で、安本説が、神武の出発地を宮崎県日向とするのは、邪馬台国本国の東遷ではないはずであって、矛盾する姿勢だとみられる。

  神武周辺の系譜を検討してみると、その父とされる彦波瀲尊の異世代婚(母の妹との婚姻)の不自然さがみてとれる。「神武の祖父と伝承される彦火々出見尊が、豊玉姫・玉依姫姉妹を娶って彦波瀲尊・彦五瀬命・神武等の父となった」という本来の事実が、神武の嫡系化を目的として変形されて記紀に記載された、と理解されるのである。同様に原型が変更されて不自然な異世代婚となった事例が、記紀にはいくつかあげられる。
  上掲した氏族系譜で神代に遡る部分を見たところでも、記紀に見える神武随従者の世代が天孫降臨した瓊瓊杵命随従者の孫世代に位置づけられる形となっており、そうした世代対比からみると、不自然な異世代婚の原型の把握につながるものと考えられる。その意味するものとしては、彦五瀬命及び神武の兄弟は、庶子という存在であって、邪馬台支分国の王(族長)にもなれないという不遇な環境のなかで、新天地を求めて移動を開始し大和侵入になんとか成功したということである(古田氏等も、神武傍流説)。
  こうした事情があったとして、これを“邪馬台国東遷”といってよいものだろうか。私には大いに疑問に感じられるのである。卑弥呼のいわゆる邪馬台国は、神武の東遷時期よりも後代であり、時期がこうであったとき、まだできてもいない邪馬台国が東遷するはずがないからである。一部族ないしもっと小さい一集団の遷住なら、これは「国家」でもなかった。

  安本氏が神武を三世紀末期頃の人として、「邪馬台国東遷=神武東遷」説を採るのは、彼の天皇一代平均在位期間に基づく年代観と「天照大神=卑弥呼」説が基礎になっており、いわばこの三つの説が相互に支え合っている。ところが、そのどれもが成立し難いことは、これまで記述したところである。
 女王壱与(台与)が西暦266年に晋に使を派遣しての後、中国などの史料では消息不明になったからといって、邪馬台国がどこかへ遷住した可能性もあれば、その地に存続はしていたけれど勢力が極めて衰えた可能性も考えられる。卑弥呼の宮都が筑後川中・下流域であって、台与が250年初頭に遷都して纏向に居したという大和岩雄説も、奇妙としかいいようがない。なぜ、この国がわざわざ遷都するのかの必要性が薄弱ということである。

  神武の活動時期を二世紀後葉と私がみていることは、先に述べた。こうした見解には、先駆者が何人かいた。そのうちの一人が前掲した東洋史学者の橋本増吉博士であり、その有名な『東洋史上より見たる邪馬台国』では、『後漢書』倭伝に「桓霊の間、倭国大いに乱れ相攻伐して歴年主なし」という記事があるので、この二世紀後半の大乱の時期に邪馬台国の住民の一部で安住の地を求めて近畿に移ったものが発展し、故国の名によりヤマトと呼ぶようになった、とみている。植村清二氏も、これを踏襲している(『神武天皇』)。
  また、田中卓博士も、皇室の起源地を北九州の筑後川下流域とみて、これが記紀の高天原であり、“〔原〕ヤマト国”であって、ここから畿内に対して神武東征がなされて“ヤマト朝廷”の基礎が確立し、崇神の頃には権威が高揚して畿内支配が確立した。丁度その頃、〔原〕ヤマト国の後身たる邪馬台国が卑弥呼女王を中心に隆盛を極めていたが、その死後、狗奴国(クマソ)により征圧されたため、景行朝から故国回復戦としてクマソ征伐が開始された、とみている(「日本国家の成立」『日本国家の成立と諸氏族 田中卓著作集2』1986年刊、国書刊行会)。この田中説には、崇神の活動時期や細部の疑問点もあるが、卓見の点も少なくない。ただ、狗奴国はクマソ(熊襲)ではないし、邪馬台国が狗奴国により征圧された裏付けはまったくない。倭建命の西征や景行天皇の九州巡狩は、大和からの勢力拡大ということであろう。
  坂本太郎氏も、この倭国大乱かその少し前の時期に東遷がなされたとみている。卑弥呼の後に東遷したとすると、四世紀初めとみる大和統一国家(崇神朝のことか?)の成立時期と接近しすぎるという判断が根底にありそうである。このため、「ハツクニシラススメラミコト」という呼称の同一性を根拠として、「神武=崇神」という説も別途、割合よく見られるが、綏靖から開化までの八代の天皇(及びその臣下としての古代氏族の族人)を安易に抹殺するという暴挙をおかしている。こうした「英雄史観」はとるべきではないし、そこにある史料切捨ても疑問が大きい。いわゆる「闕史八代」は、手研耳命殺害事件などを見ても、決して「闕史」ではなかった。
  記紀等の記事からみて、神武・崇神両天皇の同一性はとても確認できないし、「ハツクニシラススメラミコト」の漢字表記も異なっている。崇神天皇の人物像と業績については、氏族系譜も含めて文献上、外部からの侵入者・征服者という面影はないといえよう。

