系譜からみた古代資料の情報操作−大和朝廷の王統について− 宝賀 寿男
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一
日々刻々、歴史的事実が発生し、それが何らかの形で情報化され、記録ないしは記憶に留められていく。こうした事情は今も昔も変わらないが、情報流通の大きさ・速さで格段の差があるのはいうまでもない。
さて、その情報が著しく乏しい日本の古代(とくに七世紀ごろまでの「上古」)に関し、現在までに遺された各種の資料から、どのようにその当時の史実(の断片)を把握し、それを再構成して全体の歴史像や歴史の流れをつくるかというと、研究者によって大きな差が現実にでてくる。
ご承知のように、日本の古代史像については、ほぼ同じ資料を用いながら、戦前のいわゆる「皇国史観」から戦後の学界の主流ないしは多数を占める津田左右吉博士の学説及び亜流とその流れ(以下、総じていうのはやや乱暴だが、ここでは「津田学説」という)まで、時代により極端な振幅がみられる。このことは、古代史学について社会科学の一ジャンルとしての科学的な理論性合理性をもつ学問という位置づけを与えようとすると、極めて奇異な感がある。
「皇国史観」は科学ではないという見解もある。記紀に書かれた不自然なことまで無批判に受け入れるという点では、たしかにそうはいえよう。それでは、ほぼその対極にある津田学説はどうなのだろうか。
津田学説においては、文献批判を通じる論理的検討の志向がみられるが、結論まで含めてこの学説に全面的に依拠するのは、素朴・粗雑な論理的展開(とくにその否定論関係)とその受売りが随所にみられる点で問題が大きい。戦前の公権力による思想弾圧という経緯があっても、科学的アプローチで歴史研究をするのだから、学説の是非を心情的判断で左右することは、強く戒めなければならないものである。
平成四年(1992)六月、弁護士を本職とした故久保田穰(ゆたか)氏が、『古代史における論理と空想−邪馬台国のことなど』(大和書店刊)という書を出版された。私よりちょうど二十歳年長の久保田氏は、長年つとめた弁護士的感覚からいって、日本古代史専門の主流の学者の所説は論理性に欠けていると感じるとし、その一つのあらわれが「大和朝廷の初期の天皇の非実在論およびこれに関連する王朝交替論」であると思う、と同書の巻頭論文(「歴史における事実とは何か」−初期天皇非実在説に関連して−)で述べている。 古代史研究者にさまざまな警鐘と示唆を与えるものと評価される同論考は、学界から無視されるおそれも多分にあるが、私としては同感するところが甚だ多く(ただし、結論として異なるものも幾つかある)、その記述をふまえながら、この小稿を記してみたい。
主流の津田学説にあっては、文献批判を通じ記紀(『古事記』及び『日本書紀』)の記述の否定という内容が大宗を占める。しかし、その大きな問題点は、簡単にいうと、否定の論理が十分に尽くされず、安易に編纂者の造作・創作と結論づける例が多いこと、事実否認には論理的に一部否定も全部否定もあることへの考慮が無いこと、自己の知識や認識・判断の能力の乏しさ、あるいは視野の狭さを記紀のせいに転嫁する傾向があること等があげられる。しかも、そのうえで、想像力を誇示するような新しい学説を、資史料に依拠せずに簡単に作り上げ(裏付けなしに仮説を作り、その検証もしないで)、妄想的に展開することも、ままみられる。 津田学説が唱えられた65〜95年前には、歴史学と関連すべき隣接の諸科学が未発達な段階であったことからいって、今日のようにこれらの分野の研究成果をとり入れることはできなかった。その意味で、津田左右吉博士の問題提起は、その当時としては画期的なものとして高く評価すべきことはいうまでもない。しかし、その結論までも含めての津田学説を今日まで墨守することは問題が極めて大きく、古代史学の進展をむしろ妨げているともいえよう。かつて実験科学者の辻直樹氏からも、古代史学界の論理性に乏しく、験証が少ない傾向が痛烈に批判されている(『五王のアリバイ』1984年刊)。
二
