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   2 安本氏の年代論への疑問

  安本氏の統計学的手法の最たるものとして現れるのは、歴代天皇及びその先祖の活動期間の推定である。その概要をまず説明しておこう(安本氏の諸著作によっては若干の差異・変遷があるが、私の理解で整理することとしたい。もし誤解があれば、ご寛恕願いたい)。

  その手法を端的にいえば、在位期間が明確な古代の天皇(
用明天皇以降の天皇をとりあげる)の活動期間から、その平均在位期間十年余を算出し、在位時点がはっきりしている雄略天皇在位の西暦478年を基点として年代を遡って、神武天皇さらには天照大神などの活動年代を推定しようとするものである。こうした作業の結果、三世紀前半の卑弥呼と年代的に重なる人物としては、天照大神しかなく、記紀の記述と「魏志倭人伝」の卑弥呼の記述には、上古の九州に居た女性首長で宗教的権威を備え、夫がなく男弟ありなど、多くの共通点があるとみている。さらに、「卑弥呼=天照大神」の立場から、その五代目の神武の活躍時期を「一代=平均十年」説の立場で三世紀末とみている。
  統計学ではふつう推定値に誤差の幅がつけられるが、安本氏は、こうした推定を裏付けるため、雄略天皇の活動年代を『宋書』倭国遣使記事でチェックして西暦478年の在位と押さえ(
この478年を安本氏は極めて重視して、推定計算の基礎としていることに留意。詳しくは後述)、朝鮮半島に出兵したと伝える神功皇后の活動年代を好太王碑文でチェックし、崇神天皇については崇神陵とされる古墳の築造年代でチェックする。
 また、日本の天皇の在位年数が時代毎にみて、古代に遡るほど短くなる傾向があると主張している。すなわち、わが国では飛鳥・奈良時代は天皇一代は10.35年、平安時代は12.63年、鎌倉〜安土桃山時代は15.11年、徳川時代以降は20.00年と算出し(
その結果、下に凸の形の曲線を示すと説く)、全世界的にみても、一〜八世紀の大王(天皇)の平均在位年数が約十年ほどになり、こうした事情から、日本の天皇と同様な傾向があると考えている。

  こうした考え方や示された計数は、見かけ上はかなり説得力がありそうである。しかし、仔細に検討を加え、自分の手で具体的な数字を多角度から考え直してみると、そこには多大な疑問が出てこざるをえない。仮に平均在位年数について特定の年代傾向があるにしても、それが具体的個別的に常に妥当するかという問題があり、現に安本説では説明に不都合な現象が多々現出している。歴史的事件も人間の行動も、安本氏の理屈通り、一般論(
一般傾向)だけで動くものではないのである*1
 だいたいが、上古に遡るにつれ、短くなる傾向を示すのは、王(
為政者)の在位年数ではなく、人間の一世代(One Generation)のもつ期間であって、現在は日本語でも英語でも30年ほどを指すが、これが古い時代では25年とかそれより短いのが実態だったと思われる。しかし、王(天皇、大王)の置かれた社会的政治的な環境・社会情勢や個々人の健康状態などに大きく左右される在位年数に、安本説の言う傾向が、いつもきちんと出てくるとは考え難い。
  そうした総論的な疑問をとりあえず措いておき、まず、この関係での安本氏の功績的な諸点を挙げておきたい。

  その第一に、それまで『古事記』の崩年干支を基に崇神崩御の戊寅が西暦318年(
ないしは258年)とみられていたのが、論拠があやふやな崩年干支を排して、新しく統計的手法で370年頃崩御の人(安本氏は340年代前半〜350年代後半の在位とみる説を最新版で呈示される)として、かなり引き下げたことである。数値が根拠不明な崩年干支について、これを採用して年代算出をしたり参照したりする見解がいまだに学界等でかなり見られるが、これは疑問が大きいと考えられる(ただ、最近では、崩年干支の表記をそのまま素朴に絶対年代として受け取って換算するのが問題大のようだと、私の認識も変わってきている。「崩年干支」になんらかの法則性があるのかもしれないが、まだその辺が解明されないままであり、これを一概に否定するものではない)。

  第二に、神武について、従来は天皇一世代が20年ほどとして逆算され、西暦紀元前後の頃の人としてみられていたが(
明治の那珂通世に始まり、太田亮・田中卓氏などの見解)、天皇一代を10年ほどとして三世紀末頃まで神武崩御年を大きく引き下げたことである。このくらいの活動時期の人なら、何らかの記録ないし記憶が残されても自然だ、という印象も読者に強く与えたものと思われる
 天皇一代が10年ほどということは、僅か10年では実際の親子において世代交代が何世代も連続してなされるはずはないが、仁徳以前は神武までほぼ直系的に先祖につながる形で記紀に記される皇室系譜が、実のところ兄弟など傍系相続をかなり含むものであったことを安本氏は示されている(
同著『卑弥呼の謎』)。この傍系相続を上古の皇統が含むとする見方は、妥当であろう。
  そもそも神武が後世に造作された人物であるという批判にも、適宜、反論をされている。神武やそれに続くいわゆる「闕史八代」が非実在だと、神武に遡る年代比定なぞ全く無益な作業となるが、津田左右吉博士の否定論などの論理展開にはきわめて大きな飛躍があり、現在まで管見に入った限りでは、論理の通った具体的な実在性否定論を私は認識していない
*3

