(関連して)
                 天皇系譜直系継承の理由               

      

 (kysn様よりの来信) 08.6.14受け

 こんにちは、こんな記事を書いているものです。
 
 ところで、古代史一般、興味深く拝読しました。次の点についてご教示いただければ幸いです。
井上光貞著『神話から歴史へ』であっさり抹殺された第2〜9代天皇の系譜、古代の歴史家(権力者?)が彼らを直系継承につなぎ変えたのはなぜでしょう?
第3,4,5代と第7,8,9代は兄弟だったとか、いや彼らは神武天皇ではなく亡くなったお兄さんたちの子孫だったとかであっても、だからとて別に隠すほどのことはないように思います。その後のややこしさを考えたら、読者は「なるほど天皇家は昔からモメてたのか」と思うだけでしょう。
 
 もしこの時期の系譜が現在あるような「明確に不自然な形」に作りなおされていなかったなら、日本の史書はこれほど信用を落とさなかったと思いますので。


 
 <樹童の感触>

 天皇系譜(皇統譜)については多くの謎があり、なぜ仁徳天皇あたりまでの初期諸天皇について基本的に直系継承で続けたのかも、その一つだと思われます。こうした系譜を実在しない者を続けた捏造だとする津田左右吉博士などの立場だとしたら、あるいはまだ答えられやすいのかもしれません。というのは、五世紀とか六世紀のころに記紀の様々な記事が捏造されたという、ほぼ一回限りの創作説をとるようだからです(三回ほどの造作、改編説もある)。
 しかし、記紀記載の天皇系譜を仔細に検討すると、それが一回の造作ないし数回の造作・改編で現在の形になったと考えるのは無理だということになります。複数の人々の手により複数回の改変が天皇系譜の原型に加えられてきたと考えると、その改変それぞれの動機を簡単に推測することができないからです(この意味で、心理的な動機の推測という方法は、私は基本的にとらないものです)。
 
 それを、無理を承知で敢えて考えてみると、次のようなことがあげられるかもしれません。おそらく、これらの要素が複合的になっている可能性があります。
(1) 天皇位(大王位)については、五十猛神後裔の天孫族系統の流れを汲むもののなかとはいえ、神武天皇に始まる王統が、まず応神天皇により簒奪され、次に継体天皇により簒奪されて、二回の王統変更があり、その関係でそれぞれの先祖一族(傍系先祖も含む)を前王統の系譜のなかに入れ込んだ。これは、応神王統において特に甚だしく、祖系への系譜改変を行った。

(2) 大陸の匈奴やツングース系民族と同様に、大陸渡来のわが国の王統でも、大王位の継承争いが一族間で何度となく激しく行われたので、それを系譜再編のなかで目立たないようにした。とはいえ、記紀に残る継承争いでも相当に多く、かつ、激しいものだったので、隠す効果があまりないかもしれない(「別に隠すほどのこと」かどうかというのは、現代人の感覚であり、こうした感覚で当時のことを推測するには、限界があります。古代でも中世でも、系譜による地位・職務・権能などについて、相続の正統化・正当化することは例が多くあります)。

(3) 原型の系譜がきちんと伝わらなかった事情もあって不明となり、王位継承順にあって親子関係を基本に考えた(中世の系図でも、傍系を含む家督相続を親子の系線でつなぐ例が多々あります。天皇系譜改変の関係者は、こうした改変のため、根っ子から諸天皇の存在を後世に否定されるとは、夢にも思わなかったのではないでしょうか)。
 
 なお、天皇系譜が他の古代氏族諸氏の系譜に比べて異常に間延びしている(天皇系譜だけが突出しているというくらい、上古の天皇系譜の世代数が多い)など、初期天皇系譜についての問題点とその原型探索については、宝賀会長の著作『「神武東征」の原像』及び『神功皇后と天日矛の伝承』、そして最近の『天皇氏族』にかなり詳細に世代検討に関して書き込まれておりますので、これらをご覧いただけたらと思います。
 
