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   3 記紀の地名・人名の比定論への疑問


  安本氏が「魏志倭人伝」を含む『三国志』の記事だけでは情報不足で、邪馬台国の位置を決定できないとみているが、これは、まったく妥当な判断と思われる。
  このため、併せて記紀等の国内文献(特に『古事記』)の記述を用いることで、邪馬台国の位置をほぼ決定できると安本氏は考えるが、これについては疑問も多くある。安本氏には、「卑弥呼=天照大神」「邪馬台国=高天原」という見方がその基礎にあるが、仮にそれを認めたとしても、記紀の記述だけで「高天原」の位置が確定できないからである。このほかの「安川」「香山(かぐやま)」「岩屋」「高木」などの語を用いて、その具体的な位置決定ができるとは、必ずしも思われない。
 『古事記』に限らず、もっと多くの資料や考古学など関係諸分野の研究成果等を総合的に勘案して、検討していく必要があるのではなかろうか。


 高天原・日向など神話地名の比定

  高天原の地を決定する手がかりを、安本氏は、記紀に現れる地名や、鏡味完二氏の指摘する北九州と近畿の地名の一致傾向に求めている。両地方に極めて多く見られる似通った地名の分布が、ある種の集団移住を示唆することには、私としても異議がないが、問題はその中心地である。
 安本氏は高天原神話に頻出する「安川」という川を重視し、安川(夜須川)を小石原川(甘木川)に比定して、その川が流れる福岡県の朝倉地方(旧・甘木市・夜須町、現・朝倉市を含む一帯で、筑前国の上座・下座・夜須の三郡)を「高天原」と考えている。北九州と近畿の地名分布とを比べれば、筑前の夜須郡に対応するのが大和の大和郷だと安本氏はみる(その著作により差異があって、奈良県の橿原に対応する位置にあるとして甘木市馬田を考えたときもある)。甘木市付近には、旧・高木村があり、そのあたりには高木神(高御産巣日神)を祀る高木神社が多いとして、高木・甘木などの地名のなかに「高天原」の名残がある可能性が大きいとも述べられる。
  しかし、大和の大和郷は珍彦を初代とする倭国造の本拠であり、この国造は山辺郡(『和名抄』では城下郡)大和郷一帯の古い為政者であるが、大王のいわば代官的な存在であり、しかも地祇の出であって、皇室を含む天孫系の氏族とは何ら関係がない。初期大和朝廷の本拠を大和郷とみる見解は、学界では全くないとみられる。同様の手法をとるのなら、むしろ大和に入った初代天皇(大王)たるイハレヒコ・神武の本拠、「磐余」をもとに考えていくべきであろう*9これに近い手法も、安本氏がとっていた時期がある)。
 また、物部氏の祖神・饒速日命なども高天原から到来と伝えており、畿内大和の地名が「神武東征」だけでもたらされたとみるのも問題がある。筑前・筑後には、たしかに高木神社が多いが、もともと大行事社という社名が、明治期に変わったものであり、高木神を祀ったものかどうかは不明である(後述)。

  上古代の「磐余」がどのような地域であったかは、必ずしも明確ではないが、現在に残る地名・神社名等からみて、桜井市南西部から橿原市中央部にかけての地域であったと推せられる。上古代当時の大和の地理として、北方に旧大和盆地湖(時代によっては大和湿原か。そのいずれにせよ、標高50M以下の地点では居住不能な事情にあって、弥生遺跡が見られない)、南方には鷹取山につながる山地があって、その中間地帯に神武の本拠地・磐余があったとする場合、同様な地理を北九州の内陸部に求めれば、北方に筑後川、南方には鷹取山に連なる水縄(耳納)山地という両者(山・川)に挟まれた地域として、筑後国の山本郡・御井郡あたり現久留米市東部)の微高地が一案として浮上してくる。
  神代記の「安川」は、おそらく筑後川かその支流だったとみられるので、そこから遠くない山本郡を高天原及び邪馬台国の所在地と考えても、あまり不思議はなかろう。なお、山本郡には、何時の時点からの地名かは不明であるため決め手にはならないだろうが、同郡の大きな地名として「台与」に通じそうな豊田もある。その西隣の御井郡には、式内名神大社の豊比神社や高良大社も鎮座する。九州では豊前にも田川郡に豊比命神社が式内社であげられるが、九州以外の地域には多少とも類似する式内社は天別豊姫神社(備後国安那郡)、飯豊比売神社(陸奥国白河郡)、豊雷売命神社(遠江国磐田郡)くらいなのも、興味深い。御井郡の高良大社の地域に占める祭祀ウエイトの大きさや高良山の神籠石遺跡の存在にも留意される。

