神武天皇の原像(神武東征の伝承と原型) 宝賀寿男
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神武天皇伝承のあらまし 初代の天皇と伝える神武天皇が実際にも存在し活動していたというと、「そんな馬鹿な!!」という反応がまだ多いのであろう。戦後の古代史学をリードしてきた津田史学とその影響のもとでは、たしかに記紀編者による「造作」として実在性を否定されてきた人物なのだから、拒絶反応は多いし、それが大きいのであろう。 戦前の政府による学問弾圧からの反動か、戦後にあっては、津田史学とその流れの研究者の学説は、実証主義に基づく近代史学として位置づけられ主流をなしてきた。だから、そうした学説に異議を唱えることなど、普通の研究者にはできないことなのだろう。けれども、冷静に上記主流派の論理を検討してみると、大きな予断・思込みと狭い視野での検討がほとんどで、そこには論理的な合理性がないことが分かる。歴史学が人文科学として科学研究の一分野をなすとしたら避けなければならないはずの非論理性と思込みで、この関係の議論は終始している。東征伝承にあらわれる幾つかの神異現象については、北東アジアなど国際習俗的な視点からの理解がありうるのに、これを単純に非合理だとして切り捨てている。
そして、大きな予断で様々な文献史料を無視し、あまり根拠もない妄想を展開するのだから、このアプローチでは史実の原型探索などできるはずがない。その結果、応神天皇より前の時期について、歴史的な探索は主に考古学的な視点からしかなされず、当時の支配者・有力者の誰もが「名無しの権兵衛さん」になってしまい、古墳や土器、銅鏡などの考古遺物がひとりで勝手に出来上がるという奇妙なことになっている。論理的に考えれば、神武天皇の史実性の問題と、「皇国史観」や「万世一系の皇統」とか「王権正統化」の立場とは、論理的、科学的にはまったく関係のないことなのに、これらが混同されて、すべてが排斥されてきた(神武天皇の実在を認めても、皇国史観をとらないこと、大和朝廷における王朝交替説をとることは十分可能である)。津田博士の影響を受けたという歴史学は、決して実証的ではなかったということである。 ところで、遠い昔の建国事情については、『古事記』『日本書紀』ともに大和朝廷の創始者、初代の天皇として「神武天皇」をあげるから、この人物の的確な検討・把握は欠かせない。その活動があった時代は、巨大古墳が連続して築造された古墳時代よりかなり前の弥生時代のことだから、その当時、「天皇」という語も、その統治者に対する「神武」などという漢風諡号もなかったが、ここではイワレヒコ(磐余彦)とかホホデミ(彦火火出見尊)などとかいう名を使わずに、便宜上、分かり易い「神武」あるいは「神武天皇」という名を、即位前の行動から使うことにする。なお、最近では「ヤマト政権」とか「大王、王」という表示もよくなされるが、世襲の統治者一族が明確にあったのに「政権」というのは奇妙であり、中国の冊封関係のもとで「王」という語が使われることがあり、「大王」という表現は当時あったわけではない。 さて、上記両書(併せていうときは簡単に「記紀」、個別には『古事記』『書紀』と記す)が描く神武天皇については、ともに東征とそれに関する伝承が大部分を占めているが、大和入り後の事績も記され、神武没後の皇位争いの記事もある。両書の大筋はほぼ同じだが、遠征経路などが若干異なる。内容的には、『古事記』には神異的な金鵄伝承がなく、地理的に不合理な熊野大迂回もなく、大敵の長髄彦との大和での戦も歌にしか見えず、古代歌謡とそれにまつわる伝承が多いという特徴もある。 記事としては、概して『書紀』のほうが詳しめに書かれるから、主に同書に拠って、参考のために「神武東征」の概略をまず簡単に次ぎに紹介しておく。
津田史学のいわゆる造作論の問題性
