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  5 おわりに─併せて多少の感触

 皇国史観と史料批判の問題

  従来から、邪馬台国東遷説は“皇国史観”とか“神武東征神話の亡霊”(田辺昭三、佐原真などの諸氏)という語で批判されてきた。しかし、こうした語を説明(定義)抜きで用いることについては、最初から価値観(主観)絡みであって、問題の解決にも科学的分析にもならず、極めて疑問が大きい姿勢といえよう。
 “神話復活”という批判も、同様である。神武東遷説話に日神(太陽神)信仰が見られるからといって、これが直ちに「虚構の創作」といえるものではない。天照大神といい伊勢神宮関係の話しといい、記紀には日神信仰的な観点から後世、脚色がなされた要素が目につくだけである。

  そもそも、最近用いられる“皇国史観”という語が何故そういわれるのか、私には理解不明な点がある。
 “皇国史観”について、「天皇をすべての正統的価値の中心とみなす歴史観」(山川出版社『日本史広辞典』)とか、「天皇制国家と日本帝国主義とを正当化するためのイデオロギー」(永原慶二『皇国史観』岩波ブックレット20、1983年刊)という意味で把握するとしたら、たしかに「皇国史観は、本質的に、非科学であった。……(中略)……歴史の学問的認識の道を基本的にとざしてしまっているところに非科学たる基本があるのである。皇国史観は全体として科学的客観性を排して主観主義的性格に徹している」という永原氏の指摘はまったく妥当である。こうした非科学的な史観なら、当然排除されるべきである。しかし、いまどきこうした史観が、ごく極端な例を除いては、あまり見当たらないようであり、記紀記事について頭からの全面的な否定といった過剰な反応は、却って疑問ではなかろうか。
  “現代版皇国史観”という語も散見するが、これも同様に意味不明な点もある。天孫降臨とか神武東遷を科学的な視点から検討して、結論として歴史的事実(ないしは歴史的事実の一部)であったと判断したとしたら、これが即、皇国史観なのであろうか。かりに“皇国史観”を排除したからといって、上古代における侵略・植民活動や東方遷住の事実が消えてなくなるわけではない。歴史研究者が留意すべきは、できるだけ客観的合理的に原型的事実を総合的に探求・研究する姿勢であり、先入観や主観的史観あるいは道徳観(道徳的負い目)は避けなければならない。もちろん、津田史学(信仰)すら、科学的歴史学の観点からは批判・検討の対象となりうべきものであり、単なる神話アレルギーは合理的な姿勢とはいえない。
  「厳密な史料批判」は文献史学においてたいへん重要であるが、当時の資料制約もあってか、津田左右吉博士の分析は必ずしもそうしたものではなっていない。単純素朴な記紀理解(誤解)に基づき記紀の全否定論に走るものが少なくない。しかも、論理の飛躍や記紀記述の揚げ足取りのような指摘もあって、十分に否定の論理が尽くされていないのが、たいへん気に懸かる。「非実在」の証明も、「虚構の造作」という証明も、実はたいへん難しいものであるのに、津田亜流の研究者・同調者も含めて、その証明や論理展開がしっかり為されていないと判断されることが多いのである。それでいて、「厳密な史料批判」と言うのだとしたら、ある意味でおこがましいとすら言えよう。

  私は結論的には安本説と多少とも異なることが多いが、安本氏のいう津田史学批判は、津田史学(及びその亜流学説)の論理過程・結論に対して相当程度、妥当すると考えている。すなわち、津田史学には近代的合理性と数量化の精神を欠いており、研究者の主観的判断に基づく議論で、史実構成のために有用な情報をも無益な情報と一緒に捨て去るという袋小路に屡々迷い込む、という批判である。
  いまだによく見られる、いわゆる反映説的解釈も、決して論理的でも科学的でもないことに注意しておきたい。「反映」とは、編者の心裡の推測であって、客観的に裏付けが得られず、肯定論にも否定論にもなりえないからである。辻直樹氏も、「反映説は決して本質的に不在説の証明になり得ないものである」と指摘する(『五王のアリバイ』54頁)。単純粗雑な否定論の後に続けて、根拠の乏しい奔放な想像論がおおいに展開されているものもかなり見られて、これで合理的な歴史学といえるのだろうか。
  厳密な「史料批判」の必要性を強調しながら、その立論といえば、安易に津田史学(亜流)の結論に依拠している見解の多さにも驚くかぎりである。といって、津田史学批判の立場であっても、その結論が必ずしも妥当なわけでもないし、と言って、統計化・数量化されればその結論が正しいというわけでもない。要は合理的批判精神の立場で、堅実に実地に即した合理的な論理展開をしているかどうかだと思われる。