  安本氏は当初版の『邪馬台国への道』では、山本が「ヤマト」に通じる地名として統計的に分析されるが、新考版以降では何故かこれに言及されていない。奈良県の橿原市北部には平安期に山本庄もおかれており、安本氏の山本説放棄は、私には惜しまれるのであるが……。天照大神の居た「高天原」が後の卑弥呼治世下の邪馬台国につながるとみる私見については、ほぼ安本説に近いともいえそうだが、時期が大きく異なり、私見のほうが一世紀ほど早い時期を考えている(この時期の違いが、大国主神統治の出雲の比定の差異につながる)。こうした事情に加え、次にあげる諸事情もあって、記紀だけの記述で「高天原」の地域を確定することも、また困難である。

  北九州に多い高木神社については、平安時代以降の英彦山(彦山)信仰につながる各地の「大行事社」が明治以降に改名されたものである。福岡県田川郡添田町の英彦山神宮を中心にその四至に設けられて、豊前・肥前・筑後にまたがる広い分布圏をつくっている。彦山が天忍骨尊(天照大神の子神とされる)を祀るとはいっても、その開山伝説には朝鮮半島からの渡来系の説話が絡んでおり、宇佐の法蓮(八世紀前半の僧で、宇佐君姓を賜ったことなどが『続日本紀』に見える)の中興伝説もある。また、白山信仰も関係するようで、大行事社を高天原の主宰神高木神に直接結びつけるには、疑問が多い。
 福岡県の甘木・朝倉地方に多い高木神社は、彦山修験道が盛行して後の勧請神であることに異論がないとされる(奥野正男氏)。旧甘木市の黒川・江川・佐田(いずれも旧上座郡に属し、甘木市東部の山間部)には各々大行事社があって、黒川には元弘三年(1333)に助有法親王(後伏見天皇の皇子)が彦山座主となり、ここに黒川院を建てて移り住んだ縁由の地であった。明治三三年には、佐田・黒川両村が合併して高木村(さらに昭和三十年に甘木市へ編入)となっている。このように、甘木市付近の「高木」は古い由緒の地名ではなかったのである。これに限らず、地名の活用にあたっては、時代と沿革とを十分考えて行う必要があることに留意したい。

  甘木の地名由来は全く不明であるが、「高天原」の地名はおそらく天崇拝の抽象名詞(なんらかの高台の地)から来たものではなかろうか。ツングース種の流れをくむとみられる天孫族が、遠く中央アジアの天山山脈、モンゴル共和国のオトハン・テングリ山(テングリ=天の意)などに関係する「天山」の地名をもって日本列島に渡来したことに由来しよう。
 安本氏は、甘木の付近には、甘水、天山、安真木など、「アマ」のつく地名が多いともいうが、天山についていえば、九州で最も著名な「天山」とは、肥前の天山(標高1046M)であり、佐賀県中央部に位置して、小城郡小城町など四市町の境界点にある。こちらの天山の周辺にも、天山神社(小城町等)、甘木(三日月町)、天川(厳木町)、岩屋山・高木河内(ともに多久市)などの地名が見える。『伊予国風土記』逸文には、天山が天降ったとき二つに分れて、片端は大和に降りて天加具山(天香具山)となり、もう片端は伊予の伊予郡に降り天山となった、と伝える。こうした事情からみると、甘木の「甘」は天に通じそうでもあるが、これだけではあまり決め手になるようには思われない。
  奥野正男氏は、他の天山もあげて、「香山」「天山」の天降り伝承を生み出した故地を、佐賀郡の天山から朝倉郡の香山をふくむ広い地域とみており、同氏が邪馬台国の所在地に比定した範囲と重なると記している。むしろこちらの見方のほうが妥当であろうが、範囲がやや広大にすぎるという問題もある。また、甘木・高木という地名は、肥後国益城郡(現・上益城郡御船町)にも両者近接して存在する。さらに、「天長田」に通じると安本氏がいう「長田」の地名となると、全国に極めて多い。