  第三に、記紀に記される天皇の長寿年齢が、実際の二倍となっている可能性が強いことを統計的に示し、“一年二歳論”(
一年に二度歳をとるとする説)を主張した。これは、いわゆる“二倍年暦”(現在の「一年」が上古代では二年として数えられた)に通じるものであるが、なぜ一年に二度歳をとるのかを考えると、むしろ端的に二倍年暦としたほうがよいのではなかろうか。古田武彦氏は、二倍年暦という形でほぼ同様に唱えている。

  しかし、これらの諸点にも、それぞれ多少とも問題がある。まず簡単に触れておくと、第一及び第二の点については、「真理は中間か」と思われる(
すなわち、安本説は従来の説から崇神・神武の年代を引下げすぎとみられ、両者のほぼ中間の線が考えられる)。
 また、第三の点については、二倍年暦に加えて“四倍年暦”の存在も上古には考えられる。書紀紀年の日付記事を細部にわたり分析した貝田禎造氏から、二倍年暦の存在とともに、神武から仁徳までの期間の四倍年暦について十分な根拠をもって主張されている(
『古代天皇長寿の謎−日本書紀の暦を解く−』1985年刊、六興出版)。この辺は、例えば仁徳天皇の治世が『書紀』で87年と記されており、これが1/4の22年弱なら可能性が十分ありそうなことでも傍証されよう。『古事記』雄略天皇段に見える雄略の引田部赤猪子への求婚譚も、80年という長期間も彼女を待たせたとあって、これも1/4なら実質は20年ということであって、雄略の治世期間23年のなかに収まる。
  小川清彦氏などの分析を踏まえると、『書紀』の仁徳紀末年までは儀鳳暦が使用され、雄略元年以降は元嘉暦が使用されたことは明らかであり、その中間はおそらく儀鳳暦だったとみられると有坂隆道氏が記述している(
「『日本書紀』の暦日」『古代史を解く鍵』所収)。儀鳳暦は元嘉暦の後に造られた唐時代の暦であるため、『書紀』前半の暦について擬似儀鳳暦という表現も見られる。この新しい儀鳳暦の手法で定められた安康末年以前の暦は、八世紀前葉の『書紀』編纂時の作成ないし編成と考えられるから、「紀年延長」という可能性も考えられないわけではない。また、こうした暦(暦法)の違いが、上掲“X倍年暦”の差異とも連動する可能性があるのではなかろうか。

  安本氏の所説に対する批判もみていこう。
  まず、中国や西洋また世界の王の場合においても、わが国天皇の平均在位年数と同じ傾向(
1〜4世紀では平均在位年数が9〜10年であり、以降次第に長くなり、17〜20世紀ではそれが22年前後となると図表で示す)がみられると安本氏はいうが、これに対して、近隣の朝鮮半島三国の古代の王の在位年数は、非常に長いという批判がある(渡辺一衛氏『邪馬台国に憑かれた人々』1997年刊、学陽書房)。
 これは殆ど批判にはならないかもしれないと当初、私は思った。というのは、上古代の朝鮮半島の王の年代は、12世紀中葉編纂の『三国史記』、13世紀後葉編纂の『三国遺事』に依拠せざるをえないが、これらの書に記載される百済王暦では初期の王について二倍年暦とみられる紀年が見られ、新羅王暦では二倍年暦や四倍年暦の混在とみられる要素が見られるからである(
その記事に端的に見られるわけではないが、幾つかの王統と相互に対照し、当時の人間の寿命等を考慮してみると、上古の韓地でもX倍年暦が採用されていたことは確実である)。しかし、実際に計算してみると、確かに渡辺氏の指摘通りといわざるをえない。

  すなわち、現行と同じ等倍暦で実在の王を考えてよい時期は、百済では4世紀半ばの近肖古王以降(
近肖古王治世の途中からかも知れないが)、新羅では5世紀半ばの慈悲王以降ではないかとみられるが、各々660年代初めまでの義慈王(百済王、在位641〜60)、武烈王(新羅王、同654〜61)までの期間を見れば、百済が19代314年で一代平均は16.5年、新羅は10代204年で一代平均は20.4年となっていて、とても在位十年程度どころではない。
  なお、北方の高句麗は長寿王(
例外的な長さであるが、在位年数79年)の存在もあって、好太王から最後の宝蔵王(642〜68)まで見れば、10代278年で一代平均は27.8年にもなる。長寿王を例外的存在ということで外して、その次の文咨明王から宝蔵王の八代まで見た場合でも、一代平均が22.1年となる。このように、上古代の朝鮮半島の諸王について実際に計算してみると、安本氏の説明が、自説に相当に便宜的であることがわかる。氏の計算では、「近肖古王から」といいながら、約30年の治世をもったと伝えられ百済の全盛期を現出した同王の治世を殆ど除外している問題点もある*4

