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 (2の補充追記)

       
安本氏の統計処理に対する疑問・批判

  ここでは、本文の繰り返しになる箇所もあるが、具体的な計数を用いて、安本氏の手法に疑問を提起しておきたい。本文だけでは、やや水掛け論になる懼れもあるので(
現に坂田隆氏の疑問提起は水掛け論のようなものとされてしまった)、具体的な計数で考えてみたわけである。

  安本氏が、平均在位年数と標準偏差を用いて、初期天皇や天皇家の先祖の活躍時期を幅ある推定値で求めることは、あまり問題がなさそうである。しかし、これでは幅がありすぎるので、より具体的に狭い幅で時期を推定する方法(
飛鳥・奈良時代の二十代の天皇の平均在位年数と、雄略天皇在位の年として安本氏が考える478年を基礎に推計。ただ、諸天皇の在位期間を調整してその結果、460年代前半〜480年頃が雄略の在位期間とも、安本氏はみている)が採られており、これについては、問題が大きいと考えられる。その結果、この方法から出る誤差の関係から、安本史学の前掲誤謬が多く惹起されている。

  すなわち、平均在位年数、標準偏差を用いて、神武の活躍時期を99パーセントの信頼度で、150.2〜333.8年とみることには、結論的には、ほぼ妥当であろう(
基礎データの取り方によって、範囲はかなり変動するが)。しかし、この広すぎる範囲を絞るため、飛鳥・奈良時代の二十代の天皇の平均在位年数11.80年と、雄略天皇在位の年として安本氏が考える478年を基礎に、さらに遡って天照大神の活躍時期を推計して卑弥呼に比定し、卑弥呼と雄略とを押さえて、神武以下諸天皇の活躍時期を配分する方法は、極めて問題が大きい。卑弥呼が天照大神ではないことは詳しくは本文で後述するが、端的にいえば、卑弥呼は神武の同族の可能性はあるものの、直系先祖ではないし、天照大神は女性神ではない(安本氏の説明だけでは、卑弥呼と天照大神との同一人性が証明されたとは、とてもいえない)。天照大神が卑弥呼であれ、別人であれ、その活動時期をできるだけ客観的・具体的・安定的に求める推定方法を考えるほうがよさそうである。
  そのため、安本氏の用いる基礎データを十分吟味する必要があるが、そのデータ選択には多分に問題が大きい。安本氏の推計方法は、「区間推定」という表現をするものの、簡単にいえば、天皇の代数(X)を説明変数として天皇の即位元年(Y)を求める一元一次の推計式(Y=aX+b)による推定値の算出ということになる。その推計が妥当であるかどうかは、推計式がきわめて単純なものだけに、絶対年代の推計に適しているかどうかは疑問がある。一般的にいえば、説明変数がいくつかあったほうが解が安定するのではなかろうか。私は、一代の在位期間よりも一世代の在位期間のほうが生物学的に安定的とみており、それよりも、世代数と天皇即位者数(
この2つの変数は相互に独立している)を併せて用いる方法のほうがより妥当と考えて、前掲の推定式を算出したものである。世代数を推計の要素とする考えは、『季刊邪馬台国』に登場する安本氏シンパの方々には全く見られない。