津田左右吉博士はその文献批判の結果、神武天皇の伝承は史実に基づくとか、何らかの事実を反映したものではなく、皇室が日本を支配する正当性を説明し根拠とするための「造作」であって、天孫降臨に続く「日本神話の一部」として理解すべきだと判断した。この結論を、戦後の多くの歴史学者は妥当な推論だと受け入れてきた。このため、現代の歴史学界では神武天皇の事績は史実とされず、その伝承・説話は崇神、応神、継体などの天皇や、記紀編纂時期の天武・持統などを念頭に置き、弥生末期から古墳時代にかけての種々の事件を基にして創作ないし反映されたとするモデル論、反映説も盛んになされてきた。 しかし、これらが真の意味での科学的な史料批判に基づく結論といえるのだろうか。というのは、基礎となる津田博士の検討・判断の過程に大きな問題があるからである。博士は、神話学、民俗学の成果を踏まえての判断というが、戦前当時の学問水準のうえ、記紀の記事に関する博士の理解があまりにも視野狭窄なのである。そして、自らの理解の及ばない、説明が困難そうな事象・事件の記事については、後世の造作・創出あるいは潤色とみて、簡単に切り捨てられてきた。 『書紀』に記載される神武天皇の伝承・事績には、内容が「神話的、神異的」な部分も確かにある。それは長い期間に事件が伝えられるなかなのだから、神憑り的に変化ないし転訛したことはありうる。それ以上に、古代の部族のもつ習俗・祭祀のなかで、とくに神異的な面では、北東アジアの東夷、ツングース系種族や鍛冶部族に見られる太陽神信仰や鳥トーテミズムなどの習俗がまったく考慮されていない。この関係の検討が必要なことは、江上波夫氏による「騎馬民族説」の提示のなかで十分、示されている。この江上氏の所説自体が史実としてそのまま妥当しないとしても(時期的な面や考古学的に妥当しないのは確かとみられる)、天孫降臨伝承や姉妹婚・嫂婚(そうこん)の制などの種族習俗は、神武関係伝承を考えるうえで参考になる。
神武の東征を「天神御子の天降り」と『古事記』に表現されたり、物部氏祖神の饒速日命についてもその大和移遷が天磐船に乗っての天降りという形で『旧事本紀』に記される。要は、北東アジアの習俗では、先祖の住む故地から新天地への移遷が「天降り」という表現で伝えられた。 わが国の「高天原」からの天孫降臨伝承も同様であって、これが神話だと片づけられるものではない。神武東征説話の骨子と高句麗の開国説話が類似との指摘もあるが、だからといって高句麗の伝承を基に神武伝承が造作されたわけではない。同じ種族にあっては、同様な行動パターンが見られて、これが同様な神話伝承的に伝えられても、なんら不思議ではない。 神武天皇が即位したと『書紀』にいう辛酉の年は、紀元前六六〇年に換算されるとか、上古統治者の百歳超の長寿、きわめて長い治世期間など、現代感覚で見て奇妙異例な諸点については、邪馬台国研究のなかで注目された二倍年暦とか四倍年暦という「倍数年暦」の見方で対処できるという指摘もされるようになってきた。貝田禎造氏がその著書『古代天皇長寿の謎』で言うように、仁徳天皇の治世以前の書紀紀年は四倍年暦が妥当するとしたら、『書紀』に見える76年という信じがたく長い神武の治世は19年という合理的な期間ということになる。 いわゆる「辛酉革命説」に基づく編者の紀年創作という那珂通世の見方も、後世の思想・考え方からの逆転の発想であって、神武にかんしては個別・具体的にもまったく妥当しない。神武天皇即位年を元年とする「皇紀」という紀年法は、これら古代暦の紀年を素朴に受けとりすぎた結果の誤解にすぎない。 記紀の神話やそれに続く神武東征、倭建遠征伝承及び神功皇后征韓伝承などは、七、八世紀の記紀編纂段階での天皇統治を正当化するための造作・捏造だとされてきた。これらの立場にあっては、これら諸伝承は机上の創作となるが、もしこの津田仮説が実態であったのであれば、神武の大和侵攻に先行する饒速日命の畿内到着は、天皇家にとって極めて不都合のはずだし、天孫降臨の地についても南九州の宮崎県を「日向」とするのは同様に不都合であろう。