于道朱君の衝撃

                                宝賀 寿男
    

  現在、様々な角度から上古の日朝関係史の検討を加え執筆中であるが、その過程で思いもよらない認識に至り(私としてもかなりの衝撃をうけ)、しかもその本論では、論じ尽くせないと見込まれたことから、本HPでその検討結果を掲示する次第である。
  その内容としては、戦後の古代史学界で実在性を簡単に否定されてきた武内宿祢の活動についての考察となった。



 一 問題提起

 上古の新羅の重臣に于老(せき・うろう)という人物がいる。
 第10代とされる新羅王奈解尼師今の子であり、その子が第16代王の訖解尼師今(以下、新羅の王は「尼師今」も「王」と記す)であって、当時の新羅の兵馬を握る重要人物であった。官位は角干(新羅の官位1等の伊伐の別名で、「舒弗邯」ともいう)で大将軍であり、「新羅本紀」には奈解の太子とも見える。同書には数々の軍功をあげたこと、及び沾解王のときに言動が倭王の怒りを買って悲劇的な最期を迎えたことが見えるとともに、『三国史記』巻45には列伝を立てられて、その事績が詳しく記される。
 この于老に絡んで登場するのが倭の将軍「于道朱君」なる人物であり、倭王の命を受けて新羅を攻め、于老を火あぶりの刑に処したと『三国史記』(以下、『史記』とも記す)に見える。この者の素性については、これまで不明であり、多少の説がないわけではないが、あまり決め手がなかったといってよい。もっとも、古代史学界では、神功皇后をはじめとする日韓古代通交史については、研究対象としてほとんど取り上げられずにきたから、それだけ検討が進まなかったという事情もある。すなわち、新羅に関しては、四世紀後半から五世紀初頭にかけての時期に在位したと『史記』に記される奈忽王より前の諸王は実在性に乏しいとして、簡単に否定されてきた。しかし、『史記』が後世の史書とは言え、古い時代の記事はなんでも捏造されたと頭から決めつけることには大きな疑問がある。ましてや、自国ではない倭の将軍の名前を編者が勝手に作り上げたのであろうか。
 この于道朱君について、古代日韓交渉史を様々に検討してきた最後の段階で、ある手がかりから思いがけない試案をを得たので、ここに掲げる次第である。

 
 二 于老の事績と殺害事件

 まず、于老を取り巻く状況から説明する。
 その初見は、第10代奈解尼師今の14年(単純換算して西暦209年に比定され、以下もこの換算で記すが、これが実年代ではないことに注意)であり、浦上八国(慶尚南道南西域の伽耶諸国)に攻め込まれた加羅(金官伽耶を指すか)が新羅に対して救援を求めてきたので、太子の位にあった昔于老が、伊伐の利音とともに加羅の救援にいき、浦上八国の将軍を討って捕虜六千を救出したとされる。次いで、第11代助賁王の二年(同、231年)七月に伊いさん)の位で大将軍となり、甘文国(慶尚北道金泉市にあった国か)の討伐を行い領地を併せた。その二年後の同王四年(同、233年)五月に倭兵が新羅の東辺を侵し、七月には伊?の于老が倭人と沙道(慶尚北道浦項市)で戦い、敵船を焼いて倭人を壊滅させる勝利をあげた。
 これらの功績により、同王15年(同、244年)には舒弗邯(官位第1等)に上がり、軍事の統括を委任された。翌16年十月には高句麗の侵攻を受け出撃したが、勝てずに馬頭柵(京畿道抱川市か)まで退いて守った。このとき、夜の厳寒のなかの兵卒を労わるため自ら柴を燃やして暖をとり、部下を感激させた。列伝では、次の沾解王時代には、新羅の支配下にあった沙梁伐国(慶尚北道尚州市)が背いて百済に帰順したときにも、于老が出撃してこれを討滅したとある。
※ 三品彰英著『日本書紀朝鮮関係記事考證』によれば、昔于老の功績とされる上記事績のうち、新羅が浦上八国を破ったのは六世紀中葉頃の真興王時代のことであり、沙梁伐国が新羅に服属するのはその少し前で、法興王時代に沙伐州の置かれた時とみられる。
 