  安本氏は崇神朝の時期を四世紀初めより半世紀ほども、後ろへズラしていて、神武東遷時期から少し間をおいており、その陵墓とされる現・崇神陵古墳(行燈山古墳)の築造時期もやはり後ろにズラして考えていて(斎藤忠・森浩一などの諸氏の見解に基づくと記すが)、ともに問題が大きい。
 現・崇神陵はおそらく崇神とは別人の大王墳墓である可能性が大きいうえに、基本的な問題として、現在の考古学が古墳築造の絶対年代や被葬者を的確に指定できるかは、多分に疑問がある*16。個別の古墳について、具体的な築造年代を出す見解が少ないが、管見に入ったところでは、甘粕健氏(「天皇古墳の実年代」、『季刊考古学』第58号、1997/2)や河上邦彦氏(石野博信編『全国古墳編年集成』に所収の見解)が現・崇神陵について四世紀の中葉ないし前半に年代比定をしている(おそらく、前者の「中葉」ほうが妥当か)。従って、現・崇神陵をもって安本説の支えとすることができないのである。
  また、大和朝廷の朝鮮半島諸国との外交・出兵の時期を390年代以降として、好太王の敵方を神功皇后等とみる安本氏の説は、疑問が大きい。記紀や『三国史記』の記事や、百済から届けられた七枝刀銘文369年の渡来か)などからみると、もう20年ほど繰り上げたほうが妥当なように考えるからである。文献史学において、早くに井上光貞氏が、「百済記」を出典とする模様の記事と『書紀』紀年とを対比させるなどの方法で、360年代後半から日本と朝鮮半島諸国の通交がなされたことを説いている『日本国家の起源』1960年刊、岩波書店)。
  こうした初期段階での朝鮮半島関係の外交交渉は、大々的な軍事活動の前に必要であろう。応神が朝鮮半島の軍事活動に関与したとする説も出されており、私もほぼ妥当かと考えるが、応神の活動時期を安本説より引き上げれば、おのずと崇神及び神武の活動時期も、その分だけ引き上げられるものである。ここでも、神功皇后と好太王碑文は安本説の支え・裏付けにはまったくならないのである。いずれも、年代の引下げすぎというのが、安本説の大きなネックにある。

  このほか、神武東遷を二世紀末の倭国大乱に結びつける説が、原田大六などの諸氏により主張されているが(原田氏は中山平次郎の説を受けつつも、一世紀後半の中ごろと考えた中山説を変更した)、原田説は邪馬台国大和説に立っていて、やはり疑問が大きい。また、神武東遷の時期が二世紀後半で時期がほぼ同じとしても、『後漢書』にいう倭国大乱との関連性は、現存史料からは不明であるとしかいいようがない(おそらく無関係であろう)。神武が北九州から出発した時には中小規模程度の部隊であったとすれば、「魏志倭人伝」のいう倭国大乱と関係づけるのは却って不自然であり、あえて結びつけることもなかろうということである。