ごく素直に太陽神(太陽神祭祀をもち、自らもその「司祭者=神」とした)たる天照大神の子あるいは嫡孫が、大和中央部に降臨して王朝を開き、それが現天皇家につながるとすれば、筋書きとしてそれでよかったはずである。 古代の大豪族だとはいえ、物部氏の遠祖が天神(天孫族)の子であって、なぜ神武に先行して畿内に入り、そのまま大和の支配階層にあったのだろうか。饒速日命の存在や伝承を『書紀』の記事から抹消できなかったということは、その伝承は、同書が造作したものではなかったことを強く示唆する。持統天皇五年(691)八月には、朝廷の有力十八氏が祖先の墓記(家・氏族の歴史記録)を朝廷に提出した事情もあるから、記紀が特定の編纂者によって天皇家だけに都合良く編纂できるはずがない。記紀はもちろん、物部氏関連記事の多い『旧事本紀』や忌部氏の伝えた『古語拾遺』においても、神武東征伝承も、それ絡みで饒速日命に係る伝承もきちんと記載されている。『書紀』編纂に関与した関係者の力(ないしはその背後の政治権力者)を過剰に評価すべきではない。饒速日命が神武の大和侵攻に抗戦しなかったのは、その当時、既に死んでいたからであり、息子の可美真手命が長髄彦を殺して降伏してきた事情にある。「饒速日命」という名だけで、非実在の神だと決めつけることはない。
同時代史料やそれに相当するような編纂史料によってのみ歴史像を叙述・構成すべきだと考えれば、そうしたものが残らない時代にあっては、歴史原型の探究すら許されないということにもなる。それが正しい歴史研究なのだろうか。よく誤解されるが、歴史史料が揃ってきて年代・場所、そして人物特定が基本的に定まっている奈良時代以降の歴史研究と、その辺が不明確な場合が多い時代の歴史研究とは、アプローチあるいは研究法が自ずと異なるということである。 記紀は同時代史料ではない。この基本的な事実に鑑みると、記紀などの古典資料に書かれた内容は、@まず史実としてのなんらかの原型があって(これには、そうした史実が現実にあったか、なかったかの問題があるが)、A次ぎに、それがどのように記録化され、後世に伝えられたのか(伝えられる過程で転訛や変形がなかったのか)、B更に、それが現在に残る書物として成立したときに編纂者にどのように認識されて記事に表現されたのか、そして、Cその後の現時点での記事の把握・理解、という四段階(ないし五段階)で記事を考える必要がある。
「素朴に記紀の記事を理解・把握」するということは、上記Bの成立段階で編纂者が認識した内容をそのまま把握するに過ぎない。だから、その内容で記紀の記事を史実ではないと否定しても、史実原型そのものの否定になるわけがない。津田博士の論法が合理的でないのは、ここにある。津田博士の見方には、視野が狭いうえに、あまりにも素朴な理解・把握が多すぎるのである。 要は、津田博士やその亜流の造作論あるいは反映説という観念論では、上古史の大きな流れや、物部氏など個別の古代氏族の総合的な原型把握、実態解明には役立たないということである。だから、原型史実を探ろうとすれば、多くの関係史資料を集め、様々な歴史関係諸分野の学問の発展も踏まえて、総合的合理的に検討することが必要となる。
「神武東征」原型の探索−神武天皇は崇神天皇と同人か
上古関係の文献を切り捨てるだけでは、神武関係の史実・原像を探ることは無理なので、別の視点からここでは総合的に考えてみる。その場合、実在性の探究ということで、事件報道の「5W1H」、なかでも@Who(誰が)、AWhen(何時)、BWhere(どこで)という主要な三要素の的確な把握が上古史探究には必須となる(これらは、検察や警察が犯罪取調べで事実を押さえる重要ポイントで、断罪を求める刑事裁判の起訴状にはきちんと書かれるべき要素。「六何(ロッカ)とか七何の原則」とも言われる)。これらの主要点を神武東征について見ていくことにする。 まず、Whoの問題、主に神武天皇は崇神天皇と同人かという問題がある。 『書紀』では、神武も崇神も、称号が「ハツクニシラス天皇(すめらみこと)」(はじめて国を治めた王」という意味)とされており、これが、実質的に崇神こそ初代天皇だという説の根拠とされる(ただし、神武は「始馭天下之天皇」で、崇神は「御肇国天皇」と表記が異なる)。これは、神武と崇神の間の天皇八代についての『書紀』記事が乏しいことで、実際には不在であったと考えること(いわゆる「欠史八代」という見方)からつながってくる。