  わが国皇室の遠い祖先は、上古の朝鮮半島から渡来した可能性が大きく、その遠い時代にあっては上掲朝鮮三国の王統のいくつかと同祖関係にあったことも、十分考えられる。そうでない場合でも、わが国と多くの交渉のあった朝鮮半島三国の古代の王の在位年数は無視できないものであり、上古代の天皇一代平均在位は10年ほどというのは、多少とも短かすぎて、妥当しない可能性が大きいことが示唆される。上古代の一世代は、概して言うと25年程度
*5であり、実際に親子相続が多ければ、この数値に近づいてくることに留意しておきたい。
  また、わが国皇室は世界の諸王家と異なり、平安中期以降は原則として天皇が統治の実権をもたず、細々と継続したということからも、世界の諸王と単純に在位期間を比べ傾向をみることは、問題が極めて大きい。この頃から天皇が象徴的存在となって、藤原摂関家など政治実権者の意向により早期交替・生前退位もかなり多く見られるからである。具体的には、延喜・天暦の治とうたわれた醍醐・村上天皇までが「実質的な古代天皇」といえよう。その次の冷泉天皇以降は、生前退位や早婚・夭折も多くなり院政などの仕組みもできて、基本的にはその崩御まで在位していた古代型とは大きく変質を見せる。こうした異質なデータをもって推論・比較することの意義や問題点を、十分考えてみる必要がある(
常識的には、無価値な推計と言えよう)。歴史を知らないが故の無謀な試算ではなかろうか。

  さて、神武の活動時期が2〜3世紀(
私見の推定では、在位175〜94頃。なお、前掲の貝田説でも、ほぼ同じ様な数値となる)として、さらに上古代の人物()へ遡ることができるのだろうか。
  記紀では、神武より前は「神代」とされるから、神代の神の実在性を考えるのは疑問ではないかという見解もある。しかし、これについては、記紀に神代と記されるからといって、人間としての実在性が直ちに否定されるわけではない(
記紀編者の認識に過ぎない)。江戸期でも「神」を人間とみて、その実在性を考える新井白石の説がみられるが、私は、古代氏族諸氏の上古代部分の系図を比較検討することによって、その実在性と活動時期の推定が可能だと考えている。
 具体的には、多くの古代氏族系図では、記紀と異なり、天照大神の世代に当たる人物は、神武世代の人物の四世代前の世代におかれる傾向(
いつも傍系相続が多いわけではないことに注意)が強く見えることから、当時の一世代が概ね25年だとすれば、この天照大神の実在性が認められる場合には、神武天皇の活動時期の約百年前、すなわち1世紀の第4四半期頃(端的には西暦75〜100年頃まで)を中心に活動したことが推定される。
  これは、卑弥呼の活動時期を約百年超(
約150年)も遡る時期である。仮に神武の活動時期が安本説のように3世紀末頃だとしても、天照大神の活動時期は2世紀の後葉ごろであり、卑弥呼の時代よりは更に若干早い。神武から前の時期は、1世代25年ほどで考えるのが妥当とも思われる。ところが、安本氏の説明する各数値では、同様に1代が約10年だとして、天照大神・神武の活動時期を後代へ引き下げる方向に働くものが多く採用されているのである(この辺が意図的なものかどうかは不明だが)。

  実のところ、私は古代史研究に取り組んだ頃のごく当初では、基本的には安本説とほぼ同様に、「卑弥呼=天照大神」の可能性のあることや、邪馬台国本国の東遷を認めるという立場で考えていた。その場合、神武と崇神の間が二世代、崇神と応神の間が一世代(
このときは、成務天皇の存在を否定していた。後に考えを改める)とみていた。そのときでも、何故に邪馬台国が九州から東遷したのかという原因・事情は、どう考えても不明のままで、これが大変気に懸かっていた。東に拡大した新版図の統治のためには筑紫は西に偏り過ぎるとも説明されるが、仮に先進地域の北九州が大和を占拠したとしても、「魏志倭人伝」にいわゆる“大率”を派遣官として治めればよいという批判も散見した。

 安本氏の邪馬台国東遷説の批判にも触れると、概略は次のとおりであり、「神武東征」を認めるからといって、これが即、邪馬台国東遷にはならないということである。
  かって、辻直樹氏は、邪馬台国東遷説の弱点として東遷の動機の薄弱なことを認識しており、神武東征を認めても、それが単に邪馬台勢力の東漸と考えている(
「神武が来た道」、『五王のアリバイ』1984年刊)。しかし、女王卑弥呼の時代の前後に、北九州勢力が近畿を支配した(辻氏は更に関東まで制圧という)という証拠は、考古遺物などを見ても、何らないのである。
 また、関川尚功氏も「当時の弥生社会の中で一体何を理由にわざわざ東遷しなければならないのか理解し難い面があるが、もしそうであるならば」として、統一国家の安全な新宮都という理由をあげる(
「庄内式土器について」、『季刊邪馬台国』1990年秋号)。大和岩雄氏も、240年代の後半に起きた狗奴国との争いが東遷の理由で、東遷の意味は安全な地への遷都だと考える(「邪馬台国と初期ヤマト政権」『東アジアの古代文化』第63号)。