  安本氏は、高天原の位置を決定するもう一つの重要な手がかりとして「葦原中国」をとらえ、『古事記』の記述から、大国主神の領する国とあり、大国主神が領していたのは出雲(島根県)であったとみて、「葦原中国=出雲」説を導き、同書の文章のなかでは矛盾を示すものは一つもないと考える。さらに、『古事記』上巻に出てくる地名を統計的に調べて、二番目に出現頻度が高いのは、神話的色彩をもつ地名では「葦原中国」であり、現実的色彩をもつ地名では「山陰道」(「出雲」を含む地域)であるとし、これも同説を支持すると安本氏は解している。ところが、『古事記』中巻の神武段に出てくる「葦原中国」となると、出雲を遠く離れており、『書紀』の記載例まで考慮に入れれば、九州も葦原中国のうちだと解釈される。
  しかも、山陰にあった出雲の大国主神を高天原が降服させて、その結果、何故、両者にまったく関係のない南九州の「日向」の地に“天孫降臨”するのであろうか。記紀神話の流れを自然に解釈すれば、日向と葦原中国とは、近隣ないし何れかが他の一部と考えられる。『書紀』垂仁25年条割註には、皇御孫尊(瓊々杵命)が葦原中国の地祇神を治したと記される。
  南九州の日向は、『書紀』景行紀17年条でも、景行天皇の治世時(私見では342〜357年頃)になって、大和朝廷が異民族的色彩のある「熊襲」を征して版図に収めた地域であり、そのときに日向と命名されたと記されている。それ以前の事件が現実にあったのなら、別地に「日向」を求めたほうが良いことになる。南九州の日向地方など隼人が居住した地は、仲哀紀に見えるように「膂宍の空国」「鹿の角の如き実の無い国」といわれる不毛の荒蕪地であり、四世紀後半ないし五世紀頃から古墳築造がなされた後進地とされる不自然さもある。従って、神話の「日向」は、後世の日向地方とは別地とみざるをえない。
 津田左右吉博士などのように、ここから天孫降臨や神武伝承等を直ちに否定するのは、論理の大飛躍であるが、神話地名の具体的比定は様々な観点から総合的に検討を加える必要がある(後述)。

  また、神話伝承に見える大国主神が全て、同一地域の同一神()であったかは、疑問が大きい。『出雲国風土記』には大穴持命が大いに活躍するが、記紀に見える「国譲り伝承」は風土記に一切見えず、現在の出雲には国譲り対象の地という裏付けが全くない事情にある。記紀のいう大国主神の「出雲」とは大和ではないかと考える説すら出されている。このため、『風土記』の大穴持命は大国主神とは異なる神とみられ、記紀の原型ができたときなどの後世に(とくに書紀編者の解釈で)、出雲という地名表記に改められた可能性が大きいと思われる。
 上古代の伝承や系譜にあっては、素盞嗚神や天日矛などのように、同名の異人(異神)がかなり見られるとともに、その逆の異名同人(同神)も見られるなどの事情があり、Whoの要素にも十分注意したいものである*10。要は、安本氏のような「統計分析」は、記紀編者の認識に関する把握でしかないということである。