 新羅と倭との関係は、第10代奈解王までは、いずれも倭が新羅の辺境・沿岸部を侵したので、これに対する防御であった。ところが、次代の助賁王の頃から倭と新羅との関係に大きな変化が生じ、倭が新羅内部まで攻め込むようになってきた。すなわち、奈解王までの最後の倭の国境侵犯記事からみて、二五年後の紀年となる助賁王三年(同、232年)には、倭兵が初めて内陸部まで進出し王都の金城(慶州)まで攻めて来て、そこで戦ったという危急の国難が生じた。このとき、王は自ら戦い賊を敗走させ、一千余人を殺したり捕らえたりしたとされるが、于老が活躍して倭兵を壊滅させたのは、その翌四年のことである。
 倭国との交戦・交渉の記事は、第十四代の儒礼王以降は頻繁に「新羅本紀」に現れる。こうして見ると、実際には第十一代助賁王の時代になって初めて新羅と倭国との軍事・外交関係が生じ、そのときから次の第十二代沾解王の時代にかけての時期に、王族の于老が活躍したと整理される。
 最初の助賁王三、四年の二件は、記事の上では新羅が倭を破ったことと記されるが、とくに前者では、初めて倭兵に王都金城まで攻め込まれたことが知られる。これは新羅にとって衝撃的な事件であった。倭兵一千余人を殺害・捕獲したということは、総勢ではその数倍あったとすると、相当な大軍とみられる。次いで、「新羅本紀」では沾解王年(同、249年)四月、舒弗邯の于老を倭人が殺したと記される。于老は、その父も子も新羅国王という昔氏王族であり、新羅第一位の官職である角干の地位の大将軍という重要人物だけに、その殺害は新羅にとって屈辱的な事件であった。
 于老殺害事件と余波については、『三国史記』列伝于老にも見え、倭との交渉で詳しい経緯が記される。
 それによると、沾解王年癸酉(同、253年。時期が本紀と異なる)に倭国使臣の葛那古を新羅が接待したとき、于老は戯れに、早晩、汝の王を塩奴(塩を焼く奴)とし王妃を飯炊き女とすると言ったので、倭王は大いに怒って将軍「于道朱君」を派遣し、新羅を攻めて于老を火あぶりの刑に処した。その後、味鄒王(沾解王の次代で第十三代国王)の時代に、倭の大臣が新羅を訪問したとき、于老の妻はこの者を欺いて饗宴のうえで捕らえ、火あぶりにして怨みを晴らした。そこで、倭は怒って新羅の都・金城を攻めたが、勝利をおさめられずに帰った、と記される。

 
 三 「于道朱君」などは誰に当たるか

  (1) 事件の起きた年代
 一連の事件として『史記』に見える葛那古・于道朱君については、その比定者は不明である。というのも、まず記事の年代がきちんと把握されていないからである。先にも記したが、『史記』の新羅本紀の年代は、これまで単純換算されてきて、この紀年表示に対しては日韓の学界でもほとんど疑いが持たれなかった。すなわち、すべて単純換算で認めるかまったく史実ではないとして受け入れないかの二者択一であったといってよい。しかし、この双方の姿勢には共に誤りがある。
 単純換算の問題点は、例えば、第17代奈勿王とその妻のイトコにあたる同世代の第15代基臨王の治世期間がそれぞれ 356〜402年、298〜310年とされていて、同世代でありえないほど長いと思われる点や、于老自体が西暦209年から249年ないし253年にかけて活動しているにもかかわらず、その死没時に嫡子の訖解王がまだ歩行できないほどの幼児であったと記されることに現れる。一世代で104年間も王位にあったり、四十余年の成人としての活動の後でも幼児しかもたないということは、大雑把にいうと実際の一年の四倍ほどの紀年となっている可能性が大きい(そうすると、一世代が26年、十年ほどの成人活動でも幼児ということで不自然ではない)。その一方、年代がまったく不都合だとして、系譜や所伝を否定するのは乱暴な話である。従って、その中間をとって、系譜・所伝はひとまず信頼し、一世代を二五年ほどとして年代を調整するというのが穏当なところであろう。
 このような年代調整をしたとき、倭の金城侵攻があった助賁王三、四年や沾解王年がいずれも三七〇、八〇年代とみることができる(概観は拙著『「神武東征」の原像』312頁所載の図参照。この当時の新羅の『三国史記』の記事は四倍年暦で記載がなされたとみられる)。これが于老関係の事件が起きた具体的な年代というわけである。神功皇后が活動した時期にもあたるとみられ、『書紀』神功皇后摂政前紀の分注に記す一伝には、征討を受けた新羅の王として宇流助富利智干(ウル・ソホリチカ)いう名が見え、「宇流」は于老に通じ、ソホリチカは舒弗邯spurkanにあたる。わが国の天皇の治世年代でいえば、応神天皇(在位が390〜413年と推定)の前代にあたる時期である。従って、この時代に韓地で活躍した人物を探してみるということになる。
 