  しかし、北九州から大和までを版図として筑後川中・下流域に宮都していた国が、近隣の肥後ないし南九州にあった狗奴国の勢力に脅かされて、わざわざ大和まで、随分長い距離について遷都を敢行するなど、版図・戦力と宮都の関係も含めて、とても考え難く、説得力のある理由にはならない。奥野正男氏も、ほぼ同様に、邪馬台国が台与(
壱与)の代に畿内へ移転したと考えるが、三角縁神獣鏡の分布の中心が畿内に移るというだけで、東遷説も東遷の時期も説明できるものではない。世界史的に見ても、大月氏国の大きな移遷は有名だが、これが匈奴などに大敗退してなされた事情があり、そのときは種族の分裂も起きて、小月氏はあまり動いていない。宋王朝や百済の南遷も、大敗北ないし国の滅亡に因るものである。高句麗の平壌への遷都は、かなりの長距離だが、これは同じ王国の版図内での移遷であった。

  ところが、こうした気懸り等を考え、鈴木真年翁関係の古代氏族系図(
なかでも信頼性の高そうな古代氏族諸氏の系譜)に多数あたって検討を重ねるうち、神武と崇神の間が四世代、崇神と応神の間が二世代とおかざるをえないことが明確になってきた。
 具体的には拙著『古代氏族系図集成』(
1986春刊)所載の関係各系図をご覧いただけたらと思うが、こうした傾向を示す古代氏族系図をあげると、物部連、中臣連、大伴連、三輪君、阿曇連、葛城国造、倭国造、紀伊国造、三上祝、山背国造など、神武期以前にまで遡る系図をもつ上古代の中央・地方の雄族の殆ど全てについて、こうした世代配置があてはまる。系図の初期段階に混乱のある出雲国造や尾張連は例外的であるが、それでも、当初考えていたような少ない世代数を示すものは、臣姓氏族も含めて全くなかった。初期皇室系図のような多い世代数を示すものも、また皆無であった。
 そうすると、初期皇室系図をそのまま受けとめて、これを基礎に在位年代を推定する方法は、成立しがたいということになる。

  安本氏は、太田亮博士と同じく、古代皇室の系図を疑うのは理由に乏しいと考える、と記している(
『神武東遷』159頁、1968年刊、中公新書)。しかし、親子兄弟など続柄を示すのが「系図」である以上、神武から仁徳までほぼ直系で相続する内容の記紀所載の現伝・古代皇室系図が正しいはずがない。だからといって、応神より先の天皇について、すぐ存在を全否定というのも、論理の飛躍が甚だしい。安本氏は、初期天皇についてかなりの頻度の傍系相続を考えているから、その限りでは問題なく、前掲した表現が誤解を招きやすいだけのことであった。私見をいえば、古代諸雄族の殆どが伝える世代数の約1.6倍*5の世代数をもって、古代皇室系図が記紀で記されたとみられる。すなわち、神武〜仁徳の時代においては、この分だけ余計に時代が引き延ばされた形になっているのである(これは、当時の暦法による結果であって、『書紀』編纂者が恣意的に年代を延長したというわけではない)。
  また、成務天皇は上古代政治史上、4世紀中葉に活動した重要な天皇であって(
国造県主を全国設置した治績があり、神功皇后の実際の夫でもあった)、記紀にいう事績記事の少なさ等を理由に存在の否定はできないことも分かってきた。成務天皇は、記紀には同母兄弟として現れる五百城入彦命と実際には同人であり、その御名代の五百木部(後に「伊福部」とも表記される)の関係者は、現存資料だけから見ても、薩摩から陸奥の亘理郡まで全国二十数ヶ国に広く分布したことがしられる(『姓氏家系大辞典』等)。
  そうすると、上掲の諸氏族系図の全てについて、3世代ほどの歴代人物を抹殺すること(
こう取り扱うべき理由がなく、数世代にもわたる大量抹殺は大変難しい話し)をしない限り、神武の活動時期を二世紀後葉頃とみざるをえなくなった。記紀に見える古代皇室系図のいう続柄は疑問であっても、諸天皇の存在を安易に否定するのは問題が大きいということでもある。
 ここに至って、私は当初の考え方の全面的見直しを迫られたという経緯があった。成務の諱名が記紀では若帯日子命とされ、その名の抽象性と治績の乏しさ故に歴史学界では総じて否定されがちであり、私も当初、同様に否定的にみていたが、こうした判断では大きな問題がありということであった。「若帯部」という部民も、実際に美濃や出雲関係の史料には見える。

  なぜ安本氏の年代観を特に問題とするかという事情は、神武東遷の時期を230年代以前におく場合には、その説く邪馬台国東遷論はもちろんのこと、「卑弥呼=天照大神」「応神=倭王讃」等の安本氏の説く重要ポイントがみな成り立たなくなるからである。後二者については、現在これを採る学説はかなり少ないとみられるが(
勿論、立場を同じくする学者の数の多少は、学説の当否とは関係がないが)、異説を唱えるだけが安本氏の存在意義ではなかろう。

  私の結論を先にあげておけば、いわゆる大和朝廷(
大和王権)の萌芽成立の時期は、安本氏が考えるより半〜一世紀ほど早く、4世紀前葉の崇神朝のときには畿内及びその周辺(吉備・出雲あたりまで含む当時の日本列島の主要部)を統合して、倭国がいわば“成立”し(大和朝廷の確立。それ故に“御肇国天皇”との称号あり)、その基礎に立って4世紀中葉(垂仁〜成務朝)には九州中部から関東や東北南部に及ぶ一大政治圏ができ(この過程で、景行朝に邪馬台国の残滓が滅亡ないし併合されたか)、さらに4世紀後葉(神功・仲哀・応神朝)になってから、朝鮮半島への出兵と進んでいったとみられる*6