  「高天原」と対立関係にあった「葦原中国」は、出雲のような北九州からの遠隔地では決してない。九州内陸部の邪馬台国が海路により勢力を伸ばして、卑弥呼の時に出雲と争ったことは考えがたいのである(その逆に、出雲から北九州に勢力が伸びていたことも、考えがたい)。卑弥呼の邪馬台国と抗争した狗奴国について、安本氏は熊本平野の国と考えており(私もこれに同説であるが)、高天原はさらに出雲の国とも争ったというのであろうか。
  「高天原」が北九州内陸部とした場合には、「葦原中国」とは、北九州の海岸地のほうが考えやすい(辻直樹氏等も同説)。すなわち、稲作をわが国に伝え、原始氏族名を「葦積」と号した海神族の阿曇氏族の故地・奴国(福岡市の那珂川下流域、筑前国那珂郡を中心とする地域)がその該当地であった(辻直樹・古田武彦氏も、この地との関連を考える)。
  この葦原中国の主が葦原志許男神であり、国譲り神話の大国主神と同神であり、また、大己貴命でもあった。明治期の鈴木真年翁は、大国主命の後裔に三輪君・宗像君のほか、倭国造や安曇連などの海神系氏族もあげており(『苗字尽略解』)、まさに卓見といえよう。播磨国宍粟郡の名神大社伊和神社は、伊和君・阿曇連などにより奉斎されたが、その祭神は大己貴神であり、その北東近隣には式内社の御形神社(ともに現・一宮町域に鎮座)があって葦原志許男神を祀っていることを、傍証の一つとしてあげておく。
 天孫降臨に際して天孫を出迎えた猿田彦命こそ、当時の海神族の族長(ないしはその後継者)であり、阿曇連・和珥臣等の祖であって、系図には海神綿積豊玉彦命の子、宇都志日金拆命(またの名を穂高見命)の名で現れる。

  神話の「日向」も当然、葦原中国の近隣(ないしは含む地域)であり、神代記に「此の地は韓国に向い」とあるように、同様に北九州の沿岸地であった。現在でも地名として残る日向峠(前原市と福岡市西区の境に位置)の東西に位置する伊都郡や早良郡辺りの地域(あるいは那珂郡、糟屋郡辺りまで及ぶか)に、「日向」の地を求めるべきであろう。この日向峠の地名は、何時からの地名かは不明であるが、近隣にはほかにも日向及び天孫降臨関係の地名があげられる。これは、奥野氏『邪馬台国の東遷』も同説であって、「韓国に面した玄界灘沿岸の糸島平野に求めることのほうが、神話解釈として妥当性がつよい」と記しており、古田氏も『盗まれた神話』等で同様の趣旨を述べる。このほか、「日向」が北九州の筑紫の地であったとみる説は、最近かなり多くなっており、管見には入ったところでも、門脇禎二、田中卓、上田正昭、辻直樹、丸山二郎などの諸氏(順不同)が述べている。
  この「日向」は神武発進の地でもあった(原田大六、阿部秀雄氏も同説)。「日向=筑紫(狭義で北九州のこと)説」は、江上波夫氏なども唱えている。津田左右吉博士自体も当初は、皇室の起源が筑紫地方にあって東征したことを否定する確証がないことを記述している(後に撤回したが)。この「日向」の地の比定を誤ると、投馬国とか狗奴国とかの東遷説なども出てくることになる(最近では、伊都国東遷説まで唱えられる)。なお、「葦原中国」に関連して、安本氏が「根の堅州国」を中国地方山間部におくことも疑問であり、殆ど文献的に手がかりのない同国は、抽象的な地としておいても、特に問題がなかろう。