 (2) 「葛那古」は誰に当たるか
 こうした前提で考えると、葛那古が葛城襲津彦にあたることは比較的容易につながる。『書紀』神功皇后六二年条(干支二巡繰り下げたとき西暦三八二年となる)には、新羅が朝貢せず、襲津彦(そつひこ)を遣わして新羅を討たせたという記事があり、同書所引の『百済記』には、大倭の遣わした沙至比跪(さちひこ)が新羅を討つかわりに、新羅の美女に惑って加羅国を滅ぼしたなどの一連の事件が見えて、三八〇年頃に葛城襲津彦が韓地で活動したことが裏付けられる。百済に「沙至比跪」、新羅に「葛那古」とその名が伝えられても、とくに不思議ではない。
 
 (3) 「于道朱君」は誰に当たるか
 問題は「于道朱君」である。これについての解釈を示すものでは、「于道」を宇土・烏奴(「魏志倭人伝」に見える「烏奴国」)、宇陀、宇治と考える諸説があるようであり、私は当時の地名・人名・姓氏名から考えて「宇治」の可能性が大きいのではないかと考えていた。ただ、「朱君」については見当がつかず、「宇治」も応神天皇の皇太子菟道若郎子に始まる御子代・宇治部の成立前の時期であり、あとは物部氏族の宇治連くらいかと思うが、これも該当しそうではないと考えていた。肥後の宇土を氏の名にもつ姓氏は管見に入っておらず、肥後の阿蘇氏一族の宇治部君氏の活動前ということで、「于道朱君」については、これ以上は探索不能かと考えてきた。
 ところが、最近、いくつかの検討をするうち、「朱君」が「宿祢」ではないかとみる説にであたった。朱君は普通には「しゅくん」と訓むが、朱は「す」とも訓み、漢代古音ではこのほうが適切ではないか(藤堂明保氏の漢和大字典を参照)とみると、「すくん」「skhn」となる。そこからほどなく宿祢(すくね)に至るということで、いまでは「朱君=宿祢」説が多いといわれる。その場合には、「于道朱君」は「宇治宿祢」(ウチスクネ)となり、ネット上ではこれがすなわち内宿祢(武内宿祢)その人であろうという説まで出されている。