久保田穰氏の記述の要点を、私の判断で十点((A)〜(J))にわけて、まず紹介させていただくことにする(なお、これについて私の誤解があることをおそれるので、著者の真意の理解のためにも、できれば原文にあたっていただくのがよいことも付記しておきたい)。この要点をもとに、私の考え方を示すとともに、日本古代についての記事の分析と古代の情報操作についてふれていくこととしたい。
私は五十年ほどにわたり(本職ではない以上、時に断続的であるが)日本古代史について関心をもち、そのなかで初期天皇の実在性や王朝交替説についても種々研究してきており、久保田氏の見解のほとんどについて同感と思ってきた。 やや疑問と思ったのは、主に(B)(F)(J)の三点ぐらいである。文献批判という観点も含め、久保田氏の見解が素朴な記紀肯定説につながりかねない点で(記紀の全てが肯定だと受け取られかねない)、疑問だと思ったわけである。
ところが、上古史上最も難解な人物である神功皇后について研究しているうちに、一時期、歴史の迷路にはまりこんでしまった。天日矛(アメノヒボコ)、八幡大神、さらには素戔嗚(スサノヲ)命・五十猛(イタケル)命親子、そしてその末裔・末流にあたる中世武士などの日韓両地域における活動にまで、私の検討対象が果てしなく広がり、試行錯誤の結果、平成四年(2002)夏に至って、長年保持してきた初期諸天皇の実在説と王朝交替否定説のうち、後者について考え方の変更を余儀なくされてしまった(したがって、従来の三点に加え、王朝交替説関係の(H)(I)も必然的に拙見では疑問となるわけである)。
こうした認識は、ここ十年ほどの間に考えを整理して記してきた私の古代史大系を大きく変えるだけに、愕然となったものである。 三
この変更の契機は、古代史関係資料の位置づけである。こうした資料は数量的・内容的に制約があるのは確かである。奈良朝末期までの時期についての主な資料をあげると、六国史(『日本書紀』から『日本三代実録』までの六官撰歴史書)、古事記、旧事本紀、風土記、新撰姓氏録や律令格式・戸籍計帳などや、あとは中国・朝鮮の史料(文献・金石文)ぐらいである。しかも、古代人の認識範囲内での記述のうえ、成立当時の完本でないものが多いなど、注意すべき問題点が各様にある。
『古事記』については、『日本書紀』に比べ重視する立場もあれば、偽書説もあり、序文の内容まで含めて考えれば、「広い意味で偽書」とするのが妥当であろう。『旧事本紀』も江戸時代には偽書と断じられ、その史料価値をほとんど否定された書であるが、再評価・見直しの気運もある(結論的にいえば、『古事記』と同じ取扱いでよかろう)。
有名な「魏志倭人伝」にしても、かなりの長文とはいえ、これだけの記述で邪馬台国の所在地や大和朝廷との関係など、上古の諸問題を解決することは論理的にできない。そして、書写の長い時期から考えると、成立当時の記事(原文)をそのまま現在に伝えているかは疑問もある。朝鮮半島の『三国史記』にあっては十二世紀半ば頃の刊行であり、記紀批判をする研究者が、これを無批判に引用するのは問題が大きく、上古に遡るかたちで時間がかなり引き伸ばされている部分がある。
官撰書といっても、時の権力者による造作や史実の改変といった情報操作は、津田学説ほどではなくともある程度は随時あろうし、また編纂者の誤解・誤認識、誤聞もあろう。一方、偽書とされるものも、『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』などの近世ないし近代以降に捏造されたまったくの偽書とちがって、古代関係のものは、総じて言えば、成立事情等にやや問題があるというにすぎず、これを全く排除するのは、古代史解明の手がかりをそれだけ失うことになる(まったくの偽書や偽系譜もないでもないが)。
したがって、基本的な姿勢としては、古代資料を広くもとめ、その示す内容について、一刀両断に切り捨てるのではなく、濡れた薄紙を一枚一枚はがすように、丁寧かつ慎重に多方面から検討していき、具体的な時間・場所のなかで全体としての整合性・合理性からその是非を判断していくことが必要である。