  私はその意味で、できるだけ合理的総合的に、記紀や邪馬台国東遷説を検討したつもりである。本稿は、一連の安本氏の諸著作のほか、同様な説を主として考古学見地から説く奥野正男氏の諸著作、さらには橋本増吉博士など邪馬台国東遷説への賛否各々の議論を踏まえて、記述してみた。もともと新奇を衒うつもりはなかったが、主要なポイントを整理してみると、概ね先学が指摘していたものが妥当する例が多かったといえそうである。上田正昭氏や斎藤忠氏などの著作も、何度か読み返して見て、その穏当な指摘を改めて認識した次第である。
  考古学が戦後史学に果たした役割の大きさを否定するものではないが、考古学だけで上古史を解明できるものではない。それにもかかわらず、文献無視の考古学者唯存主義とでもいうべきものが、現在かなり横行しているのではなかろうか。弥生・古墳時代の絶対年代が自然科学あるいは考古学の手法により決定的に導き出されるというのは、その基礎となるデータが乏しく検証が十分でない以上、単なる信念・信仰にすぎない。勿論、今後は科学の進歩発展により、さらに信頼度があがるだろうけれども、客観的で十分な検証が常に必要である。
 本稿作成にあたり、かなり多くの考古学関係の諸書・論考にもあたったが、むしろ従来の考古学年代(編年)観のほうが総じて相当妥当性が強いのではないか(一部、手直しを要するが)、と再認識した次第でもある。
  いずれにせよ、資料の乏しい上古史研究にあっては、現存する個々の資料を丁寧に取り扱ったうえで、自然科学も含めて関係諸分野との整合性のとれた案・説(あるいは構想)が提示されるべきものと思われる。当時の地理・暦・気候・言語・習俗・祭祀・種族(含、部族・氏族)などの研究も、そうした関係分野のなかに当然含まれ、これらも様々な文献資料や考古学知見と併せ、総合的に考察してこそ適切な結論が導かれるものであろう。


 神武東遷関係の地理事情と年代観

  最近(当論考執筆当時)の私の体験から、こうした一例を神武東遷関係で挙げておく。 
  先般、北九州市八幡地区の南にあって、市街地を眼下に見下ろす皿倉山(標高626M)に登る機会があった。その山頂から北方の平野部を望むと、かって偉容を誇った製鉄高炉が全く消えてしまったという現代の産業構造変化が如実にわかった。それとともに、左手には遠賀川と深く切れ込む洞海湾が見え、右方遙かに関門海峡が見えて、この地が上古から交通の要衝にあったことが、よく理解された。三世紀当時の日本列島で、北九州の筑前・筑後・肥前方面から畿内に向かうに際し、通過しなければならない要地(岡県主が置かれ、さらに遡って部族国家も存したと思われる)であった。
  地形的に見て、往時の遠賀川河口は洞海湾にも繋がっており(仲哀紀八年正月条に洞海が見え、『筑前国風土記』逸文の塢舸水門条も参照。『角川日本地名大辞典 福岡県』にも同旨)、海岸線ももっと奥に入り込んで、水門は現在の河口部よりはやや上流にあったものと推される(現水巻町・遠賀町の辺りか)。仮に神武の東遷軍や魏遣使が東方の畿内方面に向かうとした場合には、玄界灘・響灘の荒い風波を避けて、遠賀川下流部か更に陸路を進んで豊前の瀬戸内沿岸部(例えば、京都郡の苅田港)まで至ったところで、船出するのが自然であったろう。