崇神が租税・戸籍や祭祀などで日本列島主要部にわたる統治を現実的に展開したとしても、それ以前の諸天皇(上古帝王)の存在を切り捨てる論拠にはならない。両天皇の称号表記の違いは、統治の地域・規模の差を示すとみられ、物部氏・三輪氏など大和朝廷を構成する主要豪族でも、欠史八代にあたる時期に活動した歴代を具体的な名で伝えているのだから、神武・崇神の同一人物説は成り立つはずがない。古代雄族諸氏に伝わる家伝にあっては、神武を取り巻く人物たちと崇神のそれらとは明らかに違いがあり、しかも各々の家でその間に四代ほどの歴代の経過があったと伝えるのだから、これら多数の人物を全て造作として切り捨てるのは、きわめて乱暴なやり方と言うほかない。
しかも、簡単に「欠史」というが、記紀をきちんと読めば、神武天皇崩御後には、後継の執政となった長子の手研耳(たぎしみみ)命を異母弟の神渟名川耳(かむぬなかわみみ)命が打倒して、綏靖天皇となったクーデター事件が起きていた。手研耳命は嫂婚制の風習により、父・神武の皇后・媛踏鞴五十鈴媛(綏靖の生母)を引き継いで妻としていたのだから、神武の次の統治者であったことに違いがない。この事件は記紀共通して記載するのだから、「欠史八代」という見方は、文献無視の姿勢となろう。神武紀四年の記事からしばらく記事が途絶することで、この年から直ちに崇神天皇の事績の紀年につながるという見方も、きわめておかしな話である。
神武天皇の活動時期はいつだったのか
『書紀』の原材料となった史料に書かれた紀年表示が、奈良時代以降に使われた暦法と異なることは十分ありうる。これは、中国の春秋戦国時代でも国により暦法が異なったし、北東アジアの高句麗などでも中国と暦法・紀年法の差異もあった。だから、『書紀』の編者がその当時の知識・感覚で古い時代のことを創造しようとしたら、上古の天皇の年齢も治世期間も、奈良時代当時とあまり違わない形で記載されていたはずである。 初期の天皇たちがきわめて異例な長寿で続いて、しかも長い治世ばかりというのは常識的にみてもおかしな話だし、国家成立の時期を古い年代まで遡上させようとするのであれば、天皇の歴代数を合理的な形で増やせばよかったはずである。ところが、そうしなかったのは、原史料に基づく限り、若干の訛伝や改変が編纂時にあったとしても、勝手な大規模改竄が許されなかったと考えるしかない。古来、季節を把握して農耕に従事していた民族において、なんらかの原始暦がなかったという見方自体がおかしい。 漢字の伝来だって、倭地の大陸との往来・通交が後漢以降あって、魏朝では卑弥呼への告文を受けた以上、倭地では、応神朝という遅い時期ではありえない。応神朝には韓地から経典がもたらされ、教授された記事が記紀に見えるが、これが倭地における「文字の伝来」だと受けとめるほうがどうかしている(ここは、津田博士式に素朴にその「経典」という字義通り受けるのが妥当である)。弥生後期からの文字使用を裏付ける弥生の硯が北九州・畿内から、最近、数多く出ていることが考古学的に分かってきた。しかも、上古の倭地への大陸・朝鮮半島からの渡来が、支配者層にあれば、漢字を含む大陸文明が共に来なかったとは言えないはずである。 これらの考え方のもと、治世年数が大きい『書紀』紀年を無視して、『古事記』に記載される天皇の崩年干支(ほうねんかんし)を踏まえて、崇神天皇の崩御を西暦258年とか同318年とみる見方も出された。