  「高地性集落遺跡」については、倭国大乱の時期とほぼ同じ時期(弥生後期の第二期)のものが顕著な形で近畿地方に残っており、これは神武の近畿侵攻に対応する可能性がある。森浩一氏は、その争乱の深刻さは自身で遺跡を踏破した人しか理解できないほどで、室町時代の“戦国期”にも相当する旨、記しているから、あるいは神武の軍隊は吉備辺りでかなりの軍備を整えたのかもしれない。大和岩雄氏も、@「二世紀後半の倭国の争乱の時期の高地性集落は、東部瀬戸内から畿内にかけての地域と紀伊水道の東岸で、吉備以西には認められない」、A神武東征伝承において、「吉備で戦闘準備をし、長期間滞在したという伝承は、吉備勢力の存在を認めている。この東征伝承では、難波から河内に入り、敗れて紀伊国に上陸しているが、第五期前半の高地性集落が、紀伊水道の東岸にまでみられることと、なぜか合う」、という理由をあげて、「吉備を東征の拠点としている伝承と、倭国争乱時の高地性集落は、適合する」と記している(前掲「邪馬台国と初期ヤマト政権」)。
  神武の大和侵攻は、その結果として畿内から銅鐸を祭祀具とする文化とその奉持者勢力を駆逐した。なかでも、伊勢・伊賀辺りを本拠としていた伊勢津彦らの一族や関係者は、いったん遠江に暫時とどまったものの、更に東に逃れて武蔵国造など東国諸国造らの母体となり、これから磐城などの陸奥諸国造家が多く分出した。これらと行動をほぼ同じくしたものに、諏訪氏族の遠祖や伊豆・服部氏族などの祖の部族もあって、東国方面にも影響が及び、その衝撃の大きさも知られる。
 


 〔註〕 

*11 考古学の役割とそれが単独でなしうることの限界(相対的な編年・年代比較にとどまり、絶対年代の判定は困難な場合が多い)をよく考えて対処すべきではなかろうか。また、木材の年輪や炭素14等を用いた年代測定法にも、その少ない標本数や資料操作・誤差範囲・基本認識等に問題がかなり見られ、さらに当時の気候条件や日本の風土・地理なども併せ考えると、測定結果から算出される年代値にそのまま依拠するのは、古い時代になるほど問題が大きくなる。鬼界カルデラの大爆発による宮城県あたりまで影響が及ぶような現象も、指摘される。
  様々な例からみて、年輪年代法による測定結果の科学的な確度は、少なくとも古墳前期〜弥生時代についてはかなり低いという見解もあり(山口順久氏「年輪年代法と弥生中・後期の暦年代」、『季刊/古代史の海』第16号、1999年6月)、この期間については、その科学性を担保する基礎作業とデータ公開が更に必要とされるようである。