  応神天皇は前王朝の大王家から大王(
天皇)位を簒奪した者であるが、東遷の当事者ではなかった。その系譜等などからみて、もともと播磨ないし摂津の辺りを根拠としたかとみられるが、江上波夫氏のいわゆる「騎馬民族征服王朝説」を拙見が採るものではない。大王としての応神の活動時期は390〜413年頃とみられ(この私見に対し、安本説では応神は410〜425年頃の治世とみる)、高句麗の好太王の好敵手であった。こうみた場合、「倭王讃」とは、安本氏が主張する応神ではなく、多くの学説が比定する仁徳天皇が妥当であって、これは年代等で全く問題がない。
  仁徳天皇は上古代では珍しく、一世代で大王在位者一人のケースであり(
仁徳の弟で応神皇太子とされる宇治稚郎子皇子が応神の嫡子で、実際には仁徳の先に若干年、即位したかともみられるが、その場合でも、ごく短期間だったと推される。また、「応神=仁徳」説は根拠がまったく薄弱であり、これも安本説の重大欠陥である)、その在位期間もかなり長く(20年超)、それ故にわが国最大の古墳である大山古墳(大仙陵古墳)を築造できたものとみられる。仁徳などの長期在位の大王の場合にも一世代約10年の在位期間に固執すると、生物学的に極めておかしな計数となって現れるのである*7



 註及び補足説明

*1 安本氏は、一般論を述べてそれが個別具体的なケースでも妥当するような表現を時々なされるが、これは疑問が大きい手法である。例えば、「王の代数(
X軸)と年代(Y軸)との相関を現す線」が常に「下に凸の曲線という形」になるわけではないし、「上古代では傍系相続がかなりの頻度で現れる」が、だからといって、仁徳が応神の弟だったわけではない。この辺は、個別具体的に十分、考える必要がある。
 前者については、時代が現代に近づけば近づくほど、王・天皇の在位期間が少しづつ長くなるのは当然で、全体を見れば確かに下に凸の曲線という形をとる。それは医学の進歩等で寿命が延びるようになったこと、政治権力基盤が総じて安定してきたこと(
戦争・革命・簒奪・暗殺等などの要因が相対的に少なくなってきたことに因る)等の事情によると思われる。しかし、こうした傾向は長い期間をとらえた一般論に過ぎず、これが具体的に個別の全てに何時の時代のケースにも常に適用されるとするのは、疑問が極めて大きく、かつ、実態にも合わない。

  個別のケースまで、安本氏がいう天皇代数と在位年代の表で、下に凸の形の曲線が現れるというのは、幻想か信念にすぎない。このような線は、期間の切り方によってかなり変化があるもので、安本氏の切った上古期間という個別のケースのなかに、必ずその形で現れる保証はなんらない。現に、例えば百済のケースは近肖古王を一人入れるだけで形が変わってしまうし、高句麗でも長寿王の存在で妥当しなくなる。日本でも百済の場合でも下に凸という曲線が現れるというのは、氏の説に都合の悪い欽明天皇や近肖古王のデータを除外しているからにすぎない。
  これらをデータの中に多少幅のある存在としてでも入れ込んで幾つかのケースを試算してみれば、安本氏所説の破綻が明白になる。なお、安本氏は、「長寿王の異常な在位年数も、なんらかの原理で、説明できる日がくるかもしれない」と記すが(
『季刊邪馬台国』69号)、これまでに長寿王の在位期間に疑問を持った見解は管見に入っていない。私自身も、高句麗の王位が長寿王からその子の助多を飛び越して、孫の文咨明王に伝えられることから、とくに疑いはもっていない。この長寿王の存在は例外としても、在位二十年超あるいは三十年超という王は、古代でも現実にかなり存在したのである。
  日本の天皇の場合でも、期間の取り方により、全体傾向とは違う形で現れることは往々にあり、この辺は坂田隆氏『卑弥呼をコンピュータで探る』や中村武久氏が『季刊邪馬台国』第44号で指摘する通りである。坂田氏の指摘、「数理統計学は…(
中略)…個々の特定の事例については常に正しいとは限らない。集団全体に適用してこそ有効なのである。その数理統計学を個々の事例に適用して性急な断定を下したことは安本氏の根本的な誤りである」は基本的に妥当な見解だと思われる。