 私は、この説を卓見として評価するものである。武内宿祢(たけうちすくね)は建内宿祢とも書き、成務天皇と同じ日に生まれたと伝え、当時の大和朝廷の一番の重臣であった。この者が長寿であって五,六朝の大臣を務めた人物と伝えるのは、二人の人物の複合と考えられるから疑問であるが、同世代の成務天皇やその皇后たる神功皇后(記紀記載の神功皇后の位置づけは、記紀編纂時までの改編があり、史実原型が成務皇后の日葉酢媛であったとみられることは、拙著『神功皇后と天日矛の伝承』に詳細に論じている。その治世年代も仲哀天皇に先行する)、さらに次代の仲哀天皇朝頃まで活動をしたことは認めてよい。そうすると、年代的にはまったく問題がなく、しかも、この時期の倭国において、新羅第一の重臣于老を殺害させるだけの行動と判断がとれる地位にあったといえよう。
 神功皇后紀四六年条には、「斯摩宿祢」という人物を倭国が北伽耶の卓淳国(慶尚北道の大邱地方)に派遣した記事が見えており、この頃すでに「宿祢」という称号もあったと考えられる。その割注には、「斯麻宿祢は何れの姓の人かを知らない」とあるから、名前の出典は百済史料にあったものとみられる(この者は筑紫国造族で、紀臣氏などの実際の祖先だと推される)。
 また、「武・建」は美称であるから、これを取り去ると「内宿祢」となる(この点で、武内宿祢の弟に甘美内宿祢〔味内宿祢〕をあげるのは疑問が大きい)。「宇治(宇智、宇遅)」が「内」に通じるのは、六国史における内真人という姓氏の表記が宇治真人・宇智真人ともされることからも分かる。武内宿祢は、孝元天皇の孫の屋主忍男武雄心命が紀国造の祖・菟道彦(ウチヒコ。宇遅彦)の娘を娶って生んだ子という系譜が伝えられるが、大和国葛城郡の南隣で、紀伊国に接して宇智郡(現五條市全域)があり、式内社の宇智神社(五條市今井)が吉野川北岸に鎮座する。宇智野を貫流する川は宇智川と呼ばれ、于智川・内川とも記される。
 武内宿祢はこの宇智郡に因んで名乗られたとみられ、北隣の葛城地方の雄族・葛城国造家(葛城直祖の荒田彦の娘・葛比売)と通婚し、その地に入ってその子・襲津彦を生み、襲津彦の代には葛城地方の大豪族となって葛城を氏の名前としたとみるのが自然である。
 なお、山城国には、『和名抄』の地名を北方から見ると、紀伊郡紀伊郷や宇治郡宇治郷があり、綴喜郡には有智郷があった。ウチの地名の起源が紀伊国にあったとしたら、南方から紀伊、大和、山城と地名が移された可能性も考えられ、その場合、山城では宇治の元が綴喜郡の有智すなわち内だったことになる。『姓氏録』には、大和皇別の内臣・山公が見えて、これら諸氏が味内(ウマシウチ)宿祢の後と記されるが、『古事記』孝元段には味師内宿祢は山代の内臣の祖と記されており、綴喜郡有智郷より起った氏とみられている(『姓氏家系大辞典』ウチ条など)。綴喜郡の式内社に内神社(京都府八幡市内里内に鎮座)があげられるが、上記の諸事情から、この氏は葛城臣の分流としてよい。欽明紀十四年条には、内臣(欠名)が百済に派遣された記事が見えるが、これも先祖の事績を踏まえてのものか。 

 
 四 結語と付記

 以上の事情からみて、西暦三七〇、八〇年代の仲哀朝において、武内宿祢・葛城襲津彦親子が韓地で活動するのは肯ける。従って、両者を「于道朱君・葛那古」に比定する見解は説得力が大きい(セットでこうした比定をする見解は、現在のところ管見に入っていない)。
 荒唐無稽な長寿ということだけで、戦後の古代史学界で簡単に存在を否定されてしまった武内宿祢が、『三国史記』の記事を基にここに復活するとしたら、これは大変な衝撃を与えるものではなかろうか。
 
 こうした試論・推論は無理ないものと私に思われるが、その場合、新羅の王統・王暦についても及ぼす影響が大きいので付記しておく。すなわち、
 (1) 新羅の初期諸王についても、実在性を考えたほうが自然である。『三国史記』及び『三国遺事』の記す王名とその系統・系譜については、基本的にほぼ信頼できる、ということである。
朴氏・昔氏・金氏と三家あったとされる新羅王統が金氏一氏となるのは第十七代奈勿王のとき以降である。奈勿王ないしその次代の実聖王の頃から、国王の治世時期もほぼ確実になると一般にみられている。逆にいえば、奈勿王より前の時期にあっては、王としての存在さえ否定されることが多いが、これは疑問が大きな取扱いであって、その根拠が弱い。
例えば、大著『韓国古代史』を著した李丙Z氏は、「第十七代、奈勿以前の諸王は、…(中略)…、みな部族政治時代の渠帥であり、その世系がはたしてどれほどの確実性をもっているかはすこぶる疑わしい」(金思Y訳、下巻六九頁)と記す一方、奈勿王以降はその存在と在位期間をそのまま認めている。
立場が少し違うが、鈴木武樹氏は、始祖の赫居世から奈勿王に至る王統は、「最大限十二は存在した辰韓諸国の王族の、本来は並列的な系譜を、縦の一列に書きかえたものではないか」と推定するが(「『三国史記』について」、編著『倭国関係 三国史記』に所収)、この前半部分の「並列的な系譜」という推定はまるで根拠がなく、疑問が大きい。
 