 光谷拓実氏の手による三千年ほどに及ぶ年輪の物差しの是非を検証した研究者が他にいないという事情は、その作成の困難さを考えると、極めて心許ない。しかも、この暦年標準パターンを具体的に適用して年代算出するのも、時代が上古へ遡るほど、また困難なことと思われる。コンピュータによる作業であれ、個別問題について最後に是非を判断するのは研究者であり、科学には十分な検証が必要である。
  光谷・山口両氏等の記述を検討すると、ヒノキの暦年標準パターンについては、平城宮出土木材により弥生〜古墳時代の基礎データ(パターンE、F)の殆どが作成されており、他のデータとの照合がされていない状態であることが分る。従って、ここに処理手違いがあれば、導かれる結論も当然異なってくる。従来の考古学区分を百年ほども繰り上げる影響をもつ光谷氏の年代判定も、これに由来するのではないかとみられる。
  総じていうと、草戸千軒や鳥羽離宮遺跡との照合がなされる西暦六世紀以降は、具体的適用事例との照合報告などからみて、ほぼ信頼してよかろうが、これがそのまま、古い時期でも同様に適用されるかは全く別問題である。それ以前の時期については、標本が少ない現段階では具体的な年代判定は無理が大きいし、結論をそのまま受容するのは問題が大きいと考えざるをえない。奈良期や鎌倉期のものでは年輪年代法で出された年代がいくら符合したとしても、それが六世紀より前の時期に妥当するとはいえないのである。
光谷氏の挙げる具体例も含めて検討してみると、池上曽根遺跡の例に限らず、纏向石塚古墳の例でも既に百年ないしそれ以上の繰上げが見られており、この時期まで遡る暦年標準パターン作成過程で問題がなかったのだろうかと思わせる。
 平城宮出土のヒノキ材が875年間(
前37〜838年)という極めて長い期間をカバーするかどうかも、その樹齢(最多年輪数が444層とされる)からみての素朴な疑問である。長年にわたる光谷氏の膨大な努力や研究姿勢に対して深く敬意を表するが、光谷氏の論述や最近出版された倉橋秀夫著『卑弥呼の謎 年輪の証言』を何度か読み返すにつけ、年輪年代法とその具体的な適用に対する科学的検証が、客観的かつ十分に行われたとはいい難いと感じる。
  こうした検証を経ずに、年輪年代法による個別の結論数値に無批判に依拠する考古学者主流派の姿勢には慄然とする次第である。全く別人の手で、六世紀以前のヒノキの暦年標準パターンが、平城宮以外の他の地域出土のヒノキ材も基礎データにして検証できないものだろうか、と思われる。その場合でも、サンプル数が少ないときはたいへん気になるが。


*12 畿内中心の分布状況を示す最初の鏡が、後漢末(二世期末〜三世紀初)の画文帯神獣鏡であることから(白石太一郎氏)、この時期より前までは遡ることはないと思われるが、現在出されている光谷氏の年輪年代法による計測結果や三角縁神獣鏡中国産説などに引っ張られてか、古墳築造のみならず弥生年代についての従来の年代観を大幅に(約百年ほど、最近ではもっと大きいか)引き上げる傾向が出ているのは、注意を要する。活発に論考・意見を発表される方々がとくにこうした立場をとられている。
  私としては、上田宏範氏や安本氏などの古墳型式論が無視されていることが極めて留意されるとともに、年代引上げ論の内容点検に十分な注意を要するものと考えられる。とくに箸中山古墳だけが引き上げられるとしたら、邪馬台国畿内説に立っての思込みや操作もあるのではないかと思われ、気にかかる。政治権力等の社会基盤なしに、大古墳がみずから勝手に出来上がるものでもないからである。しかも、その一方で、円筒埴輪や副葬品の編年などから、応神陵古墳・仁徳陵古墳の築造時期を従来の見方より数十年遅くみる動きもあるようで、これでは支離滅裂なのではないのだろうか。
  とはいえ、四世紀前葉とみられる崇神天皇の在位時期やその前代の活動等から考えると、従来よりは多少とも、考古学年代観の繰上げはありうるとして、やはり限界があるものではないかと考えられる。三角縁神獣鏡の国産説が殆ど認められるようになった昨今、冷静に考古年代を考える必要があろう。