*2 末永雅雄氏は、池田源太奈良教育大学名誉教授の言を引いて「伝承は四百年くらいは真実が伝えられる」とよく言うこと、「記紀の記録の中には、一般に考えるよりもたくさんの史実がある」「記紀の最初のほうは全部神話のように、ウソのカタマリのように片ずけるわけにもいかん」と思われること、などを述べている(
『神話と考古学の間』1973年刊、創元社)。
 こう考えれば、津田博士及びその亜流説の言う、応神天皇より前の歴史がまるで伝わらないわけでもなく、ましてや、最近(2021)までの北九州あたりの弥生後期の硯の多数の出土が、当時からの倭人社会での文字使用を明らかに裏付ける。その場合でも、歴史が伝えられなかったというのだろうか。
  記紀の神話的な記述を全て後世の造作と片づけることは、『書紀』編集者等の造作行為が何ら証明できないだけに疑問が大きい。かつ、貴重な史資料を廃棄することにもなりかねない。一見、現代人には理解しがたい奇妙な記事であっても、それが合理的に解釈できないかどうかを様々な角度から十分に検討して、的確に把握する必要があると思われる。自身の理解能力の乏しさを、記紀のほうの責任として安易に転嫁・否定すべきではなかろう
 総じていえば『古事記』のほうが古伝に近い要素が強く、『書紀』には古伝を八世紀頃までの当時の理解で解釈したうえで記述した面があって、こうした事情等から、後者には多分に誤解(
作為とか造作とまではいえないだろうが)も見られる。従って、できるだけ古い方の所伝をもとに、地名・人名等の合理的な解釈や原型探索が求められるところである。その『古事記』にも、記事に様々な問題点があるから、他の史料や祭祀・習俗、地理事情など総合的に判断することが必要でもある。

*3 神武など初期の歴代天皇(
大王)に対する否定論の問題点については、安本氏の諸著作に見え、また弁護士を本職とする久保田穰氏が「歴史における事実とは何か−初期天皇非実在説に関連して−」で指摘・反論してきた(『古代史における論理と空想』1992年刊、大和書店)。結論的には、実在肯定論のほうが説得力が大きいと考えられている。化学者の辻直樹氏も、古代史に取り組んでみて、「天照大神とか神武天皇とか或いはヤマトタケルとかと後代に呼ばれる人々が、日本の古代の或時代に実在したと考える方が、いなかったと断言するよりもずっと合理的だという意外なことに落ち着いた」と記している(『五王のアリバイ』11〜12頁)。
 一般的にいって、否定論を採られる方々が一部否定ないし一部矛盾から直ちに全否定に飛躍する傾向があって、これについては、疑問が大きいし、とても論理的とはいえないものである。論理的に考えると、実在性の否定論者は、「記紀批判」とか「皇国史観」という語を悪用ないし濫用しすぎていると思われる。
  この関係の私見については、「系譜からみた古代資料の情報操作
大和朝廷の王統について」(『FINIPED』73号、1992年9月)を参照されたい。

  本稿では安本説への疑問提起を主目的として記述しているため、記紀人物の実在・非実在の論議にはあまり及ばないが、私の立場には、先に掲げた@5W1Hの観点からの検討の必要性、とならんで、A
英雄史観(事件関係者や民衆が不在の歴史観)であってはならない、ということがある。
  すなわち、歴史的事件(
事実)は英雄ないし極く一握りの支配者・当事者だけにより起こされるものではなく、多くの人々の事件参加があるのが通常の形態である。歴史的事件に関与した多くの人々の家に伝わる説話・系譜などの所伝が、総合的に見て合理的・整合的に組合せうるのなら、その所伝は歴史的事実であった色彩が強くなる。
 英雄・天皇など一部の人物だけを近視眼的・局部的に取り上げたうえで、その所伝に疑問が大きいとして、その当事者に関する所伝の全てを抹殺・否定したり、あるいは時代を超えて勝手に移動させたり、さらには後世の造作と断じたりするのは、いずれも乱暴な議論ではないか、と考えている。例えば、系譜なぞ、いくらでも偽造できそうに考えるのは、特定の現代人の錯覚に過ぎない。系図にの所載人物について、丹念に前後関係、事績・通婚・祭祀などの行動や用語・命名法などをチェックし、関係資料を多く集めて照合すると、まず間違いなく偽造の有無が分かると考えられる。勝手気ままに系譜上の人物をあちこち動かしたり、時代を超えて誰それと同人視することも、周囲にいる関係人物を無視する姿勢から来ている。要は、頂上とともに裾野にあたる部分(
人物、背景等)も十分検討を加えねばならないということである。
 こうした基礎的な作業が現在の歴史論議には著しく欠けていると思われる。いまだに、「神武天皇=崇神天皇」という見方がかなり見られるが、両天皇の配下の人々がいかに異なるかを無視した議論に過ぎない。

*4 近肖古王の在位年代など百済諸王関係の問題点について
(1) 近肖古王をデータから除外する取扱いが疑問と考える理由を、まず掲げておく。
 要は、百済の最盛期に当たる同王(
李丙著『韓国古代史』)を除外して、同国諸王の在位期間を計算してもデータとしては意味がないと思われる。それは、衰退期の王の在位期間が短いのは当たり前だからである。
 百済の歴史を著述する諸書や辞典類(
内容的にも信頼がおけそうな平凡社版『アジア歴史辞典』を含めて)に多数当たったところでも、近肖古王の即位時期は『三国史記』の記述を信頼したものが殆ど全部といってもいいくらいである。中国の文献に百済の名称が初めて見えるのが、近肖古王即位の前年であり、その頃に、百済に文字が伝わったと伝えて、歴史時代に入ったとみられている(しかし、中国に近い韓地で、文字伝来がそんなに遅かったとは、とても考えられない)。拙見としては、同王について、場合によっては実態より多少長い在位期間で『三国史記』に記載された可能性もあるかもしれないが、そこには暦法等の問題もあろうし、概ね信頼して良い在位年数だと思われる。
  この近肖古王のデータを入れるだけで(
データの入れ方は、幅をもった形でも当然可能)、「王の代数と年代との相関を現す線」が安本氏のいう「下に凸の曲線という形」にならない。もちろん、百済の王一代当たりの平均在位期間もかなり長くなる。こういう質的な実態を無視したデータ操作・処理に問題があると私は指摘しているわけである。