こうした観点からいえば、従来古代史関係資料として価値を低くみられて、あまり考慮されなかった古代氏族の系譜について十分検討する必要がでてくる。現存する系譜資料としては、三井寺蔵の「円珍系図」が平安前期の作成で最古とされる。成立時期や来歴が知られるものは多くないが、六国史等の系譜的記述や古社・旧家に所伝する系譜、その転写されたものまで古代系図の範囲を広げると、一大資料大系をなしてくる。その利用にあたっては、適切な取捨選択(国宝指定の『海部系図』など偽作系図や「偽作部分」もかなり多いことに十分留意)のうえ、出自仮冒の検討などの留意点は少なくないが、古代人物の有機的関連を考えるにあたり、重要な示唆を与えてくれるものでもある。 古代系譜(神統譜も含む)の上の人物としては、祖系がどこまで遡りうるかという問題もあるが、私の検討では西暦一、二世紀のころまで考えられる。日本列島(倭地)においてその当時に固有名詞を記録する言語があったかということについては、後漢や朝鮮半島との交流が各種の資料から知られており、支配階層が漢字・漢語を用いなかったはずがない(文化技術として暦法もほぼ同様か)。「魏志倭人伝」等の記事がそれを十分裏付ける。最近までには、弥生中・後期以降の硯が九州で40個超、畿内で10個ほども発見されている。
しかも、稲作・青銅器などの弥生文化を伝えた海人系部族は、越・韓系の種族で中国から韓地を経て渡来したものとみられるし、その後の1世紀代以降に天孫部族(わが国始祖神にあたるスサノヲ神については、韓地からの渡来伝承が『書紀』に記載)や天日矛なども、同様に韓地から渡来している。
「族譜」を重視する習俗は、もともと大陸・半島に強固に存在したものである(例えば、孔子後裔などの多くの系譜に示される)。王統など貴種の血筋を重視する習俗は、北アジアの種族に共通して見られる。記紀に記す応神朝(5世紀初頭前後)の論語・千字文の本朝伝来の伝承を重視して、それまで倭地に文字使用がなかったとするのは合理的な見方とはとてもいえない(文字通り、「当該古書籍関係の伝来」と受け取るべきであり、過大解釈は許されない)。 四
(1) 古代史が遠い過去を対象とする学問であるとはいえ、書証(文献)のほかに物証も大いに活用することができ、また、活用していかねばならないと思われる。最近の考古学知見の増加には、十分な留意を要する。木簡関係の出土も各地で多くなり、貴重な情報の提供もある。それは、消極的な点検はもちろん、積極的な意味で使われることもありえよう。邪馬台国の研究に際して、考古学のみならず、言語学・地理学・人類学・習俗学・祭祀学・気象学・暦学等といった観点からもあわせてなされているのはご承知の通りである。
一般的にも、神社祭祀・地名や古墳やその出土品・石造遺物、鉱物資源の分布など、多くの物証が利用できるものであり、こうした物証はルーツ探究を含む系譜研究にあっても大きな手がかりとなることがある。いま上古・古代分野の史学に要請されているのは、こうした総合的多面的な研究であり、文献のみの観念論はもはや許されないといえるのではなかろうか。もちろん、考古学の知見・判断だけですべてが分かるわけでもないから、この分野だけの考察で済むはずがない。なお、物理学的アプローチも役立つことがありえようが、当時の倭地の自然環境・気象条件を無視した数値の算出には、危うさが伴うことに十分配意したい。
−−−これが久保田氏見解((B))についての反論であり、この辺は、久保田氏もおそらく了解されるであろう。
***** (2) 初期の歴代天皇について、その実在説と否定説とを比較するとき、論理的に実在論のほうがすぐれているのは久保田氏の指摘の通りである。
しかし、否定説が根づよいのも理由がないではない。それは、直系相続の形で初代の神武から第十六代の仁徳天皇まで天皇(大王)の位が伝えられてきている現伝皇統譜の問題点があるからである。この期間の天皇系譜とそれに対応する期間の古代氏族諸氏の系譜とは明白に矛盾していて、前者のほうが一・五倍ほど世代数が多い。これは天皇家における一世代数人という傍系相続の原態が、後に直系に変換されたという操作の結果とみられる。なお、このほかにも異世代婚など問題点とされるものがあるが、それぞれ合理的に解しうる(初期の皇統譜原態の探求ができる)。初期諸天皇の長寿や長大な治世期間については、上古では書紀紀年の四倍年暦、五世紀中葉くらいからは同二倍年暦で合理的な説明ができる。 −−−これが久保田氏見解((F))についての私の見解である。