しかし、この崩年干支の記事が正しいという保証も根拠もまったくない(今もって、当該崩年干支の意味するところで、「的確な年代」は把握されていない)。 明治には那珂通世が、天皇の世代数を基に一世代を30年と考えて崇神から神武まで遡ると、紀元前一世紀後半の頃が神武の活動時期だと推計された。しかし、初代から第16代仁徳天皇までが基本的に親子間の直系相続で続くのは、きわめて不自然な相続であり、古代の日本列島や北東アジアで頻出する傍系相続例から見て不都合であったから、これではどうしても時代が遡上しすぎる。
これに対して、安本美典氏は、天皇の歴代即位者数を尊重して、治世時期が分かっている諸天皇(第30〜49代)の平均治世期間を計算して、それが「一代が約10.33年」として、倭五王の遣使記事等から把握できる雄略天皇の治世時点から年代遡上の推計を行い、神武の活躍時期が西暦270年頃だと考えた(安本説の数値には変遷があり、それより少し早い時期も言うが、新しいほうの見方をあげた)。
大和王権初期の諸天皇のなかには創作された架空の天皇も含むという見方も一部学究にあるが、これは思込みにすぎず論理性にも欠けるから、安本説の数値も一応の説明力がある。しかし、「平均治世期間」の数値の採り方で推定値には随分差が出るし、治世の短い天皇と長い天皇との混在具合によって、遡上した形で算出される数値がブレる可能性も大きい。だから、標準偏差を用いた幅のある期間設定であるならほぼ問題がないが、これでは幅がありすぎて、具体的な時期の特定ができないおそれが強い。
私は古代史研究を始めた四十数年前から、@世代数とA即位者数という二つの要素の組合せで年代推定をしてはどうかと考えてきた。そこで問題となるのが、「神武と崇神の間の世代数」であるが、これは主要古代豪族の系図を基礎にして考えると、現代まで系図が残る多くの諸古代氏族にあってもほぼ一致して「中間が四世代」となっているので、これを採用した。当初は神武天皇の治世時期を西暦192〜212年頃という三世紀初頭前後を考えたが、推定計算の様々な試行錯誤を経て、最終的には(『「神武東征」の原像』刊行時)には西暦175〜194年頃ということにに落ち着いた。175年が即位元年の頃で、その前に少し東征期間(数年)がおかれることになる。 要は、神武東征に要した数年に続く、二世紀の第4四半期が神武の治世時期、活動時期ということである。これは『魏志倭人伝』に見える倭国大乱の時期のなかに入りそうであるが、この「大乱」との関係は記紀などの記事からは窺いしれない。要は、卑弥呼の時代には、北九州に邪馬台国の勢力圏があって、それとは接触・交渉のない形で大和南部に大和朝廷が並立していた(この2政治勢力並立は、津田博士もとる)。規模的には、大和の国家がはるかに小さかったし、瀬戸内海地域の掌握は両者ともできていなかったから、邪馬台国所在地論とは無縁なものである。「並立」と言っても、同時代に共に在ったという程度である。
それとともに、貝田禎造氏が提示する倍数年暦論による推定値とも、この数値はほぼ符合する。すなわち、中国の例や邪馬台国の記事などから見て、上古代の日本では一年が何倍かの年数で表示されていたとみられる旧暦の痕跡があり、その倍数とは半年か四半期を単位とすること、つまり二倍年暦か四倍年暦が考えうる。貝田氏は、『書紀』の紀年記載例を分析して、仁徳紀以前は四倍年暦、履中紀から雄略紀までは二倍年暦、それ以降は普通の年暦、という結論を出して、これを基礎に治世年代を推計しており、その場合、神武の崩年は西暦195年とされる(この推計に則る場合の神武即位年は西暦176年頃となる)。 私見の年代推計の基本が概ねこうしたものであり、これら数値に『書紀』の太歳干支、中国関係史料など各種史料を踏まえて様々に微調整したのが、私が提示する年代数値論である。ここで併せて、他の主要天皇についての推計治世年代を示しておくと、崇神は315〜331年頃、応神は390〜413年頃、雄略は465〜487年頃となる。