 私は、井上光貞著『神話から歴史へ』が刊行されたときに、これをすぐ読んだ記憶があり、安本美典氏や古田武彦氏が最初に著作を発表されたときも同様です。そして、この井上著作については、非ユークリッド体系のような形で、井上説に反対する立場で自己の著述を体系的に整理しようと試みた経験もあります。貴殿同様に、その論理の構造・展開に大きな疑問を覚えたからです。
  その意味で、安本美典説の説くところに魅力を感じる部分も多少はありますが、それ以上に、その所説には、「天皇一代=約10年」(及びこれを基礎とする古代の年代観)とか「卑弥呼=天照大神」、「邪馬台国東遷説」などで、多くの大きな疑問があります。これらの安本見解に関しては、全てに、明確に反対だということです。
 安本氏は、記紀の記事や古代氏族の系譜、地名の意味するものなどをあまりにも素朴に受け取りすぎていて、その所論にはおかしな結論が多々あります。その統計学的ないし数理論的という一見、科学的にみえるアプローチにも、内容を精査すると、そもそも手法自体にも多くの疑問があります。その基礎となる歴史知識にも問題があるのかもしれません。
 ただ、現在主流的な勢いのある考古学主体の古代歴史観(及び年代観)から考えると、それでも井上説や安本説のほうがまだマシだとも思われますが。その意味でも、上記井上著作が「中学生にも簡単にツッコミを入れられる程度」のはずがなく、基本的に井上説に反対する点が圧倒的に多いという立場の私ですが、それでも、文献学的なアプローチという観点からは、これを超える著作はほかになかなか見当たらないという評価を私はしております(もし、ほかにご存知ならご教示いただければと思います(注))。
 そうすると、古代史学は文献学的には約40年間もほとんど進歩がなかったということになり、たいへん残念なことですが。
 
(注)日本の古代史においては、八世紀以降はどの学説でも歴史の流れの大筋としてはあまり変わらないといってよい。一方、それ以前の時期については、歴史の見方・立場によりかなりの差異があって、これが古代史研究ひいては古代氏族系譜の研究に影響を及ぼすことが多い。ところが、体系的にこの時期の歴史を分析、記述したものがわが国にはないという致命的な問題がある。そのため、それぞれに一長一短があるものの、七世紀末までの歴史を見るための書を、これまた独断で参考のためにあげておきたい。願わくば、これらの著者に対して、体系的な歴史の流れをもっと詳しく総合的に書いてほしいと思う次第でもある。
@笹山晴生著『日本古代史講義』1977年、東大出版会
A王金林著『古代の日本−邪馬台国を中心として−』1986年、六興出版
B鈴木靖民著『古代国家史研究の歩み−邪馬台国から大和政権まで−』1980年、新人物往来社。その後に改訂版がある。
 
  (08.6.14掲上。その後に適宜追補した)



 <再信>  08.6.15受け
 
 実はこんな記事も書いています。
 
  さて、崇神−応神−継体王朝について「貴方が再構成された系譜」はどこかにまとめて公開されているのでしょうか?
 
.私の理解するところでは応神天皇は景行天皇の皇子(という建前の)大江王の子、ということは景行天皇の孫で仲哀天皇にはイトコに当たります。
 もしほんとうにそういう立場だったのなら、継承権は第一位ではないにしてもあるハズで、「仲哀天皇に子がなかった(年齢が2倍暦とすれば20代で亡くなっているので、成人した皇子がいなかったことは確実です)ので、イトコのホムタ王が(重臣建内宿禰の支持を受けて)即位した」と書けば済む話ではないでしょうか?「前の天皇と皇子たちを抹殺した」とわざわざ簒奪をほのめかす−いやロコツに書く−必要はないのでは?
 
.神功皇后は(今の系譜では)垂仁天皇の妃になっているヒバスヒメとのことですが、では第9代開化天皇の曾孫ですね。その通りに書いても別にバチは当たらないと思います(建内宿禰の例もあり)が、わざわざ天皇家から遠くなるように世代数を水増ししたのはなぜでしょう?
 
.応神天皇の皇子ワカヌケフタマタ王と応神の兄(らしい)ホムヤワケに特に共通点はなさそうに思いますが、同一人物とされる根拠はなにか?
 
 以上よろしくお願い申し上げます。


 
 <樹童からの答え>
 
 ご理解をいただけるよう詳しく書くと、記事がたいへん長くなる可能性があるので、このお答えはポイントを書きます。要は下記の宝賀諸著作を読んでいただけると、3)以外は説明がなされています。古代の皇統についての見方にご関心があるのなら、是非読んでいただいて、その全体像のなかで考えてみてください(応神天皇一族とその後裔の系譜については、詳しくはこの1年後くらいをメドに整理中と聞いていますその後に刊行の『息長氏』『天皇氏族』をご参照)。安本氏の古代系譜記事における分析は滅茶苦茶で、貴HPで言及される神功皇后と応神に関する書はまったく参考になりません。
 
00) 貴問に対するお答えです。
 「再構成した初期の皇室系譜」の公開:一連の宝賀著作@『巨大古墳と古代王統譜』、A『「神武東征」の原像』、B『神功皇后と天日矛の伝承』の3冊のそれぞれに説明記事とともに、概要を記載。また、その再構成の基礎となる各種系譜史料は、古代諸氏の系譜を集大成した同編著の『古代氏族系譜集成』などに所収。これらは皆、国立国会図書館にありますし、前3冊はamazonなどで購入可能です。最近では、『天皇氏族』という古代氏族シリーズの著作もありますので、適宜、ご覧いただけたらと思います。
 