  いずれにせよ、安本氏の推計式では、定数たる「a」(
天皇の平均在位年数)及び「b」(基礎となる天皇の即位元年)の算出は重要であり、よく吟味する必要があるということである。
  第一に吟味すべきは
「a」(天皇の平均在位年数であり、安本氏が記紀に天皇と記載される者の代数をそのまま基礎とすることについて、検討する必要がある。古代史上には、神功皇后など記紀の表現から天皇または天皇同格と考えられる者や、これとは逆に、記紀で天皇と記されていてもその実在性が疑わしそうな者、廃帝や重祚者もいる。従って、継体天皇より前の天皇については、個々的に天皇の実在性と治績を確認しなければ、本来、代数に基づく推計ができないはずである。安本説においては、こうした検証は殆ど行われず、記紀に天皇と記された全ての者について、その実在性(及び傍系相続の頻出を想定)を仮定して推計の基礎としている。そうすると、実際に天皇の代数など基礎データに増減があれば、それに応じて推定値も変動する。
  崇神より前の天皇の実在性を否定する多数の学者にとっては、こうした手法はそもそも受け入れられないはずである(
ただし、その場合でも、崇神あるいは応神以降の天皇の年代推定には有効であり、手法の是非を検討する意義は十分にある)。真実性のない情報を基礎にして如何なる統計処理をしても、結論は誤りであるとの批判も、当然ながら多く見られる。これは一般論としては妥当であるが、その一方、記紀に記す初期天皇を否定する説も、説得力が極めて弱い(具体的事績も殆どなく、名前が後世的ということなどの否定論拠は、具体的に吟味してみると、むしろ問題が大きい)。その意味で、この関係では安本氏の取扱いで、全てが是認されるわけではないが、ある程度はやむを得ないと考えられる*8
  しかし、問題は飛鳥・奈良時代の諸天皇である。これら諸天皇のうち、@弘文(
『書紀』には天皇としての記載なし。なお、付随的にこの関連で神功皇后をどうするかという問題も生ずる)及び淳仁といった廃帝の代数や、A重祚した皇極(斉明)・孝謙(称徳)両女帝の代数、B重祚の中間に在位した孝徳・淳仁の代数、をどう取り扱うかという問題である。これら他の時代には例を見ない異常値が、安本氏の基礎とする期間のなかにあるため、その基礎データの採り方により算定結果にに大きな差異が出てくるのである。
  これら異常値については坂田隆氏(
後掲書)の指摘でほぼ妥当であるが、これらを調整すると、安本氏のいわれる二十代の天皇は十五人ないし十七人の天皇と考えられることになり、十五人とする場合には平均在位年数は13.8年、十六人とする場合には同12.9年、十七人とする場合には同12.2年となって、いずれにせよ、安本氏の採用した10〜11年よりかなり大きな数値を示すことになる(平均在位年数の数値が小さいほど、神武などの天皇の在位期間は後代に引き下げられることに留意)。異常値かどうかの判断は、定性的なものであって決して主観の問題ではないし(歴史的知識・認識の問題)、異常値を考慮しない推計が無意味なことに留意すべきである。この辺を「水かけ論」的なものとする姿勢があるとしたら、もはや議論が成り立たない。
  なお、この関係の問題指摘は久保田穰氏(
『古代史における論理と空想』1992年刊、大和書房)などからも既にあり、同氏や中村武久氏(『季刊邪馬台国』第44号)は一代12.5年が妥当とし、片山正夫氏は敏達元年〜嵯峨元年の期間を取り上げ、13.17年と算出している(昭和28年発表の「上古の国史に関する一考察」)。説明変数が唯一つのこうした手法について、私は極めて不安定性を感じており、例えば、片山氏は神武元年を164年頃として拙説に近いが、その場合の崇神元年の282年、応神元年の348年などは到底採用しがたい数値と考える。
  ただ、敢えて何かを選択するとしたら、結論的には12年余という数値が相対的に魅力的ではないか、と私は当初、考えてもみた(現在では13.5年に魅力を感じる)。実は、奈良時代の諸天皇を基礎データとして、様々な形で異常値調整をして試算してみると、『書紀』に天皇とは記載されない弘文を除き、重祚者を一人と数えた場合、回帰分析に基づく推計式では、神武の元年は西暦190年頃で天皇一代の平均在位期間は約12.7年ほどを示し、さらに神功皇后を計算に入れれば、神武元年が十数年繰り上がるという結果を示している。このような結果に対して、安本氏は「下に凸の曲線という形」にならないとして、認めようとしないが、この問題点は*1 を参照されたい。

  第二に、安本氏の採用した定数
「b」(基礎となる天皇の即位元年にも問題がある。安本氏は、雄略即位年と一応考える西暦478年を基礎において天照大神・神武まで遡上するが、478年当時に雄略在位であったことは是認しても、その即位の年はもう十数年早かったのではないかとみられる。『書紀』の記事では、少なくも雄略以降は元嘉暦が使用されたと一般にみられており、いわゆる二倍暦は見られないから、同書に記す在位二十三年は認めてほぼ良さそうである。有坂隆道氏も、「雄略紀以後は実際の元嘉暦を用いたのですから紀年の延長はできません」と記述する(『古代史を解く鍵』54頁)。倭五王の遣使関係記事からみても、460年代の半ばくらいに雄略(=倭王武)の即位を考えるほうが妥当であろう。そして、最新の安本案である「古代推定年表」(『応神天皇の秘密』などに記載)でも、雄略の在位年代を463年頃〜480年頃においている。ところが、同年表では、神武の在位年代を278年頃〜298年頃として、こちらのほうは変化がないのである。この結果、清寧以前の天皇の平均在位年数は9.41年と更に短くなるが、こうした調整(具体的な調整方法は示されない)は、私には理解を超えるものである。
  安本氏が雄略天皇を初期天皇在位時期の推計の基礎におくことには、大きな疑問を感じる。というのは、安本氏が採用した平均在位年数10.3年ほどの二倍以上もある在位期間を、雄略が持ったとみられるからである。むしろ、在位期間が平均値ほどで、しかも歴史上で即位年がほぼ確実な、できるだけ古い天皇をとりあげて、年代推計の基礎とすべきではなかろうか。そうした標準的なものの一例として、敏達天皇の元年(
西暦572年頃)をあげておく。また、雄略没後から継体登場までの応神王統衰退期における諸天皇(清寧、顕宗、仁賢、武烈の四人。さらに飯豊青皇女も実質的に即位したかともみられる。ただし、その場合でもごく短期間)の在位の短さも、単純な推定作業で良いのかどうか、極めて気に懸かるところである。