*13 白石太一郎氏は、中国鏡分布の中心が北部九州から畿内に移動することについて、古くから九州勢力の東遷で説明しようとする説(神武東征説話など)があるが、最近の考古学的な調査・研究の成果は、この説の成立が困難なことを示しているとして、次のように記す。
 「三世紀初頭前後に、あるいは仮にその時期を邪馬台国以降の三世紀中葉以降に下げて考えても、九州の政治勢力が畿内へ東遷したことを示すような考古学的な徴証は、まったく見いだすことができない。この三世紀初頭前後は庄内式土器の時期であるが、……、この時期は土器や土器型式の移動、すなわちきわめて活発な人の動きがみられる時期である。ただその動きは明らかに東から西への動きを示しており、畿内や吉備の土器は北部九州へ移動しているが、北部九州の土器の吉備や畿内への移動はほとんどみられないのである」(『古墳とヤマト政権』1999年4月刊、文春新書。また、「卑弥呼は箸墓古墳に葬られたか」〔『卑弥呼は大和に眠るか』1999年10月刊、文英堂〕でも同旨)。
  都出比呂志氏も、三世紀から四世紀の時点で、九州と大和との二地域において、一方が他の一方を征服したような劇的な事件はない、と考えている。
  しかし、白石氏の見解は従来の考古学観を約百年ほど繰り上げたうえで、立論していることが分る。すなわち、前後の脈絡からして、古墳時代初期のことを記述していると思ったが、時期を三世紀初頭前後のことと白石氏が考えたうえで記述している。古墳時代の開始時期を何時とみるかによるが、それ以前の時期における九州勢力(国ではない、部族ほどの単位)の東遷は十分ありうることであり、箸中山古墳のような巨大古墳築造の時期には既に古墳時代に入っており、畿内の土器が大和政権の勢力圏の伸張につれて、この圏内の各地へ移動することも、また自然である。現在の考古学の大勢が百年ほどの考古年代の引上げ傾向にあるともいわれるが、それが根拠薄弱で問題点を含むことは、何度か記述してきた。
  とはいえ、各種の見解を総合的にみると、三世紀の後半くらいの時期に考古学関係で畿内に大きな変化があったとみられる要素・痕跡は乏しいものと考えられる。上田正昭氏も、田能遺跡の高野槇製木棺墓や加古川市西条古墳群などの例を挙げて、「畿内の後期弥生文化と畿内古墳文化とのつながりには、軽視しがたいものがある」と記述する(『大和朝廷』1967年刊、角川書店)。

*14 北九州から近畿地方に遷住した氏族・部族は大和朝廷の主要豪族の殆どを占めるが、主なものについて源郷・故地等を例示すると、次の通り。なお、大伴氏族、中臣氏族等も北九州からの遷住の例外ではなく、神武に随行かそれより早く畿内に移住していた。
@ 物部氏族……太田亮博士の筑後平原起源説をはじめ、鳥越憲三郎氏『大いなる邪馬台国』や谷川健一氏『白鳥伝説』などでも説かれて論者は多く、かつ、ほぼ妥当と思われる。
A 少彦名神一族(鴨族)や三上祝などの製鉄鍛冶部族……物部氏もこの同族であるが、少彦名神と兄弟の天目一箇命の一族後裔が筑前国夜須郡から出て、出雲を経て近江国野洲郡に定住した。その本宗は近江の三上祝であるが、畿内には凡河内国造・山背国造が分岐した。応神・継体を出した息長氏族もこの分岐であるが、出雲で分れて九州・四国さらに播磨を経由したという複雑な経路を辿った。
B 阿曇氏など海神族……筑前国糟屋・那珂郡を源郷にして、畿内に入り、倭国造・和邇氏族・尾張氏族などを分岐した。海神豊玉彦命・猿田彦命一族の流れである。このうち、“地祇”に分類されたのは阿曇連・倭国造であるが、他は系譜仮冒して皇別とか天孫に位置づけられ、なかでも和邇氏族から分れた皇別の氏族は多い。
C 三輪氏族 海神族の一派で味?高彦根命の後裔で、源郷はBに同じ。Bも含め、畿内の先住民で“地祇”に分類されたこれら氏族ですら九州から東遷したものであると、皇室の先祖が他の地域から大和に入ってきたことが傍証されよう。