神武東征の地理的問題
津田博士の記紀理解があまりにも素朴すぎるため、神武東征に関する地理の把握が出発地「日向」などできわめて混乱しており、その結果、この伝承が後世の勝手な造作だと判断された。しかし、それは自らの誤解に基づくものにすぎない。記紀にあらわれる地名の把握は、東征当時の地理や政治等の具体的な状況に応じて、合理的になされるべきことが基本である。それにもかかわらず、七、八世紀当時の地理概念で把握して、それを疑わないというのは、史料検討にあたっての吟味・懐疑の精神の欠如としかいいようがない。 紙数の関係で、主張者や論拠を省略し、地理上の要点を簡潔に列挙すると、次のとおり。 @出発地の「日向」は、津田博士等の言う南九州の宮崎県ではなく、北九州の筑前海岸部、早良郡から怡土郡、現在の福岡市の西区から旧・前原市(現・糸島市)にかけての地域である。この地こそ、博多平野にあった「葦原中国=出雲」の主、大己貴神を屈服させた後に、「高天原」が天孫を降臨させた地域であった。『古事記』に言うカラクニ(韓国)が望める地域であり、葦原中国を監視するにも好適な位置にある。最近では、この地域の中央部に見える日向峠などの地名も踏まえ、こうした見方も多くなっている。「日向」が後の日向国ではなく、「出雲ないし葦原中国」は後の出雲国ではないということである。
A東征の進路は、「筑前海岸部→崗水門(遠賀川下流域)→宇佐」と進むのが地理的に自然である(崗から宇佐へは、海陸どちらの可能性もあるが、関門海峡航行の難しさからは陸路という可能性もありうる)。倭国造の祖・珍彦が出迎えた「速吸の門」とは、豊予海峡ではなく、その後裔一族の居住地からしても、播磨・摂津の地域にあり、具体的には明石海峡であった。 B次ぎに、宇佐から「安芸→吉備→浪速の渡り→日下の津」、と進んで河内の津(東大阪市東部)で上陸したが、河内内海の平野部への湾入は当時の地理状況に符合する。神武軍は日下の坂で長髄彦に敗れて南方へ進路を変えたが、日に向かって進むのを止めたわけではなく、紀ノ川ルートを大和入りに際して選択したに過ぎない。紀ノ川下流域の紀伊の名草郡で当地の族長を倒して、その一族の紀伊国造族や大伴氏族の祖たちを味方につけ、紀ノ川を上流に溯上する経路で大和入りを図ったということである。 C紀伊北部で現地案内者の道臣命を得たのに、道案内者の誰もいない荒海の熊野灘までわざわざ大迂回して行き、熊野・吉野の険阻な山道を進むわけがない。紀南牟婁郡の「熊野」の名は、物部氏族が出雲からもたらしたもので、熊野大神を奉斎して熊野国造が設置された頃(成務朝頃か)からの地名とみられ、東征当時の「熊野」の地は紀ノ川中流域にあった。 D大和の盆地内にかなりの数で残る高地性集落は、神武敵対勢力が居たとみられ、当時の盆地内の湖沼状態は敵対勢力の居地分布と符合する。和泉の高地性集落も同様である。高地性集落遺跡は、紀伊では潮岬から新宮という熊野にかかる南部地域に見られない。 E神武は、「高天原」のあった天孫族の故地、筑後国御井郡、すなわち久留米市の高良山麓辺り(「高良=高羅、高の国」)に見立てて、大和では畝傍山の北側の麓に宮都を置き、近隣地に配下の大伴氏族や中臣氏族を配置した。近年発掘が進む大規模な纏向遺跡への宮都移転は後の時代のことである。 纏向遺跡は、年代的にも規模的にも物部氏関係のものではなかった(唐古・鍵遺跡が物部氏族関係か)。邪馬台国・卑弥呼の時代とするのは、年代遡上が過剰である(自然科学的な考古年代の測定法は、較正が常に必要が、現在言われる数値が妥当な較正を経たものとは言い難い)。いわゆる「闕史八代」の大王たちの宮都は、葛城郡の新沢一町遺跡や秋津遺跡あたりにあったとみられるから、纏向遺跡は崇神朝頃から景行朝頃までのものである。 以上に見るように、出発地の「日向」と熊野大迂回を合理的な路程で把握する限り、神武東征のルートには問題点がなくなる。むしろ、当時の地理状況を考えれば、東征の実在性を裏付けるものと言えよう。 東征の要因と邪馬台国東遷問題