  以上見てきたように、安本氏の採用した定数「a」「b」は極めて不安定であり、これらを見直すだけで、天照大神・神武の活動時期は数十年以上も、引き上げられることになり、従って「天照大神=卑弥呼」説は成り立たなくなるものと考えられる。少なくとも、安本氏は、基礎データを固定しないで数個のケースを考え、幅をもった試算をいくつかしておけば、思込みに陥ることはなかったのではなかろうか。なお、現在では、エクセルなどのパソコンソフトを用いて、自力でごく簡単に線形方程式の回帰分析ができるので、検討しようと思われる方々は、これを利用して様々なケースについて、試算してみたら如何であろうか。

  なお、安本氏のとられるデータ選択の問題点の多くについては、早くに坂田隆氏がその著『卑弥呼をコンピュータで探る』(
1985年刊、青弓社)で指摘しており、その殆どが妥当な指摘であろう。安本氏はその指摘を誤解している面があり、様々な反論をしているが、総じて説得力に欠ける(とはいえ、安本氏反論を妥当とする見解も『季刊邪馬台国』誌上にあって、その編集方針故か坂田氏指摘は却って否定されがちであったようでもある)。
  ただ、坂田氏の指摘にも奇妙な点がいくつかある(
例えば、天皇について当時は大正天皇までの全データを基礎にしたほうがよいとして、一代平均在位年数を14年台を採用したり、古い時代ほど天皇の在位年数が長くなっているなど。また、「倭王武=雄略」を否定することもない)。また、世代論を展開するのはよいが、記紀の皇室系図を信頼しすぎて(氏は「景行〜欽明の系譜を疑う理由はない」と記述するが、応神簒奪等の事情で、記紀掲載の世代は標準世代より二世代多くなっている)、そのため多い世代数を採って、卑弥呼は倭姫命という結論を導き出したような印象を与えてしまい、却って自説の奇妙さを認識させている。前掲書における坂田氏の趣旨は、卑弥呼が天照大神というのなら、むしろ「卑弥呼=倭姫命」が十分ありうるというくらいだったとみられる(世代的には天照大神と倭姫命との中間くらいの年代とするのが妥当だったとみられる)。
  ところが、坂田氏の別の諸著作をみると、奇妙な諸点が前面に出てきて、倭五王が北九州の王だったとか、複数の景行・倭姫命・倭建命等が存在したとか、「天照大神Bと豊玉姫と神功皇后が同人」とか「瓊瓊杵尊と神武Bと仁徳が同人」とかと記述されると、これはもう破天荒な内容としか表現できない。まるで、別人の著作のようであり、『卑弥呼をコンピュータで探る』の内容の良さが損なわれるのは、惜しまれる(
結論から見て、論旨展開の良さが失われるおそれがあるのは、中村武久論考も同様である)。