***** (3) 古代氏族の系請等の資料も含めた幅広い資料を基礎に、研究してきて長い期間が経つ。すなわち、特定の古代英雄(神武天皇とか日本武尊とかいう伝承的英雄)やごく一握りの権力者ばかりでなく、古代の主要事件に関与し英雄の活動を広く支えた個々で多数の人物の動向を、具体的な時間・場所のなかで考えて、多数の血の通った人物によって構成される具体的で整合的な日本古代史像を再構成しようと思い、その関係の検討をはじめてからすでに四十数年超となる。その検討過程では古代人物の安易な切り捨てが許されないのは当然である。その者の先祖も、また子孫についても、恣意的に捨てられてはたまらないからである。
歴史的事件を構成する人的要素の積上げ作業は、いわば個々のレンガ積みみたいな根気のいる作業で、これが私のなかで長い期間、続いてきた。そのなかで大和朝廷の王統が高句麗(王家は高氏)や百済(同、扶余氏)、あるいは新羅王家などと、遙か遠くでは同根である可能性が大きいことがわかり、こうした大陸の準騎馬系民族(半牧半農の東夷も含む)においては、王統始祖の後裔たちによる「一系相続」が基本的な特徴であった。匈奴の単于氏族のレンテイ氏、鮮卑の王統の拓跋氏もその例で有名である。支配階層の祖系が大陸系の流れをくむ大和朝廷にあっても、特段の事情がない限り、「貴種尊重」が同様にあったとみてよい(と言っても、後ろで述べるように、広義の「一系」ではあるが)。
『宋書』『梁書』に見える「倭五王」について、「二つの大王家」とか王族が二系統あったとみる説も出たが(原島礼二、川口勝康氏など)、倭国王一族の姓が「倭」だと受け取られ、『宋書』から倭五王当時に「二つの大王家」を想定するのは無理であると、吉村武彦氏が断じている(『古代天皇の誕生』)。 ところで、八幡信仰やスサノヲ・五十猛父子神の足跡を、古代氏族系譜や地名等を通じ追いかけているうちに、新羅の王家・朴氏と同祖ではないかとみられる宇佐国造の一族から出たホムタワケ(応神天皇。これも五十猛神の後裔)が神武以来の初期王朝を簒奪し、その後、応神天皇の弟(記紀の記す応神の「子」ではない)の子孫の息長氏一族から継体天皇が出て大王位についたこと、すなわち、我が国では、広義では一系だが、二系(狭義では三系)の王統があったことが、最近になってわかってきた。こうした王系変更の影響をうけて、応神天皇の直系及ぴ傍系の祖先一族が前王系(神武王統)のなかに複雑に組み入れられたのである(これが、「垂仁〜応神」という時期の皇統譜のなかに複雑に現れる)。 こうした大王継承事情を説明するための物証・傍証等(前掲のものに加え、個人名、氏族名といった固有名詞、鍛冶・供膳などの氏族職掌や祭祀等)が千五百年以上の時を超えて存在している。スサノヲ神からその十二世孫ほどの後裔となる応神天皇までの歴代の名前も、これを一書で端的に記す系譜資料はないが、断片的な史料を基に総合的に寄せ集めれば、具体的にほぼ推定することができるのである。
そうすると、後に簒奪したほうの系統の天皇を正当化するため、倭国大王家の一系化を中心とする系譜記録の操作改変が行われたことも分かる。これは、記紀のもとになった帝紀などの資料が、応神天皇を祖とする諸天皇の時代(おそらく五世紀代)にまず改変されたことを意味する(併せてその都度の改変もあろう)。