1) 応神天皇は仲哀天皇と同世代で、その姉妹が仲哀天皇皇后の大中姫。仲哀天皇は比較的若死にではあるが、平穏に死去したはずで(その古墳〔仲津山古墳〕が示すところ、@)、香坂・忍熊の二皇子を残す。応神は仲哀後継たるべき二皇子を殺害して皇位簒奪したのは史実であって、記紀のとおりです。
応神天皇が大江王の子、という貴説には同じですが、大江王とは、景行天皇の皇子ではなく(別系統の息長氏の出で、王族ではなかった)、稲背彦命ないし咋俣長日子命と同人だと考えます。
 
2) 神功皇后は第9代開化天皇の曾孫だと『書紀』神功皇后紀、『旧事本紀』天皇本紀の神功皇后段にきちんと書いてある(B)。天皇家から遠くなるように世代数を水増しした理由を、現代人が忖度することは難しいが(先にも書きましたが、こうしたアプローチは好みではありません)、これも敢えていうと、直系的に位置づけられた仲哀天皇と同じ世代に合わせた結果かと思われます。
 そもそも、『古事記』開化段の神功皇后系譜は後世の偽造に近く(B)、『古事記』は一種の偽書であって、公式の史書ではない(編者も太安万侶であった保証がなく、序文は明らかに後世の偽作。本文の内容に史料価値を認めないということではないが、何時追補されたか分からない系譜記事もある。なかでも、古事記の神功皇后系譜は明らかに後世の偽造と考えられます。『古事記』の記事は、そのまま丸呑みするのは問題が大きいということです)。
 
3) ワカヌケフタマタ命は、允恭天皇と忍坂大中姫との婚姻からみると、世代的に応神の皇子としても不思議ではないが、『上宮記』記載の継体天皇系譜などから、応神の同母兄弟に置いたほうがよいと考えた。ワカヌケフタマタ命の位置づけは難しいが、『姓氏録』や『旧事本紀』などの系譜記事からアプローチすることが必要であり(基本的には息長氏系譜の再構成の作業)、『古事記』に応神の同母兄弟とされる誉屋別(品夜和気)と同一人と考えたほうがよいか、と思われます。
誉屋別(ホムヤワケ)は『書紀』には東国の来熊田造氏(上総の菊麻国造の姓氏)の女性が生んだとされるが、上記の諸系譜から、a 「応神の同母兄弟」(そのなかでも、弟)という線が妥当だと考えた。そして、b 仲哀の後裔とされる諸氏の先祖が誉屋別皇子しかおらず、『姓氏録』などに記載される同名同姓の布勢公(布施公。山城皇別)の先祖にワカヌケフタマタ命や仲哀皇子の忍稚命があげられることから、両者(また忍稚命も)が同人とみたわけです。従って、共通点はa,b があげられます。
 

 以下は、貴HPにある記事に関しての感触です。

01)
 万世一系の「男系継承」は、匈奴や西域など北アジア・西アジアの諸民族に数多くあり、これが王位継承の黄金律になっています。わが国の天皇氏は、遠い起源を西域に発する東夷・ツングースの流れを汲み、その種族の様々な血統・婚姻の伝統や祭祀・習俗などを長く保持しました。とくに、江上氏のいう嫂婚制・姉妹婚制には留意されます。いずれにせよ、江上波夫氏『騎馬民族国家』、加藤謙一著『匈奴「帝国」』などや安本氏の諸著作を現実に読まれて、思考をいろいろ巡らせていただくようお願いします。
  また、高句麗の遺民が建国したという渤海国では、初代の高王大祚栄(在位698〜719)の後は、その直系系統の国王が5代9王続いてから、大祚栄の弟の大野勃の4世孫となる宣王仁秀が第十代の国王となって(大祚栄の即位の120年後)、新しい王統ともいえる王家が始まり、これが6王が続いた事情があります。これは、わが国の応神王統(6代11大王)の後に継体王統(応神の弟の4世孫が継体。応神即位後の約125年頃か)に替わった例ときわめて類似している。
 
02) 紀元3〜6世紀における20年という誤差は、決して誤差の範囲ではありません。貴見の「20年ほど後になったと思うが、それこそまさに誤差範囲というもの」には、とても賛成できないということです。
 なぜなら、せいぜい数年の誤差の範囲で、5世紀の天皇在位期間が押さえられるからであり(「倭五王」などについて、中国の史書と『書紀』記事の対比検討などから)、これを基礎に朝鮮関係史料などを加味すると、4世紀後半の年代も押さえられるからです(上記B参照)。
  そして、この20年の差異により、『宋書』等に見える「倭五王」の比定も、応神や崇神の治世年代にもさまざまな影響が出てきますし、高句麗の好太王の敵方で倭王に当たる者も、わが国古墳年代の開始時期や古墳被葬者についての見方も変わってくるからです。そして、神功皇后の存否にも関わりますし、多方面への影響があると思われます。
 
  (08.6.17 掲上、6.21や21.03などにも増補)

 
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