  さらに続けて、坂田氏と安本氏との過去の論争について、もう少し記しておきたい。
  かって(
1983〜91年頃)、安本氏の手法について、これを批判する坂田隆氏と支持する平山朝治氏等が加わり論争があり、坂田氏の著『卑弥呼をコンピュータで探る』(1985年刊、青弓社)や『東アジアの古代文化』(35号、38号)、『季刊邪馬台国』(16号、44号)等に論考が掲載された。
  しかし、統計的手法についての無知・無関心の故か、歴史的知識・認識の乏しさの基礎にたつ議論の展開にあきれた故か(
アマチュアとの論議はしたくないとの気持ちか)、あるいは激烈な口調の批判におそれをなしてか、それぞれ事情は異なろうが、歴史を専門に取り扱う文献学者からの参加がなかった。こうした事情と、安本氏が『季刊邪馬台国』を主宰する有利さもあってか、どうも一方的に坂田氏が批判されて終わったような印象がある。また、中村武久氏からの安本説に対する疑問提起も、安本氏の言い分だけが主張されて、それで終わっている模様である。弁護士で古代史研究家であった久保田穰氏は、中村論考を高く評価して、自己の立論の基礎に置いてもいるが、そのときの採用値は「天皇一代=12.5年」であった。

  こうした経緯だけを見ると、安本説が全て正しいようなことにもなるが、問題はそう単純なものではない。というのは、問題となる安本氏の手法については、@統計学上の問題点、A歴史学上の問題点、が絡んでおり、それぞれの内容に応じて整理してみると、安本・平山氏の言い分にも、坂田氏の言い分にも、それぞれ妥当な点、そうでない点が混在しているからである(
これも、「真理は中間」にありか!!)。問題を幾つかに整理して議論を進めたいが、安本氏の論考「誤りにみちた批判に答える−坂田隆氏は数理統計学を理解されているか−」(『東アジアの古代文化』38号)を踏まえて、行うことにしたい。

  この論稿の構成をみると、(a)坂田氏の著作・論考の内容批判、(b)専門の統計学者からの安本説の検討状況と自説の支持、(c)坂田氏の手法・批判のうちの統計学的誤り、(d)同じく統計データ選択の誤り、という記述からなっている。私は、総じていうと最初の三点(a〜c)について、安本氏へ異議を申し立てるつもりはあまりない。ただ、多少この関係で記述しておくことも、ないではないので、次に掲げる。
(1) 安本氏は専門の数理統計学者の名を挙げて、自己の統計的手法には問題があるとの指摘は受けてないといわれるのはよいとして、各々が自説を興味深く読まれたというコメントは、その結論を是認したこととは別問題である。また、結論まで是認していた場合としても、歴史的知識のない方がいくら了解され支持しても、なんら意味はない。要は、歴史認識の問題であり、安本説の支持者が総じて殆ど歴史的知識の乏しい方々(
プロ・アマを問わない)のようであることは、そこに大きな問題点があることを示唆する。
 もっとはっきりいうと、安本氏の原点は「卑弥呼=天照大神」という素人的な発想であり、あまり歴史的知識がない初期段階での発想・考え方を固守して、その結論を現時点まで引きずっているということである。そこには、同様に古田武彦氏に通じる危うさが見られる。

(2) 安本氏は、当初の自身の手法「区間推定」よりは、信頼区間の狭さという点で、平山氏のいう「最小二乗法による推定」のほうが「よりよいものと思われる」と認められている。ともに範囲推定という意味では似たようなものであるが、現在、簡単に最小二乗法による回帰分析ができる事情の下では、「区間推定」の是非を論じなくて良い点があるので、本稿では最小二乗法による手法の基礎を十分検討したいと考えている。この手法において、データ選択は重要な意味を持つことはいうまでもない。

(3) 安本氏の統計データ選択については、主として歴史的知識・認識の問題、すなわち歴史学上の問題である。安本説を支持する平山氏の結論の問題点も、この点にある。ただ、統計学上の問題も多少はあり、例えば、推計対象となる数値集団とできるだけ同質な母集団を推計の基礎とするとか、推計対象とできるだけ近い時代のものまで母集団に入れる、推計対象数値と同じような性格の数値を基礎とする、推計対象となる数値集団に混乱要因があればこれを除去(
ないし調整)して考える、などの考慮は是非とも必要である。

(4) 記紀の記述によって、古代の年代を知ろうとすると、天皇の代数とその平均在位年数との組合せによって年代を遡ることが、ほとんど唯一の方法である、と安本氏やその支持者が考えるが、これは全くの誤解である。様々な相続例からみて不安定なことの多い代数よりは、生物学的に安定している一世代の数値を基礎に「世代数」を考えるのが系図研究の常識である。
  上古代の初期天皇については、多くの傍系相続が見込まれ、そのため世代数が確定しないという思込みが基礎にあるが、これは、天皇家とは別の多くの諸豪族の系図から帰納的に「標準世代」を導き出すことで解決できる。この日本における標準世代の数・配分は、朝鮮半島の新羅や高句麗にも妥当することが、最近分かってきた。