津田学説のように、六世紀中葉の欽明天皇の時代、ないしは六世紀前後に初めて記紀の原資料が捏造(創造)されたのではない。それより早い時期にあっても、王統を中心に既に改変されてきていたということである。しかも、応神天皇やその次代の仁徳天皇は、前王統と母系や婚姻を通じて血のつながりがあり、改変作業は比較的容易であったものでもあろう。この改変の基礎のうえに、応神の弟の子孫たる継体天皇が六世紀前葉に登場するに及び、さらに皇統譜改変の手がまた一部加わったものとみられる。すなわち、記紀成立までに何度かの皇統譜改変を考えるのが自然だということである。 こうした記録操作の過程をみていくと、記紀の記述について、何度かの改変はあっても全くの造作と片づけることができないものである。系譜や記事についての古代人の創作能力を過大視することは問題が大きい。日本では「高天原神話」ですら神々が人間のように行動するので、これは世界の神話のなかで珍しいといわれるが、それもそのはずで、現実の歴史が神話伝承化されたこと(その過程での改編もあろうが)に因るものだと考えられる。高魂命や天照大神などの神代系譜(神統譜)も、後世の虚偽・造作ではあり得ない(ただし、後者の天照大神の原態は男神であるが。皇統譜の祖系は、天御中主神のような抽象神にはつながらない)。具体的な論拠なしに、軽々に皇統譜の偽造だと断ずる姿勢は問題が大きいし、科学的思考だとは決して言えない。 こうした事実の発見ないしは認識の端緒となった一因が、記紀とは微妙に異なる『旧事本紀』等の記述や、『新撰姓氏録』など古代氏族の系譜の様々な異伝であり、そこから王朝交替などの歴史原態があったことが示唆されないわけではない。 −−−以上が、王朝交替説についての久保田氏見解((H)〜(J))に対する私の反論である。
五
最近の考古学における発見・知見や古代史開運の隣接学問の発展にはめざましいものがある。それに加え、角川書店・平凡社の歴史地名関係の大辞典の刊行や、『式内社調査報告』『日本の神々』シリーズという神祇祭祀など古代史関係書の刊行もあり、これらの成果を従来からの文化遺産である『大日本地名辞書』『神道大辞典』『姓氏家系大辞典』などとも参照させて、総合的に古代史関係の検討を進めていく必要がある。
その一翼を担うべき系譜学関係でも、丸山浩一氏による一大労作『系図文献資料総覧』の増補改訂版(緑蔭書房、1992年)が刊行されている。同書はわが国に現存する各種の系譜資料とその所在が網羅されており、旧版は私の研究においてたいへん参考になったもので、系譜研究者には同書の活用を是非おすすめしたい。最近では、各史料所蔵館でのデータベースのネット公開もかなり進んできている。 古代史研究の要諦は、できるだけ原資料・現地にあたり、自分の頭で論点を実証的・整合的に組み立てていくことにあると考えられる。他人の学説の丸呑み・受売りでは研究の発展が期待できない。これまでの私の研究にあって、「史料を読んで理解できないところにこそ、古代史の本質があるのだ」といわれた三品彰英氏の言葉に思いあたることがままあった。この言葉を「史料」に限定せずに、あらためて注意を払いつつ、これまで築き上げてきたつもりの古代史像の体系について、前掲資料を基礎に常に弛みのない見直しを迫られている状況に古代史研究者がおかれているといえよう。「理解できない」ことに甘んじてはならないと肝に銘じるところでもある。 思込み・信念や先入観は原型史実の探索を妨げる要因であり、津田学説を金科玉条とする姿勢はきわめて危険である(津田左右吉博士の学問姿勢の評価とその結論の是認とは、まったく別物である。しかも、津田亜流学説には、津田の真意を誤解している面もある)。すべての学説を虚心坦懐に客観的に批判することからはじめ、様々な資料から論理的合理的に上古史を総合的に構築していくことが必要であり、そこには文系・理系(人文科学・自然科学)の姿勢の違いなど無関係である。自然科学系の学問から導かれた成果や試算値といえども、科学分野である以上、その検証・裏付けや立証責任の議論を離れることができない。もちろん、考古学なども含め全ての学問には、それぞれにその学問分野の限界があることも忘れてはならない。
(当初稿は『FENIPED』誌73(1992/9) に掲載。本稿は、それを2008年6月上旬時点で追補し、書き直したもので、その後も追補がある)
(08.6.5 掲上。その後も、21.03など最近まで追補) |
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関連して、天皇系譜直系継承の理由 もご覧下さい。 |
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