  天照大神と卑弥呼の関係

  天照大神が卑弥呼ではないことは、先に述べた年代論につきるが、果たして女性神であったのかという基本的な問題もある。
 天孫降臨伝承を分析して、本来その指導神は男性神の高木神(高魂神)であり、天照大神という女性神は新しい神であったとみる見解が出されており、おそらくこれが妥当であろう。皇祖神は最初(原態)が男性であったのを女帝推古の代に女性に改めたという説は江戸期からあり(荻生徂徠、山片蟠桃)、津田左右吉博士もこれを支持している。また、筑紫申真氏は、アマテラスの原型は太陽神のアマテルと呼ばれる男性自然神であり、後に性格を変遷させたこと、皇祖神としてのアマテラスは天武・持統天皇によって七世紀後半に造りあげられた大変新しい神だったことを説かれる(『アマテラスの誕生』角川新書158後者は疑問だが)。
 『延喜式』神名帳を見ても、女性の天照大神を祀る式内社はまったくなく、「天照」は全て男性神を祀るとされている。物部氏関係の系図でも、「亀井家譜」(東大史料編纂所などに所蔵)のように天照御魂大神として男性神的に記すものもある。上代の神々に関して、生国魂神(天活玉命)として現れる神こそ、天照大神の原態であった。この神は、壬申の乱の時に天武方の高市県主許梅に取り憑いた神の一、「牟佐社に坐す生霊神」でもあり、神武天皇陵墓に馬・兵器を奉納せよと告げる動きも見せる(『書紀』)。

 わが国の古代氏族で女性神の後裔とするものは皆無であり(天鈿女命の後とされる「猿女君」は神祇上の呼称であって、氏族ではない。しかも、天鈿女命は猿田彦命の妻で、阿曇・和邇氏族の遠祖)、無性生殖などありえないから、天照大神の原型は男性神であり、人格神としてなら屡々同時に行動する高木神と同体とみるべきものという見方も出てくる(私見でも、当初、こうした見方をしていたが、後に両者は別神だと改めた)。
 卑弥呼のイメージが日神の女司祭者オホヒルメとして天照大神に反映されていないとはいえないが、仮に三世紀の中葉に二回の皆既日食が日本列島で現実に起きていたとしても(これにも否定説がある)、天照大神が卑弥呼だったということの証明にはまったくならない。後に高天原神話が再構成されたときに、様々な昔の記憶や七世紀の女帝イメージが結びつけられたことも、十分考えられる。伊勢神宮の起源に関係する記紀所伝は、筑紫氏の前掲書にも示されるように、後世の改編が著しくあったとみられ、とくに注意を要するのである。
  従って、「卑弥呼=天照大神」として上古代の天皇活動年代を配分する安本説は、その根底から間違っているのである。こうした年代観に基づく「神武東遷=邪馬台国東遷」説が誤りであることも、殆ど理の必然である。いったい、一部隊の移動としてしか記紀に見えないのが、どうして邪馬台国という国の移遷なのだろうか。邪馬台国には、国を挙げて全体移動する契機がまず考えられない。

  卑弥呼は卑弥呼その人であって、記紀に登場する他の誰でもない(もちろん倭迹迹日百襲姫命でも、豊鍬入姫命でも、倭姫命・神功皇后でもない)。邪馬台国と大和朝廷との連続性を証明するものは文献的には特にないし、いくら中国方面に著名な古代女王であっても、地域等が違えば、記紀のなかに登場しないことは十分ありうることである。倭迹迹日百襲姫命以下が卑弥呼にあたらないからといって、天照大神に卑弥呼を求めるとしたら、そこには大きな論理飛躍とか思込みとかが存在するといわざるをえない。
  邪馬台国本国の王統の流れを直接に引かない大和朝廷の王統においては、上古史関係の史料には当然、限界があり、滅ぼした可能性のある国家(ないしその残滓)の歴史なぞ畿内には残されないということである。中国の史料に見える二世紀後葉の倭国の大乱(光和中?に発生)だって、そのときには神武東征が先に行われていれば、神武と随行関係者及び畿内での降伏者の後裔からなる大和朝廷には記録が残らないものであろう。