(5) ただ、天皇の代数を用いての推計も百パーセント否定する趣旨ではないので、そうした議論にのらないわけではない。しかし、天皇の代数を用いる方法でも、これに世代数を加えて推計する方法でも、このような回帰分析による推計では、基本的に範囲推計であるという限界がある。従って、具体的な推計数値はこの範囲推定結果を踏まえてのもののはずであり、範囲推計から個別に具体的な数値を算出するに際しては、十分な注意を要する。
  安本氏は、「坂田氏は、数理統計学は、「昭和天皇の没年」のような個々の事例については常に正しいとは限らない、という。しかし、推定の方法さえ誤らなければ、「昭和天皇の没年」についても、一定の信頼度のもとに、正確に推定されている」と表現されるが(
『東アジアの古代文化』38号)、これは二つの意味で、自己の手法の誇大宣伝である。第一に坂田氏の指摘は妥当であるし、第二に、一定の信頼度のもとに算出される推定値はかなり幅をもっていて、具体的な期間を有用な形で特定できることは、むしろ難しい。例えば、昭和天皇の譲位年(τ)が、安本氏の手法では95%の信頼度で、1869<τ<2000と算出されても、こんな広い幅では、上古代の年代推計では有用なものとはならないのは明白である。
  さらに、安本氏は「推定の方法さえ誤らなければ」といわれるが、そのうちの基礎データの選択には、誤りといってよいような大きな問題がいくつかあることを、ここまでに書いてきた。

  以上、(1)〜(5)に見るように、安本氏あるいは平山氏の手法の問題点は、そのデータ選択に主として存するのである。坂田氏による安本説批判でも、上掲の(d)「統計データ選択に問題が大きい」という趣旨の指摘は、一部問題があるものの概ね妥当である。安本氏が論拠を示して、坂田氏の誤りと主張しても、そもそも歴史認識に大きな問題があって説得力に乏しいということである。明治三年になって天皇の列に加えられた弘文天皇を加え(
もちろん、『書紀』には天皇として扱われない)、『書紀』にきちんと巻立てがあって治世(摂政)期間が69年と記載される神功皇后を除外することについて言えば、この取扱いの妥当性は全くない。
 ただ、坂田氏のほうにも、その立論や議論展開に疑問が大きいものがかなりあって、それが氏の指摘を極めて弱くしている。


*8 応神天皇より前の天皇やその系譜・事績については、様々な疑問が出されているが、ほぼ仲哀と応神との間に一界線を考える津田左右吉博士の指摘は、ほぼ妥当であろう。この関係について、砂入恒夫氏の卓越した論考「崇神・垂仁系王統譜の復元的考察」(『歴史学研究』第314号、1966年)の示唆するものが大きいが、『記』の帝紀・本辞部分の記述を一概には否定できないことに留意されるべきであろう。
  砂入説などを踏まえて考えると、神武〜応神間の天皇(
大王)即位者として、記紀の記す諸天皇のほかに加除を検討すべき者は、@手研耳命(神武天皇長子。ただし、在位しても一年弱の期間)、A神功皇后(実際には成務天皇の皇后。日葉酢媛と同人の可能性が大きい)、のほかは一人くらいであり、いずれもその在位年数が短かったとみられることから、記紀の諸天皇だけを認めても、世代的にアプローチする場合には、年代把握に際して誤差があまりなさそうである(しかし、弘文を天皇に数えるのなら、実質的な即位・執政者を除外するのは整合性がとれない。応神以降でも、飯豊皇女〔飯豊青尊〕は実質的な即位者・執政者とみられる)。初期天皇の実在性否定論は根拠が弱いことは*3を参照のこと。
  なお、応神より前の時期に記紀に大きな混乱があるのは、簒奪者たる応神(
及びその先祖)や神功皇后の本来の位置づけが変更されて記紀に記述されたことに因るものが大きい。この時期の原型探求は、応神以降と比べて困難さが急増するが、一概に記紀の記事を否定できるものではない。私の考える「一界線」とは、こうしたものであり、仲哀以前の記事が後世の手による全くの造作とする説に組みするものではない。また、崇神より前の記紀の記事も簡潔すぎて、否定の対象とされがちであるが、これも否定の論理が極めて弱い。崇神以降の時期は大王権の基盤や大和朝廷の版図に大きな変化があったことも確かで、こうした事情は巨大古墳の築造などに現れている。

 (続く)


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