  こうした観点でみると、神武東遷の経由地として“岡水門”(旧遠賀川下流部の港)があげられるのは全く無理がなく、しかもその出発地「日向」が岡水門より西方にあったことも示唆される。岡水門の比定については、一般に芦屋津(現遠賀郡芦屋町沿岸部)とされるが、これは疑問である。上述の歴史地理からいって、現在の洞海湾岸から水巻町・遠賀町にかけての地域のなかにあったかとみられ、『続風土記』には「水莖の岡の湊」というと記される。太田亮博士は、「大観して考ふれば、古代の若松港と云ふも適当ならずとせず」とも記述する(『姓氏家系大辞典』ヲカ条)。『古事記』には、神武が東遷途上、竺紫の岡田宮に一年坐すと記されるが、この地で船舶・食料・武具など東遷の準備をしたものであろう。
  岡田宮は黒崎村熊手(現八幡西区)かという説が太田博士により紹介されるが、これは留意すべき見解と考えられる。というのは、岡県主の後裔という家(熊手権現社神主の岡氏)の所伝では、八幡西区西部の折尾から小倉北区にかけての地域の祭祀を掌り、熊手村に代々の墓地をおいていたとされるからである(これも、上掲ヲカ条)。これら事情を総合的に考えると、洞海湾南岸で八幡西区東部の熊手・黒崎・藤田・岡田ないしその近隣一帯に神武東遷の岡水門(岡田宮)があったのではないかと考えられる。
  また、魏遣使についていえば、奴国の次にあげられる不弥国が有力な港を持たないとした場合には、次に向かう方向は南方の内陸部とみるのが自然であったろう。不弥国が旧遠賀川河口部にあったとすれば、それは奴国から五百里(少なくとも三百里)ほど東北ないし東に進んだ地と記されねばならない。『魏志倭人伝』の行程記事から考え、奴国(あるいは伊都国)の東行百里とされる不弥国について、遠賀川中流の穂波郡にあてる説もあるが、これは現在より水量の大きい当時でも、川船という意味でかなり不自然であろう。現在に伝わる『魏志倭人伝』が当初成立した原典通りかどうかは多分に疑問もあるが、不弥国が邪馬台国への経路にある場合には、東方の大和方面に邪馬台国を求めることは無理ではなかろうか。
  こうした岡水門の例に限らず、記紀の神武東遷関係記事は、摂津難波方面や奈良盆地でも往古の地理事情を適切に描写していて、東遷の事実をむしろ否定し難いと指摘する見解が、古田武彦氏(『ここに古代王朝ありき』など)や樋口清之氏(『逆・日本史3』)などから出されている。こうした上古当時の地理事情に神武東征伝承が符合するとする見方もかなり出て来ている。

  本稿でとりあげた問題は、きわめて多岐にわたっており、自論を含め全て論じ尽くすのは困難である。本稿も予想以上に長くなってしまい、これ以上書き込むと論旨が纏まりなくなるおそれがあるので、次の年代観を触れたところで、とりあえず稿を終えることとしたい。

  内容的には、表題通りの安本説批判が勿論あるが、最初に述べたとおり氏の功績もかなり評価しているつもりである。とはいえ、統計的手法を唱いながら、統計学処理のごく基本的な作業も行わず、粗雑で裏付けのない論証や結論もかなり目につき、『季刊邪馬台国』の編集人としての影響力も含めて考えると、一度自説を振り返られたら如何であろうか、という思いで記述してみたものである。また、これまでの安本氏の論述活動の影響力は大きく、論理的展開の適切さで私がかなりの信頼をおいて見ている文献研究者の論考においても、その影響が顕著に見られることから、その方々の再考の契機にならないだろうか、との思いもある。私自身が安本氏と同様な発想を過去にした体験もままあって、そのうえで何度か考え方を変えてきた経緯があり、歴史の奥深さをも痛感してきたつもりである。
  従って、これから更に私見を変更することもあり得ようが、少なくとも、安本氏の説く年代論やそのいわゆる“統計的”手法は、倭五王の比定や卑弥呼の比定に堪えるほど、精緻で確実なものではないということを、改めて強調しておきたい。そもそも区間推定にしろ最小二乗法による推定にしろ、ある範囲をもった推定にすぎず、別途、実態にあった年代推計を併せてしなければならないはずのものである。