神武に関する「5W1H」のうち、Whatすなわち何をなしたかは、東征・建国(奈良盆地南部を中心とする原始的地域国家の形成)やその後の神武の事績として既に結果が出ているが、その他の要素についても要点を記しておく。 @Whyすなわち東征の要因であるが、日本統治のための中心地・大和を目指したというのは、虚構にすぎない。これは、古代北東アジアの高句麗や百済などの建国事例を見ればよく分かる。神武の生まれがそもそも王家の庶出であったため、その地では王位に就く望みがもてず、新天地への展開を目指したものである。東征を当初主導した兄・彦五瀬命も、神武も、主に筑前の早良・怡土郡あたりにあった伊都国王家(高天原の支分家)のなかでも庶子であり、そのため新天地への旅立ちであった。すなわち、瓊瓊杵命に始まる、いわゆる「日向三代」の第三代目彦波瀲(ひこなぎさ)命の庶弟(子ではないことに留意)というのが、彼ら兄弟の位置づけであった。 日向第二代の山幸彦こと火遠理(ほおり)命は、海神族王家の姉妹を后妃に迎え、嫡妻豊玉姫から生まれたのが彦波瀲命であり、妹で次妻の玉依姫から生まれたのが神武兄弟であった。記紀に言うように彦波瀲が叔母を妃に迎えて神武兄弟を生んだ、というわけではない。姉妹婚の例は記紀にも頻出するが、原型が姉妹婚であったものを、記紀では叔母・甥の婚姻(異世代婚)の形などに変形している例も多い。次の族長が前の族長の妻妾を引き継ぐ嫂婚制についても、記紀には変形例が見られる。こうした記紀の記事を素朴すぎる理解で受けとって否定に走る津田学説・亜流の弊害は大きい。古い時期の「天孫降臨」も同様で、天空から人々が降りてくるという素朴な理解は、誤りである。
AHowすなわち東征の手段・参加者(援助者)・敵対者であるが、筑前北部の地で食いあぶれた王族庶子の他地転出にあたって、まともな有力参加者が殆どなかったのは当然である。その点では、記紀は正直な記述をしており、遠征途上に出てくる随行者や神武即位後に行賞された創業功績者などを見ても、当初からの遠征参加者は、中臣氏の遠祖・天種子命くらいしか見当たらない。初期の大和朝廷を構成する主要氏族であった物部連、大伴連、尾張連、倭国造、紀伊国造、葛城国造、鴨県主や磯城県主などの先祖は、それらすべてが遠征途中の参加者か大和及び周辺で神武に帰服した者であった。吉備で食糧・兵船を準備したとの記事もあるが、吉備からの随行者の名は記紀にあげられておらず、大和朝廷初期の豪族には吉備関係者の姿がない。 このような当初は小規模だった遠征が、安本美典氏らが言う「邪馬台国東遷」のはずがない。1部隊の東征が1国の東遷の矮小化のはずがない。神武の頃の王権版図もほぼ大和南部に限られた模様で、大きなものではなかった。筑後川中下流域を中心に魏朝と通交する国家(勢力圏)を築いていた邪馬台国が、特別の事情がない限り、国家規模としての東遷を敢行するはずがないのは当然である。南方からの狗奴国の脅威は、遠距離への東遷敢行の事情を説明できるものではないし、世界史的にも国家規模の移遷例が殆どない(国家や部族が滅亡後に大きく移遷する例はあるが)。
なお、「高天原=邪馬台国」であっても、統治者天照大神の原型は男性(生国魂神、天活玉命という神名で祭祀に現れる)であって、卑弥呼のような女性・巫女ではなかったし、しかも、神武のほうが年代的に遥かに卑弥呼に先行するものである。 ここでは基本的な要点しか書き得なかったので、議論の詳細にわたる論議や検討に関心ある方は、拙著『「神武東征」の原像』(2006年刊行)をご参照いただければと思われる。
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