(2) 安本氏が『季刊邪馬台国』第44号所載の論考「それでも、古代の天皇の平均在位年数約十年説は成立する」で引用した百済王の平均活躍期間の数値の採り方には、疑問が大きい。氏は、中国南朝の百済王補任表に基づいて、
 (a)第13代近肖古王から、第18代腆支王までは、5代で44年間。一代平均8.8年。
 (b)同、第21代蓋鹵王までは、8代で85年間。一代平均10.6年。
 (c)同、第26代聖王までは、13代で152年間。一代平均11.7年。
と記すが、これは何とも奇妙な計算である。
 というのは、「5代で44年間」とされるのは、第13代近肖古王の鎮東将軍補任時から第18代腆支王の鎮東将軍補任時までの意味で、もっと詳しくいうと「近肖古王の鎮東将軍補任時から崩御までの期間+中間4代の国王の在位期間+腆支王の即位から鎮東将軍補任時までの期間」ということであり、これを「5代」として数えて良いのだろうか(
勿論、「一代平均」ともいえない)。しかも、中国による鎮東将軍の補任のタイミングがいつも同じなわけではない。『三国史記』に拠ると、近肖古王は即位27年目でその在位期間の殆ど最後の時期(崩御まで残り3年)に補任され、腆支王は即位12年目で崩御まで残り4年の時点、蓋鹵王は即位3年目で崩御まで残り18年の時点、聖王は即位2年目で崩御まで残り30年の時点である。これが、同じレベルの数値比較であろうか。きわめて疑問な比較といわざるをえない。
  『三国史記』に拠ると、近肖古王の死去が西暦375年11月、同じく腆支王が420年3月、同蓋鹵王が475年9月、同聖王が554年7月とされており、この数値に基づくと、(a)は44年4月で、安本氏の計算と殆どかわらないが、(b)は99年10月で約100年、(c)178年8月であり、月数を切り捨てて計算した場合でも、(b)の一代平均は10.6ではなくて12.4、(c)は同じく11.7ではなくて13.7、となる。このように、一代平均在位で見ると、(a)8.8年→(b)12.4→(c)13.7、と時代が下るほど長くなっているように見える。
 しかし、それは一種の錯覚であり、(a)8.8年の前に長期の近肖古王の在位期間があるため、その反動減の形で(a)の在位期間が短くなっているだけのことである。しかも、(b)及び(c)の一代の平均在位期間は、安本氏がいう十年程度より相当長いのである。

(3) 中国史料からは近肖古王の即位年がわからないという理由で、百済王の平均在位年数計算のなかに同王を入れるのは問題があると安本氏は主張する。それでは、百済の諸王のなかで、即位年・死去年の両方が中国史料で確認できる王がいるのだろうか、もしいるのなら、ご教示願いたい。少なくとも、近肖古王の次の近仇首王(
王須)について、その即位及び死去の具体的な年は、中国史料で確認することができない。さらに、その次の枕流王や阿王については、中国史料では存在すら確認できない。
  従って、これらの事情を考えると、肝心の近肖古王を中国史料に即位時期が見えないという理由だけではずすのは、取扱いに問題が大きいといわざるをえない。『三国史記』に拠らない限り、百済王の代数も確定できず、従って安本氏のような計算もできないのである。

*5 上古代の天皇の一世代が概ね25年という数値は、かなり重要と思われるので、具体的な根拠を示しておく。上古代天皇の即位元年の推計式について、私が最小二乗法による回帰方程式で求めたのは、一例として次のようなものである。なお、基礎となる計数としては、十世紀末までに崩御した諸天皇(第30代敏達天皇から第64代円融天皇の世代まで)の崩御年を基本的に採用した。その理由は、本文でも述べたが、十世紀末頃以降、天皇は政治的実権を失い、若年での即位退位が頻繁に起きるようになるので、基礎データとして用いるのは統計的に疑問だという考え方に拠る。

    Yi=174.74 +13.02Gi +7.79ΣNi

  この推計式は、Yi世代に属する天皇のうち最後の天皇の没年(
=Yi+1世代の最初の天皇の即位の年)を求めるものである(具体的な天皇の在位時期については、書紀紀年記事や倭五王関係史料等も総合的に勘案して算出されるので、推定式の理論値だけに頼るものではない。また、世代によってはダミー変数も要することがある)。

  推定式の記号の意味としては、
    Gi ;神武世代を第1世代として第i世代にあたる
    ΣNi;神武を初代として、第i世代迄の天皇の人数合計


  従って、神武天皇の即位年が西暦175年(
≒174.74)であり、ある世代に属する天皇の数が一人の場合に平均在位年数が約21年(≒ 13.02+7.79)、二人の場合には約29年(≒ 13.02+7.79×2)となるが、仁徳以前の時期では一世代の天皇即位者数がほぼ1.6人であるので、その平均在位年数が約25年(≒ 13.02+7.79×1.6)ということになる。
  こうした理論値に加えて、一般の古代の世代について、多くの古代氏族系図の検討を通じて、私の体験的にも同様な数値25年ほどで実感しているところである。上掲の推定式は一例として示したものであり、基礎データ(
とくに天皇在位者の数)を様々に換えて推定式を算出してみることによって、数値が少しずつ変わるが、神武即位年の174.74にあたるものは、概ね160後半〜180の範囲に収まったので(いずれも、重相関係数Rは0.99超)、上掲では中間的な数値をとっておいた。