  安本氏の記紀などの史料・記事をごく素朴に受け取る傾向について、ここでは幾つか問題を指摘してきたが、そのほか、『旧事本紀』の記述に「天火明命=饒速日命」とあるのをそのまま受け取って、尾張連と物部連とが同祖だったとみていること等にも出ている。記紀や『姓氏録』等の氏族伝承では、決してこうした扱いはしていないし、様々な視点から古代氏族を検討すると、物部氏族には多少とも海神性が見られるものの鍛冶部族性が強い天孫族系の氏族であり、尾張氏族のほうは明らかに海神族系であって、各々の男系の祖神が当然異なっていた。
 古代にあって、こうした種族系統やトーテミズムは、祭祀・習俗等の行動分析にあたり重要な意味をもっていたことに留意される。この辺は、多くの学究についても言いうることではあるが。




 〔註〕

*9 奈良盆地東南部の桜井市北部、大和川流域で三輪山西麓の纏向を中心とする磯城地域には、弥生後期の大集落たる纏向遺跡があり、纏向石塚・矢塚・箸墓など出現期ないし前期古墳とされる古墳が集中している。こうした事情から、東遷説をとる研究者(奥野正男・大和岩雄などの諸氏)も、東遷を否定する研究者もともに、同地域が初期大和王権の盟主権を握ったものの宮都や原領域であったとみている。
 そうすると、纏向関係の考古年代が三世紀前半まで繰り上げられる場合には、一元的な見方だと、いわゆる邪馬台国東遷説(東遷時期を250〜300とみる説が多い)は成り立たなくなる可能性がある。

 しかし、纏向一帯が、神武を初代とする大和朝廷の最初の宮都とするのは、記紀の記述等からみて疑問である。記紀では初期天皇の陵墓・宮都は殆どが高市・葛城郡地域にあったと伝えており、磯城郡の黒田(現田原本町黒田か)に都したという孝霊天皇(崇神の三代前の天皇)の時から同地域を離れる方向を示し始めるが、三輪山西麓辺りの磯城地域に陵墓・宮都を置くのは崇神天皇からと記している。当初から巨大古墳や大集落遺跡が急に出現することの不自然さを感じないのだろうか。記紀記事との整合性、初代天皇の名をイハレヒコとする所伝などから考えると、神武の橿原宮(比定地は不明だが、畝傍山東北麓あたりか)を否定することには、むしろ疑問が大きい。神武の軍勢が本来、さほど大きくなかったなかでは、その大和盆地南部の制圧後直ちに、巨大な遺跡・古墳が出来上がるはずもなかろう。
 纏向遺跡に先立つ原初期段階の大和朝廷の宮都ないし本拠の候補地として、橿原市西南端部の新沢一町遺跡大字一町字東常門)をあげておく。場所は、畝傍山の南方にある貝吹山の西北麓、北流する曽我川東岸の標高75メートル前後の台地の約15万平方メートルの面積を占め、西方には金剛・葛城や二上の山々が一望のうちに集まる眺望の開けた地であり、東北近隣には新沢千塚古墳群(鳥屋千塚とも呼ばれた群集墳)がある。森浩一氏は弥生時代後期の大遺跡と表現する。これに関連する地名として、懿徳天皇の軽之境岡宮、孝元天皇の軽之堺原宮が『記』にあげられるが、同遺跡の北方近隣に軽古(現橿原市西池尻町の西部)の地名が残っている。その東北近隣には、神武随行伝承をもつ大伴・久米氏族の本拠地たる久米町・鳥屋町一帯(現橿原市南部)があり、北方近隣には弥生後期の高地性遺跡たる忌部山遺跡がある。なお、神武から孝元までの初期八代の天皇のうち、第七代孝霊の例外を除くと、その宮都・陵墓の比定地()は疑問な点が多いにしても、一町遺跡を中心にして半径五、六キロほどの範囲内に殆どが収まるのである。