  古代天皇の平均在位期間10年余とみるのが正しいと安本氏がいくら主張しても、例えば推古天皇の長期在位35年4月、欽明天皇の同32年超という現実の前には、とうてい対応できない。倭五王関係でも、在位期間20年超ではないかとみられる天皇が四人(応神、仁徳、允恭、雄略)も存在していた。かれら諸天皇は、その長期安定した在位を基礎にして、世界に比類ない巨大古墳をほぼ連続的に築造したのであるが、安本説に立つ限り、十年の倍以上ともなる長期在位は推定の外になってしまう(『応神天皇の秘密』巻末所載の古代推定年表・安本案に拠ると、武烈天皇以前では20年超の在位をもつ天皇は皆無であって、長いところでは応神・允恭・雄略で15〜17年ほど、仁徳・崇神・垂仁・景行で12〜14年ほどと作表されている。この辺には、無理な短縮を感じる)。これでは、政治的に不安定であって、大和朝廷の国内平定も、巨大古墳築造の事情も説明できなくなるのではなかろうか。また、『書紀』紀年に用いられる儀鳳暦などの事情を考えると、雄略の在位23年を恣意的に圧縮することはできないはずである。

  その一方、現時点では、合理的な古代史研究の必要性からいって、安本氏の説同様に十分な検討や批判を向けるべき方面もあることを、併せて記述したつもりでもある。邪馬台国所在地問題など古代史の諸問題を巡る従来の議論は、やや両極端に走っているように、私は常々感じてきた。双方にそれぞれ主張する相当の根拠があり、簡単に切り捨てることができないものも多々あることから、それぞれの良いところを取り上げて整合的に考えてみてはどうか、正しい乃至実態に近い説自体は個別論点毎には既にもうかなりの程度出されているのではないか、という問題意識をもってきたわけである。


 <一応の総括>

 本稿の表題を踏まえた「本稿の主論旨」を簡単にいうと、「邪馬台国東遷はなかったが、北九州にあった邪馬台国関係の一支族が、女王卑弥呼より前の時期に東遷し、大和侵攻に成功して、原初大和朝廷を建設した」ということであり、この点でも、「真理は中間にある」という主張になるのかもしれない。
 これまでに、邪馬台国九州説をとる多くの著名な歴史学者が、邪馬台国東遷説の立場に立っていた。しかし、原態を考えると、「神武東征=邪馬台国東遷」では決してない。「反映説」なんていい加減な論理をとるから、そうみる形になるのかも知れない。
 記紀を自然に読めば、東征出発当時の神武の軍勢は微々たるものであった。それが、どうして北九州の大国たる邪馬台国の国としての東遷なのだろうか。歴史原態をどのように反映すれば、記紀のような矮小化の記事になるのだろうか。北九州から畿内方面への移遷は、物部氏や鴨族など多く伝承を伝えるし、神武自体もそうした部族移遷の一つにすぎなかったというのが、自然な受け取り方であった。
 こうした神武による小部隊の移遷という見方は、提唱者・賛同者がこれまであまりいなかったが、最近までに、例えば半沢英一氏『邪馬台国の数学と歴史学』2011年刊)の邪馬台国東遷否定論がある。また、長浜浩明氏は、神武東征は認めても、年代論等からそれは邪馬台国東遷ではないとし(『古代日本「謎」の時代を解き明かす』2012年刊)、邪馬台国や狗奴国の東遷説は根拠ゼロの仮説だと断じた(『最終結論「邪馬台国」はここにある』2020年刊)。こうした論理の展開が、拙見は妥当だとみるものである。