  貝田禎造氏は著書の結論として、「神武天皇の没年は紀元二〇〇年頃より大幅に古いとは考えられない」と記述されており(
その計算方法に則る場合には、176年が神武元年となる)、この見解を踏まえつつ、私も、神武天皇の活動年代は紀元160年より前とは考えられない、と記述しておきたい。
  また、小泉清隆氏は、人骨からの推定結果では、縄文時代人の15歳時の平均余命からみて約42歳迄の寿命、江戸時代の同じ計数が約45歳の寿命とされるとともに、15歳時の平均余命については、「人口が大きく増加を始めた弥生時代には二五年以上はあったろうと考えられる」と記している(
「古代の人口と寿命」『図説検証 原像日本1 列島の遠き祖先たち』1988年刊、旺文社)。そうすると、その当時、20歳前後に結婚して子を生んで一世代が二十数年ということになる。

*6 笹山晴生氏も、「三世紀末から四世紀初めには、古墳の発達に象徴される新たな権力者が出現し、畿内を中心とする大和政権の成立という画期を迎えることになる」「大和政権は、五世紀に入るとめざましい発展をみせ、王権は強大化し、その性格にも著しい変化がおこった。その動因となったのは、四世紀後半に始まる大和政権の朝鮮半島への軍事的進出であったと考えられる」と記述する(
『日本古代史講義』1977年刊、東大出版会)。二十年以上(現在では40年)も前の記述であるが、現在でもこの辺りが穏当な見解ではなかろうか。

*7 安本氏は最新刊の『応神天皇の秘密』(
1999年11月刊、廣済堂出版)で、応神天皇以下を倭五王に比定し、具体的に「讃=応神、珍=仁徳、済=允恭、興=安康または木梨軽皇子、武=雄略」であって、「応神の在位は410〜425頃、仁徳の同425〜438頃」と考えておられる。この場合、応神天皇を神功皇后の実子(武内宿祢との間に生まれた子と推定)として、あとは記紀尊重の立場から記紀の皇室系譜に拠り考えているように思われた。
  しかし、「応神はいつ頃生まれ、何歳頃で即位したのか」という問題を具体的に考えたとき、安本氏の説では、およそ非人間的な数値が現出することに注意したい。すなわち、「応神天皇が、活躍できる年齢は、四二〇年ごろとなる」という表現(
同書109頁)から、この420年頃に応神が二十歳くらいであり、そのとき仁徳が生まれたとしたら(この想定もかなり無理と思われるが)、仁徳はたった五歳で即位して、しかも多くの子を残して十八歳くらいで死去したことになる。こうした奇怪さを回避するために、今度は「仁徳は応神の弟」という奇案を、『宋書』倭国伝の「讃が死んで弟の珍が立った」という記事を根拠に出されている。しかも、仲哀記に見える息長帯比売命の子の品夜和気命こそ応神で、その弟・品陀和気命が仁徳にあたる人物ではないかという考えもできるとか、仁徳は「夫なしで生まれる可能性が生ずる」(『季刊邪馬台国』第44号の34〜35頁)、といわれては、まったく唖然とならざるをえない。ここでは、安本氏のいわれる記紀尊重の姿勢は雲散霧消してしまい、空想論だけが残ったということである。

  品陀和気命が応神を指すことは全くの常識であるのに、これを無視し、品夜和気命の身元が記紀の記述だけでは不明なことに乗じて、思いつきのような立論が許されるものではない(
実は、古代氏族系譜を丁寧に検討すれば、品夜和気命は稚渟毛二俣命と同人であることがわかる。兄弟の父母は、勿論、仲哀天皇・神功皇后ではない)。仁徳が応神の弟だとしたら、血統主義の当時、皇后の私生児が王位に就けるはずがないし、仮に兄だったとしたら応神に先立って王位に就いたはずである。しかも、応神の死後に繰り広げられた大山守皇子・菟道稚郎子皇子との戦さがあり、仁徳の多くの兄弟姉妹も記紀にあげられる。
 これらの記事を、安本氏はどのように説明するのであろうか(
英雄史観的な見方は問題が大きいと上述した)。これら全部を無視して、記紀は造作が多いというのなら、安本氏が批判される津田学説の二の舞を演じることになる。「倭王讃=応神」とする説の多くは、記紀の応神をめぐる系譜を信頼できないという立場に立っているので、こうした矛盾が露呈することはないのだが。
  安本氏の「古代の天皇一代が約十年」という見方は、ある意味では画期的なものであったが、ここに至って自縄自縛的なものになって破綻していると感じざるをえない。井上光貞氏までの従来の研究者は、天皇一人の在位期間が極めて不安定なことを十分承知していて、生物学的に割合、安定的な「一世代」の年数を中心に年代を考えてきた事情もある。


 
 (続く) ○安本氏の統計処理に対する疑問・批判

         ○記紀の地名・人名の比定論への疑問 へ

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