(2) 『三国史記』の記す在位年代については、少なくとも第十七代奈勿王以前は大幅に延長されて遡上されている。すなわち、新羅で確実な王とされる奈勿王の治世時期さえも問題があること、大和朝廷の天皇と同様に新羅王についても大幅な紀年延長(年代遡上)が見られることに留意したい。とくに後者については、学究の指摘が殆どないが、たいへん重要なことである。
前掲著の鈴木武樹氏は、併せて、『三国史記』を史料として用いるに際しては、新羅・百済の四世紀以前の部分に関しては十分な史料批判が望ましいと記しているが、この史料の利用姿勢は正しいと考えられる。そもそも、遅い十二世紀中葉に成立した歴史書である『三国史記』の利用には十分な批判が必要であり、先に見るように同書の紀年については、そのまま具体的な年次に単純換算することについては疑問が大きい。
わが国の『書紀』の暦年については、小川清彦氏の論考「日本書紀の暦日に就いて」によると、安康元年(西暦四五四年に当たるとみる説もあるが、按ずるに四六二年頃か)以降は元嘉暦によって推算されたとされており、従って、それ以降の紀年は比較的信頼できるとしてよい。元嘉暦は元嘉二二年(四四五)以降施行された暦であるから、朝鮮半島においてもこの頃から後の紀年はほぼ正確ではないかと考えられる。奥野氏は、史記の干支紀年は四四五年頃から逆算して史実に付加したものとみるのが妥当のように思われるとされる。
西暦四四五年というと、新羅では第十九代訥祇(とつぎ)王(史記によると、一般の在位比定時期は四一七〜五八)の在位時代である。これ以前の紀年、とくに第十八代実聖王以前の紀年は、まず疑問視してかかる必要がある。ちなみに、書紀紀年では、安康天皇の前の允恭天皇以前では二倍年暦の時期、さらにその前の仁徳天皇以前には四倍年暦の時期があったとみられる。
干支紀年法の成立が中国では紀元前二世紀頃だと一般にされていても、中国に近い高句麗とその同族系統の百済はともかく(前者ではセンギョク暦が見られる)、朝鮮半島辺縁部の新羅・伽耶についても中国王朝と同様の紀年法が使用されていたとみることは、疑問が大きい。韓地でのX倍年暦の存在は、『三国遺事』駕洛国記(からこくき)に金官初代の首露王が享年一五八歳、その王妃が同一五七歳と記されることからも推される。これが実在した人物だと、三倍前後の年齢延長が考えられる。同書記載の王暦に見える諸王の在位期間も、生物学的に見れば、平均して二倍ほどの延長があるようである。

  それにもかかわらず、新羅については第十七代奈勿王の在位時期を『史記』の記載そのままに信頼して換算し、三五六〜四〇二年だとみる学者が日韓双方に多く見られる。そんなにも『史記』の紀年・記事を信頼してよいものだろうか。奈勿王の在位年代を具体的に裏付けるものは、実際には何もないことを確認して、そのうえで具体的で合理性のある新羅王暦の検討にかかるべきである。こうした基本的な作業が朝鮮半島の古代史検討に欠けていることを十分認識すべきであろう。
 
 最後に、様々で有益な示唆を与えてくれたネット上の教示に対し、個別に掲名しないが、深く感謝する次第である。

 (07.3.14 掲上。15.5.14若干の追補)
 
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