*15 原初大和朝廷と邪馬台国との併存については、前之園亮一氏も、ほぼ同様に考えられている。すなわち、同氏は、「私の推測では、九州にあった邪馬台国は二六六年の晋王朝への遣使を最後に史上から姿を消すが、丁度そのころ、大和に天皇家を盟主にいただく大和政権が誕生したものの、その勢力圏は畿内とその周辺にとどまっていたので、両者の間に直接的な交渉が行われたことはなかったと思う。その後、大和政権の勢力が九州に伸張したときには、すでに邪馬台国は解体ないしは滅亡していたのではあるまいか。」と記している(「天皇家の起り」、『古代天皇のすべて』1988年刊、新人物往来社)。
  卑弥呼が王であったとき(「魏志」で在位確認されるのは、西暦239〜47年)、仮に大和に居たとしたら、天皇家の先祖(ないしは初期天皇)はどういう関係であったのかという問題がある。現在では、考古学者の大半が邪馬台国畿内説だとまでいわれるが、この点についての考えは、畿内論者から殆ど明らかにされていない状況であり、単に不明とだけしておいてよいものだろうか。すなわち、仲哀以前の記紀の記事を全く無視して考えれば、中国関係の史書には四世紀の倭国について何ら記述がないことから、どうとでもいえるのかもしれないが、このような想像論は研究姿勢として疑問が大きい。
  なお、考古学者でも、斎藤忠氏は、朝鮮半島では百済も新羅も国家の体制の段階には及んでいなかった三世紀前半に、わが国が、ひとり大和を中心として北九州も勢力範囲にした統一国家に近い性格のものに進んでいたとすることは無理であると記述し、その頃、九州の邪馬台国と畿内の邪馬台国との二つがあってもさしつかえないと考えている。
  仮に崇神天皇より前の天皇(大王)が実際には卑弥呼と同時に大和にあったとしたら、その頃、原初大和朝廷がせいぜいでも畿内程度の領域しかもたなかったという記紀の記事に反する。“高地性集落”を二世紀末のいわゆる「倭国大乱」だけに結びつけ、その分布の全てが直ちに倭国の範囲を示すものと考えるのは、時期的に分布範囲が異なることからみて、短絡的ではなかろうか。なお、当時の畿内程度の領域は「国王」と称してもよいくらいの規模とみられるが、かりに大和盆地南部程度の領域でも、山辺郡の倭国造や葛城郡の葛城国造を配下にもつ政治統合体の長であれば、「国王(=のちの天皇)」と称してもよいのではなかろうか。
  考古学的にみても、前期(ほぼ四世紀代の中葉末頃までか)の古墳に副葬された古い形式の鍬形石・石釧など碧玉製腕飾類は、初期ヤマト政権の政治的勢力圏を示すとみられるが、その分布は畿内中心であまり広範なものとはいえず、前者は山口・大分県から石川・岐阜県までの分布、後者は香川県から滋賀県までの分布といわれる(上田正昭前掲書など)。また、卑弥呼と同時に崇神天皇ないし崇神以降の天皇が居たとしたら、応神天皇の時代までには記紀に登場しない数人の天皇が更に多く存在したことになり、記紀や氏族伝承に反して、これまた不審である。それとも、卑弥呼の時の王家が滅亡して、応神ないしは崇神の時に全く新しい王家が起こり、前王家時代の記憶を消去して、現在に残る記紀の記事を全く捏造したとでもいうのだろうか。しかし、これは根拠のない妄論である。

  従って、邪馬台国畿内説にたつ考古学者の所論は概して、文献資料の軽視という意味で、私にはどうにも不可解なのである。こうした事情のせいか、古代氏族やその系譜を徹底して研究されてきた学者(太田亮博士や田中卓氏・佐伯有清氏)は皆、邪馬台国九州説の立場にある。別段、数を頼りにするつもりはないのだが、……。いずれにせよ、記紀をはじめ、現存する内外文献資料について現代の科学的な総合視点から十分に分析することなしに、わが国上古代の解明は困難と思われる。