  纏向遺跡からは広く各地からもたらされた多くの土器が出ても、いまだに九州系の土器が殆ど出ていないというのは、この地に直接、来住があったものではないことを示すものではなかろうか。
 三輪山麓一帯は、神武より早い大和の先住支配者であった磯城県主一族(三輪君等の祖先の同族本宗)の領域であり、記紀にあるように、この磯城一族と通婚を重ねたうえで初期大王家が次第に進出していったとみるのが自然であろう。なお、前掲の孝霊天皇の治世について、私見では267〜286年頃と推定しており、この頃から初期大和朝廷の版図拡大が少しずつなされはじめたことも考えられる。この三世紀の60〜80年代は、従来の考古学の年代観では、纏向石塚古墳の築造年代の早いほうの見方(これが直ちに妥当かどうかは不明)とほぼ符合するようである。
  また、箸中山古墳(いわゆる箸墓古墳)の築造年代を過剰に古くみる傾向(とくに三世紀中葉頃とする見方)が考古学界にかなり強くあるようで、これが特定の考え方(信念)に結びついている懸念が強い。
 古墳築造の絶対年代を推定することは、考古学自体のもつ限界からいって難しいものである。築造年代の推定については、古墳の立地、墳丘の形態や規模、内部施設、副葬品などを総合的に考察することが必要であり(斎藤忠氏の『古墳の視点』1970年刊、学生社)、これに適切に文献資料なども併せて考えるべきであろう。箸中山古墳についていえば、その立地、墳丘の形態等からみて、巨大古墳のなかでは西殿塚古墳と並んで最古級のものであることは私も認めるものの(この点でも、安本説には反対)、その築造年代は四世紀前葉頃とみられ、同墳出土の布留0式とされる土師器編年からしても、三世紀半ばまで遡るのは無理な話である(検証のなされない炭素14年代測定法で算出される年代値は根拠にならない。この推定値に関して、適正な較正がなされている保証がまったくないからである)。従って、箸墓古墳は、卑弥呼の墓でも台与のものでもありえない。当時の魏朝の薄葬令にも反するものである。
  といって、箸墓古墳を倭迹迹日百襲姫命の陵墓たる「大市墓」に比定するのも疑問が大きく(石部正志氏が「「天皇陵」の現状と問題点」で指摘する通り。同論考28〜34頁、『続・天皇陵を発掘せよ』1995年刊、三一書房)、百襲姫命の陵墓は現在の現・衾田陵古墳(西殿塚古墳)とするのが妥当であろう。なお、最近、考古学的見解と中国史料だけから、古墳の築造年代や陵墓(倭五王などの大王墓も含めて)の治定を行おうとする見解も見られるが、極めて乱暴な取扱いであり、巨大古墳築造に所要の工程期間や財力・政治基盤を考慮せず、科学的姿勢とはとてもいい難い。

*10 記紀の記述について、同人異名ないし異人同名の例は殆ど指摘がないが、大化前代の頃までその可能性が様々にあったとみられ、こうした例は上古代の系図や記紀神話においては頻出するので、Whoの要素については十分な注意を要する。武光誠氏も、「古代の人名には異称が多く、記紀系譜が信頼しうる推古朝の人物でさえ、異称を考慮せずに論じると極めて不明確なものになってしまう」と記述する(「初期大和王権に関する最近の研究」『東アジアの古代文化』63号、1990年春)。
  これは、中国でもその例に漏れず、神話から筆を起こす『史記』においても、「別人を同一人物と取り違えたり、逆に本来同一人物であるのを別人と誤ったりということは、まま起こっている」と平勢隆郎氏は指摘する(『『史記』二二〇〇年の虚実』2000年1月刊、講談社)。日本でも中国でも、同一種族の系統のなかには、同名の神々や異称が多く見られることに留意される。


  (続く)


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