  学問の問題としては、「真理は中間にあり」と思われることもままあるが、いつまでも「真理は中間」だといっておいてすむわけでもない。日本古代史の文献史学においては、多くの個別論点について、更に突き詰めた具体的な討論や厳しい批判が必要とされる所以である。どちらかといえば私と比較的近い立場にありそうな安本氏の説を主に取り上げて、敢えて疑問提起や批判をしたのも、そうした事情に因るものである。
 安本氏の発想の原点が「卑弥呼=天照大神」であったとしても、これに束縛されて様々な無理が生じていることは、本稿を読んでいただければ、お分かりになるはずである。“仮説”は固守するのが尊いのではなく、様々な試行錯誤を繰り返すなか、歴史の実態・原態に応じて、適宜、原案を調整していくべきものと思われる。歴史的事実探求のためには、安本氏の立論の基礎にある「卑弥呼=天照大神」を思い切ってはずして、再考・再構築されることを期待する次第である。こうした事情だから、安本氏だけを目の敵にするつもりは毛頭ない。私の尊敬する研究者諸先生に対しても、姿勢はまったく同じつもりである。
  なお、本稿で取り上げた安本氏の著作・所説については、主に平成11年末までのもの(『季刊邪馬台国』については69号まで)を気のついた範囲で当たったつもりである。本稿の作成過程で受けた安本氏のご教示にも深く感謝いたしたい。また、引用ないし参照させていただいた個々の説については、個別に名前・出典を列挙するのは極く限定したところであり(また、管見に入っていないものも多いし、引用漏れや誤解もあろうかと思われる)、註についても、補足説明が必要なものや作成過程で論点となったものに限ってつけたため、まだ不十分なことは自覚している。とくに、私が他の論考で検討した事項については、その結論のみを記述したものもいくつかあって、この点は異論のある方も当然おられよう。これら個別の論点については、別の機会に当HPにおいて論述するにやぶさかではない。


  (更に多少の附言など)

  最後にお断りをしておきたいのは、久保田穰氏関係の著述である。弁護士を本業とされた氏は、これまで『古代史における論理と空想−邪馬台国のことなど』(1992年刊、大和書房)『古代史のディベート』(1994年刊、同社)『邪馬台国と大和朝廷』(1999年刊、日本図書刊行会)などの著作・論考を発表され、私はその論理展開には深く敬意を払ってきた。氏の論述には、安本氏の所説を尊重しつつ、その論理の疑問な点には適宜適切な批判をなされており、私と見解を同じくする点も少なくない。

  本来なら久保田氏の所説を一々紹介のうえ、記述しなければならない部分もあろうかと思われるが、私見とは結論が微妙に異なる点もかなりあるうえ、最終段階で取り入れるのはやや困難な面もあること(個別に異同を論じると、安本説批判という本来の趣旨も薄れること)、私の着想は久保田説に触発されたものではなく別個に出てきたものであること(1986年刊行の拙著『古代氏族系図集成』28〜31頁参照)、などの事情から、殆ど引用・参照をせずに、私なりの論理で一貫して本稿を記述させていただいた。
  この関係での主な点を簡単に例示すると、神武の実在とその東遷を認めて、卑弥呼以前のこととし、「故国を捨てた神武天皇の冒険」という見方をするなどの点では、久保田氏の所説と私見とはほぼ同じである(上掲の「本稿の主論旨」も同じ)。その一方で、安本氏の一代十年説を論理的だと評価する見方(実際には、12.5年ほどが妥当だと久保田氏はみているが、この数値なら割合妥当な線か)や邪馬台国の所在地(大分県南部説)、邪馬台国滅亡時にその官僚・エリート層は大和に移住して大和朝廷に仕え発展させたとみる見方(古代氏族を仔細に見ても、何らその証拠がない想像論としか評価できない)、などでは大きく異なっている。本稿と併せて、ご検討いただければ、と思うとともに、故久保田穰氏(2004年にご逝去)の多くの学恩にも深く感謝する次第である。

  最後に、本稿作成に当たって学恩を受けた多くの先学諸賢に対し、改めて厚く謝意を表したい。また、批判等に拙劣な表現があったとしたら、これは執筆者の責任であるが、人格的な非難ではないことを付記しておきたい。

  (当初は2000.3.12了。2010.10.6若干追補。これらを基本におきつつ、2017.8.17及び2021.02などにも微修正をした)


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