*16 安本氏は、森浩一氏を「わが師」と呼び、考古学者による古墳築造年代の推定には「前後に約六十年の判定誤差」がありうるという森氏の言(『三世紀の考古学』)をご自身の著で何度か引用しながら、その一方、現・崇神陵(行燈山古墳)が四世紀後半の築造という見解に拠って、崇神の在位時期を裏付けようとするのは矛盾しており、これでは何ら裏付けにならない。しかも、森氏は、現・崇神陵は崇神の陵墓でない可能性が大きい旨を記述している(森浩一「西殿塚古墳は誰の墓か?」、『「天皇陵」総覧』所収)。すなわち、『延喜式』のいう崇神陵は、吉田東伍博士が西殿塚古墳にあてる説を出しており、今なお検討するにふさわしい仮説とみていると記述する。しかし、森氏の他の書の記述では、明確に言い切ってはいないが、その論理を突き詰めれば、崇神陵に比定すべきは箸中山古墳とうけとられるような表現もしてきて(『天皇陵古墳』)、さらに月刊誌『論座』の1999年3月号・4月号所載の「記紀の考古学3,4」(後に同名で刊行)で、箸中山古墳を崇神の陵墓とする説に落ち着かれた。
  なお、私は、陵墓治定をいろいろ検討した結果、これまで崇神陵でよいと思っていた行燈山古墳が、実は別人の陵墓で、崇神陵については森説同様、箸中山古墳でよいのではないかと考えている(拙著『巨大古墳と古代王統譜』)。

  また、安本氏が古墳編年の関係で度々引用される関川尚功氏の論考「大型前方後円墳の出現は、四世紀である」(『季刊邪馬台国』平成2年夏号、1990年)の取扱いにも問題がある。同論考は、古墳編年を展望するうえで分かりやすい好論考であるが、巨大古墳の築造開始時期、中期古墳及び後期古墳の開始時期について、総じて言えば、それぞれ20〜30年ほど後ろへ引き下げて考えている傾向がある。
  それは、関川氏の古墳編年の基礎には、四世紀中葉頃に朝鮮南部諸国が初期統合国家の出現を見、日本でも同時期に「大型前方後円墳−大和政権の出現期」だったという考えがあるからである。そして、実態的に疑問大なのは、現応神陵・現仁徳陵が五世紀の中葉〜後半に配置されているのである。誰がどういう社会・政治基盤をもとにこれら巨大古墳を築造したというのであろうか。允恭及び雄略が両墳の真の被葬者というのなら、それなりに一貫しているが、安本氏の説では、この両巨大古墳について現在の治定は妥当と考えておられる矛盾がある。関川氏の古墳編年観は須恵器初現の時期についても関係し、五世紀初頭ないし四世紀末という多数的な説(森、都出、白石などの諸氏)とは異なり、遡っても五世紀の第2四半期後半をこえることはない、と考えられている。そして、安本氏自身も、須恵器の初現をこんなに遅くは考えていないのである。

  こういう関川氏の古墳編年観抜きで、その結論だけを取り上げて、安本氏が自説の補強に用いるのはおかしな話しである。なお、私としても、四世紀中葉頃に大和政権が日本列島の主要部を押さえて確立したこと(景行・成務朝に、大和朝廷の実効的版図が九州中部から陸奥南部まで及んだこと)については異議がない。しかし、それより数十年早いとみられる四世紀前葉の崇神朝において、勢力圏を近畿地方から急拡大して日本列島中枢部をおさえて、大和政権が確立し、それとともに巨大古墳が出現したとみられる。崇神が“御肇国天皇”と号され、その頃から巨大古墳が築造された、と記紀に記されており、これは無視できないと考えるのである。


  (続く)


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